05年 1月 3日〜 1月29日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


05年 1月 3日(月)   粘投書簡

 年頭所感というのは何だかエラソーだ。年頭に畏まって何か物申すほどの人物なのか僕は・・・と考えて『念頭』を充てようかと思ったが、ピッチャーが粘って投げてみせると『粘投』って書いたりするよなスポーツ新聞・・・ってわけで『粘投』。好きな納豆は粘っこいし、粘り勝ちという言葉もある。別に他人に勝つのではなく自分に勝てばよいのであるが。『勝ち』って言葉は昨今の『独り勝ち』とか『勝ち組』なんていう腐り言葉の流行りで本当に品が無くなっちまった。
 しかし問題は『年頭』よりも、どっちかっていうと『所感』の方にあるような気もしてくるのであった。「おいらには考えってもんがハジメからあるんだぜ」。そう読んじゃうと何だかエラソーだよねぇ。『所管』もエラソーだね、「××省所管の団体でありまして」なんてさ。『初刊』じゃないもんね。僕のこの日記はもう長いんですわ。ほんならコレでどうだ、『書簡』。
 ってわけで、『粘投書簡』であります。僕は粘るのです。投げるのです。書簡を出し続けるのです。僕に向かって、あなたに向かって、彼に向かって、彼女に向かって、世界に向かって。

 A little love and affection
 In everything you do
 Will make the world a better place


 ニール・ヤングは GREENDALE のなかで、こう歌ってる。

 お体を大切に。
 これはポール・サイモン。このアルバム のなかで歌ってる。
 身体を大切に。心身を大切に。
 本当にヘトヘトなんだよ。沈み込むほどなんだ。ふざけるんじゃねえよってんだ。

 そして、かけがえのない時間を大切に。おいらが小6の息子と過ごせるのは今年3月まで、中1の息子と過ごせるのは今年4月から来年3月まで、中2の、中3の、高1の・・・・・・こうして時は過ぎていくんだ。夜中に家に帰ってくるような親父であり続けていいはずないじゃないか。かけがえのない時間を失わないために、かけがえのない時間を大切にしたい。息子とのかけがえのない時間。妻とのかけがえのない時間。妻子とのかけがえのない時間。
 日常が精神的にしんどい時は、マイケル・ムーア のコラムで知ったモンティ・パイソンのメッセージを想い出そう。想起しよう。
 Always Look on the Bright Side of Life !

 同じこと書いてる。いいんだってコレは『年頭所感』じゃないもんね。『粘投書簡』です。僕は粘り続け書き続け生き続けるのです。違うことも書こうか、今年は久方ぶりにギター弾きたい、ってかそういう気分になってホンマにギター弾いてみたい、一体どれだけの間弾いてなかったかな、とにかくまた弾くようになりたい、ってか弾きたい、なら弾け、それがなかなか。まぁ僕はとにかく粘り続け書き続け生き続けるのです
 A little love and affection
 In everything we do
 Will make the world a better place


05年 1月 3日(月)   年末年始

 年末年始の記録。
 12月30日(木)。最初は新潟の予定だったが中越地震の後に長野に変更、しかし雪不足で1週間前に群馬は水上に変更、宿が取れ、切符変更も辛うじてできたのであった、いざ水上へ。上野から特急水上。水上駅で下車後バスで谷川岳天神平を目指すも吹雪いていて肝腎のロープウェイ運転停止、やむなく戻り(バスは無料にしてくれた)観光案内所で尋ねて奥利根スキー場という名のスキー場に変更。こちらは全コース・オープンとはなってなかったが、そこそこ大丈夫。息子向けの初級コースもOK、2回目の息子は今回は中級にも挑戦。親の指導を受け上達。親はどちらも上手くはないが子供は大人より上達が速いのだ。
 頚椎・腰椎ツイカンバン爆弾を抱えるおいらはホドホドにしておきました。トホホ。

 12月31日(金)。何だか昭和3、40年代を感じさせる建物の塩屋温泉館を出て駅に向かい、駅前で群馬の酒を買う。特急水上で上野へ。そして東京より新幹線こだまで我が故郷へ。ま、新幹線の駅降りてローカルに乗り換えて行くんだけどね。僕のいなかは田舎なんですよ。最寄駅には兄貴が迎えに来てくれていた。両親、兄貴夫婦、その息子ら3人、僕と僕の妻と僕らの息子で3人、全部で合計10人で年越しを共にする。大勢の宴は楽し。
 2005年1月1日(土)。元旦を10人で。祝い酒を飲む。美味。家族揃った元旦ということが酒の味を更に美味にしてくれる。

 昨日、1月2日(日)にこっちに戻ってきた。今回の帰省の数日前に母親が低血圧で病院に行っていた。僕らが帰省した時はよくなってたけど、そのうちまた病院で検査すると思う。昭和一桁の両親にはまだまだ元気で長生きしてほしい。今年は父親が喜寿。来年早々は両親の金婚だ。ずいぶん苦労した二人だ、穏やかで平和な日々を長く永く過ごしてほしい。


05年 1月 3日(月)   健康幸福平和祈願

 今日は近くの神社に初詣に行った。妻子は僕の田舎で年が明けたばかりの時に僕の兄貴家族と一緒に初詣したけど、僕はその時は家(いわゆる実家のことであります)でうだうだ。
 今日は家族3人揃っての初詣。去年も行った近くの神社です。『家内安全』を買いました。家に置いています。

 僕は特定の宗教は信仰していない。仏教の寺で仏像を見れば手を合わせ、時にはキリスト教の教会でゴスペルを歌い、正月には神社に初詣したりする。僕はたぶん、宇宙を律する何かに祈っているんだと思う。僕の家族と僕の、健康、幸福、平和。

 昨年末のスマトラ沖地震の死者は既に14万人を超えたという。新聞報道では、国連筋の観測として15万人超になる見込みとも書かれている。未曾有の大災害とはこういうことだろう。僕は映像で観たわけだけど、あんな物凄いやつは今まで映画の特撮ものでしか観たことがなかった。日本のような国の国際協力は、日本のような国からの支援や協力は、こういうケースにこそ、その力を発揮すべきなんだろうと思う。

 年が変わってもイラクの混乱とその犠牲者のニュースは止まない。パレスチナの悲惨も、その混乱も、その犠牲者のニュースも続く。実態は報道以上に違いない。とりわけパレスチナは、移り気なメディアが正確に追いかけていない。世界の多くのメディアから常に見放されている。メディアは、パレスチナ人の一部が起こす自爆テロが起きた時だけはカメラとマイクをパレスチナの地に、イスラエルの街に向けるが、彼らパレスチナ人にとって『日常』であるイスラエルからの攻撃、弾圧、ヘリコプターによる空爆、ブルドーザーによる家屋の破壊、イスラエル軍によるパレスチナ老若男女の殺害を、ほとんどのメディア、つまりマス・メディアは報道しない。いや、注意深く新聞などを見ていれば、たまに小さく目立たない記事で出ていたりするんだがね、小さな小さな記事で。

 僕は、僕の家族と僕の、健康と幸福と平和を願う。そして世界の人々にとっての平和を願う。そしてほんの少しの力でもそれに貢献したいとは思う。

 ジョン・レノンが歌ったように、
 Let's hope it's a good one WITHOUT ANY FEAR.
 it は新しい年。それを世界と読み替えたってレノンは許してくれるだろう。

 ニール・ヤングが歌ってる。
 A little love and affection
 In everything you do
 Will make the world a better place


 で、僕は、自分の心と身体の健康のことも考えるのさ。
 へとへとに・・・なんていつまでも続けないさ。僕は、僕の心のため、僕の身体のため、僕の家族のため、僕がもっと大事に想うことのため、そういうことのために今までよりも多くの時間を使いたい。僕はずっと肩が痛い、腕が張る、手が痺れる、肘が痛い、腰が張る、鼻の調子がいまいちいまに。だけど僕は、ずっとずっと自分をこき使ったりはしないようにしたいよ、ポール・サイモン。
 身体を大切に。心身を大切に。


05年 1月 4日(火)   無理しない。早く帰ろう。

 無理 とは、 理が無い ということ。理の無いことはしない。それを意識していく。

 肩が痛い。肩がこる。首の後ろ側の下辺りが痛い。上腕が張る。左肘が痛い。両肘から下が張る。左手が痺れる。
 腰が張る。腿が張る。
 鼻が炎症なんや。副鼻腔炎っていうらしい。慢性だと蓄膿症。僕はもう長いよ。鼻は子供の頃からよかないもんね。
 神経が磨り減ってきてる。

 シゴトばかりの毎日では身体がこわれてくる。心身が傷んでくる。そうなると、何か他のことをやる力が出て来ない。運動もしない。能動的な趣味をしない。そうなるとますます身体によくない。心身によくない。シゴトばかり度が増す。これは悪循環です。まぁそもそも身体がもたないほどのシゴトは異常であって、理が無いんだけどさ。

 僕が大事に想うのは僕の家族と僕の、健康、幸福、平和。それから、実は僕は世界のことも想ってる。僕が大事に想う僕は、そういう『世界のことも想う人間』という面がある僕のことでもある。

 僕は、僕の家族と僕の、健康と幸福と平和を願う。そして世界の人々にとっての平和を願う。そしてほんの少しの力でもそれに貢献したいとは思う。

 ジョン・レノンが歌うように、
 Let's hope it's a good one WITHOUT ANY FEAR.
 it は新しい年。それを世界と読み替えたってレノンは許してくれるだろう。

 ニール・ヤングが歌うように、
 A little love and affection
 In everything you do
 Will make the world a better place


 僕は、そんな自分であるためにも、理の無いことはしないでいようと思う。
 へとへとに・・・なんて日々は送らないことにしようと思う。僕は、ずっとずっと自分をこき使ったりはしないようにしたいよ、ポール・サイモン。僕の身体はひどく疲れてるんだ。
 シゴトでなく仕事がしたい。で、カイシャは社会のほんの一部でしかないから、シゴトは時に必要だし仕事はもっと大事だけど、カイシャでない社会での時間も十分に大事にしていきたい。十分に。社会で生きる僕の中に、仕事をする僕がいる。僕はカイシャの一員であるよりもずっと以前に、社会に生きる人間だ。だから、身体を大切に。心身を大切に。

 人間には家族も、仕事も、社会もみな大切なものだ。家庭と会社と社会。会社はシンボリックに言ってるだけね。自営の人もいるし、農民も役人もいる。
 人間は家族と共に生き、『会社』でも仕事し、そしてもっと広い社会に生きる。『会社人間』なんてマッピラゴメン。『会社人間』は『人間』ではありません。『会社人間』が生きるのは彼の、彼女の、勝手なんだが、ただ、僕はそれを『人間』とみなさない。『会社人間』は『人間』という言葉が付いていますが、実は『人間』ではありません。『人間』ではないのに、『人間』という言葉を付けてる。だから、『会社人間』には、理が無い。

 無理 とは、 理が無い ということ。理の無いことはしない。僕は、無理をしない


05年 1月 8日(土)   鼻と二郎さん神経科と歯

 そのまんまのお題やがな。
 年末、鼻のヤクを変えた。1週間でオワリ。残ってた元のヤク飲み始め。寝床で鼻詰まる。眠れない。4日(火)は元々有休取ってて、5日(水)から本年のおいらのシゴト開始、6日(木)朝は通勤電車の後半に爆睡、最寄駅を乗り越す。翌7日(金)は乗り越さぬまでもやはり鼻詰まりにより睡眠不足。水はとりあえず20時台退勤、木は21時台退勤も、金曜は逆に早め退勤して妻の迎え受け、地元の行きつけの耳鼻科へ。年末と同じヤク処方してもらう。
 ついでにそのまま二郎さん神経科へ。ルボックスとレンドルミンありがとうございまする。二郎さんによれば、過重労働を抑制する法案が厚生労働省キモ入りで進められていたが財界の反対にあい駄目法案になる見込みとの情報入手。役人は結局言い訳(財界の反対)あればオッケー、財界は経営の狭義の利益ばかり優先との由。二郎さんは怒っているのだ。おいらも同感。

 元旦だったかのアンコロ餅で差し歯が取れていた。前歯と右側の歯ばかりで食べていて疲れてきた。本日午前は予約してあった歯医者へ。抜けて意識した差し歯。ま、ブリッジのことね、これ。おいらは滅多に虫歯にならないが歯茎が弱いのだ。で、ブリッジと相成っていたが付けたのはもうずいぶん前。「あと5、6回?」。「いやいや、そういうレベルでは考えないで下さい」。っつーわけで土曜しか行けないおいらはこれから土曜の時間の一部がしばらく歯科治療に奪われる。自分の為や、やむを得まい。しかし辛いのぉ。
 今このしょうもな日記を打ってますが、今日は妻の実家へ。『実家』って妙ちくりんな言葉だけどなぁ。まぁとにかく妻の両親の家に行くのだ。最近は妻の母も比較的元気なようで嬉しい。両親とも孫との再会を含め喜んでくれるであろう。


05年 1月 8日(土)   パレスチナ、アムネスティ、オブリージュ

 自治など絵空事、今もイスラエルの実質占領下にあり攻撃を受け、爆撃され、キャタピラー社製のブルドーザーで民家を壊され続けるパレスチナのガザ。そのガザでは、約500円でセーターを1着買うことができるそうです。詳しくは、今なら こちらのサイト の右側から詳細情報貼られてます。今週はこのパレスチナ「セーター募金」数着分とアムネスティ・フレンズ(まぁアムネスティのサポーター会員みたいなもの)の新年次分の会費を納めました。

 自己満足ではなくて、ヘロヘロヘトヘトな毎日でも世界に繋がっていきたいという想いのごく一部を満たしているだけで、満足などしているはずがありません。ただ、こんな程度の行為でも、人よりは実は自分の気持ちの空白部分に少しでも水分を補給していきたいという動機がよりあろうとも、結果として支援を必要とする人たちの生活に僕の行為の何がしかが届けば僕はそれはそれでよいことだと思うし、僕はそれを望んでいる。
 僕自身は僕がそれを望んでいること先に在りき、だろうか。だと思うけどな。・・・でもその望みが先だろうが後だろうが、そういう望みと『気持ち』があって結果として役に立つなら、僕はやはりそれはそれでよいと考えてるんだけどね。

 はて、年末からのスマトラ沖地震・大津波被害報道を見ていると、とりわけテレビの映像の残酷さには圧倒されるものがあり、心落ち着かなくなったりもする。とりあえずの僕ができることと言えば募金程度。物質的にはより貧しい国のとりわけ貧困層に対し、僕は少しでも「持てる者」の oblige とも思って、世界へつながって自分の渇いた空白(のごく一部)を少しだけ潤したいという気持ちと共に、近いうちに志がつながりそうなところからどこかを選んで募金しようと思う。

 ・・・で、この oblige です。僕は大した身分でも立場でもないし、大した助けにもならないから僕の行為は大勢にさしたる影響もない微々たるものなわけですが(でもまぁ積もればナンヤラってとこかね)、報道を見てると、F1のシューマッハーが日本円にして10億円以上、タイのピピ島でロケしたことあるディカプリオが 1億円余、スピルバーグも億単位だったな、他にも女優男優、あるいはMBAの選手が得点の度に1得点当たり10万円だったか募金を加算していくとか、来週辺りアメリカの4大ネットのどこか(NBCだったかな)でポップス界のスターが出演してチャリティ番組放映されるとか、イギリスではスティングやU2等によるチャリティのライヴが計画されてるとか・・・いろいろとエンタテイナー、アーティスト、アスリートの活動が聞こえてきます。あの韓国の『ヨン様』も 3,000万の募金。彼は新潟の中越地震の時もそのくらい寄付してた。日本人では今回のスマトラ沖大地震被災救援のためにヤンキースのゴジラ松井が 5,000万円寄付。彼はメジャーでそういうことも学んだかもしれないけど、たしか日本にいる時からそういうことを静かに続けていたアスリートだったはず。

 アジアだろうが、アフリカだろうが中南米だろうが欧米だろうが・・・とはいえ、今回、被害の大半は「いわゆる」アジアです。インドネシア、タイ、マレーシア、スリランカ、インド、モルディヴ等々。
 日本のロック・スターとかJポップさんとか、フォークさんとか(もういない?)、俳優とかアスリートとか、そういう人たちからはほとんど聞こえてこない。アメリカで活躍するゴジラ松井が数少ない例外的日本人?

 そのうち、「あ、日本でもなんかやろうか・・・」ってなるのかもしれないけど、それってやっぱり普段そんな社会のこととか社会問題とか国際社会とか、そういうの関心ないからだよね。いや、本業があるんだからそう強く意識してなくても、どこか心構えっていうか、要するにアティチュードの問題だと思う。それが常日頃からあるからこそ、こういう事態に自然に声が出てくるし、コンサートの話もごく短期のうちに企画できてしまう。急に思いついて「どうしよう、ああしよう」だったら、もっと時間かかるか、あるいは時機を逸してやり過ごすだろうね。やっぱ元々アティチュードってもんがあるかどうかだと思う。

 今日の朝日の朝刊にU2のボノとマックロ・ソフトのゲイツの連名によるオピニオンが掲載されていた。「先進諸国が貧困問題の解決に強い意志を示す時だ」って趣旨で、具体的な提案を含め、訴えている。今般のスマトラ沖地震・大津波の発生とは関係なくまとめられていたもので、世界の主要紙に寄稿しているのだという。

 noblesse oblige (ノブレス・オブリージュ) ってのは元々フランス語で、意味は「高い身分に伴う義務」。スペース・アルク で確かめました。
 元々はフランス語だけど、イギリス貴族なんかも、こういう考えと姿勢を持つべきとされているってことじゃなかったっけ? この言葉の由来とか歴史とか僕は通じてないんで深入りはしないけど、これを「高い身分、社会的影響力のある立場、『持てる』境遇に伴う義務と責任」と読み替えてみたい。社会的階級や(国によっては)身分制度上の階層が厳然とあるのはヨカレアシカレ確か。貧富の差もある。一国の中にもあれば、国際社会の中にもある。富める国と貧しい国。『持てる』者と『持たざる』者。名士と庶民。有名人と一般人。スターと大衆。いろんな階層が国に世界に、本当に厳然として「ある」。
 で、そこで更に僕はノブレス・オブリージュを広く捉えたい。それは、要するに取り立てて高い身分だの立場だの、あるいは裕福だったりせずとも、おそらく僕のような『転がっている石』にすらあるべきもの、転石にだってあったらよいアティチュードだと、僕はそう僕自身に向けて捉えている。

 僕は、シューマッハーとかスピルバーグとかロック・スターとか俳優とか有名アスリートとか、そういうところから緊急に支援を必要とする人たちを支援しようという声が挙がり、自ら立ち上がっているのをみると、それはたぶん、ある種の noblesse oblige みたいなものを彼ら彼女らが持っているってことじゃないかと感じる。思いつきの売名行為みたいなものなどでなく、おそらくは自然とそういう想いが湧き上がってくる、そういうことが可能なアティチュードを、彼ら彼女らは常日頃から意識せずとも持っているってことじゃないかと思う。『我が祖国』日本では、名士の皆さん、スターの皆さんの中に、ほんまにそういうものが少ない。何につけ、淡々と日々を過ごし、ある時は冷淡ですらあるように感じる。(いくらかの例外を除いて)アティチュードがないんだよ。

 ちょっとここで余談。オイル・ダラーでお金持ちの湾岸諸国が今回の世界を揺るがす大惨事に冷たいってんで国際社会で非難され、サウジがテレビで国民に募金を訴えて、政府の支援額よりも多い金額が集まってきたらしい。その時のエピソードには笑え、しかし落ち着くと暗澹となるものがある。イスラムの指導者がテレビ番組に出て、「非イスラムのシューマッハー(彼ってドイツ人だっけ?)でさえ、イスラムが大半を占める被災民(これは主としてインドネシアとかスリランカの一部を指す?)に対して巨額の援助をしているんだから・・・」って訴えたんだって。でもね、シューマッハーが例えばクリスチャンだとして(何でもいいけど)、「被災民はムスリムが多いが、それでも支援しよう」などと考えたと思うかね? そんなことで何か逡巡でもあったと思うかね。そんな境界線は最初から越えている・・・っていうか、最初からないと言っていいくらいじゃないかと思うんだけどね。もちろんキリスト教にしろイスラム教にしろ仏教にしろ、宗教的熱情による被災民支援というものもあるだろうし、それはそれでいい。しかし、異教徒だけど助けようとか、そういうこと考えてるのかね。僕は無宗教だからこれも深入りできないけど、どの程度の人たちがこういう考え方をし、どの程度の人がこういう考え方をしないのか。どんなもんじゃろか。

 もう一つ余談。今回、日本を含む多くの「富める国々」が被災国被災民支援としては最大級の支援を表明している。日本の額も巨大だ。で、例えばこの、現時点で日本政府が表明している5億ドル(500億円余)というのは、要するに納税者が出資しているってことだ。僕らは社会の装置として依然として国家という装置を必要としているが、その国家に僕らは税を納め、その資金によって自らの生活基盤を含む社会のインフラを構築し、時には自らを守ることになる制度を保障させようとする。だから僕らは政治に関心を持たなければならないのだ。税を納めれば義務を、オブリージュを果たした、そんなことはない。そいつがどう使われるのか、僕らは国家を監視していかなければならないってわけさ。
 も一つ余談。1年くらい前にイランで大地震があって、当時、国際社会全体で10億ドルの救援額が表明されたそうだ。だけど現時点での実績は1億7千万ドルだとか。政府のエライさんが表明するのはできる、その後が実は伴ってないって実態があったりするらしく、ちょっとこれにはビックリしたね。これでビックリする僕はちょっとウブだったのかね。コトぼど左様に、僕らは国家を監視していかなくちゃならんらしい。・・・ところで、民主国家では主権は在民なわけですが、国家を実務的に動かす政治家や官僚(役人)はこれはもうどう考えたってノブレスですね。つまり、相当に義務と責任は大きいです。

 ジョン・レノンが歌うように、
 Let's hope it's a good one WITHOUT ANY FEAR.
 it は新しい年。それを世界と読み替えたってレノンは許してくれるだろう。

 ニール・ヤングが歌うように、
 A little love and affection
 In everything you do
 Will make the world a better place


 人間には家族も、仕事も、社会もみな大切なものだ。家庭と会社と社会。会社はシンボリックに言ってるだけね。自営の人もいるし、農民も役人もいる。人間は家族と共に生き、『会社』でも仕事し、そしてもっと広い社会に生きる。 もちろん、バランスの妙は、人それぞれ。僕は僕のバランスとアティチュードを考えるのさ


05年 1月10日(月)   ローリング・ストーン

 僕は新聞を取っている。朝日新聞。朝日信仰など何もないが、どう考えても産経や読売よりはいい。で、毎日も、どう考えても産経や読売より確実にいい。朝日も毎日も何だか日和見の主張? いやしかし、日本を破滅に追いやりかねない産経や読売の大馬鹿主張を横に置けば、朝日や毎日にはそういう害はない。まぁとりわけ読売が巨大な部数で購読されているんでブキミであって、こいつを抑制できるようなパワーみたいなもんが朝日や毎日にはなさそってのはモンダイ。だけどその種のパワーを全国紙が持つこと自体がアブナイ感じもしてしまうかね。兎にも角にも、総合評価的には、朝日や毎日はマシ。

 昨日、毎日のサイトを見てたら、左っかわに「業界レポート(PR)」なんつーのがあって、「出戻り社員が急増中」なんて見出しが出てた。クリックしてみると株式会社インテリジェンスとかってのが提供のサイトみたいなんですが、この会社はどんな会社か、僕は知らない。ただ、「出戻り社員が急増中」には何か惹かれるものがあった。惹かれる、引かれる、水が引かれる我が田んぼに。

 インテリジェンスの業界レポート、とやらで、キャリア時事ワード辞典:【転職】 なんてものが出てる。「転職」にまつわる時事ワードを5つ挙げてみた、なんて書いてあって、【リターンマッチ転職】、【異次元ワープ転職】、【ブーメラン転職】、【転職適齢期】、【転ぶ転職・転じる転職】、なーんていうキーワードさんが出てる。ん? 「出戻り社員が急増中」がないじゃん。いや、こいつに当たるのはどうも【ブーメラン転職】ってやつらしい。
 「いったんは他社に出ていったが、かつて勤めていた会社に再び出戻る転職のこと。この現象は、特に技術者の人材不足に悩むIT業界や自動車業界でたびたび起こっている。『いったん会社を見切った人間をなぜ雇い直すのか』といった社内での感情論を越えて、優秀な人材であれば過去にこだわらず戦力として再び迎え入れるべきだ、いったん外の世界を見てきた人間のほうがかえって自社の悪い点を修正できるなど、肯定派の意見も『ブーメラン転職』の後押しをしている。」−とある。
 こいつは、
 「いったんは他シャに出ていったが、かつて勤めていたカイシャに再び出戻る転職のこと。この現象は、特に技術者の人材不足に悩むIT業界や自動車業界でたびたび起こっている。『いったんカイシャを見切った人間をなぜ雇い直すのか』といったシャ内での感情論を越えて、即使える人間が直ぐ必要ならば過去にこだわらず、あるいは過去に縁があったヤツも戦力になるかもしれねぇなとして再び迎え入れるべきだ、いったん外の世界を見てきた人間のほうがかえって自シャの悪い点を修正できるなど、肯定派の意見も「ブーメラン転職」の後押しをしている。」−と変えてしまおう(笑)。僕は技術者じゃないし、IT業界や自動車業界にもいないけどね。引水だね我が田んぼに。

 【転職適齢期】によれば、「35歳転職限界説」が世に流通している。ただ、転職求人の一般「公募」案件が35歳を境にして途端に少なくなるということであって、「優秀な人材」なら「需要はある」ので、「自分の人材としての価値を高めることに注力したほうが賢明」とある。【異次元ワープ転職】ってのは、異業種、異職種の分野への転職で、第二新卒(新卒入社1〜3年目)者の転職で頻繁に見られる現象である一方で、「40〜50代のビジネスパーソンにも散見される」んだそうで。「企業勤めから一転して農業を始めたり、NPO職員に転身したりするケースが話題」「キャリアのリセットというより、人生のリセットともいうべき転職である」んだと。

 こうしてみると、僕の中年以降は簡単に物語れるね(笑)。「35歳転職限界説」のまさに35歳の頃からどうしても転がりたくなり、「限界説」の齢から5年以上迷い続けて行きあぐね、不惑の40を過ぎても惑い、そこで突如みつけた「異次元ワープ転職」の途。コウかフコウか試験も面接も通り、行ってしまったが「転じる」というよりは「転ぶ」ことになり、結局その後は「ブーメラン転職」。なんて僕のは簡単な話なんでしょう。そんな簡単な話なわけねーだろ。・・・でもとりあえず語れちゃうな(笑)。

 僕はブーメランと呼ばんといてや。僕は出戻りです。いやいや転石です。僕は転がってるんや。出るのが転がりなら、戻るのもまた転がり。
 ・・・さて、僕はこれからどうなるかね。僕はとにかく家庭と仕事と社会にコミットして生きる。そこが僕を僕でいさせ続ける境界線じゃからね、ここは何とかしていきますよ、ディランさん。ディ、ディランさん、急に振ってすまんとです。僕が訳した世界やから許してや。ディランさんの「転がる石のように」はとてもきついっす。だけど、
 A rolling stone gathers no moss. 転がる石には苔が生えない。 ・・・っつーことで行きやしょう、生きましょう。そもそも仕事とともに、家庭と社会という大事なものがあるのねんのねん。Heart of Gold さね、こっちはニール・ヤングさん


05年 1月10日(月)   ジェイムス・テイラー、スペシャルズ、スピッツ

 いやぁしかし、僕の音楽の趣味のこの広さ(爆?)。暮れにジェイムス・テイラーのベストを買った。昨日はスペシャルズの1979年(だったかな?)の傑作デビュー・アルバムのリマスター買った。痛快ヒット・シングルの GANGSTERS が映像バージョンで付いていてサイコー! 明後日はスピッツの新作が出ます。僕はアルバム持ったことないけど、息子が好きだし、昨年、録画で時折り観ていた「めだか」ってドラマの主題歌が入っていてこれがいい。だから買うつもり。

 明日からまたシゴト、仕事。だから、体を大切に。
 息子は今年は中学に行きます。父として、夫こどっこいとして、かけがえのない時間を大切に。そして音楽のある生活を大切にしていきます。あたりきやがな。
 これから持ち帰りシゴトに手つけるけどね、もう今年はほどほどにさせてもらおうと思ってるよ、こんなアホなこと。
 僕は、かけがえのない時間を、大切に、していきたいのであります


05年 1月16日(日)   スマトラ沖地震・インド洋大津波被災に

 ここ から繋がる話。スマトラ沖地震・インド洋大津波被災救援のためということで職場で募金が集められていて、僕も募金した。それはもちろん任意なんどけど、○×カイシャ職員有志一同みたいな名義で出ていくんだろうか。日本赤十字社に寄付するようだ。
 息子の学校でもやっていて、「保護者宛て」に案内が来て、息子に持たせることにした。どこに寄付するのか明確に決めてないというのは不適切なやり方だと思ったが、「子供たちの活動です」ということで、応じることにした。案内は、「日本赤十字社等を考えています」といった書き方だった。こういう募金が行なわれること自体はわるくない。基本的にはよいことと思う。もちろん強制などではないが、こうしたかたちでより多くの「善意」と言われるようなものが現実のカタチの一つになることはよいことだ。これがなければ腰が上がらなかったけど、ちょうど案内が来たから、という人だっている。こういうものは強制とか踏み絵とかになってはいけないが、今回のようなものや案内をそう取ったらあまりに過剰反応だしね。

 今朝の朝日に、ロイター通信などの資料から集めた各国の現在の民間寄付(実績)や政府支援額(表明額)が出てたけど、これは考えさせられた。日本は後者が多くて、表明額でもトップクラス、実際に半年だったかのうちに実行できる額では世界一になるらしい。ただ、現在の民間寄付額は桁違いに低額。例えばドイツとかは政府の支援表明額も日本より多いが、民間寄付は現在、日本の 2,350万ドルに対して ドイツは 4億2,900万ドル。イギリスもオランダもスイスもアメリカもオーストラリアも、日本とは桁違い。確かに欧州の観光客が沢山犠牲にはなってるけど、国際協力って意味で言えば、地理的に考えたら日本は欧米などよりずっと被災国・被災地域に近いんだけど。
 日本政府による支援(額)が日本人の税金から出てるのも確かだけど、仮にじゃぁこの日本政府による支援がもっと規模が小さかった時に、日本の民間寄付は反比例して膨れ上がったか。そんなことはほとんど有り得ないと思う。日本では、政府は政府(政府は日本国の国際社会に占める位置を念頭に置いて決定している)、民間は民間なんだ、こういう時こそね。区別してない時も多いが、こういうことに関して根源的に考えたりしない。だから、例えば、今現在の現実と違って政府の支援額が小さすぎれば国民が政府にもっと大きな支援をするよう訴える、そういう動きも目立って出たりはしないだろう。日本人は単に内向きだってことに過ぎない。自分達の生活は思い切り自国企業の外国における企業活動に依拠している面があったりする一方で・・・ってとこです。いいとかわるいとか言うのとは別に、これは確実に一つのアティチュードの違いだと僕は感じる。

 ただ、僕は、とにかく税金とは別途、また直接的な自分への働きかけに「応じる」のとは別途、僕の意思で募金がしたいと考えたまで。ネットで検索すればいろんな団体が救援活動をやっていて、信頼性が高いものは少なくない。というか、多い。今回どうしようかと思ったが、子供達の被災も多く伝えられているし、子供達への救援は大人の社会の救援にも繋がる。子供は社会の宝みたいなもんだし、また、大人を支援することも子供の支援に繋がる。大人の悲惨や労苦が軽減されない社会では子供のより健全な成長も難しいからだ。
 妻と話し合い、今回はユニセフに募金することにした。ユニセフの「スマトラ沖地震・津波緊急募金」への募金は、被災地域の子供への直接的支援、医療、心理的支援、学校への支援、孤児の支援、主な働き手の親を失った家庭の支援、いろんなことに使われるようだ。緊急とは言え、被害は甚大で、現時点で募金の受付期限は設けていないようだ。ネットでもできるが、郵便振替にした。ネットでやってもそれに応じて拠出されていくようだが、どうもクレジット決済だと実際に金額が引き落とされてユニセフに移るのには時間を要すことも分かった。妻が出勤の際に、郵便局に寄ってもらうことにした。案内は このサイト に出てる。ここは ユニセフ本部(こっちは英語とスペイン語とフランス語のみ) の在日本の National Committee に当たる(財)日本ユニセフ協会のサイト、日本語で活動や募金案内が読めますねん。

 ユニセフ(UNICEF:国連児童基金)は、世界158の国と地域で、子供達の生存と健やかな成長を守るため、保健・栄養・水と衛生・教育などの支援事業をその国の政府やNGO、コミュニティと協力しながら実施している国連の機関、ということであります。第二次大戦で被災した子供達の緊急援助を目的に1946年の第1回国連総会で国連国際児童緊急基金(United Nations International Children's Emergency Fund=UNICEF)として創設、その後、活動の重点を開発途上国の子供達を対象とした社会開発に移し、国連児童基金(United Nations Children's Fund)と改称したけれども、UNICEFの略称が既に世界中の人々に親しまれていたため、そのままその略称が現在まで引き継がれているとのことです。今日サイト見て、はじめて知ったよ、この名前の歴史と現在。兎に角、子供は社会の未来を託す存在ですけん。われわれの先の社会も指せば、年を取っていくわれわれが生きる社会も指します


05年 1月16日(日)   ビラの自由・NHK・財界の「良識」と沈黙・徒党『経団連』

 面倒なんでまとめて一日記。

 【ビラの自由】
 新聞報道によれば、「共産党のビラを配るためにマンションに侵入した」カドで、今月11日、東京地検が、葛飾区に住む共産党支持者を「住居侵入罪」で起訴した。逮捕された人間は、7階建てマンションの建物内に入り、共産党の「都議会報告」や「区議団だより」などのビラを各戸の玄関前まで「侵入して」ビラを投函したとのこと。住民が取り押さえ、通報で駆けつけた警察官に引き渡したんだと。
 このマンションはおそらく古めで、入り口には「チラシなどの投函は固く禁じます」と記載した張り紙があったものの、入り口のオートロックはなく、管理人室はある、ただし当時は不在だったらしい。

 あのね、これが自民党関係だったら(自民党はこの種の大衆の中の個人個人宛て活動はあんまりせんだろうけどなぁ)、あるいはそもそも不動産やら電化製品やらのチラシとかの投函だったら「逮捕」とか「起訴」とかされまっか? 地検は「政治活動の自由が認められるのは当然。ビラの内容は身柄拘束や起訴には関係がない」と説明しているそうだが、どう考えても「逮捕」や「起訴」は過剰です。「住民による取り押さえ」も過剰だけど、このくらいの範囲のいろんな人がいるのは自由(笑)として、これをまともに「逮捕」した警察、「起訴」した地検は異常ですわ。
 しかも、東京地裁は昨年12月23日のビラ配り当日「警視庁亀有署員による『現行犯』逮捕」の後、12月25日にはこの人の勾留を決定。弁護側は決定取り消しを求めて地裁に即日準抗告したが棄却。地裁は今月 2日、さらに10日間の勾留延長を決定し、これに対する準抗告も棄却したとのこと。司法はオカミから独立してほしいもんだけど、この判断もオカミそのものだね。
 その後、地裁は14日に、この人の保釈を許可、保釈保証金は300万円で、同日納付ってことだけど、保釈自体は単に当たり前過ぎるほど当たり前の話だからね。

 ビラ配りと言えば、昨年にはこの他、市民団体メンバー3人が自衛隊のイラク派遣に反対するビラを配るため立川の防衛庁官舎の敷地に入りやはり「住居侵入罪」で起訴されたが、これは12月16日に東京地裁八王子支部が無罪判決。それでも東京地検八王子支部が東京高裁に控訴してる。これだっておんなじよ。不動産や電化製品なんぞのチラシなら「住居侵入罪」で起訴なんて絶対にならんよ。
 いやはや、まるで治安維持法体制下だよ、こりゃ。

 【NHK】
 4年前に放映された、戦前の「従軍慰安婦」問題に係る模擬法廷を取り上げた番組が、放映直前に内容を改竄されてたって話。このこと自体は以前から有名でこれに関することは係争中だけど(たしか模擬法廷主催側が原告で一審敗訴、現在控訴中)、これに安部や中川が絡んでたかどうかって話。内部告発してたNHKの現役チーフ・プロデューサーが実名と顔を明かして記者会見したけど、安部や中川の介入は上司から聞いた話ってことで、安部の言い分は、放映前日に予算の話の際に番組のことも話として聞いたが「公正・公平な報道をしてほしい」と言っただけだと(これだけだってことが事実でも十分に政治介入だと思うけどね、政治家が露骨に「番組内容変えろ」とか「中止しろ」とか言わなきゃ介入にならんってのもヘンだろーが)。中川の言い分は、放映後に話を聞いただけだと。この番組はそれ以前に既にかなり編集方針が上の方針で軌道「改変」されてたわけだけど、放映前日から当日にかけて、単に内容改変に留まらず、4分、時間も削ってしまったということだから異常。なんか無かったとは思えませぬ。
 細田官房長官が、政治介入があったどうかを政府として調査したら報道への介入になってしまうと、何とも妙な理屈をこねていたのは笑えた。笑えたが、しかしやがて笑えぬ話になりかねぬ。

 【財界の「良識」と沈黙】
 富士ゼロックス会長の小林陽太郎氏は日中両首脳の合意でできた『新日中友好21世紀委員会』ってやつの日本側の座長をしていて、昨年9月の同委の会合後の記者会見で、小泉ソーリの靖国参拝について「個人的にはやめていただきたい」と話したそうだ。この後、同委の委員たち宛てに中国との対話を非難する文書が出回り、小林氏の自宅には右翼の街宣者がやって来て、スピーカーでがなり立てたらしい。・・・で、それとの関連との証拠は出てないが、今年1月には小林氏の自宅玄関脇で、燃えた火炎瓶2本が見つかった。通行人が気づいて家人に知らせたとのこと。危うく火事になりかねない、更に今後に不安を抱かせるような脅しである。
 富士ゼロックス会長の小林陽太郎氏と言えば日本の財界を代表する人物の一人。ここでこうした「テロ」行為への非難表明を、他の財界の大物が行なえば「財界人の良識」を示すものと言っていいだろう。しかし、どうやらみーんな沈黙してるみたいなんだ。・・・財界のみならず、「テロに屈しない」との発言が大好きな小泉ソーリも財界人の公人としての発言への「テロ」と思われることに関して、なーんにも、大好きな「テロとのたたかい」をやるぞって姿勢を見せません。コメントもしてないんだと思うが。

 【徒党『経団連』】
 日本経団連(会長はトヨタ自動車会長の奥田碩くん)に憲法「改正」問題を検討している委員会があって、「国の基本問題検討委員会」(委員長は東京三菱銀行会長の三木繁光くん)というんだと。新聞報道によれば、そいつらが作ってる報告書の概要ってのが12日に明らかになって、9条「改正」、自衛隊保持、集団的自衛権を明確にすることを求めているらしい。前2者はともかく(これも考えはいろいろあるけどね・・・)、集団的自衛権までやりたいかね。大体さ、財界のじいさん連中、うるせえんだよ、てめえらの権益確保にご執心なんだろ。
 財界では経済同友会や日本商工会議所も既に憲法「改正」で自衛隊保持の条文での明確化を求めているが、「集団的自衛権の明確化、行使に関する規定の整備」まで踏み込むのは経団連じいさんが初めてなんだと。ったく、っるせーな財界じいさん、あんたらじいさん、絶対に戦争に行くなんて有り得ねえだろ、動機は何なんだよ。ホントに汚らしく思うわ、あんたらのこと。
 憲法のことは国民が本気で考えねばならぬこと、考えはまだまだ足りないだろうし、兎にも角にも「護憲」とか思ってないし、いずれにしても従来の「護憲」運動がアメリカの外交的軍事的保護及び戦略下にある日本のポジションに正面から向き合ってないで雲を掴んでばかりいたように思えるのもたしか。・・・だけどね、俺はそう思うけど、経済界とか財界とかいうところのじいさんたちがやれ自衛隊だナンタラだ、ましてや集団的自衛権まで言及しだすと、ほんま、うざいわ。うざいの一語に尽きる。それよりさ、例えば 財界人が小泉の靖国参拝に批判的発言しただけでシツコイ嫌がらせや脅しを受けるということ に関し、思想信条がどうかよりも前に、言論の自由の問題としてきちんとコメントしろよ。自由は大事なんだろ、あんたら財界人。金儲けに自由は必要じゃないのかい? それともあんたらに都合のいい自由だけで十分かい? え? どーなんだ、財界のじいさんたちよ。・・・ここで吼えてる中年カイシャインも相当にナニですかい(笑)。


05年 1月16日(日)   イラクWMD

 アメリカのイラク攻撃は国連決議も経ず(経れば兎に角いいなんて毛頭思わないが)、ただただ「イラクのWMD(大量破壊兵器)」武装解除が理由だった。そのイラクのWMDを捜索していたアメリカの調査団、この間に団長が降りて交代したりいろいろあったけど、実は昨年末にひっそりと捜索を終了していたんだと。新聞報道より、であります。

 攻撃後の捜索で存在しなかったことがはっきりしても「開発する能力があり保有は近かった」などと主張していたが、その証拠も見つけれなかったようだ。もっとも調査団はアメリカで「書類上」のシゴトを続けてるらしいから、そのうちまた開戦前(攻撃前)みたいに文書をでっちあげたりしないか気にしといた方がいいんでしょうかね。
 WMDがどうにもならないと、イラクを民主化したなんて言ってるけど、他国の民主化のために武力行使していいなんて国際法はないし、そもそも「民主化」後に毎日武力による死者が出続けている今のイラクはどうなっちまうんだろうかと思う。


05年 1月16日(日)   鼻詰まり夢不眠・腕張るもWSO

 副鼻腔炎だかアレルギーだか、とにかく鼻詰まりがなかなか治らんのよ。で、眠りがジャマされる。で、しばしば目覚める。で、目覚めたとき判るんだが、いつも直前まで夢見てた記憶が残ってる。で、浅い眠り、不眠症。

 頚椎ヘルニアの影響に違いないんだが、腕の張りや肩こりもきつくて、身体がきついねん。仰向けに横になって寝ててもさ、両腕とも根っこが生えて床下に向かいそうなんだよな。こわいやろ? たまらんで。
 腰椎さんのせいで腰も重たいんだけどね。

 明日からまたシゴト、仕事。だから、体を大切に。

  息子は今日から今年の野球クラブ始め。雨のせいか、今日は午後から。初詣した後、体育館でトレーニングしたらしい。午前中は家でピアノの練習し、野球から帰って来た後は、なぜかドーナツ作り。美味いの作ったで。小6で野球・ピアノ・ドーナツって幅広だよねぇ。今はミスチル聴きながら、合わせて歌いながら、駅構内の平面書いてるけどね。鉄道系もかなーり好きなんでね。
 今年は中学。僕は父として、夫こどっこいとして、かけがえのない時間を大切にせねばなりません。あたりきやがな。
 深夜残業とか持ち帰りシゴトとか、今年はほんまに、ほどほどにさせてもらいたいんよ。

 カイシャの仕事は大事。生業として当然、大事。ましてそれを通じて社会に貢献できるならば、ならばね、なお大事。
 ただ、僕はカイシャだけでなく、家庭と社会に足場を置いて生きています。カイシャは少なくとも生業としてそれを支える重要なものだけど、家庭人の自分、社会に繋がる自分があっての、「生きること」です。

 僕はそうやってカイシャ以外に、家庭と社会をとても大切にしているからね。
 僕は、かけがえのない時間を、大切に、していくのであります。WSOは、We Shall Overcome. 似たような想いで生きているみんなが We だ。 We Shall Overcome. _


05年 1月16日(日)   ドーナツ募金

 息子の行ってる小学校でスマトラ沖地震・インド洋大津波の被災地救援募金の案内が配布され、明日、息子が学校に募金を持っていく。 僕はカイシャで呼びかけられていた募金に出したし、僕ら家族としては、明日、郵便振替でユニセフに募金するつもりだ。

 今日、夕方になって、ふっと思ったんだが、今朝の新聞に出ていた、アメリカの小学生が家でマフィンを焼いて母親に買ってもらって、そのお金を募金に使ったって話、あ、これだって思った。そうだ、今日、息子はドーナツを作ったんだった。美味かったね。

 父親の僕が食べたのは3つ。妻に尋ねた。「いくつ食べた?」。妻も3つだった。よし、これだな。僕と妻は、改めて息子が作って自分達が食べたドーナツの代金を息子に支払うことにした。1つ100円。2人で6つ食べたから600円を息子に渡す。で、これを息子に募金として持って行ってもらう。

 実は息子は昨日、なぜか思い立って菓子を作りたいと言っていた。けっこう面白がって台所に立つところがある息子だが、昨日、急に菓子を作りたくなったらしい。だけど本など見ていて何を作るか決めあぐね、それにピアノの練習が延びてしまって時間がなくなった。で、今日は野球の練習から帰って来た後、ドーナツを作り始めたのだった。沢山つくって、晩飯前に家族3人で食べたんだ。
 息子にはもちろん話して考えを深めさせた。ロックJr.は今日ドーナツを作った。お父さんとお母さんはそれを1つ100円で買う。2人で600円だ。だからこれはロックJr.のお金だから、この600円を募金すれば、ロックJr.があの地震と津波でたいへんなことになっている人々のために募金するってことだ。そう思って持っていきなさい。もう少し、話したけどね、大体そういうことです。

 息子は、親の考えたことの意味がよく分かったと思う。これも息子のアティテュードってことだし、僕ら家族のアティテュードってことでもある。僕はアティテュードを大事にしたいと思っています。もともとこういうものを日本語で『こころざし』、つまり『志』っていうんだと思う。もちろん、そこに気負いなんかない、そういう『こころざし』。まぁあってもいいんだろうけど(笑)、気負いってのはない方がいいな。そういう気負いがないのが身体に取り込まれた自然なアティテュードで、それがあるといざという時にもささっと、つまり気負いなく当たり前のように心身が働くんじゃないかと思う


05年 1月22日(土)   ある転石報道官の話

 僕の友達に転石報道官がいる。彼は昔、某国で反政府運動のグループにいた。しかし、その後、彼は外国に移住し、いったん国籍を変えた。だが、その国での生活は要するに一言で言うとうまくいかず、また国を後にすることにした。ところが受入先がみつからない。そうして彼は、なんと元の国である某国に帰っていったのだった。入国の際にその某国の首脳と会談して。

 彼が以前に某国にいた時から、彼が属した反政府運動グループと某国政府の間には係争案件が多々あった。そして、最近になって最初の判定が出た。某国が所在する地方の労働法監督局からだった。「某国政府が反政府運動グループ・メンバーに対して過去に行なった処分を撤回し、同グループ代表宛てに『今後この種の誤りを繰り返さぬ』旨文書を発行しなさい」。

 某国政府には外国人である反体制係争案件アドバイザーが付いている。しかし、この男ははっきり言って、つまらん文書を大量に作って無駄に係争時間を引き延ばし、某国から得られる報酬により荒稼ぎしているだけの男、その世界では有名な札付きの悪質アドバイザーなのである。これまで某国の資金はいたずらにこの男により浪費されてきた。
 某国が所在する地方の労働法監督局が某国に出した命令自体は至極真っ当なものである。某国政府としてはこれを受け入れ、時間と資金の無駄遣いをせぬよう、現在某国の計測分析報道担当官をしている僕の友人は願っている。某国は、そんなことをやっている場合ではないのだ。某国には諸外国同様にいろんな考えを持つ者がおり、僕の友人も考えというものを持っている。某国政府はこれまで反政府運動をしてきている人達とも、正常な関係を取り戻して前に進むべきであろう。

 僕の友人は、今は任務の一部が報道官としての任務なのだ。しかし、この件で諸外国メディアから問合せがあった場合は、某国総務庁長官に取り次ぐことになったようだ。ちなみに、僕の友人が担当する計測分析報道局は、僕の友人以外には、計測分析官が1人、報道事務官が1人、その他、契約補佐官である報道関係補佐官が2人。実はもう1人ベテランの報道実務担当官がいたのだが、もう長いこと体調不良で休んでいる。そういうわけで、僕の友人は、心身ともに疲弊しているのだった。

 僕の友人は転石報道官だが、決して転向報道官ではない。転石と転向は非なるものだ。似てさえいない。僕は、彼の心の中をよく知っているのさ


05年 1月22日(土)   問題は朝日NHKでなく自民NHK

 この問題 で朝日とNHKが喧嘩してるが、本当の問題は自民とNHK、政治と報道の問題である。

 朝日の取材が執拗で、言いたくもないセリフを言わされるまで執拗に質問された、そういうことはたぶんあるだろう。形式上は安部や中川が呼び出したのでなく、NHK側から出向いたのかもしれない。だけどね、既に放映が決まり制作が最終過程にきていた番組の内容が政府与党内で問題扱いされ、その内容をNHKが、しかもNHKの予算が国会で審議されようとしていた時期に、政府与党の政治家に説明するなんてことが、ジャーナリズムの世界で非常識であるのは当然でしょうが。NHKはこれを通常行なっている範囲だと言っているが、通常であれば尚のこと馬鹿げている。おんなじ「ほぼ国営」放送でも、与党が保守党だろうが労働党だろうが、時の政治権力と緊張関係を維持するBBCと比べてみなって。全くNHKは大馬鹿者だよ。
 たしかにNHKは、一般的にドキュメンタリー番組などで民法より良質な番組を作ることが多い。しかし、いちいち政界で議論のある社会的問題を取り扱う番組放映前に時の権力側に説明するんであれば、もうお前らNHKは社会問題扱うドキュメンタリー番組はやめなっての。ニュース番組もやる資格ねぇよ。ついでに国民から受信料取っておいて下らんバラエティ番組やるのもやめなっての。お前らNHKは、今後は動物とかの自然とかのドキュメンタリーだけにしな。野生の王国みたいなさ。お前らそれだけで十分だよ。

 NHKが、いったん政治的に取り扱われることが十二分に予想できる番組制作と放映を決めた。制作した。中身の一部が洩れ、政府与党内や右翼勢力から問題視された。その間にNHKのエライさんが制作担当に再編集や内容改変を指示した。この番組の放映前にNHKの予算担当のエライさんが安部を訪ねているが、その時に何と番組制作・放送担当のエライさんも同行し、問題となっている番組の説明をした。安部は「公正公平にやってください」と言った。そして、放映前日までに番組はさらに編集され、放映時間も4分ぶん削られるという異例の内容改変を行ない、そのうえでの放映となった。ここまでは完全に事実であり、NHKも認めていることだ。
 NHK放送総局長だった松尾武などが当時、内閣官房副長官だった安部に会い、番組の説明をし、安部に「公正公平に」と言われ、その後にNHK内部で総局長試写という名のチェックが行なわれ、44分番組の予定が再編集で43分に縮められ(この時点で既に通常の編集というよりも改変と削除)、さらに編集が重ねられて40分での放映に辿り着いた。しかも、NHKは記者会見で、安部に番組の説明をしたのは、安部が『日本の前途と歴史教育を考える議員の会』とやらの幹部だったからだと認めている。さらには、NHKが放送前の番組について議員に説明するのは通常業務の範囲内で当然だと言っているのだ(まぁこれが本来一番の驚きだけどね)。

 問題の核心はこれだけでも十分。朝日の取材がしつこかったとか、言った言葉尻がどうだったかとか枝葉末節。そういう細かいことは単に、必要であれば「細かく」訂正すればよい。ただしそんなことに時間をかけるな。言葉尻の問題をこまごまと言うんなら、安部の、放映前日のこの番組内容説明に対して「公正公平にやってください」と言った、その言葉尻を取り上げよ。ここで安部が言う「公正公平」がどんな意味か、そんなことは子供でも想像できねぇか。(将来があると思っている)「大物」政治家が、メディアに圧力かけたい時に「放映するな」とか「内容改変しろ」とか、そんなストレートな物言いするかね? まぁそもそも大馬鹿者NHKが、放映前に政治家に説明に上がっただけで大問題。それを通常の行為というんならもっと大問題。予算説明なら予算担当のエライさんだけでよいだろーが。なんで番組制作担当のエライさんもついていくのかね。安部でさえ、先週のサンプロで認めてたぞ。予算関係の人以外の方がみえていたので、「あなた達は・・・」と尋ねたら番組制作関係の人間で、その番組の説明をしたんだと。それがNHKの(形式的には)自主的行動だったのか、本当は元々安部が具体的に説明を求めていたという経緯があったのか、そいつは証拠がないが、とにかく問題として十分に問題。NHKがやっていることはジャーナリストのアティチュードからかけ離れている。お前ら政府与党の広告屋かよ。アホらし。

 昨晩この問題で朝日の記者会見があり、その前にはNHKが朝日に「公開質問状」とやらを出す、ということがあった。NHKが朝日に尋ねてたり要求したりした中身がフルッテイル。取材を求められた際にメモを拒否したのだが朝日は録音でもしたのか、録音したなら明らかにせよ、録音がなければ、メモもしていなくて長時間の正確な取材記録がなければあの記事は書けなかったはずだと。・・・メモを拒否したのは相手のメモにより不正確な記事になるのが嫌だったからであれば、逆にその時にNHK側から録音してくれって言ってても可笑しくないね。そんなこと取材される側は普通言わないだろうが。それでメモを取られることは拒否しました、録音テープがなければあの記事は無理でしょ、そう言うのなら、NHKは最初から取材拒否してたのと同じだ。報道機関に勤めるものが、メディアの取材を受けて「メモしないでくれ」かよ。おまけにNHKは、ついでなのか何なのか(笑)、(記事に表われてない)取材過程を明らかにせよとまで言ってる。NHKってジャーナリズムのイロハ無しで報道機関を名乗ってるのかね。もっとも名乗ったりしてないのかな(笑)。

 この件で他のメディアはいささか腰が引けているが、毎日はまぁまぁ問題の核心の方に重点を置いているようだ。東京新聞もそうらしい。読売と産経は当然のごとく朝日攻撃に使ってんだろうな、新潮や文春も同じだろう。朝日系の報道ステーションは基本的にNHKの主張も併せて紹介していたが(朝日寄りになるのは自然の流れだろうが)、僕が家族に録画してもらっておおよそ毎日チェックしてるNHKニュースの方は、完全にNHK広報局『大本営』プロパガンダだ。比率はともかく朝日側の主張も紹介するという感覚が一切ない。僕が観た限りでは一切ないが、まぁあってもほとんどないといったところだろう。視聴者から受信料取って自己弁護『自社広報』終始放送を公共の電波に乗せるなっての。

 朝日に分があるとかNHKに分があるとか、そういうことは問題の核心ではない。NHKという一応報道機関ヅラしている大メディアが政治の圧力で放送予定内容を改変したことはほぼ間違いないだろうということだ。誰といつ会ったとか、何という言葉を使ったかとか、仔細なことは分かれば訂正すれば十分。本来は朝日とNHKの争いごと自体は大したことではない。言葉尻も大したことではないのだ。
 日本の戦後責任や天皇の戦争責任問題に触れることになるのは最初からはっきしていた番組の制作と放映を決めていたNHKが、ほぼ制作と編集を終えた後に、どうして放映日直前の編集を含めギリギリの作業を続け最終的に放映時間まで4分短縮という異例の内容改変を行なったのか、どうしてそのような異例の過程を経て当初の制作コンセプトを変えたのか、その理由が政治家の圧力でないというなら他の何なのか、そのことをNHKは明らかにしなくてはならないはずだ(しかしそんな姿勢は全く示していない)。


05年 1月22日(土)   言論封殺は戦前を想起させる

 この件、その後、富士ゼロックス会長・小林氏の自宅には銃弾入りの封筒まで届いた。財界の憂慮の声もちらほらだが聞こえてきた。小泉ソーリも、首相官邸で記者団の質問に答えるというかたちで、「どの方でであれ、暴力的行為は、断固として排除されなければなりません。どの方でも意見を言うのは自由です」とコメントした。・・・いつもの「テロに屈さない『テロとの戦い』」小泉ソーリにしては、何だか「ひけてる」コメントだね。被害にあってる人が小泉ソーリ靖国参拝に批判的な人だから? 


05年 1月22日(土)   誕生日に花を、ケーキを

 昨日は妻の誕生日。妻の希望の「フルオート野球盤」(僕が子供の頃使ってたものより数年後のものではないか、フルオートと言っても手動だけどね)をブラジル密林地帯に火曜に注文したら、もう水曜に届いてた。昨日の誕生日当日は、僕はシゴトは8時台に退勤、帰りに花を買った。花を買って帰宅した(ユリなど・・・僕は花の名は詳しくないねん)。
 今日は、息子が誕生日祝いのケーキを作る。母親の指導を受けながら。最近はドーナツも作った息子 だからね、美味いケーキを作るに決まってる。今晩はそのケーキを息子、母親、父親で食べるのだ。みんな、これからも仲良く幸せな家族でいようぜ。

 追記: チョコ味を振りかけた生クリームとイチゴ、スポンジはココア味か。美味かったねぇ


05年 1月23日(日)   S&G,OLD FRIENDS, LIVE ON STAGE

 2003年12月に行なわれたサイモン&ガーファンクル再結成ツアーの模様を収録した2枚組ライヴCDとDVDのセット。金曜の夜中、というか土曜の午前1時過ぎにブラジル密林に注文。1、2分で注文確認の返信届き、土曜の午後1時には発送連絡のメール届く。そして本日、日曜、早くも我が家に届いたのだった。

 当時は北米ツアーが行なわれ、来日公演も期待した僕だが、その後のアーティのマリファナ・ニュースでもって「ああ、とりあえず今回来日は無理だな」と観念。最近その時のライヴが出てるのを知って買った。
 僕が買ったのは輸入盤。DVDがリージョン・フリーだったことを幸いにこっちを買った。CDが2枚組で計25曲。DVDには30曲分のライヴの音と映像、コンサートでステージのスクリーンに映されたと思われる特別なモンタージュ映像、今回のライヴ以外に1960年代末のS&Gの数曲分のリハやライヴの貴重な映像(ファンにはいわゆる『お宝』映像だね)、今回のライヴの際のフォト・ギャラリー。それからCDにもDVDにも同様に、これまでアルバム未発表だったものをS&Gが今回スタジオ収録した1曲が収録。これで、このCD&DVDセットがブラジル密林地帯から届いて、購入価格が 2,922円に日本国の消費税 146円を加えて、しめて 3,068円なり。

 これが日本盤としてはDVDとCDがバラ売りになっていて、ブラジル密林地帯に注文したとしても前者が値引きされて税込みで 3,948円、後者は税込み 3,780円なり。これで僕がどうして日本盤買うね。
 僕の洋楽の、というか音楽の旅への入り口で迎えてくれたS&G、そんな僕が今さら、歌詞カードや日本の評論家の皆様方のライナーなどに大金はたくために日本盤買う気など起こさんのです。僕にとって日本盤の価値はあっちのライナーの訳と、未発表スタジオ収録曲の訳詞でありましょう。それだけだもんね、輸入盤で十分やねん。輸入盤にも、もちろんオリジナルのライナーやステージ写真などが掲載された豪華ブックレットは付いてます。元々オリジナルに付いてたブックレットだもんね。英語ばっかしだけどさ(泣)。

 いやぁさっそく観ました聴きましたが、涙ものですな。不安だったアーティの声もまだ大丈夫、きれいな声出てます。多少はかすれてますが年の功でカヴァー。ポールはばっちりいい声出してるし、ギターの腕もグンバツだし、いい音出してるよなぁ。20年以上前の昔の再結成時のセントラル・パークでのコンサートでは歌わなかった曲もけっこうやってて、実に感激。いやぁいいです、還暦過ぎた2人の歌声、パフォーマンス。


05年 1月23日(日)   スーザン・ソンタグの言葉、僕のアティチュードと心身を保つことと

 そのコラムは、2003年のエドワード・サイードの死(ここ に僕の日記、こちら に追記の日記)という現実をも引用しつつ論評していた。今朝の朝日の紙面で、作家のリービ英雄が、2004年末に死んだスーザン・ソンタグの死を取り上げていた。

 僕は彼女のことは詳しくないが(スーザンだったら、学生時代にスーザン・ジョージの『なぜ世界の半分が飢えるのか』という本を読んだなぁ)、アメリカの批評家にして作家。反体制と言えば間違いないだろうが、例えばベトナム戦争時は当然ながら反戦を訴え、一方で、たしかアメリカのユーゴ空爆の際には、ミロシェビッチ統治下での虐殺行為を止めさせるためということにおいてのみそれを否定しないという思考と態度(これをアティチュードと言えばいいのだろうか)を選択した。僕にはこの時の評価をどう考えればよいのか分からない。ただ、僕は当時、朝日の紙面で彼女と大江健三郎との間で対論が行なわれていたのを記憶しているが、その対論自体は完全にスーザンが大江を論破していた。というか、おそらくスーザンは論破などということに興味はないと思うが、大江よりもスーザンの思考も方がずっと深いものだったという強い印象を僕は記憶している。

 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの後、アメリカは従来よりももっと保守化し、急激に唯我独尊国家になってしまったが、この間、僕が名前を知るアメリカの知識人で変わらぬ声量で声を上げたのはノーム・チョムスキーの他、サイード、スーザンなど少数。後者二者は既に他界してしまったことになるが、件のコラムによると、あのテロでニューヨークの象徴の一つだったツイン・タワーが崩壊した直後、アメリカが大きく揺らいでいる時に、スーザンはこう書いたのだそうだ。
 被害者たちを思って「一緒に喪に服しましょう」。ただし、その破壊の原因に関することでは「一緒にバカになることをやめましょう」。
 そうして、ニューヨークに住む知識人スーザンは、アメリカ中から罵声を浴びたそうだ。

 But let's not be stupid together.

 エドワード・サイードの死とスーザン・ソンタグの死は、世界が最も批評というものを必要としている時代に起きた。しかし、彼女、彼らのはことばは今も残る。コラムはそう言っているようだった。よいコラムだと思った。

 さて、僕は相変わらず腰が重く、頚椎による肩こりや腕の張りもひどく、左手も痺れる。休みの日なのにシゴトに手を出す。この間の身体の疲弊は僕を痛めつけ傷めつけている。僕はでも、こんなコラムを読みながら、また音楽というものを聴きながら、時には行動しながら、自分のアティチュードを、心身の現実との向き合い方を、大切にしていくつもりだ


05年 1月29日(土)   ある転石報道官の話partU

 僕の友達に転石報道官がいる。彼は昔、某国で反内閣の運動グループにいた某国政府職員だった。しかし、その後、彼は外国に移住し、いったん国籍を変えた。だが、その国での生活は要するに一言で言うとうまくいかず、また国を後にすることにした。ところが受入先がみつからない。そうして彼は、なんと元の国である某国に帰っていったのだった。入国の際にその某国の首相と会談して。
 こっちにも転石報道官の友達のことを書いたが、あれ? 同一人物かな。ま、ええやんか。ややこしい話なんや。

 その某国は最近になって内閣総『退陣』が発表された。任期満了で次期も有り得たんだが、そういうことになった。国際経団連(なんじゃそりゃ)から降りてきた人が大統領やってて、この人は残る。しかし残りの、某国育ちの内閣構成員は全員『退陣』となった。まぁ正確に言うと1名は他国の政務をしつつ特命大臣として残ってたまに某国にも来ると聞いているが、この人は常勤大臣ではない特命の人になるので(そういう役割、某国の過去にあったかどうか僕は知らない)、とりあえず「さて措く」。要するに内閣総『退陣』なのだ。で、退任日は 1月30日だが日曜なんで事実上は昨日の28日が退任の日だったらしい。

 退陣する人々は公式送別を固辞したと聞く。で、ボランティアが企画した非公式なる送別会があって、僕の友達もその送別会には参加したようだ。しかし、総『退陣』というのに、国民はともかく(ええっ!?)、政府職員に対して何ら公式的な話の機会がない。このままでよいだろうか。

 僕の友達は今、某国の報道官だ。位という嫌らしいものは低いけれど、まぁとにかく報道関係と某国の政務 evaluation みたいなことの担当官だ。で、政府職員報なるものの発行も担当している。僕の友達は考えた。やっぱりせめて政府職員報に寄稿してもらった方がいいはずだ。何もなければ、結局公式な機会が何もないまま総『退陣』になってしまう。局長さんは「おそらく退任される首脳はそれも固辞されるでしょう」というが、しかし本当にそのままでいいのか。

 昨日、僕の友達は某国首相を訪ねた。事実上、昨日が某国の現首相の退任日。来週になれば代わる。で、政府職員報への寄稿をお願いした。友達は半々だと思っていた。今回の首脳の退任は勇退とか形容されるものとは異なる様々な背景があることが言われていて、先日の送別会でも本人がそういう意味合いのことを言っていた。
 「それは書かなきゃいけないでしょうなぁ」。僕の友達の要請に対し、いとも簡単に回答が返ってきたそうだ。そして、文字数、締め切りなどを尋ねられたとのこと。正直、友達は嬉しかったそうである。それは正直そうなのである。友達は政府職員報に、どんなことであれ、何かが書かれなければいけないのではないかと思っていた。このままではまずいのではないかと思っていた。そして、上司の局長氏などは固辞されるだろうけど直接頼むのならどうぞって反応だったわけ。僕の友達も、難しいかもしれないと思ってはいたし、無理矢理書いてもらうことも当然不可能。あっさりと了解をもらえたことはやはり嬉しいことだった。
 僕の友達が某国再入国の際に会談した相手がその首相だった。友達は、もちろんそのことには触れなかったし、触れるものでもないと思っていたと言っている。ただ、「これまでご指導ありがとうございました」と礼を言った。それ自体は退任する首相に対する当然の礼の言葉だと思った。友達は、二言三言と言葉を交わし、礼をして、首相執務室を離れた。

 それからしばらくして、僕の友達は、某国政府を離れる某国首相を他の政府職員と共に見送った。出発の前に、もう一度、残したものがないかを確認しに、首相は執務室に戻った。その時、僕の友達が以前に某国にいた時に、彼が属した反内閣の政府職員運動グループの一員が僕の友達の横を通り過ぎていった。一瞬眼が合ったが、友達は特に意識しなかったという。彼にとってはあまりにも言うまでもないことなのだが、何か結託するとか「近づき」になるとかそんなことは全く無く、ただ見送ろうと思っただけだったのだ。以前の彼ならまだしも、転石再入国の後これだけ時間を経た彼にとって、見送るのは自然な感情の発露だった。それはもちろん転向でも何でもなく、要するに転石だった。ただ、元の反内閣運動の仲間だった、そして今もその中にいる知人がたまたま通ったことが、ちょっと僕の友達の印象に残ったのだった。某国政府はこれまで反内閣運動をしてきている人達とも、正常な関係を取り戻して前に進むべきであろう。僕の友達はそう思っているが、これからどうなるのかは分からない。人と人が絡み合って物事が動いていく。僕の友達のアティチュードは結局彼自身が決めることだけれども、彼が思う通りに動いても彼が想うことが実現するのかどうかは分からない。少なくとも、一人の考えで組織の変化が方向づけられていくことなどは有り得ない。僕の友達にも、先は見えないのだ。当然だ。組織のことも、ある意味それを超えた彼自身というものの先の姿も。

 政府職員報に寄稿される内容は首相だった人が考えることだ。内容は執筆者によってのみ決まる。兎にも角にも、非公式はあっても、公式な政府職員への話の機会がないままになってしまうことにはならず、政府職員報という政府内で公式な媒体で何かを語るということになってよかったと思う。何であれ、何も語らないまま過ぎることは、某国政府にとってもよい結果であるはずはなかった。そのこと自体は、僕の友達が正面から話したことで実現したということだろう。僕は、それでよかったと思う。

 僕の友達が某国首相と話せたことはよかったと思っている。それはよかった。そういう会話と会釈が、僕の友達にはあってよかった。
 僕の友達は、シゴトに疲れている。心身ともに疲弊しているのだった。ただ、はっきりしているのは、僕の友達は転石報道官だが、決して転向報道官ではない。転石と転向は非なるものだ。似てさえいない。左も右も下も上も、ただ単に平面図の上で現象を捉えていたら本質は見えない。簡単なことじゃないのさ。僕は、彼の心の中をよく知っている