06年 7月 3日〜9月11日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


06年 7月 3日(月)   ふざけるんじゃねえよ。

 このタイトルは、この日の日記 にだって、あの日の日記 にだって、その日の日記 にだって、付けたヤツだよ。その後だって、何回も自分でリンクしてる。怒りって意味では似たようなもんだし、でっかい風呂敷なら包み込めそうな似たようなところにある事情だよ。ただし、厳密には、まぁいろいろ違う。だが、要するに、とにかく、ふざけるんじゃねえよ ってことだな。

 先週もひどかった。金曜はまずうんざりすることがあった。エライ方々がナンタラなーんてことじゃない。そういうことはどうしたってあるが、他に憤懣やるかたないって怒り、うんざりしてることが、それも前からずっと続いてある。我慢ならんくなってきたってわけだ。
 ま、それはともかく(笑)、金曜は24時50分くらいまで働いてた。つまり、もう土曜ですわ。駅まで走りこみ、最後の最後の、一駅先までしか辿り着けないホンマの終電に乗車。それも遅れてくれたんで、ようやく乗れたんだけどな。

 下車して、タクシーの長蛇の列へ。ひたすら並び待ちして、ようやく乗れて、しばし先へタクシーで進む。そこから更に電車一駅分の距離だけね。家までタクシーなんかで行ったらたまんねぇよ。

 だけど本当に妻には申し訳ない。そこまで、妻が真夜中に遠路はるばると、クルマで迎えに来てくれてるわけです。俺は妻が心配で、クルマ停めてるところが明るいか、周りに人通りがあるか、時間が時間だからね、携帯で電話して何度も確かめたよ。
 タクシーでそこに着き、今度は妻の迎えのクルマに乗車。そして帰路、自宅へ。帰宅は夜中の3時頃だったかな。はっきり憶えてないね、もう。

 俺は金曜昼以降、なーんにも食べてなくて、金曜夜に食べるはずだった食事とビールを、妻に出してもらった。妻には先に寝てもらって、ひとり家の食卓で飲食し、その後は文書作成だ。
 土曜日は前から予定されていた息子の中学の参観日。俺らは学校に言いたい意見がたくさんあって、保護者懇談会で口頭でモノ申し、だけど時間の制約もあるだろうし、文書を持っていって、「学校御中」で出す。それで、作りかけてた文書を完成させる必要があったわけ。こんなヘトヘトで寝てしまって、翌日起きてからじゃまず作れないからね。…で、そのまま夜明け過ぎまで、文書作成に費やしたよ。俺が寝床に着く前に、妻が起きてきたさ。

 寝て、また起きる。昼飯。妻が先に出かけ、俺はカイシャの仕事に関係する連絡を携帯で。ご苦労さんなこった。
 学校の参観は午後から。懇談会でモノ申したあと、校長室に行って、校長や教頭に文書を渡し、意見を伝え、かつ意見交換させてもらった。この件はここでは、ここまで。

 日曜は、もうヘトヘトのバタバタだ。起きて、しかし、午後、カイシャの仕事をやった。何時間かやった。やらざるを得ないのだ。まぁ、ふざけるんじゃねえよ ってことだな。

 月曜は、本当に病院にでも行きたかった。ま、いろいろあるけど、ヘルニアが一番ひどいと思うよ、いま。だけどヘルニアなんて言ってる程度(?)じゃなくて、首から、肩から、腕から、背中から、腰から、腿から、脹脛から、電気が走るようなピリピリした感じがするね。
 一昨日あたりから、久方ぶりに、首の後ろ、両肩を鉄棒が貫くような状態になってるよ。まるで、本当に鉄の棒が入ってるようだ。

 ・・・で、病院に行きたい気はしたが、かえって行けないね。
 金曜は日付変更線越えて土曜の夜中に1時間近く入り込み、電車が完全になくなるギリギリに乗り、一駅だけ進んで、そこから更に一駅分はタクシー、そこからは、遠路はるばるの迎えの妻のクルマに乗って帰路へ。帰宅は丑三つ時も過ぎ、その後に「バン」飯。そして、朝まで文書作成。
 土曜朝、妻が起きてきてから自分は寝床へ。昼起きて、カイシャ仕事の連絡してから、学校へ。参観、保護者懇談会、校長室。
 日曜も持ち帰り仕事。
 今日は、有休にするか夏期休暇1日目にするか、元々休みの予定だった。病院にでもと思ってたが、これで病院に行ったら、俺の休みはもう何にもナシだよ。ナシじゃなくて、参観で学校に行くのは俺にとって大事な機会だし、土曜夜以降の限られた時間の貴重な家族団欒は文字通り貴重なんだけどさ、もちろん。
 俺は休まねばならない。今日は休みたい。出かけるなんて無理だね。ただ休むだけだ。

 頭脳警察の ふざけるんじゃねえよ 、久しぶりにかけたぜ。パンタの雄叫びを身に沁み込ませてもらった。みんな、俺を怒らせるのはやめてほしい。たまなら、いいよ、みんな人間さ。だけど、図に乗るのはやめなってことだ。つけあがるのはやめなってことだよ。
 ブランキー・ジェット・シティの C.B.Jim も久方に聴いた。俺は相当にあぶない(笑)。「怒」だよ。

 ・・・てなことを電脳都市に書いてもなんだが、とにかく怒りのかったまり。まぁ実際、ほんまに怒る時は怒るよ。
 まだ怒りをそのまま表現したりしてないけどさ。俺はあぶないんだからさ、怒らせるのはやめてくれっつーの。
 金曜は大人しく静かに怒りを伝え、土曜は、冷静に、時にやむを得ず感情を出し、意見を伝えた。もちろん事情はいろいろです。なーんにも関係ないけど、要するに感情の主体が俺だってことだけが共通項。

 慢性的な過労がとれず、疲れはひどい。肩がピリピリ。腕もピリピリ。腰が張り、腿も脹脛もピリピリ。休日は、矢鱈と横になりたくなるが、今回ほとんどなれなかった。3時に帰宅したり、それからメシ食って、その後に文書作成したり、そのうえ持ち帰りカイシャ仕事があったり。ふざけるんじゃねえよ。

 ・・・俺は肩がピリピリ。腕もピリピリ。腿も脹脛もピリピリ。じっくり休みたい、でも休めない、せめて時には無理せず、ぼちぼちと時間を過ごしていたいもんだがな。
 俺は疲れてる。首が痛い。肩がピリピリする。腕が張る。腰が張る。腿が張る。脹脛が張る。鼻が詰まる。身体が重い。
 怒りつつ、お体を大切に しつつ。
 今日、アムネスティからレターが届いた


06年 7月 9日(日)   日曜日に月の話

 日曜日は太陽の日。太陽の日に月の話。「ロック」 に、ピンク・フロイド、『狂気』をアップした。見てちょ

 最近、週刊金曜日は土曜日に届くことが多いなぁ。今回はいつもに増して、少年犯罪の裁判に関係する記事が出てた。山口県光市の母子殺害事件で最近になってから弁護士を引き受けた安田好弘弁護士と、『自動車絶望工場』(たいへん古い本です、学生時代読みました)の鎌田慧の対談。他にも関連記事。
 僕は鎌田は基本的に普段よい仕事をしていると思うし、安田弁護士はおそらく保守化(反動化って言おうか)する日本の法曹界で貴重な存在。例えば、一般論としては言えば、こういう人が少なくなれば、冤罪が起きる可能性、検察あるいは警察の権力の必要以上の増長が加速化する。

 だけどね、もう日記で何回も書いているけどね、こういう極悪犯罪、もっと言えば、少年(犯罪当時)が起こした極悪・残忍な犯罪に関して、しかし公正な事実に基づく裁判を、感情に流されずに法の精神に則って裁判を、特に少年が犯人の場合は加害者の更生を、等々と主張する人達からは、どうしてこう、いつもいつも、体温を感じられないんだろう?
 いや、実のところ、今回の記事は一字一句拾って読んだわけでない。正直、一字一句読む気はしなくて、斜め読み、飛ばし読みをした。だけど主張は分かるよ、はっきり言って。で、「理屈」もおおよそは理解できる。理解できるってのは同意できるって意味ね。

 ただし、これは本当に常々思うんだけど、あなた達がそれを書いてる、話してる、話し合ってる、その空気からは、人間の体温が伝わらない。被害者家族や遺族の感情がマスコミによって扇情的に流され、極刑を望む世論が形成され、事実検証の積み重ねに基づく裁判が行なわれていない、という。それは事実、そういう面が強いと思う。そうした裁判の進み方、進められ方を是とはしない。

 しかし、それを主張し、多くの人に理解してもらいたいと本気で思うのなら、あなた達は、被害者家族や遺族にはどのような救いが有り得るのか、そういうことへの言及が必要だ。いや、もちろん、戦略的にそういう言及をするのなら、いずれは見抜かれて冷淡さを再認識されるのかもしれないし、要するに、僕が言いたいことは単純なことなんだ。つまり、あなた達には体温があるの? ってことだよ。加害少年の更生や感情に流されない公正な裁判を主張するのはよい、しかし加害少年が母子を(犯行の経過はどうあれ、どっちにしても)残忍にも殺害したことは明々白々な事実のようなのである、こと、この事件においては、そこは変わらない、ならば、加害少年のことを云々するにしても、被害者家族や遺族、まして無念にも殺害された被害者の悲惨を想像する「体温」のある言葉なりコミュニケーションなりが何もなければ、僕にはそれは××の囁きにしか聞こえない。

 ・・・はて、先週は、とても遅い日が何日か、木曜だったかは24時20分、つまりは結局金曜 0時20分に退勤、最寄駅二つ前の駅までの終電に乗り、そこまで午前1時10分頃に迎えに来てくれた妻の運転するクルマで帰宅。家で「バン」飯を食う時は、もう午前2時くらいだった。
 でも金曜の朝も普通に9時には「出社」してたよ、俺は。

 首から、肩から、腕から、背中から、腰から、腿から、脹脛から、電気が走る。首の後ろの両肩を貫く鉄棒。本当に入ってるようだ。
 肩がピリピリ。腕もピリピリ。腿も脹脛もピリピリ。鼻も詰まる。身体が重い。じっくり休みたい、でも休めない、せめて時には無理せず、ぼちぼちと時間を過ごしていたいもんだがな。

 お体を大切に しましょう。まだまだ生きるのだ。何十年も、生きるのだ。まだ人生、半分弱だよ(笑)。
 まだまだ、ずっと、体力が必要です。回復せねば。元気にやりましょう。


06年 7月17日(月)   学校・社会まとめ書き

 今日、「ロック」 に、ニール・ヤングの去年と今年の二作を入れた。大草原の風 と、それから、戦争と共に生きて 、後者はつい先月、うちに届いたものです。

 土曜は、2週間前の参観の日に校長先生や教頭先生に文書を出し、話し合った件の回答文書を、いただきに学校に行った。そして、しばし、話し合い。
 妻はその前は息子の野球部の大会に応援へ。出場は三年生ばかりだが、市で優勝し、次の大会の1回戦。残念ながら、敗退してしまった。・・・残念。

 日曜は、息子は友達と遊び、妻は野球部の保護者の役員会、僕は家で疲れを取るべく、ぐったりと横になって昼寝。

 今日、しばらく前に届いていたアムネスティからの支援要請レターに応え、スーダン大統領に送るカードに署名した。今日か、明日送る。この件の支援金も送るつもりだ。もちろんカードはスーダン大統領宛て、支援金はアムネスティに送ります。
 スーダンにはずっと長いこと、平和がない。ジャンジャウィドと呼ばれる民兵(私兵?)グループや、政府軍の横暴に、あるいは剥き出しの暴力に、既に100万単位の民衆が、殺され、強かんされ、家を焼かれ、拷問され、といった被害に遭っている。


 ・・・ 僕は相変わらず、肩がピリピリ。腕もピリピリ。腿も脹脛もピリピリ。鼻も詰まる。身体が重い。
 じっくり休みたい、もっと休みたい。  せめて時には無理せず、ぼちぼちと時間を過ごしていたいもんだがな。

 まぁまた、週末を「楽しみに」待とう。ぼちぼち、乗り切っていくのだ。
 明日は来る。明後日も来る。・・・そうして、休みはまた来る(笑)。
 お体を大切に


06年 7月23日(日)   会う飲む・応援す・休む

 木曜、同郷で小中高の1年後輩から、金曜に東京に出てくるとの連絡があった。金曜、何とか残業を少なめにし、上野に出て飲んだ。1年後輩だが、縁あって親しくつきあってた。十年以上会ってなかった。久方の再会。懐かしい再会だった。

 土曜は、出戻り男の僕が「出」の機会に縁あった知人との再会。2、3年ぶり。時間が経過しても連絡してくれることはありがたいことだと思う。僕は感謝してる。

 トシはトシだ。たまにしか外で飲まないのに、2日連続飲むとキツイ。しかし、ともに良い酒だった。良い酒でなきゃ飲んでもしゃーないから、たまには良い。ヨイ。

 土曜の昼間は息子の野球部の大会に応援へ。二年生主体(一年生も少数試合に出た)、2試合。ともに勝ち、そのブロックでは1位になった。息子は2試合とも途中出場。1試合目はヒットは出なかったが、ライトの守備の際、ライト前に飛んだゴロを丁寧にさばき、一塁でアウトにした。2試合目は、最終回の前回の裏の攻撃で勝ち越し、最終回表の守備という大事なときに守備で出た。
 今日は別ブロックの1位との試合。今日は僕は家で休み。妻のみ出かけた。残念ながら2対1で負けたとのこと。今日はほとんど先発ばかりで進み、息子は試合には出なかった。いまは昼飯後、練習してる。

 今日、パレスチナ子どものキャンペーン からレターが届いた。
 ガザにしろ、レバノンにしろ、イスラエルの暴力、国家テロと言えるような攻撃が激しい。ガザのハマスにしろ、レバノンのヒズボラにしろ、イスラエルへの小規模な攻撃でも、そしてそれがイスラエルへの「報復」としても、結局イスラエルの大規模な攻撃、大規模侵攻をまねきかねず、その被害はかえって市民・民衆におよぶ。パレスチナ武装勢力も、多くの宗教勢力も結局、民衆にプラスになる方策を考えられてないし、実行力もクエスチョン。被害者は常に市民・民衆だ。そして、この機に乗じたイスラエルの横暴を、国際社会の非難のなかで事実上黙認し、黙認することで「後押し」しているのが、相変わらずアメリカという国だ。

 ・・・ 僕は相変わらず、肩がピリピリ。腕もピリピリ。腿も脹脛もピリピリ。鼻も詰まる。身体が重い。
 腕がぴくぴくする時があるよ。
 なるべく無理せず、ぼちぼちと時間を過ごしていたいもんだがな。

 まぁまた、週末を「楽しみに」待とう。ぼちぼち、乗り切っていくのだ。
 明日は来る。明後日も来る。・・・そうして、休みは必ずまた来る。
 お体を大切に


06年 7月30日(日)   レバノン1982−2006

 パレスチナ子どものキャンペーン の緊急募金の呼びかけに応えようと思う。近日中に募金する。

 レバノンへのイスラエルの国家テロは止んでいない。アメリカの黙認あってのことだ。
 アメリカが言うところの「ならずもの国家」イランの影響力があると言われるヒズボラをイスラエルが壊滅するまで事実上の黙認を与え、その後に見せかけの平和へのコミットをしましょう、というのが、最大のならずもの国家、アメリカ合州国の方針だろう。

 ヒズボラが武装組織であり、イスラエルを攻撃しているのは事実だが、アメリカはイスラエルによるパレスチナ人、占領地パレスチナ、ガザやヨルダン川西岸への攻撃、暴力、横暴、無差別攻撃=テロには常に寛容だ。というより、常に黙認し、黙認することで支援している。そもそも、アメリカからの軍事的、経済的な、長期にわたる援助・支援がない限り、イスラエルのあれほどの軍備増強、軍事力行使も、本来は不可能だ。

 ヒズボラをどう非難しようが、イスラエルの暴力は相殺できるものではないし、実際にイスラエルの主張する自衛=ヒズボラへの攻撃は、ヒズボラ自体よりも、既に何百という一般市民、果ては国連スタッフにまで死者を出し、負傷し、家を失った市民は数知れないという状況だ。

 レバノンと言えば、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻を思い出す。あの時は、イスラエルが武力侵攻し、レバノン人やパレスチナ人を殺害する中、イスラエル軍の照明弾の実質的な支援のもとで、レバノンの「キリスト教右派」民兵によるパレスチナ難民大虐殺(サブラ・シャティーラ難民キャンプ)という悲惨な事態も起こった。

 撤退したはずのガザにしろ、レバノンにしろ、イスラエルが続ける暴力は国家テロそのものだ。ガザではハマス、レバノンではヒズボラを標的にするというのは建前であって、結局、イスラエルの攻撃は市民・民衆を標的にしている。ハマスやヒズボラの行為が非武装の市民・民衆のためになっているとはとても思えないが、イスラエルの国家テロやアメリカの黙認がそれで容認されるはずもない。

 1982年のレバノンから既に24年。2006年のレバノンはイスラエルに再び破壊されかねない状況だ。レバノンとレバノン人やパレスチナ人の生命は、イスラエルとアメリカによって蹂躙され続けている。
 たとえアメリカの黙認と支援のもとイスラエルによるハマスやヒズボラの壊滅が成功しても(それすら成功するとは思えないが)、かの地には第2、第3のハマス、ヒズボラが生まれるだろう。数十年にわたって「絶望的な生」を強いられるパレスチナ人の自爆テロも抑えられないだろう。暴力は暴力を誘発し、憎悪を増幅する。イスラエルの暴力は愚行以外の何者でもない。


06年 7月30日(日)   夏休みは絶対取るぜ

 僕はね、夏休みは絶対取るぜ

 どかどかドカドカ、いずこからも不意に来るシゴトの話、ふざけるんじゃねえよ。とは、よく言ってる
 僕ぁねぇ、何でもカンでもやってるわけですよ。物理的な限界というものがあります。

 だいたいやね、昨年、一昨年と、ヒューマン扱いされてないんだから、カイシャの僕は。2年の酷使で蓄積された疲労トルのは、いったい何年かかるかって、これがずっと働き詰めなんだから、むずかしい問題よ。
 今年ほんの少しだけマシになったからって、今年だってひどいもんはひどい、僕の環境は。

 僕は、絶対に、絶対に、ちゃんと、夏休みを取る

 ・・・ 僕は相変わらず、肩がピリピリ。腕もピリピリ。腿も脹脛もピリピリ。鼻も詰まる。身体が重い。
 腕がぴくぴくする時があるよ。お体を大切に

 先週も帰宅遅い日多し。午前サマ帰宅もあり。帰りが遅いんだよ、俺は。もう俺にシゴトを回すなっての。
 トム・ペティさん夏休みは絶対取るぜ

 昨日はゴロゴロ。今日は家で少しシゴト関係の勉強。それから、少しは外に出よう。
 今日はいい天気。風も気持ちいい。夏なんです。奴らがビー玉、弾いてる。夏なんです。俺も弾くぞ


06年 8月 6日(日)   家族の土曜、シゴトの日曜

 昨日、8月5日、家族3人で日ハム・西武観戦へ。今年のGWは千葉マリンのロッテ対オリックス、去年のGWが日ハム・西武だった。

 池袋からは西武池袋線利用。西武球場前で下車すれば直ぐだ。周りに緑があるし、ドーム球場と言っても、スタンドの周囲に空間をとってあって、周囲の緑の間から日の光が入ってくる。僕は球場としては、この球場が一番いいね。
 昨日の試合は夕方5時から。途中からナイトゲームになりました。

 写真はナイトゲームになってからのもの。試合は残念ながら6対1で負けました。今年期待の新人、既に9勝している八木の立ち上がりから打たれてしまって初回3失点。最終回に日ハム側からホームランが出たのは救いでしたが、6対1で負けました。
 帰路、池袋で降りて、少し飲食してから、再び電車に乗り、駅近くの駐車場にとめておいたクルマを妻が運転し、帰宅。

 今日はヒロシマの日です。61年経ちました。

 木曜も24時半近くの帰宅、金曜は早めに出て 8時半過ぎの出社。そして今日の僕は午後、シゴト場へ。行事があって、日曜出勤です。ほんま、酷使です。身体を大切にしたい。
 ガチョウは日曜出勤しても、深夜残業しても、カネには関係ありません。休日出勤手当とか超過勤務手当とかいう概念がない。いやね、事実としてそうなんだが、しかし実際のところ、カネがどうこうじゃなくて、休みたいわ。

 ほんま、休みたい。休みはまたやってくるのだから、まぁ挫けず、がんばり、休める時に休むわ。ほな。


06年 8月10日(木)   「ならずもの国家」イスラエル

 レバノンに侵攻し、また空爆を続けるイスラエルは、既にレバノン南部のパレスチナ難民キャンプをも攻撃し、死者が出ている。イスラエル軍による攻撃の死者はほとんど非武装の市民だ。子どもも多く含まれている。イスラエルがテロ組織と呼ぶヒズボラと、どこが違うのか。最低限違うのは、イスラエルによる「テロ」による被害の規模の方が圧倒的に大きい、ということだろう。
 もちろん、背景も全然違う。ヒズボラが支持を一定程度広げてしまうのは、イスラエルにとって皮肉にも、イスラエルが暴力を停止しないことによる。そして、無法者イスラエルの「国家テロ」を可能にしているのは、アメリカを中心とした国際社会であり、その最大の責任者は、もちろん、イスラエルの建国以来、イスラエルに対する最大の軍事・経済上の支援国家であるアメリカである。

 ブッシュは、よく、サダムのイラクと、イラン、北朝鮮を、「ならずもの国家」と呼び、「悪の枢軸」と呼んでいた。今は、イラン、北朝鮮、シリアを、彼は「ならずもの国家」と呼ぶのだろう。
 今や世界で普通にモノを知り、ヒューマンなセンスを持つ者にとって、最大の「ならずもの国家」はイスラエルであり、その「ならずもの」の行為を事実上後押ししているに等しいアメリカであろう。


06年 8月10日(木)   「おろかもの」小泉の「公」約

 小泉は、8月15日の靖国参拝を、「公約は生きている」「守らねばならない」と公言し出した。ちなみに、こいつがこの文脈で言ってる「公約」は、実際には日本国民に対する「公約」ではありません。
 単に、自民党という一政党の総裁選挙の際の「約束」ね。つまり、日本国民にでなく、自民党総裁選の有権者へ「約束」したことです。それも、おそらくは遺族会をバックにした有権者、自民党代議士や党員等の票を集めるための戦略に過ぎないものだったと、僕はみてる。もともとは。

 靖国は こういうところ

 さて、小泉と言えば、これほどバカ丸出しの発言が多かった首相も少ないだろう。
 「自衛隊がいるところが非紛争地域です」。
 「人生いろいろ、会社もいろいろ」(だったかな? どうでもいいけど)。

 挙げれば限がないくらいだろうが、「公約」関連では、コレが有名。政権初期だよな。5年位前だっけ。「国債発行30兆円以内」を「公約」に掲げながら達成できず、しかし恥ずかしそうな素振りなど(この人には当然ながら)全くなく、それどころか開き直り、いや力を入れて開き直る、というよりも、他人事を第三者のように「評論家」のようにコメントして釈明する(本人は本当に悪びれてないのである)のが常の小泉ソーリ、しまいには、なんと、こう言ったのだった。「公約を守れなかったことは大したことではない」。

 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」。というのが実際に言った台詞だったかな。まぁセリフがあるのか、その場限りのテキトーな言葉なのか、兎にも角にもテキトーな人なので分からない。テキトーでありつつ、妙にゴージョーでもある。こんなのが国の政治のトップにいるなんて、ほんま不幸というか、日本の恥というか。

 ・・・その小泉本人が、今度は、8月15日の靖国参拝を、「公約は生きている」「公約は守らねばならない」と平気な顔して言っている。この人には、恥というものがない。

 もう一つ、『そもそも』な話を書いておこう。小泉は靖国参拝を批判されると、しきりに、「心の問題」です、と応えてきた。
 「心の問題」というなら、それを、「公約」にして公に約束すること自体がおかしいだろう、バカ。私的も公的も区別のつかぬ、全くのバカを総理に戴いている「ボクら少国民」日本国民は、こういう結果を導く「民意」とやらを示し続ける日本人は、もっと恥を知った方がよいのではと思う。はい、ボクも日本人ですよ。


06年 8月10日(木)   シド・バレット

 シド・バレットが 7月7日に死んでいた。先月末の新聞で知って、書き留めたいと思ってた。

 シド・バレットが死んだ。というか、それまでは生きていた。ピンク・フロイドのオリジナル・メンバー。当時のリーダー格。ただしフロイドのメンバーとして活躍したのは、正真正銘、初期のみ。
 その後、精神に異常をきたした、廃人になった、それはもう、僕が中1の頃、ピンク・フロイドを聴き出した頃に、既にそういうことになっていた。いつの間にか、何となく、死んでしまったのかな、と思う時もあったが、近年、実は生きている、というのをウェブの情報で知ったりもした。
 先月、死んだというのを新聞記事で読んで、ちょっと驚いた。死んだ、ということ。同時に、やっぱり、それまで生きていた、ということ。

 ピンク・フロイドの Wish You Were Here は、シドに捧げられた曲でした。同名のアルバムに収録されていた Shine On You Crazy Diamond もシドに捧げられた曲。
 今から 30年余り前のこと。しかし、シドはそれからもずっと生き続け、そして、先月、亡くなりました。享年60歳。


06年 8月10日(木)   夏っす

 夏っす。夏なんです。田舎の白い畦道で、埃っぽい風が立ち止まる。地べたにペタンとしゃがみ込み、奴等がビー玉弾いてる。

 暑いっす。今日はカイシャの記念日系の休みです。家におります。息子は午前は部活。今は高校野球を観ています。

 僕は首痛、肩痛、腰痛、腕張り、足張り、痺れ、いろいろ続いております。今日、妻が医院に行って、メチコバールとオパルモンをもらってきてくれました。飲まないより、飲んだ方がいいと思います。しかし、医療費が嵩みます。特に悪化したのは2年余り前からです、労災もらいたいくらいです(笑)、笑えません。お身体を大切に
 今日夕方は、シゴト系の勉強を、少しやるつもりです。

 お盆は、今年は、妻の実家に行くつもりです。下旬には僕の田舎の両親が来ます。帰省もします。夏なんです。


06年 8月15日(火)   小泉「靖国参拝」、21世紀・日本の汚点

 小泉が、本日、靖国参拝。
 「公約」を守れなくても大したことではない、と言ってみたり、「公約」は守らねばならない、と言ってみたり、忙しいオッサンだ。

 靖国は こういうところ

 靖国に関する大雑把なおハナシ : 高橋哲哉『靖国問題』批判に代えて なんてのも書きました、以前のあっし。

 本日の「靖国」参拝者は史上最高(?)の25万人強とか。皆さん、ご苦労様。
 この中には、もう何が何だか分ってない、若い奴等もおるんだろう。中には、サッカーで「ニッポン、ニッポン」、バレーで「ニッポン、チャチャチャ」の人達もいたりして。

 小泉が、本日、靖国参拝。
 自己チュー、「唯我独尊」、ここに極まれり。…と言うだけで済まない、巨大なマイナス効果が今後も続くのだろう。しかし、本当は、「続くのだろう」、などと他人事めいた言い方で済まない、我が祖国・日本のハナシ、我が息子がこれから成長して大人になって入っていくオトナの日本社会。しかし、本当に日本に「大人」はいるのか。どれだけいる?
 …と、他人事めいた言い方では済まない、僕らがこれからも生きていく、この日本社会。だから、僕はどこかで何か、ずっと言い続けるし、何か、やり続ける。何かって何だ。いろいろさね。

 今日、アムネスティ・インターナショナル日本 から、イスラエル軍のレバノン攻撃への緊急アクションのレターが届いた。僕はこっちにもコミットします。 _


06年 8月15日(火)   ふざけるんじゃねえよ。

 このタイトルは、このあいだの日記 にだって、この日の日記 にだって、あの日の日記 にだって、その日の日記 にだって、付けたヤツだよ。その後だって、何回も自分でリンクしてる。

 職場のとあるところから、また、おいらが、ふざけるんじゃねえよ ってセリフをぶつけるべき対象が、うるせぇこと言ってきた。張り倒したろか。

 カイシャで働くもの、どうしても、こういうヤツと全く関わらないのは困難。
 おいらはカイシャイン。
 されど、シャカイジン、社会人なり


06年 8月17日(木)   テロルの先を迎えぬように

 8月15日朝、小泉バカ総理が靖国を参拝した

 同じ日の午後5時55分頃、山形県の、自民党・加藤紘一の実家から出火、隣接する事務所と合わせ、全焼となった。
 現場には、割腹したと思われる男が倒れていた。割腹死には至らなかったらしい。後に、この男は「右翼」団体の人間であることが分かる。

 加藤はこれまで、小泉の靖国参拝を批判する発言を繰り返していた。小泉が参拝した15日当日も、複数のテレビ番組に出て発言していたらしい。
 実家に暮らす加藤の母は、散歩に出ていて、難を逃れた。事務所では事務員1人が勤務中だったが、無事逃げることはできたとのこと。

 昭和の戦前の時代、テロルは時代の堰を切る役割を果たした現象のひとつだった。現象と言っても、人為だ。人の為せる業。

 僕らは、テロルを嫌い、テロルから逃げず、テロルの先を迎えぬようにしなければならない。
 僕らって何だ? 僕は僕らのうちの一人でいる。
 僕はそう想う


06年 8月19日(土)   夏なんです。お身体を大切に。

 青い空。蝉の声。夏なんです。

 今日は、ニール・ヤングの LIVING WIHT WAR をかけながら、クルマで床屋まで行きました。クルマで3分。歩けっつーの(笑)。
 運動不足は分かるのですが、疲れております。2年以上に亘る究極疲労の蓄積であります。頸椎椎間板ヘルニアであります。腰椎も椎間板ヘルニアであります。本当は、クルマの運転の姿勢もあまりヨイとは言えません。とほほ。

 昨夜は二郎さん神経科で二郎さんと対談、その後、ルボックスとレンドルミンをもらいました。ヘルニアのメチコバールとオパルモンは毎食後であります。副鼻腔炎の薬も飲んでいます。ヤク名忘れた。医療費が嵩みます。労災ください(笑)。
 お身体を大切に。HTMLを打つのも、ヤクを打つのと同じでありましょう。

 今日明日は、シゴト系の通信講座のレポートを片付けなければなりません。25日必着なので、今日明日やるしかないのです。それがなくて、ちょっと元気もあったなら、ほんとは明日は、パレスチナ子どものキャンペーン に行きたい。

 明日は、「届け、この思い・・・レバノンとパレスチナの子どもに平和を」と題した、『〜お話と音楽の集い〜』があります。元・アジ研の研究員、現・東京外大の大学院教授の酒井啓子氏の話、それから、アラブの音楽の催しをするようです。留学生によるアピールもあるみたいです。催しのチラシも、上記サイトにPDF版がリンクされてます。
 首都圏120万の我がサイト閲覧者の皆さん、行ける人は行ってください。

 うーむ、首痛、肩痛(鉄棒が両肩を貫いておる感じであります)、腰痛、腕張り、足張り。どかーんと休んで静養したいところですが、それは夢のまた夢であります。夢は時々見ております。夢は生きていくのに必要なのでありましょう。


06年 8月29日(火)   テロルを前に能面の小泉・安倍

 8月15日夕方、自民党・加藤紘一の実家が放火された。加藤が小泉の靖国参拝を批判する発言を繰り返してきたことへの「右翼」のテロ。

 普通、こういう時は、総理大臣と官房長官が声明なり談話なり、出すもんだ。それがどうだ、二人がそれぞれ喋ったのは、ようやく昨日、28日。つまり、約2週間なり。安倍真性ウヨク(真正右翼ではない)はともかく、以前は盟友とか言われていた小泉が、見舞いの連絡すらしなかった、というから驚きだ。いや、驚くに当たらないか。

 昨日の会見も、小泉氏、能面だったな。ま、それもいつもの通りだろうか。ついでに能面で尚ヤケッパチのメディア批判までしてたけれど。メディアなんていくら批判されても足りないくらいだが、メディアのおかげでコクミンの人気を維持する小泉がメディア批判してもねぇ。

 もう直ぐ政権から降りる小泉くん、アメリカの911やらイラク攻撃やらではアメリカべったりの上滑りな口調のまま「テロとの戦い」だぁーーーと能面ヅラで言っていたわけだが、こういう日本国内のテロ、それも靖国批判の言論を封殺しようとするテロへの反応が、あまりにのろい、ぼやーっとしてたのは何故なんですかい? どうせ夏休み明けに「談話くらいした方が…」と側近に言われて程度のもんだろう。いや、『ぶら下がり』で記者に訊かれて応えただけなんだろうか。僕はよく知らない。
 「テロとの戦い」が聞いて呆れるね。え?「今度のはテロル」だって? テロルは単に戦前よく使われたドイツ語由来の言葉なんじゃないの? 国内の右から来るテロにはほとんど無反応を決め込むのかね。

 岡崎久彦や八木秀次「新しい歴史教科書をつくる会」元だか前だか兎に角・前の会長、中西輝政キョーダイ教授等々、ソーソーたるネオコン(つまりアメリカのアレ、「みたいなもん」だよ、こいつらは真正保守とは呼べないと僕は思う)をブレーンにつけて、憲法やら教育(!)やらに妙な手を付けようとしている「次期総理は岸信介じいさんの孫のボクだよ」安倍くんにしても、会見で使った言葉にはどうせ身が入ってないよ。わるいけど、決めつけるよ、僕は。こういう輩の頭の中は十二分に想像つくし、ま、当たりだわ。

 安倍シンゾーくんのカタイ絆の人脈には、自民党の新人衆院議員でつくる『伝統と創造の会』ってやつの会長してる稲田朋美ってのがいるんだけど、このとんでもない女(です…)、8月15日 に靖国の境内で開かれた「戦没者追悼」の集会で、小泉靖国参拝を批判する者達を『忘恩の徒』と呼んだんだってさ。
 曰く、「目先の経済的利益や他国の干渉に屈して、国家の代表たる首相の靖国参拝を阻止しようという『忘恩の徒』には、道徳や教育改革を唱える資格はありません」

 いやはや、ナンとも勇ましいな、稲田朋美ちゃん。「経済的利益」のくだりは、首相の靖国参拝に批判的な経済同友会などを念頭に置いてのことだろう。しかし、経済同友会が経済を重視するのは当然だが、経済団体のエライ人が政治や社会にモノを言うと即「(目先の)経済的利益」云々カンヌンと言われるのはおかしいんとちゃうか。
 中韓などの「他国の」批判にしても、それに屈して「国家の代表たる首相の靖国参拝を阻止しようという」勢力は相当に少数派だよ。小泉が靖国参拝を何度も強行してアジア外交を台無しにしたのは事実だが(今や日本の味方は世界中探しても世界の嫌われ者アメリカだけだね)、僕や僕以外の大多数の「靖国参拝」批判派・否定派がコレを問題にするのは、これがまずは極めて日本の国内の問題として『問題』だからだよ。

 靖国参拝もしくは靖国の存在批判派に対して反批判をする靖国参拝大賛成派は、いつも議論を捻じ曲げて、「彼らは経済的利益への関心や他国からの干渉に屈した」とか言う。全く、お笑い種なんだが、こいつら(の中に)は、どうも本当にそう思って反批判してる節もあって、一笑に付せない。
 こいつらが「道徳や教育改革を唱える」のは阻止したいね、当然。

 とにかく、テロもテロルも同じなんだって。要するに、テロなの。暴力で他人の自由、言論や表現の自由を封じ込めようとする行為なんだ。封じ込める、というか封殺するというか、ひどい時は本当に殺してしまうわけだ。
 小泉が地均しし、そこを更に舗装して行進していこうとする安倍シンゾー、その他、稲田朋美ちゃん始め、ワカテのバカ議員さん達。彼らが目指す社会は間違いなく、思想や表現、言論上の批判を「脅し」(テロル)で封じ込める社会だね。今だって既に、学校で君が代に逆らえば、教師は「教習所」行きの社会だ、つまり、彼らの目指す社会は既に出来つつある。

 僕は絶対にやだね。私も嫌だな。オレもごめんだな。僕らはずっと逆らうよ。 _


06年 8月29日(火)   EC、ロックウッド、ディラン

 11月から12月にかけて、クラプトンが3年振りの来日をします。ドイル・ブラムホールUが一緒に来るのが楽しみ。トリプル・ギターで、もう一人のデレク(って名がまたいいねぇ…)って若手はスライドの名手らしく、やはりライヴではデレク&ドミノス時代の曲を是非ともやっていただきたい。チケット、取りましたよ、先行予約初日に、家族3人分。先週の話です。

 はて、話変わってロバート・Jr・ロックウッドさん。高校生の頃、第1回ブルース・フェスティバルのライヴ録音(1974年)をLPにした『ブルース・ライヴ』ってレコードが家にありました。超絶素晴らしいブルースの名演。エイシズとの共演です。
 それが今年CD化されたって、最近兄貴に教えてもらって、それから帰省した田舎に兄貴が持って来てくれてて、久方、聴いてみました。いや、やはりヨイ。素晴らしい。チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、G!、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、トゥルタラタンタラトゥルタラタラタラ(Stormy Monday)。

 で、今の住処に戻ってきたら、アマゾンからディランの新作「モダン・タイムス」の予約どうでっか、とのメールが入ってた。

 僕はさっそく、ロックウッドの32年前の音源のCD再発と、ディランの今年の新作を、アマゾンに注文したのでした。
 これは実は9月の僕の誕生祝であります。8月のうちにもらっときます。


06年 8月29日(火)   夏休みっす

 土日入れても7日間、土日抜いたら5日連続取るだけやがな。もう1日、9月にでも取ろか。

 8月24日、田舎から両親が来ました。兄貴の3人息子のうちの2人を連れてきまして、我が家は一挙に7人となったのであります。品川で迎え、お台場のフジテレビ番組系のイベント会場へ。うちの息子にも、従兄弟との再会は非常に楽しみなのであります。
 それから僕らの住処に来て、夕食は僕の妻の手料理であります。美味であります。翌日は妻が子供3人を連れて大仏見物、僕は両親を連れて買い物案内。そして、夕方に田舎に着くように帰省しました。サッカーが忙しい甥っ子2人は新幹線で一駅先まで行って家に帰るので今回は手前で「また今度な」。

 25日の夜は、小中学校時代の同級生と飲みました。僕以外に、男が6人、女が4人。やっぱり、田舎に帰って同級生と飲むのはいいものです。
 僕らは小学校も中学校も同じ。4クラスで160人弱。幼稚園から一緒だったのだって多い。そんじょそこらの半端な同級生とは違うのだ。僕が田舎に帰った日は切っ掛けだけど、それはもちろん単なる切っ掛け。集まったのは幹事の人徳だなぁ。桑田(本人には言ったことないかもしれないが、彼はサザンの桑田の顔に似てるのだ)、ありがとう。それと、女の方も、すごい久しぶりに会った人が幹事をしてくれてた。中学の時、卒業記念でコンサートやろうとしてて、結局ソレは学校側が許容してくれなくてやれなかったけど、『明日に架ける橋』を僕がギター弾いて、彼女が歌ってました。いやはや、ほんとに懐かしい。
 幼稚園の時も遊んだことがあるから、足掛けカレコレ40年になる友人が、田舎の懐かしい橋の写真を持って来てくれた。懐かしいと言っても今も在る、でもそのうち取り壊しになるかもしれない、しかし写真自体はソレが建設された当時、昭和13年、1938年の写真。最後は酩酊して店に置き忘れてしまい、翌日受け取りに行った、その店、その寿司屋の主人は、僕が小1の時に小6で、にもかかわらず、よく遊んでくれた人だった。ちなみに、坂本九に似た顔です。

 小中学校の同級に会うのは本当に楽しい。僕は高校を出て大学に行った時からずっと、生活の拠点としては田舎から離れてしまって、つまりそれはもう27年になる。若い頃は年3回くらい帰る時もあったが、今はもう年2回のペースだ。同級生と会うのは本当にたまのこと。だけど、彼らはいつも、今回のように、久しく会ってないことを感じさせず、すーっとそのまま受け容れてくれる。僕は本当にありがたいと思ってる。僕は、たまってた疲れと、久方ぶりに大勢の同級生に会えた喜びとで、途中から酔いがだいぶ回りました。最後は酩酊だったな。いいトシして酩酊とは。ちと恥ずかしいが、まぁ勘弁してほしい。

 26日の夜は、田舎に単独帰省してくれた兄貴をまじえ、家で飲んだ。家族が揃うのはよいものです。こうして揃える家族であることを僕は幸せなことだと思う。
 そして、翌日は兄弟で、僕の妻子も一緒に行って、僕のじいさんばあさんの墓参り。お盆の時期は過ぎましたが、手を合わせてきました。
 田舎は、故郷は、やっぱいいもんです。気持ちが休まる。「心の故郷」という言い方があるけど、僕にとって田舎は「故郷」であり「心の故郷」であり。


 そうだ、1枚写真をアップしとこう。田舎から今の住処に戻る途中、我が一家3人が応援する日本ハム、その日ハムで今年、人気も実力も急上昇中、日ハム・ファンだけでなく、おそらくは在日のヒーローにもなりつつある、森本稀哲(もりもと ひちょり)選手の実家に行ってきました。実家が焼肉屋さんでね、息子が場所を調べておいたわけです。いやぁ、味ももちろん良かったし、壁には ひちょり の写真や日ハム選手の写真、ポスターとか貼ってあって、面白かった。店はすごくこじんまりとしてて、小さな焼肉屋さんって感じ。親父さんは ひちょり の顔そのまんまでした(笑)。細くて縦長な2階建て、1階で喫茶をやって、2階で焼肉屋さんをしてる。写真の店、左側のガラスドアのところは赤い字で『焼肉』って書いてあって、そのドアの先が2階に上がる階段です。
 帰りしな、スポーツ・バッグを持って坊主頭の息子を見て、親父さんが話し掛けてくれました。「野球やってるの?」
「はい。日本ハムのファンなんです。ひちょりさんも応援してます」と妻。「そう。ありがとねぇ」と親父さん。
 「何年生?」、「中2です」、「中2なら身体もそのくらいあればいいね」「がんばってね。甲子園行ってね、できれば」。

 「できれば」という条件付きは面白かったな(笑)。でも、そりゃそうですよ。
 ひちょり選手は帝京出身で、甲子園にも行ってます。
 また行ってみたい、ぜんぜん気取りのないイイ焼肉屋さんでした。最近は、ファミレスみたいな焼肉屋にしか行ってなかったけど、やっぱ、こういうところがいいよな。あ、そうだ、去年の3月 に行った川崎コリア・タウンの焼肉屋さんも美味かったね。

 今日は、従兄弟のバンドのCDを聴きました。大阪で活動してるらしいけど、たまたま兄貴が田舎の方で会って、うちの親父やお袋も演奏を聴いて、CDを買っといてくれた。笛とギターとアコーディオン。従兄弟は色んな種類の笛を吹きます。この音楽、なんかフランス風あり、スイス風(?)あり、それもぜーぜんカッコつけてるんでなくて、何というか、うーん、聴いたらよく分かる、いい味出してる音楽。相当いいスパイスの入った料理です。いや、素晴らしい。
 この従兄弟の兄貴はクラシックをやってて、僕の方とそっちとでは、こっちが共に1歳上、ほとんど同年代の兄弟同士。その4人のうち、僕以外はみんな音楽でご飯食べてます。僕だけがリーマンになっちまった。

 はて、夏休みの後半、腰痛がひどくなりました。特に無理はしてないけれど、やはり累積、蓄積された疲労は腰を痛めておるのです。しっかし、かなり痛いなぁ。鼻もよくないし、ほんま、お身体を大切に、だなぁ。
 実際のところ、もうちょっとは休みたい。これじゃ身体の休みにはならんよ。まぁ挫けず、がんばり、休める時に休む。ってか。 _


06年 8月30日(水)   テロルを見ても「思わぬ」世論

 昨日のこの件のメモ の続きです。

 8月15日夕方に起きた、自民党・加藤紘一の実家への放火事件。これはテロ以外の何物でもないのに、小泉・安倍の反応が超絶鈍いのは昨日書いた通り。今日の新聞で確かめたら、小泉の反応も、要するに「記者に訊かれたから」であって、「私は訊かれたら応える。訊かれなければコメントしなかった」との意の、実に寝惚けた発言をしていることが分った。とにかく小泉は、「元・盟友」への個人的な見舞いの連絡すらしていない。ま、そんな私的な関係よりも、ここは公人、総理大臣として、国民に向かって何を表明するのか、というのが大事だね。で、何も言わなかったに等しい。官房長官も然り。

 しかし、鈍いのはソーリやカンボーチョーカンだけではない。他の与党政治家も同様。衆院議長の河野洋平が(この人、たしか加藤と同じ旧宮沢派出身だが従来は「政局」的には加藤と決して仲のよい関係ではない)、加藤に見舞いの電話をした、というのが目立ってしまうくらい。その他、何人かがぶつぶつと、つまり、「言論を暴力で封じるのはよくない」などと至極当然の一言二言を述べた程度。言ってはいても、内容的にはおざなりなコメントである。
 しかして、他の大多数、文字通りの大多数、ほとんど全ての議員先生は沈黙している。つまり、「おざなり」どころか「なおざり」ですね。沈黙です。

 じゃぁ野党はどうかと言うと、こっちも「なおざり」とまでは言わないが、まぁコトの重大性を認識しているとは思えない、静かな反応。認識自体はしてるなら、早くもテロルが効いたとしか思えぬ静けさ。
 民主党代表の小沢一郎の発言がメディアの上では多少出てきていた程度か。彼は「与党はあまりに鈍感」と言っているけれど、それは確かにそう。社民党や共産党はどう考えても何かコメント出してるはずだが、あんまりメディアに取り上げられない。しかし、やっぱり、野党の反応も鈍いと言えば鈍いのではないかと思う。いや、間違いなく、鈍い。

 で、いわゆる「世論」ってやつは?
 「世論」が国民の論の集合体みたいなものであるのは多くの人が感じてるように幻想であって、「世論」ってやつがメディアに作り上げられるもので国民は右往左往 ・・・ ということがしばしばあるのはさて措き(この際「さて措く」よ)、だからね、ここで言う「世論」とは、新聞とかテレビのニュースとかの扱いに映し出される(ように見える)「世論」のことね。
 で、「世論」は、思い切り、鈍いです。実に鈍い。とりあえず新聞やテレビ、これ、あまりに小さいです。鈍い、というより、寡黙。新聞はちょろちょろと記事にしている程度。テレビはおざなりな反応。

 結局、日本の社会がテロルに対して「見ざる」を決め込んでいるってことでしょう。実際は見てるわけです、テレビで加藤の実家が激しく炎を上げて燃えている映像だって見てる。あの映像をテレビで見た人は数百万単位でいるんじゃないか?

 だけど、見ても、思わない、わけです。既に、こういうことに関しては、みんな無意識に思考を停止させるという反応を採る社会になってしまってるんじゃないかと思う。

 浅沼稲次郎・暗殺事件
 むかしむかし、日本国に日本社会党って政党があったとさ。それで、委員長の浅沼稲次郎が日比谷公会堂で演説中に、17歳の右翼少年に銃剣で刺され、暗殺されてしまいました。時は1960年10月12日午後3時ごろ。当時は大騒ぎだったと思います。死者が出たのと、不幸中の幸にも死者は出ず家屋と事務所の全焼、という違いはあっても、「世論」は当時と大違い、と言ってよいでしょう。共に政治テロなのです。

 本島等・暗殺未遂事件
 1990年1月18日午後3時ごろ、本島等長崎市長(当時)が、市役所前で公用車に乗り込もうとした際、右翼団体所属の男に銃撃されました。一時は生命も危ういと思われるほどの重傷でした。
 彼は、1988年12月7日の市議会答弁で、質問を受けて、こう述べていました(昭和天皇Xデーが近づく時期でした)。「戦後43年たって、あの戦争が何であったかという反省は十分できたというふうに思います。外国のいろいろな記述を見ましても、日本の歴史をずっと、歴史家の記述を見ましても、私が実際に軍隊生活を行い、とくに、軍隊の教育に関係をいたしておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任はあると私は思います。しかし、日本人の大多数と連合国側の意志によって、それが免れて、新しい憲法の象徴になった。そこで、私どももその線に従ってやっていかなければならないと、そういうふうに私は解釈をいたしているところであります」(出典:岩波ブックレット『長崎市長のことば』、ネットからの孫引き)。

 彼は、同じ日の記者会見でも、天皇が重臣らの「上奏」に応じてもっと早く決断していれば、沖縄戦や広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述からみても明らか、と重ねて発言、天皇に戦争責任ありとする(当然の)発言を撤回しなかった。彼の言動に、「世論」からは賛否両論、また、全国の右翼団体が抗議活動を行ない、長崎市に街宣車が集結したりするなど盛んな「脅迫」行動を行なったが、本人は一切、発言の撤回をしなかった。その末の銃撃だった。

 この件で印象に残ることは2つ。銃撃後、多くの知識人や一般国民が、「言論を暴力で封じる」ことを問題とし、現在の加藤紘一実家放火事件の際とは雲泥の差で「世論」も盛り上がった。まぁことの重大さと比べれば、実際のところ、それも、ちょっとした盛り上がりに過ぎなかったとも言えるが、しかし、本島等本人には、全国から何千通という励ましの便りが届いたという。

 もう一つ。この、「昭和天皇にも戦争責任はある」旨の発言。これを暴力で封じるためのテロルだったことは明らかだが、知識人のほとんどは、「言論を暴力で封じてはいけない」という、至極当たり前のことをあらためて言ったに過ぎず、本当は「昭和天皇にも戦争責任はある」と考える人間は少なくなかったはずなのに、「言論を暴力で封じてはいけないし、そもそも、私は本島市長の発言にも同意する」「私も、天皇に戦争責任があると思う」といった発言をする知識人は数えるほどしかいなかった。要するに、小田実とか、とっくの昔に覚悟を決めてるタイプの知識人・文化人の何人かがその種の発言をした程度ではなかったか。

 言論は封殺されるか、言論は封殺されないか
 後者について書こう。
 全国の右翼が街宣車等を使った暴力的な抗議活動で本島市長の発言を封じようとしていた時期に、「私も、天皇に戦争責任があると思う」と発言する著名な知識人が出れば(ウソを言う必要はない、そう考える知識人はいくらでもいるのだ)、言論への心強い応援になったはずだろう。また、実際に銃撃されてからも、「言論の自由」を言う人間は少なくなくとも、「天皇に戦争責任がある」旨の発言をする人間は、ほとんどいなかった。実際には、本島市長と同様の意見を持つ人間は少なくなかったはず、にもかかわらず。つまり、街宣車の抗議、暴力的、威圧的な抗議、脅しは言論封殺の効果を示していたし、まして、銃撃後は「黙らせる」だけの効果を示していた。本島等本人はその後も同じ発言を続けていたが、「言論」人で「(昭和)天皇に戦争責任がある」という発言をする人間は非常に少ない。本当は同様に思っているくせに、「戦争責任」が議論の俎上に乗っても、「天皇の戦争責任」には触れない。暴力は言論を封殺するのだ。・・・しかし、本島等本人の言論は変わらなかった。

 今回も、加藤紘一は、これからも言論は曲げない、と言っている。小泉も、安倍も、他の与党政治家も、野党も、知識人の「先生」方も、「世論」も、みんな、静かだ。おとなしく、見たものを「思わない」でいるようだ。

 デカルトさんは、我思う、ゆえに我あり、と言ったそうだ。僕も「思う」よ。「思わない」なら、見たことにならない。僕はいろいろ思い、想い、考えるのであります


06年 8月30日(水)   昼は蝉の声、夜は虫の声

 昼は蝉の声が聞こえても、夜は虫の声が聞こえてくるのであります。まだ昼間は夏を感じ「たり」はするものの、夜になれば、「秋近し」を感じます。季節は移ろいますなぁ。

 と言っても、しばらくは、まだ暑い日があったりするんでありましょう。・・・しかし、日に日に秋は近づいてくるのであります。

 どうも、ここのところ、頭痛が続いております。いや、「悩み」の比喩ということでなく、ほんまに頭が痛い、ヘッドエイクってやつです。ノーイッケツなんかになりはせんけどなぁ。
 その他、相変わらず、ですが、特に腕が張りまして、左腕は筋肉がピクピクしたりします。困ったもんです。
 首痛、肩痛、腰痛、腕張り、足張り、痺れ、いろいろ抱えておるのです。医療費も嵩みます。悪化したのは2年余り前からです、労災くれませんか(笑)、笑えません。お身体を大切に

 ぼちぼち休みつつ、ずっと、乗り切っていく次第です。


06年 9月 3日(日)   昨日、北海道日本ハムファイターズの勝利を観た

 昨日、9月2日、家族3人で日ハム・西武観戦へ。今年はGWは千葉マリンのロッテ対オリックス、8月5日は西武球場で日ハム・西武戦、そして昨日が同じく西武球場で日ハム・西武戦観戦。年に3回は初めてだな。

 金曜に22時過ぎぐらいに帰宅。
 息子  「おとんは腰が痛い?」
 わし  「ああ、痛いよ。首だって痛い。…なんで?」
 息子  「明日の部活は半日だって分かった」
 わし  「・・・ん?」
 息子  「明日、西武球場で日ハムの試合がある。」
 わし  「ああ、そうだったな」
 息子  「おかんが、おとんが腰痛いし、あまり出掛けるのは大変と言った」

 今後の息子自身の部活予定から言っても、いや、そもそも、我々が応援する日ハムはホームが札幌、我々が日ハムの試合観戦できるのは、交流戦の時期を除くと、西武球場、千葉マリンだけ、しかも土日にそこで日ハム戦がないと行けない。それに、このままプレーオフに残るとして、しかしその頃は息子の部活予定からして、行けそうもない。さらに日本シリーズまで進んでも、今年のセは間違いなく中日になりそうで、札幌と名古屋では両方とも行けない。
 9月3日(日)は部活で練習試合2試合、というわけで、どうやら、今年の日ハム戦、しかも新庄が「今シーズンで引退する」と言っている日ハムの試合を球場で観れるのは、この土曜が貴重な機会になるようなのであった。・・・分かった、行くよ。

 前にも書いたが、球場としては、僕はここが一番いい。本来オープン・フィールドの球場が好きだが、ここはドーム型とは言え、屋根とスタンド席との間に空間を作り、外が見える、外気が入る、デーゲームなら日光が入る、ナイトゲームなら夜空につながる、しかも周囲に緑があって、その緑がスタンドからよく見える、そんな西武球場の雰囲気は非常に良い。

 写真右は、ハンチング姿に日ハムのユニホームを着て応援・観戦する息子の後ろから撮影、左は勝利後の日ハム応援団とファンの大合唱(曲によっては「振り」もあります)。

 森本稀哲(もりもと ひちょり)の適時打で先制、2点目は小笠原のホームラン、3・4点目は稲葉のツーラン・ホームラン、5点目がセギノールのホームラン。
 先発ダルビッシュは5回、6回と1人目にフォアボール、疲れを感じさせましたが、結局6回に崩れ、交代。あとは日ハムは細かい継投策。8回終わったところで5対3だったので、9回裏は「火消し」のマイケル中村の登場、しかし毎度ヒヤヒヤな感じのマイケル、2点差ではちと不安と思いつつブルペンで投げてるマイケルを双眼鏡で見たりしていたが、しかし9回表は中嶋の満塁三者一掃の3点二塁打で8対3となり、結局9回裏は岡島〜建山のリレーで逃げ切り、5点差を守って敵地での勝利。

 今年の試合観戦で、応援側初勝利! 打つべき人が打ち、投手も継投策が成功、目出度し目出度し!
 当然、試合後の応援団とファンの集いは相当に元気あふるるものになったのでした。ちなみに、旗を腰で支え大振りしている中には、30代と見える女性もいる。凄いパワー!

 優勝とプレーオフの争いがソフバ、西武、日ハムの3チームで大接戦となっているパリーグ、昨日は日ハム・ファンも非常に多く、我々が球場に着いた時は、既に外野席は満席状態、「立ち見」となります、とのことで入った。それでも我らはレフト側スタンド芝生席の後ろ、若干のベンチ席の手前に座り込み、息子は日ハムの攻撃時は日ハム応援団の近くに他のファンと共に集まって熱烈応援。最後の方は、遅くなって帰路に向かった客も出て、我々も芝生席に入れました(息子の頭が見える写真はその時のもの)。

 ・・・ はて、今日は僕はぐったり休み、HTMLも打ち、仕事系の勉強も少し。息子は部活の練習試合2試合。妻は部活の保護者手伝いや試合応援。
 皆さん、お身体を大切に。僕は今日も、オパルモン、メチコバール、ルボックスやレンドルミンを飲むのであります。腰痛、首痛、肩痛、腕張り、手痺れ、腿張り、脹脛張り、いろいろと付き合うのであります。外はまだ残暑、しかし9月、僕や息子の誕生日も近いのであります。
 僕は、ぼちぼち、できるだけ休める時は休みつつ、乗り切っていくのであります。


06年 9月 9日(土)   さる高貴なご一家に男児誕生だと

 昨日のテレビ、テレ朝、TBS、フジと、安倍と麻生と谷垣がハシゴしていた。というか、各局が都合つけて調整して呼んでる。まぁNHKにも出てたんだろうし、とにかく日本の地上波、国民全般の選挙権とは関係ない自民党総裁選の盛り上げに、一致団結して協力だ。そもそもは安倍に確実と言いつつ盛り上がらん総裁選、それの盛り上げになんで協力するかね。バカらしい。
 もちろん、僕はこんなん観てたんでなく、時間を置いてチャンネルくるくるしてるうちに気づいたんだけどね。

 あ、さて、今週水曜に、秋篠宮ってとこ、つまり現天皇の次男坊のうちに、第三子が生まれた。「待望の」(?)男児だってさ。誰であれ生命の誕生は目出度いことだが、この日の列島のバカ騒ぎには心底あきれた。

 百貨店の「慶祝」垂れ幕くらいはどうってことない。彼らは商売だ。まぁ準備してあったわけだ、ビジネスの。西武が優勝すると西武デパートがセールをするようなもんだ。

 各地の商店街で何やら催し。この辺になると既に首を傾げる。彼らは商売、とは言い切れない。熊本だったか、老人から子供まで、「日の丸」の小旗を持って「お祝い」行進をするのが放映されてた。
 他の商店街でも、男児が生まれたからか、でっかい鯉のぼりを出してたよ。何があなた達にそんなに嬉しい?

 どこやらの商店街、夜に250人だったかな、老若男女が「奉祝」と書いたちょうちんで「ちょうちん行列」してました。これは些か不気味だったな。
 あの「ちょうちん行列」です。戦前の南京陥落なんかの時にも行なわれた、「深刻」(神国って書くの?)日本の由緒正しき(?)慣わしです。

 皇居の前では、60代と見えるおばあさんが孫を連れ、「秋篠宮様」とか書いた手製のお飾りちょうちんで、2人で「ちょうちん行列」してたね。

 皇居の前って言えば、昼間には、あれはたぶん、二重橋に向かっての群衆の熱狂かね。これもテレビのニュース番組で見たが、大勢集まって、万歳三唱繰り返してました。

 極めつけはこれだろうか。兵庫県に「コウノトリの郷公園」ってのがあるようだが、そこの園長さんみたいな人が、インタビューを受けて曰く、「そういえば今朝、たくさんのコウノトリが飛び立ちました。何事かと思いました。…そうですか、お生まれになりましたか」。・・・おいおい(笑)。冗談じゃないよ、ほんとにこの発言、テレビで流れてたんだよ。

 日本人の心性は戦前とさして変わらない。もしかしたら、将軍様を戴く、あの「拉致国家」で強制された国民の心性とだって、そう遠くないかもしれない。

 「そういえば」って言えば、そういえば、当日の新聞(だから夕刊かな)は、一面だけでなく、テレビ欄の裏の社会面の見開き二面も、このネタで大騒ぎしてたが、見開き左側の面の下の方に、「雅子様もお元気に」とかいう、やや小さめの記事が出てた。やや小さめとは言え、見出しは目立つ。・・・見間違えじゃない、記事もチラッと読んだが、「紀子」でなく「雅子」の方だよ。なんとまぁ下劣な、ワザとらしい大本営記事よ!


06年 9月 9日(土)   イスラエルの蛮行

 イスラエルと南レバノンのヒズボラの間の停戦。しばらく前だが、国連のアナン事務総長のコメントが新聞に出てた。停戦成立(したはずの)後の攻撃は、圧倒的にイスラエル側からの方が多いらしい。

 昨日の夕刊に出てました。イスラエルは、レバノンに大量のクラスター爆弾を投下した。こいつは地上で何十、何百もの小爆弾に分裂し、多くの人間を殺傷する。国連機関によると、投下地点は約360箇所、そして、約10万個の小爆弾が、散乱したまま残っているそうだ。それで、こいつに触れたレバノンの子供(子供だけではないだろう)が、停戦後にたくさん死傷している。

 国連の人道問題担当の事務次長、ヤン・エグランドという人のコメントが出てた。
 「爆弾の90%は停戦発効前の72時間に投下された。毎日、人々は手足を奪われ、殺されている」。要するに、停戦発効の前に、ドカドカと落としていったわけだ、イスラエルはこのクラスター爆弾を。それで、人は停戦前に死傷し、停戦の後にも死傷している。その記事にも、自宅の庭で遊んでいて、こいつが爆発し、右手の指4本が吹き飛んでしまったという、13歳の少年の例が紹介されていた。

 イスラエル、イスラエル、イスラエル、イスラエル、そしてアメリカ・・・。


06年 9月11日(月)   47年目。

 今日で 46歳。昨日が過ぎて、46年間が過ぎた。今日は、47年目に入って最初の日ってこと。僕は 46歳。

 先月、仕事が詰まってて(まぁいつも詰まってるんだけどね)、夏休みを1日残してしまってた。それで、今日は夏休みの最終日1日。・・・これからも必要な時は有休取らせてもらうで!

 息子が土曜に中学の体育大会だったが、僕は家で休み、ちとシゴト系の勉強をし、妻が観に行ってた。息子は、今日はその代休だ。

 そのうえ今日は、僕の誕生日。個人情報保護法のある日本国だが、本人が書くんだから間違いない、僕は1960年9月11日に生まれた。昭和35年9月11日だ。僕は昭和までなら言えるよ。モノゴコロついた頃は昭和使ってたんだから。だけど、当時あった、たしか『ぼくらマガジン』っていう、『少年マガジン』と『ぼくら』って両漫画誌が合体したような雑誌の背中(?)に「1968年」って書いてあって、ああ、昭和と違う言い方の方はそう言うんだって思った憶えがある、だからその時は昭和43年か。今は年号なんか、シゴトでシカタナイ時ぐらいしか使わないけどねぇ。

 僕の誕生日は 9月11日。そういうわけで、5年前のそれは、コレモンだった。ちょうどその年は僕にとっても所謂ヤクドシってやつ?(数えだからね)、それから、偶然だろうが、僕の人生は妙な転回を見せ、思い切り、まぁ要するに苦しんだ。家族や知人友人にも心配をかけた。

 いまはまぁまぁ、その間のソットーしそうだった時期よりは、精神的にはマシだろう。身体の方はもっとタイヘンになっちまってるけど。首痛、腰痛、肩痛、腕張り、腿張り、脹脛張り、手痺れ、足痺れ、副鼻腔炎・・・オパルモン、メチコバール。でもルボックスもレンドルミンも欠かせないから、やっぱ身心かね。
 そういうわけで、お身体を大切に ってわけだね、ポール・サイモンさん。

 今はボブ・ディランの新作『モダン・タイムス』を聴いてる。ディランさんの昔の曲にもリンクしておこう、僕は解放されるのさ
 いつか僕は解放される。そのうち、どのうち、シャルビーでんがな