06年 1月 5日〜 3月30日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


06年 1月 5日(木)   粘投

 2006年になった。5日目だ。まぁ年が代わると言っても、実は繋がってる。先週は去年だもんね。

 昨日は 1月2日放送のドラマ『きみの知らないところで世界は動く』を観た。録画してあったもの。実家で30分ぐらい観てあったから、その残り、45分ぐらいかな。主題歌は Heart of Gold 、ニール・ヤング。それだけで観る気になるよ、僕の場合。
 ドラマで使われたサテンでは、同じアルバム HARVEST の他の収録曲が流れてた。

 A little love and affection
 In everything you do
 Will make the world a better place


 これは同じくニール・ヤング、GREENDALE の最初の曲、 falling from above からね。

 お体を大切に。
 これはポール・サイモン。このアルバム のなかで歌ってる。
 身体を大切に。心身を大切に。
 本当にヘトヘトなんだよ。どうしてくれるってんだ。

 ふざけるんじゃねえよ。・・・年始から荒っぽいか。だって別に年を入れ替えたわけではなし。繋がってっからさっ。

 モンティ・パイソンは、こう言ってるそうだ。
 Always Look on the Bright Side of Life !

 僕は粘り続け書き続け生き続けるのです。でも疲れた。
 ま、それでも僕は粘り、書き、生き、続けるのです。
 A little love and affection
 In everything we do
 Will make the world a better place


 今日は息子が部活の練習始め。 8.6Km 走って、途中でダッシュもあって、けっこうきつかったらしい。でも元気だよ。今日も息子は明るく、元気さ。妻も朗らかで、元気さ。
 僕は身体がカチカチ。足も腰も、腕も肩も首も固まってる。たいへんさ。だけど、 黄金の心を探して、ずっと元気出して生きてくわけね。要するに、息子も、妻も、僕も、ずっと、生き、続ける。 Carry on っつーわけだ。_


06年 1月 5日(木)   両親の金婚、 05-06 年末年始

 年末年始の記録。
 12月30日(金):
 頚椎・腰椎ツイカンバン爆弾を抱えておいらはホドホドにしつつ、長野は湯田中でスキー。息子が年々上手になる。ただ、前夜から息子の体調はやや不調だったので、宿の夕食、けっこう良かったのに息子はほとんど食べれず残念。

 12月31日(土):
 長野からは ワイドビューしなの で名古屋、名古屋から東に戻り、そして我が故郷へ。両親、兄貴夫婦、その息子ら3人、僕と僕の妻と僕らの息子で3人、全部で合計 10人で年越しを共にする。家族で集まる年越しは楽し。

 2006年1月1日(日):
 元旦を 10人で。祝い酒を飲む。美味。

 2006年1月2日(月):
 兄貴ら5人を見送る。我が故郷の家は親父お袋、僕ら3人の計5人に。

 2006年1月3日(火)− 4日(水):
 2006年1月3日は、親父お袋の金婚式の日。結婚 50年だ。グレートです。
 贈り物の湯河原の温泉旅館豪華1泊の旅! 僕らも同伴し、5人で泊った。湯河原に着き、駅から歩いて城願寺、樹齢八百年のびゃくしんの木を観る。次はバスで移動し、足湯『独歩の湯』へ。ここも楽し。それから宿へ。
 宿は期待通り、いや期待以上かな。よい雰囲気、よい部屋、美味くて豪華な料理。部屋には縁側の外に庭があり、その縁側にはジャグジーの風呂付。景色も良し。なかには檜の内風呂。大浴場もいろいろ種類あり。廊下もよく、フロントもよく、女将も品があり、ああそうだ、みんな品があった。よい宿でした。

 翌日は、電車好きの息子の希望で「西村京太郎記念館」へ。その後は首大仏を見物。5人皆、賽銭。それから熱海へ。熱海で昼ご飯を食べ、その後、お袋が息子に(つまり孫さね)、和菓子を買ってくれた。
 それから、熱海をもう少しぶらりしたい親父お袋と別れ、駅で見送られ、僕ら3人は、息子の希望のスーパービュー踊り子で東京へ。しっかり取った先頭車両の一番前の席だ。

 親父お袋は 1956年、「いわゆる」昭和31年、その 1月3日に結婚した。田舎の魚屋の2階で。そして、翌日の新婚旅行は伊豆長岡。親父が沼津の海軍工廠時代に覚えた土地勘で、当日行って、当日宿を探したそうだ。それから、50年。とにかく、親父お袋は苦労した。そして、息子2人を育てた。
 親父お袋への感謝は、言葉なんかでは言い表せない。他の何でも表わせない。もちろん、温泉旅館の贈り物で満たせるものでもない。でも、二人とも、とても喜んでくれた。僕は良かったと思う。良かった。
 昭和一桁生まれ、ずっと苦労してきた親父お袋には、ずっと元気で長生きしてほしい。穏やかで平和な日々を長く永く過ごしてほしい。金婚式の金は黄金。これからも、穏やかに、輝き続けるのさ


06年 1月 7日(土)   親バカ日記

 先日、息子に届いた年賀状に、とても嬉しい内容のものがあった。…っつーわけで、まずは「親バカ日記」から書く。

 息子の中学の部活の担当教員からのもの。監督をしている教員の他に、もう一人担当の教員がいて、両者とも年賀状をくれ、ともに嬉しいものだが、特に後者からの年賀状に書いてあったことが、『とても嬉しい』ものだった。

 息子の年賀状への返事だが、そこには、こう書いてあった。

 『努力することの大切さをみんなに教えられる存在の君が、今年さらに活躍してくれることを期待します。』

 担当の教師から、『努力することの大切さをみんなに教えられる存在』 と思われる、というのは、部活動での息子の姿が分かる一言だ。

 日頃の息子の部活動での様子を見ての言葉に違いない。なにか、ひょうひょうとしていて、それでいて黙々と頑張っている息子の様子が思い浮かぶ。
 息子自身はいつも通りにひょうひょうとしている感じで(笑)、この年賀状には、かえって親の方が感激したくらいだ。

 これからも、そんな姿勢を大事に、育っていくに違いない


06年 1月 7日(土)   靖国に関する大雑把なおハナシ : 高橋哲哉『靖国問題』批判に代えて

 昨日、『論座』を買った。讀賣のナベツネが朝日のえらいサンと対談している記事が面白そうだったからだ。
 ナベツネは近頃、小泉の、つまり日本国総理大臣の靖国参拝に、反対の論陣を張ってる。それで讀賣の主張も、その辺はけっこうそうなってきてる。まぁナベツネはワンマンだからね、ナベツネのツルの一声で変わったりするって側面はあるわけだけど。たしか、ナベツネは、自分も靖国なんか参拝しない、と言っていたはず。
 この対談記事については、まぁ皆さん、読んでくれ。他にもけっこう面白い記事あるよ。

 僕はいわゆる「靖国以外の国立追悼施設」建設『積極』賛成派ではない。でもね、あった方がよいだろう、くらいには思ってる、高橋哲哉が『靖国問題』に書いてる「靖国以外の国立追悼施設も結局、靖国化する可能性がある」という懸念自体は理解するアタマはちゃんと持ってるけどね。

 高橋哲哉の言ってることを大雑把に端折ると、「『靖国以外の国立追悼施設』を望む靖国反対派が考える施設はその器(施設)によって可能となるのでなく、それを可能とするのは政治であって、その政治(と日本人の考え方)が先になくてはいけない」というようなことだが(ドイツの追悼施設の例なども挙げて分りやすいのだが)、しかしそんな「政治」を待ってても、いや作ろうとしても、日本はダメなものはダメ。それね、それを先にしようと思ってたって、その間、靖国と靖国的なものはずっと維持され、ヘタしたら強化され、中韓など外国との摩擦、要するに「不正常な関係」ってのも続くだろう。

 「靖国以外の国立追悼施設」は施設という器によって可能になるものでなく、政治が必要であり、器だけ用意しても再び靖国化することが考えられる、それはよく分かる。
 しかし、一方で、靖国神社とは、靖国神社という器であることによって靖国で在り得ているものだ。これは政治で変えられるものではない。この器を必要としなくなる政治は理論的に在り得るが、この器自体の性格はこの器の成り立ちから始まっているのであり、それは政治が変えられるものではなく、そもそも政治によって作られたシロモノであって、この器が在る限り、それはいつでも容易に政治化された靖国という存在に成り得るものなのである。

 なるほど、「国立追悼施設」など無いに越したことはないのだろうが、それを言ったところで、いや、それを言って、異を唱え続けたところで、僕にはそれは限りなくネンブツに近いものに聞こえてくるのである、この日本という国の在る場所において。

 ネンブツを唱えることは可能である。しかし、その間にも靖国幻想は維持され、あるいは強化され、靖国という装置は巨大化していく可能性があるだろう。一番いいのは、この器が無くなることだが、それは日本に革命が起き得ない(でしょ?)限り、望んでも実質意味がなく、要するに、それに代わる、よりマシなものがあった方が、文字通り、よりマシなのである。

 ただし、確かに、「靖国以外の国立追悼施設」は容易に靖国化する。結局、元の木阿弥になる危険性はある。だが、変わりようがない存在である靖国よりは、如何ほどかはマシなのである。政治が靖国化を防ぐよう働く、その作用を「国民」が同時に生み出していくのであれば。だから、「その作用」に当たるものが重要であるという一点において、僕の考えは高橋哲哉と一緒なのである。
 靖国に問題があることは間違いない。そのことはここでは詳しく書かない。とりあえず、こっちね

 
靖国神社は、その成り立ちから問題がある器なのだから、これはもう存在の意味を変えようがない。であれば、たとえ再び靖国化する危険があろうとも、「靖国ではない成り立ち」でもって、つまり「官軍」と「賊軍」なる区別もなく、国籍の別も無く、軍民の別も無く、戦争というものの犠牲者を追悼し(顕彰でなくモチロン褒め称えることでなく、追悼する、追って悼むことね)、二度とその悲劇が起きぬことを祈念するための施設として創建し(もちろん祈念だけだ、所詮は器が戦争を防ぐのでなく政治が戦争を防ぐのだ)、その意味付けが変えられず、靖国化せぬよう「政治」と「国民」が努める、政治により教育により、それを伴いつつ建て、使い、作用させる。それが、もしもまた靖国化するならば、その責任の一端(以上の程度に)は「国民」が負うしかない。
 ・・・一旦コトあらば、僕は家族を守り、家族と共に逃げるかもしれないけどねぇ。「国民」の「国」よりも、自分と自分の愛する家族の方が、よっぽど大事だからね。


06年 1月 7日(土)   社会ネタが書けない、という社会ネタ

 いちおうは 久方に社会ネタみたいなものを書いた んだけどさ、実際、書けないんですよ。
 なんでかっていうと、僕のいまはほとんどシゴトという「公」ばかりでね、「私」に費やす時間と体力が著しく不足しているわけです。

 だけど、この、「公私混同せず」、「公私のケジメを付ける」、なんつー言い方でいうところの「公」は要するにシゴトのことであって、僕の場合はカイシャなんである。だからね、「公」にほとんど占拠されるがゆえに、「社会という公」を書けないとしたら、前者の「公」は本当に「公」なのかっつーことだな。
 もちろん、そんなものは本当の「公」ではない。本当はそれは、「私」と「公」を繋ぐ回路の「一つ」に過ぎないものだ。

 この間、朝日の社説に、僕には妙に思えることが書いてあった。妙だという評価はいささか意地悪いものかもしれないが、しかし、やはり見出しからして怪しい、つまりね、見出しはおおよそこういうことだった。
 会社人間から社会人間になろう。

 いや、この見出しの字面だけなら、これはこれでよい。問題は、誰に何を言っているかだ。
 この社説は、これからカイシャで定年を迎え、カイシャを辞めていくことになる「団塊の世代」に向けられているんですよ。

 会社でいるうちは会社人間で、さぁそろそろ定年だから、会社を辞めたからには社会人間になろう。あるいは、その準備を今から始めていこう。
 そんなこと言ってるから、日本はいつまで経ってもダメなんだ。必要なことは、会社員でありながら、社会人であることじゃないか。そうだろ。

 そういう意味では、学校を出て、仕事を持つ、その時に、その仕事が会社での仕事であっても、普通それを「社会に出る」とか、「社会人になる」っていうよね。会社にいたって、社会人の権利と義務があるのさ。

 会社を辞めずして社会人であること。会社員でありながら、社会人であること。

 組織人でありながらも、個人であること。つまり、会社の中でいう「公私」の「公」を務めつつも、「私人」であること。そこからしか、本当の「公」への回路は開かれない、本当はね。
 僕に、僕らに、必要なことは、本当のことなんだ


06年 1月 7日(土)   1968年3月ベトナム・ソンミ村のアメリカ人

 今日の夕刊に出てる。
 見出しは『ソンミ村の住民救出 トンプソンさん死去』
 このさい、転載してしまおう。

 68年3月、米軍がベトナム中部の村で住民約500人を機関銃掃射などで虐殺した「ソンミ事件」の際、虐殺を止めようとし、住民を救出した米軍ヘリのパイロット、ヒュー・トンプソンさんが6日、米ルイジアナ州アレクサンドリアで死去したと、AP通信が伝えた。62歳。がんだったという。

 同通信によると、トンプソンさんは、攻撃する米軍と逃げる住民の間に自ら操縦するヘリを着陸させ、現場の指揮官に攻撃中止を談判した。住民の避難を助け、けがをした子どもをヘリで搬送。事件はベトナム戦争の一つの転換点になった。

 ・・・ちょっとびっくりした。
 1968年の米軍によるソンミ村ベトナム人虐殺事件は、たしか1979年、大学に入ってから詳しく知った。ただ、この事件の時、こういう米兵が存在したことを僕は知らなかったように思う。それとも忘れてしまったのか。
 こういう人もいたんだ。もちろん、これで米軍の罪が贖われるはずはないにしても。


06年 1月 7日(土)   首肩腕腰足、張るわ、痛いわ

 首肩腕腰足、張るわ痛いわ。

 首が張る。首が痛い。
 肩が張る。カチカチだ。パンパンに張ってる。痛い。
 両腕の上腕がパンパンに張ってる。痛い。なんたって時々、上腕の筋肉が、勝手にピクピク動くくらいだ。
  ・・・ たまらん。

 手が痺れる(いや、最近これだけは何故か小康状態)。

 それから、
 腰がズレてる感じ。腰より上の半身が、腰から下の半身にうまく繋がってない感じ。
 腿が張る。足が張る。

 結局、ほとんど上から下まで張ってる。全身硬直だっ。

 ぜったいに労災だ。

 休日の僕は、持ち帰り仕事でもなければ、たまの勉強、ヤクHTML打ち以外、ほとんど寝込んでるようなもんだ。実際、炬燵に半身を入れて、横になってしまうんだ。身体が動かないわけね。まぁご飯は食べるけどね。・・・それ以外は寝込んでしまう。自然に寝込んでしまうんだ。身体が硬直しちまっててさ、気づけば寝込んじまうのさ。
 ぜったい、ぜったい、労災だね。

 メチコバール、オパルモンはこれからも僕のお供だ。あ、そう、レンドルミンとルボックスもねぇ。
 やっぱ、お身体を大切に だね。_


06年 1月 7日(土)   願い祈り詣で参拝する

 毎年正月に行ってる神社に行った。「家内安全」のお札を買った。

 3日に湯河原のお寺で、僕の両親と一緒に賽銭入れて手を合わせてるから、日付的にはそれが初詣かな。
 神社でも寺でも、僕は実際、何かを祈ったりするよ。そのうえ、ゴスペルだって歌う。

 昨日買った『論座』には、「私と参拝」というタイトルの特集があった。そこに出ていたもののなかでは、大江志乃夫や鶴見俊輔のアティチュードに僕は近いなぁ。・・・と言っても、この二人の間にも隔たりあるんだけどね。
 要するに、僕にとっての適度には、そこそこの幅がある。そこそこ、ですね。

 明日は妻の両親の家に行く。この間、僕の両親の家に行った時も祖父母の墓参りをしましたが、明日は妻の祖父母などの墓参りをします。 _


06年 1月 9日(月)   身体はきついですが。身体がきついので。

 今日、妻の実家の近くで、息子とキャッチボールをやった。寒かったけど、風もなく、穏やかな日だった。
 何が穏やかって、息子とキャッチボールしたことさ。それから僕らは、僕の妻と、つまり息子の母親と、妻の両親と、つまり息子の祖父母と、一緒に昼ご飯を食べたのさ。

 身体はきつい。首は固まってる。肩は張ってる。腕はパンパンだ。上腕の筋肉は勝手にピクピク動いたりする。
 腰だって痛い。足も張る。
 身体はきついですが、僕はこれからもずっと、生きていきます。 当たり前のことさ。

 身体がきつい。首が固まってる。肩が張ってる。腕がパンパンだ。上腕の筋肉が勝手にピクピク動いたりする。
 腰だって痛い。足も張る。
 身体がきついので、だから、妙な無理などしないことだ。そうさ、妙な無理などしないことだ。しないことさ。
 僕はこれからもずっと、生きていきます。 当たり前のことさ。

 僕は、僕らは、何のために生きているのか。少なくともカイシャが僕らの生の目的ではないね。そういうものは、人の、人々の、手段なのさ。そうだろ、そりゃそうさ、簡単なことだ。
 僕は、僕らは、何のために生きているのか。少なくともカイシャは目的じゃない。それだけはハッキリしとこう。いや、本来ハッキリさせるまでもないんだけどね。

 まぁ兎に角、そうだとしたら、カイシャに埋められる生活は完全にオカシイ。オカシ過ぎる。
 僕の時間は僕が生きるためにある。それはもちろん、いろんなことをするためにあるものです。
 僕らの時間は僕らが生きるためにある。生きることは一つじゃない。一つじゃないが、一つだ。生きることには、いろんなことがある。それでもって、生きることだ。生きるってことは、いろんな、実にいろんなことをすることだ。生きることは、実にいろんなことをして生きることだ。

 今日、帰宅したら、DVDが届いてた。
 “ FESTIVAL ! ” ニューポート・フォーク・フェスティヴァルの 1963〜1966 をドキュメントしたもの。このDVDにはロック史上最大の『事件』の一つが収められている。
 1965年7月25日、昼の部をアコースティックで演じたボブ・ディランが、夜の部で、ポール・バターフィールドのブルース・バンドをバックに、エレクトリック・ギターを持って演奏した Maggie's Farm ...
 ディランが聴衆の前で初めてエレクトリック化したとき。 _


06年 1月11日(水)   妻、代筆す。

 昨日の夜から、首、肩、上腕・下腕、腰、大腿、下肢、その全てが超絶、張っていた。
 息子が肩を揉んでくれた。妻もマッサージしてくれた。それから、寝た。

 今朝、目が覚めたら、僕は岩になっていた。岩の塊だった。身体が起き上がらなかった。

 迷ったが、急遽、カイシャを休むことにした。

 首、肩、上腕・下腕、腰、大腿、下肢、全部カチンカチンです。
 頚椎ヘルニアと腰椎ヘルニアと過労、その三重唱であろう。

 迷いはしたが、休みは正解だった。今日は行ってもシゴトにならない。
 しかし、シゴトは山ほどある。今日いっぱい、じっくり休み、明日からビシバシやらねばならぬ!

 今日は午前中寝たきり。妻にマッサージ「午前の部」をしてもらった。昼は何とか起きて、岩から手を出して、うどんを食み、再びただの岩に戻る。それから妻のマッサージ「午後の部」を待つ。

 明日はちと早めにカイシャに出たい。今日は兎に角、休む。

 ・・・ 以上、妻、代筆す(流石の転石も岩ともなればHTML打てず)。 _


06年 1月14日(土)   はて・・・

 まぁ元々この2年弱、課員が長期休んだり、あるいは課の編成が変わったり課員が異動したまま補充されなかったりで、ほんの少しでも「安定」期というものがなく疲れ切ってしまってる僕なのだが、それがですね、疲れも蓄積がもう相当なもんになってまして、とりわけ年が明けてから身体の調子がよろしくない。

 困ったもんなのである。今週は1日、寝たキリ日があったしねぇ。HTMLも 妻、代筆す。 なのでありました。
 おお、お身体を大切に

 今週から他課からの異動者が入って、所掌業務も移管されてきて、だけど僕は何だか手が回らない。・・・どうにもこうにも、もはやキツキツなんである、消耗してしまってましてね。どうしたら元気、出ますか?

 異動してきた課員はデキル人だと思います。新所掌業務も同時に入ってきたわけだし、どうか、少なくともしばらく長らく、ウチの課にいてほしいわけなんです、マネジメントの皆様なんとか、そうしていただきたい。この課はこれまでもいろいろあったけど、これからも他にもいろいろ、あるわけです。・・・「たのむぜ、ボスボスボスボス」by RCサクセション。

 昨日はその課員の歓迎会。よい雰囲気でいけたと思います。これからも仕事、とうぶんヨロシクお願いしたいのであります。
 ところで、いまは僕以外の課のメンバーはみんな女性。だからどうしたって別にたまたまそうなっております、なわけですが。あんま意味ない「ところで」でありました。

 ハナシは飛びまして、昨日たまたまネットで昨年末だったかU2が アムネスティ(リンク先は日本支部ね)の大きな賞を受賞したってことを知り、それから ONE を聴いて、さらにネット・サーフィン(って言葉、今も使われてる?)続けたら、U2がこの4月に来日ってのが出てきた。
 4月4日の1日のみらしく、火曜だってのに(?)場所は新横近くの日産スタジアム(えっと旧称・横浜国際総合競技場だっけ?)。開演に間に合うのはかなーり難しい。それと、ビックリしたが、高い。アリーナ・スタンディングで1万円。スタンド1Fで1万5千円、2Fで1万円、嗚呼! だけど近い時期の東京ドームのストーンズはこれより更に高いらしい。高い高い高い高い高いよ。

 僕はU2は好きだけどね、しかし、何年か前に郵便貯金会館(これ旧称だよね?)だったかなぁ、やや小振りな会場で観たCS&Nのコンサートみたいな雰囲気がいいなぁ。ま、スタイルがそもそも違うけどさ。
 どうもドームとか屋外競技場とかさぁ…。ステージ演出に凝ったり、あるいは人気あり過ぎて大会場が必要だったり、いろいろ悩ましいのかねぇ。
 僕はとりあえず次の(僕が)未だ観ぬ大物は、ディランを待つ、ってことにしましょうかね。ディランなら絶対行くよ、僕は。ディランならどこでもいつでも行きたいよ、僕は。行くぞ行くぞディラン。いつ来る?

 はて・・・。今日は静養です。
 息子は小4の時に買ったバットが軽く感じられるようになったので、本日買い替え。要するに、われわれ親が、買ってあげた。で、母親が一緒に行き、父親たるオイラは、家に居残り、炬燵におったのでした。
 今日はチゲです。身体の元気をいつかの時期まで回復させたいものですが、まぁチゲで少しは元気を出しましょう。いつかっていつか、よく分かりませんなぁ。ま、いいや今日はこれで、トリトメないもんな。 _


06年 1月15日(日)   ま、元気、出して。

 いらいら、すんなぁ、
 くよくよ、すんなぁ、
 大通りぶっとばせぇ、
 チョッパーズ・ブゥーウギィー。

  ま、
   元気、
    出して。 _


06年 1月21日(土)   祝宴

  昨日は、というか厳密には今日は、なのかい、まぁとにかく午前0時半近くに家に着き、その時はなーんも降ってなかったんだがね。

 今日、起きてきたら、外は真っ白。右の写真は夕方近くなってから僕んちの小庭で撮ったもの。写ってるのは妻子。クルマは zoom, zoom, zoom... 向こうの方は向かいの空き地ね。昼間の庭の積雪は、息子が差した物差しで 12センチでした。

 今日は妻の誕生日。妻がこの世に生を受け、おかげで息子が生まれ、そして、いまの僕もあるわけです。これ、順番が時系列じゃないのは、僕の感謝が先に来てるんでね。そういうわけで、めでたし、めでたし。

 夜は、地元の和風・若干品良い居酒屋で、3人で食べてきました。妻と僕は飲みました。そして、3人で、雪の中を歩いて帰って来ました。 _


06年 1月22日(日)   まぁ、元気、出して。

 いらいら、すんなぁ、
 くよくよ、すんなぁ、
 大通りつっ走れぇ、
 チョッパーズ・ブゥーウギィー。

  まぁ、元気、出して。

 この間、載せたんだけど、ちょっと、歌詞間違えてた。懐かしのティン・パン・アレー、キャラメルママから、チョッパーズ・ブギ。
 歌ってるのは林立夫と桑名ハルコ(桑名正博の妹、いま何してんだろ、僕は高校時代、彼女のアルバムまで持ってたぞ)、ギターは高中正義、チョッパー弾いてるのは後藤次利(これは細野には弾けない、笑)、パーカッションは斉藤ノブ、作詞作曲は林立夫。

 キャラメルママには、他にも、松任谷正隆のキャラメル・ラグ、細野晴臣のチュー・チュー・ガタゴト(山下達郎や大貫妙子も参加してるよ)やイエロー・マジック・カーニバル、鈴木茂のソバカスのある少女、J・ザルスキー(僕はこの人、未だにどういう人か知らない)のシー・イズ・ゴーンなどなど・・・。いい曲がたくさん入ってるなぁ。

 年明けから疲れ放出伸びきった輪ゴムもとに戻らず状態の僕は元気出ず、そんなある日、「まぁ、元気、出して。」のチョッパーズ・ブギが突然アタマに浮かんできたのです。音楽は偉大です。高校時代、田舎の家にあったLP、アマゾンでCD買いました。いまも聴いてる。

 首が痛い。肩が超絶張ってる。上腕がパンパンで時々ピクピク動くくらい。腰も抜けてる(いや抜けてはいないが)。腿も張ってる足が張ってる…。つーかれたよ、つかれるよ。だけど、だけど!
 いらいらすんなぁ、くよくよすんなぁ、大通りつっ走れぇ、チョッパーズ・ブゥーウギィー。まぁ、元気、出して。 _


06年 1月29日(日)   2006年 1月29日

 いやはや、題が思いつかんだけですわ。

 この1週間は息子がけっこう、たいへんでした。前の日曜に咳き込んでおったけど、翌月曜朝には熱が出て、病院に行って検査したら「インフルエンザ」。話題のタミフルが処方されました。今週金曜は3学期最初の大きな試験日だったんですわ。そういうわけで、息子にはけっこう、たいへんな1週間だったのです。

 熱は8度台半ばまで上がったけど、後は落ち着いてきて今は咳が残ってる程度。でも熱が下がったのは水曜で、医師の指示通り、熱が下がった後さらに1日休んで、学校は結局、金曜の試験日のみ登校。学校からは翌週に休んだ生徒の追試があるということを聞いていたけど、行けるから行くということで息子が頑張って登校したのでした。

 昨日と今日は大事をとって部活は休ませたけど、本人はまぁ元気にはなってきてるので、昨日は母親の買物ついでに隣の市に同行、楽器店に寄ってギターの教則本を買ってきた。今は、ミスチルのCDかけながら、ピアノ用の楽譜見てギター弾いてる。ついこのあいだ、弾き方覚え始めたばかりだから、もちろん未だサクサク(?)弾けるわけじゃない。でも弾きたいって気持ちが強まってるようで、まぁ僕としてはうれしい。不器用な僕じゃなくて、僕からすればピアノが上手だぜ、と思える妻の方から素養をもらってれば、けっこう上手くなる可能性はある。別にプロになるってんじゃないし、音楽を楽しめるよう、そこそこ上手に弾けるようになればいいんじゃないか。

 僕は昨日、今日と、いつもに増して、腰が痛い。かなーり痛い。
 今朝は一度9時前に起こしてもらったけど、眠いわ身体が起きないわ、で、10時近くなって起きた。もっと寝ていたかったけど、日曜が起きて5時間程度で外暗くなるんじゃなぁと感じつつ起床。

 起きてきたら、妻が自家製録音版ラジオ体操をかけてくれ、体操しました。
 あああああーあ、しかし腰は変わらず痛い。ついでに言うと、胸も痛い。どうして。

 明け方一度目覚めたんだけど、変な夢だったな。尿検査して、しかも看護婦さんの前でしてて、それで直ぐに更なる検査室に行かされた夢。それから、次に目覚めた時に直前まで見てた夢は、僕の両親や兄貴ら、妻の両親や兄貴ら、そういう、一族総出演で、しかも僕の方の田舎で運動会に出場してる夢。おまけにこの辺のキリスト教会が登場したり、そこに神社や賽銭箱があったり。その夢は僕の田舎が舞台なのに、妻の方の兄貴が「そこでアルバイトしてました」なんて言って町並みの方を指差してる。そんな、有り得ないことばかりの夢なのでした。夢って不思議じゃのう。こういう夢のシナリオは、どういう仕組みで、僕の脳の中で、僕の脳の中に、作られるのかね。

 本当は例えばライ・クーダーのチャべス・ラビーンとか、ディランの血の轍とか、あるいはティン・パン・アレイのキャラメルママとかさ、ロックのコーナーにレビュー載せたりもしたいって、そんな気が起きたりもするんだけどね。でもこうやって、ただウダウダと書いてしまうわけですよ、日記を。

 社会ネタも書かないなぁ。パレスチナの(たぶん)初めてと言える、まぁマトモな選挙によって、よりによって、というか、とにかくハマスが圧勝した。さっそくブッシュのアメリカは、ハマスのパレスチナとは交渉しないと言ってるし、ヨーロッパも、パレスチナの援助を再考すると言い出したりしてる。
 だけどね、イスラエルが何十年にもわたって国連決議に違反してヨルダン川西岸(つい先日まではガザも、でも国境警備のこととか考えれば今もガザはイスラエルによる幽閉状態だね)を占領し続けても、そして国連の決議も無視してヨルダン川西岸にパレスチナ人地区分離壁(つまり隔離壁だ)を作り、国際社会の非難の高まりを無視してその建設を続行しても、結局アメリカをはじめ、欧米を中心とする国際社会は、基本的にイスラエルを認めるし、つまり、イスラエルと付き合うわけだ。交渉するしないじゃなくて、外交し貿易してる。アメリカなんて、莫大な軍事援助と経済援助を続けてる。イスラエルがやり放題したい放題したって、国際社会は付き合うわけだ、イスラエルと。

 ・・・えーっと、ホリエモンのことはどうでもええわ。今の僕にはどうでもええ。日本社会的には違うだろうけどさ。ま、日記でウダウダ書くことぁねぇさね。

 なんて書いた程度で、また僕は極私トピックに戻るわけ。
 腰が超絶痛い。首が痛い。肩が超絶張ってる。上腕がパンパンで時々ピクピク動くくらい。腰は抜けそうだってさ。腿も張ってる足が張ってるってさ…。つーかれたよ、つかれるよ。もうね、この2年ほどの蓄積疲労は、相当なる暴力の蓄積でしてね。ヴァイオレンスですよ、ヴァイオレンス、ヴァイオレンス・ジャックみたいな気分になるぜ、いかんいかん。ちょっと今から散歩してくるわ。
 いらいらすんなぁ、くよくよすんなぁ、大通りつっ走れぇ、チョッパーズ・ブゥーウギィー。まぁ、元気、出して。


06年 1月30日(月)   腰痛肩痛首痛につき休み。明日は出勤する。

 昨日に続き腰痛がひどい。そいと肩痛、首痛、そのほか諸々。

 午前3時半に目覚め、トイレ。布団に戻って、レンドルミンを飲み忘れていたことに気づく。「かといって下に降りて今から飲んで寝たら出勤時刻前に起きれなくなるじゃろう」と思い、そのまま布団に。
 しかし、その後、眠れなくなった。まぁウトウトはしたりするんだが、只管ユメを観る。目覚めるたびに見事に内容を憶えているユメだから、眠りは相当に浅いだろう。この頃おおいだんが、家族や田舎の家族や、とにかく身近な人達が登場する。それでいて、今朝なんどもなんども観た沢山のユメは、職場の人間が出たり、そもそもシゴトに関係していたり、「今日の予定の仕事」が出てきたり、とにかく妙にリアルなことが例によって有り得ない設定でもって進んだりするのであった。ほんと、こういうユメのシナリオを書く仕組みはどうなっているのかね?

 結局、ロクに眠れなかった。朝、起きようとも思ったが、起きれなかった。
 腰痛がひどい。肩が痛い。そして、これは明らかにヘルニアの症状なんだけど、手足が痺れてる。前は痺れと言えば左手や左足だったんだけど、今回は右手、右足、右腿などが痺れ、おまけに左側の痺れも並存。更におまけに、これはヘルニアとの関係よりも、レンドルミン飲み忘れと関係あるんじゃないかと素人判断するんだけど、鼻の神経も強烈な違和感。なんかスースー来てる感じ。でもって、基本的に気持ちわるい。頭もボーっとする。

 で、休むことにした。出勤しても、どう考えても捗らないし、もっとわるくなって明日からに更に影響出そうだし。そもそも、身体が起きない。
 ならば休んで明日から出直した方がよい。ぜったい、その方がよい。

 妻に電話持ってきてもらって、布団に横になったままカイシャに連絡して、その後、また布団に入った。で、眠れてないから眠ろう眠ろうとしたんだけど、やっぱり徹底的にユメのオンパレード。身近、圧迫感、シゴト、そういう共通項ばかり。目覚めても憶えてるものばかりで、只管に眠りは浅い。

 さっき昼を食べた。・・・で、また寝ることにする。肩も腰も強烈に痛く、手足が痺れ、もちろんHTMLやってる場合じゃないのだった。
 だけど、僕は、明日は、ぜったいに出勤する。もちろん、水曜も、木曜も、金曜も。シゴトは詰まってる。年度末に向けて、サバイテいかねばならぬものばかり。僕は、明日は、ぜったいに出勤する。ずっと、出勤する・・・。休んでたらたいへんなのさ。
 腰も肩も、明日には多少は良くなる、良くする。明日、ぜったいに、出勤する。ドカドカ仕事をやって、週末に向かうのだ。


06年 2月 5日(日)   39.9度 から下げる。

 月曜は腰痛肩痛首痛につき起きれず急に休んだ というのに、そして、
 「だけど、僕は、明日は、ぜったいに出勤する。もちろん、水曜も、木曜も、金曜も。シゴトは詰まってる。年度末に向けて、サバイテいかねばならぬものばかり。僕は、明日は、ぜったいに出勤する。ずっと、出勤する・・・。休んでたらたいへんなのさ。
 腰も肩も、明日には多少は良くなる、良くする。明日、ぜったいに、出勤する。ドカドカ仕事をやって、週末に向かうのだ。」

 ・・・なーんて書いておったのに、

 火水と出て水曜は 23時半頃帰ってきてずいぶん咳き込むなぁと思い、布団に入ってからは特にひどく咳き込んでいたが翌木曜は出勤、しかしあまりに咳がひどいうえ、どう考えてもかなりの高熱があるような気がして、いや、そもそもフラフラになっちまって、選択の余地無く退勤、妻の迎え受け、病院に直行、病院で初めて熱計ったら、いきなり 39.4度 だった。
 …嗚呼、これでシゴトなんて続けられるはずなかった。

 なんだか綿棒みたいなものを喉に1本、鼻の奥にも1本、それで検査して10分後ぐらいだったかな、判りました。
 インフルエンザ香港A型。なんでも5日間ぐらいは感染力あるからダメだそうで、週明け月曜までは休む見込みに。嗚呼。

 ・木曜夜
  処方されたタミフルと「とんぷく」飲んでも、
  熱はついに 39.9度 へ。

 ・金曜
  明け方4時半ごろ目覚め、熱計ると未だ 39.4度。嗚呼。

  起きてから、昨日フラフラ退勤の直前に自宅に送っておいたシゴトファイルを、
  まだまだフラフラだもんね、若干だけ加工して、職場に送る。あとは仕事の伝言。
  それから再び計ったら8度8分8厘。あとは7度台後半ぐらいでワッタリカッタリ。
  用意はしてあったが息子就寝後に思い出し、節分は持ち越し。

 ・土曜
  寝るのさ。しかしヒンギスとシャラポワ戦をテレビ観戦してしまった。
  ヒンギス勝ちには期待通りで嬉し。

  それから、ヨメさんに頼んで買って来てもらった『論座』を少し読んでしまった。
  でも寝るのさ。熱は7度台に落ち着いてきてる。7度切ったりしたけど、夜また越えた。嗚呼。
  依然として喉痛い、咳出る、身体痛い。嗚呼。
  1日遅れで節分。

 ・日曜
  それは今日。ヒンギス、決勝で負けた。

  この間の日曜にアマゾンに注文してたDVDがこの間に家に届いていて、
  それを観た。OPEN WATER です。
  ダイビングのツアーに参加した夫婦が、ツアコン側の単純なミスで、海に取り残される話。
  この映画の日本語吹き替え用翻訳を、僕の知人がしてるんです。スゴイだろっ。

  映画はサスペンス仕立てのストーリー展開がよいし(実際怖いものが)、
  実際にあった事件を基にしたらしいけど、ストーリーの場面設定が上手いです。
  そして、知人の仕事振りも、すごく良かったのでした。幸せな気分です。

  そのとき併せて注文したCD、ディランの NO DIRECTION HOME 、今かけてます。
  マーティン・スコセッシの同名ドキュメンタリー映画のサントラと言えるものですね。
  ラスト、野次られながら始める Like A Rolling Stone は、まさしく鬼気迫るものが
  ありますが、詳しくはまたの機会に。

 疲れてしまったのです。
 熱は落ち着いてきましたが、まだやはり身体が熱い感じです。喉はまるで「炎症」と書かれた文字盤が貼り付いているかのよう。咳き込むと肋骨とかも痛みます。
 関節痛もひどいですが、もはや僕には、こうした痛みは、持病の椎間板ヘルニアのせいなのか、今回のインフルエンザの熱のせいなのか、なんだか分らなくなってしまったのです。

 体力消耗した。腰も痛くてたまらない。食欲も減りました。
 HTMLも疲れます。少なくとも昨日は何もやる気出なかった、やれなかった、嗚呼。
 明日の月曜は確実に休みです。
 火曜からは出たい。・・・仕事が、シゴトが、たくさんあるのです。嗚呼。

 この2年の過剰労働、それはね、「過重」労働というよりも、僕一人が負った量として「過剰」労働といった方が、何となく実態に即している感じが当事者の僕にはするんですよ、つまりね、圧倒的に「過剰」だったんだよ兎に角、尋常でなく「常」というものを大幅に超えた「過剰」なのさ、
 その「過剰」労働の暴力によるダメージはね、もはや相当なもんですよ。

 僕はもう、ド根性だけでやってたように思うし、昨年末あたりから、衰弱の症状がはっきりしてしまったようです。ヘルニアも痛むよ、インフルにもかんたんに(?)なるよ、これじゃ怪我だって気をつけなくちゃ。
 身体を大事にしながら、そう、一番大事なのは、身体だよ健康だよ、そうだろ、それでね、身体を大事にしながら、身体最優先で乗り切っていくよ。
 僕はもう、本気で、手を抜く必要がある。カイシャはもちろん僕の健康などポイさ、僕は、自分で自分を守らなくちゃならない。僕はもう、本気で、手を抜く必要があるよ。どうやって抜くかって、僕は実はそれが苦手なんだ、だけど僕は自分で自分を守らなくちゃ、そうだろ、どう考えたって当たり前だよ、自分しかいないんだから、カイシャで自分を守れるのは、嗚呼ほんとにそうなのか、でも兎に角、僕は本気で、考えなくちゃ、僕に向かって放置されている「過剰」は悪なんだよ、抜こう抜こう抜こう抜こう、抜こうぜ


06年 2月11日(土)   ディレクション・ホーム

 最近アマゾンで買った、ディランの NO DIRECTION HOME のラスト、Like A Rolling Stone を、今、かけてます。

 ファンが未だ勝手に「フォークの神様」と持ち上げていた頃のライブ。ファンがディランに「ユダ!」と野次を飛ばす。野次というより、罵りの言葉というべきか。それにディランがやり返す。 I don't believe you ! You're a liar ! ・・・このやり取りが全部、録音に残ってる。

 それから、ディランは、バンドに向かって「でっかい音でやってくれ」と言ってるらしい。CDでも、よく聴き取れないが、ファッキン・ラウダーと言ってるようにも聞こえる。映画の NO DIRECTION HOME でも、この辺の映像がそのまま見られるそうです。
 東京で上映してるんだけど、僕はDVDになるのを待ちます。アメリカでは出てるけどね、リージョン1のやつが。日本盤が出るのを待ちますよ。買ったCDはね、要するに、この、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画のサントラみたいなもんですね。素晴らしい内容だけど、誰もが言いそうな一つを敢えて書いておくと、上で紹介したやり取りの後に始まる、Like A Rolling Stone ね、これは、本当に鬼気迫るものがあります。いや、掛け値なく、鬼気迫るディランの声、ディランの歌、ディランのパフォーマンス。歴史の1ページです。
 ・・・ NO DIRECTION HOME はもちろん、Like A Rolling Stone の歌詞の中の一節でもあります。

 僕はですね、インフルエンザは治りまして、火曜から出勤しました。ただ、喉の痛みや咳、身体の痛みは残ってます。もっとも、身体の痛みは、ヘルニアが治らない限り続くんであって、何ともね、どうにもならんのですよ。

 昨夜は、職場を22時半過ぎに出て、家に着いたのは24時前でした。それから、ご飯食べて寝ましたね。
 僕には、DIRECTION HOME です。僕にはそれは必要。だけど、ディラン(と彼の表現)は凄いね。でも、僕には、DIRECTION HOME です。今も、これからも。それから、健康も、大事。当たり前ですねぇ。


06年 2月18日(土)   調子はどうだ

 ま、よかないのは確かです。今日は、というか、昨夜深夜から、どうもむかつく、気持ちわるい、身体が痺れる、まぁそんな感じなんですが、どうしましたかね

 普通の「疲れ」ってやつなら、年末年始程度の休みがあると、そこでリフレッシュしたりして、よい効能さんがあるでしょう。しかしね、僕の場合は「普通の疲れ」というものではないのでして、この2年近くの劇薬過労状態(なんじゃそりゃ)があっての、このあいだの年末年始、途中、温泉に入ったりもしましたが、僕の疲れはどっと出つつも、放出されたわけではなく、いわんや発散などされず、疲れがどっと出て疲労困憊の自覚症状がいや増しに増したまま、そのまま、伸びきった輪ゴムのように戻らなくなってしまったわけです。

 まぁとにかくそんな状態でして、年明け以降はいわゆる深夜残業というべきレベルのものは、昨年末までと比して今のところ激減させているわけですが、しかし哀しいかな当然ながら、決してラクになどなっておらず、まぁ身体をダマシだまし、そしてシゴトの方も僕としてはシカタナク騙しダマシ何とかやってるわけです、『人間を幸福にしない日本というシステム』であるところのシカタナクです、はい。

 今日は先ほどからピンク・フロイドの MEDDEW をかけ、その後は ATOM HEART MOTHER をかけております、おせっかいしたうえに原子と心と母ですよ。それでもって、20年余前から家にある別冊宝島(懐かしいか?)の『現代思想・入門』なんてのを書棚から引っ張り出し、そいつはその時代なんでデリダとかドゥルーズとか辺りまでカバーして日本では浅田彰のスキゾ・キッズなんて出てた頃かな、そんなののどこかにキルケゴールとかニーチェのことも出てなかったかな、なーんて思って捲り読みしたりしたわけ、ちょっとしか出てなかったけどさ、そうしたらチョムスキーのこともちょっと紹介されてたよ、何言ってるかって、まぁツラツラこう語った、ツラトゥストラはこう語った、ツラトゥストラかく語りき、これは訳本によって日本語の書名が違うんだよね、僕はリヒャルト・シュトラウスの交響曲『ツラトゥストラかく語りき』が好きです、キューブリックの2001年いいもんね、ああ止まらない、止めてくれ。

 どうも身体はきつい。精神はどうだ。どっちがきつい?

 僕はですね、生きてることは確かです。生きたいと思ってますし、事実、生きてます。肩が痛いなぁって感じるし、腕張るなぁって感じるし、身体の痺れもちゃんと感じるもんねぇ。麻痺なんかしてないし。僕は、だから、実存してますよねぇ(笑)、キルケゴールさん、ありがとう、あなたはどうして道端で倒れたんですか。僕は倒れません。

 身体の具合はナンですが、今日は家族で外食しようかと思ってるんですよ。家族は僕の宝島です。なんだそれって、まぁいいじゃん。ちゃんとせにゃぁって、思ってますよ、そりゃ当然。ああ、金色の心。なんのこっちゃって、僕は分るような分からないような、でも分かるんだなぁこれが、ほんとうか、ほんとうだ、なんとなくさ、そういう意味なら分かるさ、ああ、この辺にしとこ、今日のHTMLは。ほな。今は原子と心と母のB面ね、田舎の家にあったLPで言えばB面に入ってます。B面には、もしも、なーんて歌も入ってますね。はは、サイモンさんだったり、ヤングさんだったり、フロイド博士(?)だったり、落ち着かないようにみえるでしょうが、まぁ実存する人間は落ち着かないよ簡単に、もう1回、ヤングさんにリンクしとこ、金色の心


06年 2月26日(日)   哀怒 と 喜楽

 先週も 疲れました。 金曜は帰宅時間が 24時ちょっと前。でも、以前はもっともっとひどかったから、もはや時間の問題ではありません。僕に降りかかり続けている、異常に過剰な労働環境の中で、思い切り蓄積されてしまった疲労が抜けないのです。いや、あまりにひどいので、前より早く帰るようにしていると言っても、抜けない疲労の上に新たな疲れが積もっていくだけなんだから、擦り切れ状態はドツボなわけです。

 土日はなかなか起きれない。今朝も、ようやくのことで、10時半近くになって起きた。昨日は12時過ぎ。もっとも就寝も明け方だったけど、昨日は。もっと寝ていたい。ずっと寝ていたい。疲れてる。

 普通の「疲れ」ってやつなら、年末年始程度の休みがあると、そこでリフレッシュしたりして、よい効能さんがあるでしょう。しかしね、僕の場合は「普通の疲れ」というものではないのでして、この2年近くの劇薬過労状態(なんじゃそりゃ)があっての、このあいだの年末年始、途中、温泉に入ったりもしましたが、僕の疲れはどっと出つつも、放出されたわけではなく、いわんや発散などされず、疲れがどっと出て疲労困憊の自覚症状がいや増しに増したまま、そのまま、伸びきった輪ゴムのように戻らなくなってしまったわけです。

 本当に磨り減ってしまってる。やっぱ、ふざけんるんじゃねえよ。心底、そう思うわけです。

 ところで、昨日の新聞に、パックンマックンのパックンのコラムみたいなものが出てて、そこに、彼のアメリカ国内線フライトでの経験が紹介されていました。
 離陸前に副機長のアナウンスが普通に始まったが、途中で変な方向へ。「ポン! シートベルトは緩まないようしっかり締めて下さい。下っ腹のお肉に食い込むくらいで、ちょうどよいのです」。
 乗客がちょっとざわめき、アナウンスは更に「荷物は前の座席の下、または頭上の棚にしまって下さい。なお、上に入れるものは 20キロまたは4歳までとなっています」。この時点で冗談がはっきり伝わりだし、乗客は上機嫌に笑い出す。
 副機長のアナウンスは更に更に、「まもなく離陸します。携帯電話を持っている方は必ず電源をお切り下さい。機長のペース・メーカーが心配です」。ここで機内は完全に『お笑い』のライヴ会場に。
 離陸後も、調子づいたアナウンスは続き、「機長がシートベルトサインを消しました。どうぞご自由になさって下さい。本日は空席もあるので、近くの窓側の席が空いていたら、どうぞ移動して下さい。ライバル航空会社から満席に見られるよう、ご協力お願いします」。それでもまだこのライヴは止まらず、「ご存じの通り、弊社は今、倒産中ですので、こうした戦略をとっています。もう一つ、赤字対策として、誰かクレジットカードを貸していただけますか?」。

 パックンは弟子入りしたいと思うぐらいに楽しんだというが、しかし、笑いながら、「仕事でそんなにふざけちゃだめだろう」と心の中でつぶやいたそうだ。パックンによれば、これは『出る杭は打たれる』精神によるもので、日本の芸人生活12年でこうなってるんだから、日本で育った(大人になった)日本人は、その何千倍も「まじめ」だろうと書いている。

 そのおかげで、日本はサービスも丁寧、頼れるし安心感もある。だけど、もったいないんじゃないかって。

 仕事でも、遊びでも、人生は楽しいものであるはず。楽しいものでなくちゃ。まわりをそこまで気にせず、もっと気楽に、自由に、自分ならではの生き方で生きれば、もっと充実する。パックンはそう書いてる。

 疲れてばかり、真面目なばかりに擦り切れていたら、その人生は楽しくない。その人生は美しくない。Life is beautiful じゃない。

 仕事でも、遊びでも、人生は楽しいものであるはず。楽しいものでなくちゃ。
 仕事でも、楽しいものであるはず。楽しいものでなくちゃ。仕事は、人生の一部分。人生は楽しくなくちゃ。

 まわりを気にせず、もっと気楽に、自由に、『自分ならではの生き方』で生きる。
 楽しくなけりゃ人生じゃない。楽しめ。
 まわりを気にせず、もっと気楽に、自由に、『自分ならではの生き方』で生きる。そうすれば、人生がもっと充実する。人生が美しくなる。楽しくなる。気持ちが充実する。Life, I love you って気分になる。全くいかした気分になる。
 ・・・だな。そうだ。絶対にそうだ


06年 3月 5日(日)   春は、来る。

 相変わらず、ずっと、疲れています。 たまらんな。どうにもならん。いや、ならんじゃイカン。

 最近、昨年末に発行されてた SIGHT を買った。特集は『ローリング・ストーン』誌が選んだ「究極のロック 100曲!」。ピーター・バラカンが渋谷陽一と対談してる。ちなみに『ローリング・ストーン』選の第1位は、ディランの Like A Rolling Stone でした。雑誌名と曲名の繋がりは出来過ぎだけど、でも1位には納得。
 その後、さらにバックナンバーを買った。1年以上前に出ていた、やはり『ローリング・ストーン』選の「究極のロック・アルバム 100枚!」。それからもう1冊。「究極の映画 100本!!」。

 疲れたよ。毎日毎日、本当に疲れるよ。 肩が痛い。腕がパンパンに張る。首が痛い・・・。

 あーあ、と溜息をつきつつ、だけど、どこかで前向きになっていくしかないし、していくのである。黄金ってなんだ
 気にせず、気楽に、自由に、楽しむ。充実する。ジュモンか? ジュモンじゃない。 お経か? お経じゃない。呟きか? そうかもしれん。まぁ実際、Life, I love you って思う方がいい、生きてんだから。全くいかした気分でいたい。そうだ。絶対にそうだ。


06年 3月12日(日)   ごごごごぉ

 今日は風が強い。とにかく、強い。ごごごごぉっと何度も何度も吹く。家の外回りのどこかからなのか、家の周囲のどこかからなのか、その両方からなのか、風が吹くと、風の音とともに、カタカタカタカタ、カラカラカラカラ、いろんな音が一緒に聞こえてくる。3月は、風の季節だ。

 いまから 35年ぐらい前、それ以上前でもいい、3月にはやはり、同じように、強い風が吹いていた。ごごごごぉ、ごごごごぉ。僕はその時、小学生だった。6年生だったのか、5年生だったのか、4年生だったのか、あるいは2年生だったのか。僕はとにかく、僕の故郷の町で、僕の家で、僕の家の近くで、あるいは故郷の町のなかの、家から離れたところで、あるいはもしかしたら学校で、3月の強い風の音を聞いていた。

 僕はぼんやり、なにか、世界を考えていたかもしれない。それはもちろん、日本とかアメリカとかイギリスとか、そんな「国」の名前が地図に書いてある、その「世界」のことじゃない。「僕の世界」である「世界」のことだ。僕が主体として感じる、僕が生きている「世界」のことだった。もちろん、親がいて、兄弟がいて(正確に言うと兄だ)、学校があって、友達がいて、遊びがあって、学校の勉強があって、まだまだ大人にならなくて、だけどどうも大人が中心になって作っているらしい世界があるようで、「僕の世界」もそのなかにあるのかもしれないし、いやそれはそれで関係をきちんと「意識」するまではいかない、でも、どこかで「意識」もしていただろう、そんな「僕の世界」だった。

 その、たぶん小学校何年かだった頃の僕は、3月の、ごごごごぉっと鳴り続ける強い風の音を聞きながら、それは聴きながら、というよりは聞きながらだったのだろう、僕は、寂しさを感じていた。妙な寂寥感だった。

 たけど、子供の時代、少年時代のそんな寂寥感は、辛いものではなかった。「僕の世界」のその先にはきっとまだまだ何かが広がっていたし、それを感じていたし、辛くはなかった。ただ、何となく、寂しかったのだ。春が訪れようとしている、その前に吹く、ごごごごぉっと鳴り続ける強い風。でも風はいつか吹き止む。そして、別の風がまた吹く。僕はまた、違う風の音を聞くだろう。風を、聞くだろう。

 あれから、ゆうに30年以上、経っている。今日も、あの時と同じように、ごごごごぉっと、何度も何度も強い風が吹いた。風の音とともに、カタカタカタカタ、カラカラカラカラと、何かが揺れる音が聞こえていた。風はきっと、あの時の風と変わらない。いや、違うだろうか。同じようにも思うし、違うのかもしれないとも思う。

 子供の時代の、少年の時代の、その寂寥感と、大人になってからの、それも 45歳の僕が、その風の音を聞きながら、感じる寂寥感は、たぶん、何かが違う。何かが違う、というよりも、確実に違う、というべきだろうか。それは当然なんだろうけど、違うものだ。

 僕は金曜、24時過ぎまで働いて、保安の人だろうか、24時には閉まってしまうカイシャの玄関の鍵を開けてくれるよう頼んだが、その人が持ってきた鍵が間違っていたのか、なかなか開けられなくて、僕は結局、その人に「ここ、乗り越えて出てもいいですか?」と尋ね、そうして乗り越えて出て、駅に向かった。最寄駅2つ手前の駅への終電すら、間に合わない恐れがあったのだ。そうして何とか間に合い、電車に乗り、終着駅に夜中の1時過ぎに着き、迎えに来てくれた妻の運転するクルマで帰路に着いた。

 土曜朝まで起きていてしまった。寝れなかった。僕が寝床に着いて直ぐぐらい、息子は部活に向かい、妻も息子の部活の行事に向かった。昨夜は夜11時前に寝たけれど、今日の日曜の朝、起きたのは11時近く。
 肩がパンパンに張ってる。上腕もパンパンに張ってる。ヘルニアのせいもあるだろうが、極度の過労がそれに輪をかけているのだろう。

 そうして僕は、今日、家に居て、3月の強い風の音を聞いていた。ごごごごぉ、ごごごごぉ。風の音を聞きながら、はっぴいえんどのCDをかけてみた。そのうち、「外はいい天気」って大滝詠一が歌い出した。

 外では、相変わらず、ごごごごぉっと、音を鳴らして風が吹いていた。時折り、カタカタと聞こえる音も耳に響いた。そのうち、風の音は聞こえなくなった。いつのまにか、風は止んでいた。黄金ってなんだ
 だけど、僕はきっと、全くいかした気分 を感じる時も、これから、あるはずだ。そういうつもりで、僕は生きているし、生きていくだろう。そうだ。絶対にそうだ


06年 3月18日(土)   ナニ婚式ですか

 昨日は 23時半頃退勤、しかし昨日の強風でダイヤ乱れ、終電がいつ上野を出てくるか分からんと。しゃーないので、そのうちやってきた2つ手前駅終着の電車に乗り、24時半過ぎに家からだいぶ離れた地点で妻のクルマ迎え受ける。それから木曜も最寄駅終電にて帰宅。その前は、忘れた。まぁ早くはなかったがソコまででもなく、しかし相変わらず疲れはたんまり残り引き継がれるのである。毎週おんなじこと書いてるじゃん。

 さっきは妻に肩や腕をマッサージしてもらい、そのあとしばし昼寝。起きてからは妻と散歩がてら(近いんだけどさ)近くの本屋兼CD・DVD屋。ジイド(ジッドって書かれたりもするよねぇ)の『狭き門』を手にして最後は「ランプを持って女中が入ってきた。」を確認。これ、最近も妻と話してて話題になりまして、最後の一文だけ頭に完璧に残って暗記してたんで、それが本当に合ってること確認しました、確認して何になるって、まぁいいじゃん、読んだのは中学の時、もう30年以上前だよ、で、何故か最後の一文が忘れられないんだよ、その一文に特に感動したわけじゃないんだろうけどさ、少なくとも最後から二文目のセンテンスよりは記憶に残るよなぁ。で、また帰ってきたよ。僕はディレクション・ホームあるもん。

 今週は月曜が結婚記念日だったんだよ。でも月曜はきついじゃん、そういうわけで今日は外に食べに行くんだよ・・・。行って来るよ。

 ・・・で、行って来たよ、家族3人で、ケイジーノ。このへんにこんないいフランス料理の店があったなんて。ケイジーノって、アーレ・クイジーヌのクイジーヌとは関係ないのかな、はい、よく分りません。結婚18年と5日、僕らは新婚旅行のパリで行ったグラン・ヴェフールの想い出などを語りつつ、それを息子に聞かせつつ、きのこや海老やフォアグラやデザートやらを楽しんだのだった。またフランスに行きたいねぇ、まぁ20年後ぐらいね。
 十分にトシくってからね、じっくり改めて行きたいところはあるね。まだまだ僕らはずっとずっと生きてくわけで、そういうわけで、前を向いてるわけです、当然じゃん。
 黄金ってなんだ、とか言いつつ、全くいかした気分も時に楽しみたいと思いながら、毎日を生きていくわけです


06年 3月21日(火)   張る春、おはぎ、カニエ・ウェスト

 僕は普通は9時か9時前、早い時は8時40分か30分にカイシャに着いてる。まぁ9時前出勤の時は、普通、9時前に1回タバコ吸いに出ます。

 日曜の夜、相変わらず肩がピリピリ張り、腕もパーンと張り、チゲ鍋の具を取るのも辛くて妻に取ってもらったりしておったのですが(泣)、食事中、なぜか腰、いや腰というよりも左側の腰のやや上の方の背中部分が痛み出しました。そりゃもう痛い痛い、なんつーか、とにかく痛い。そのまんま痛みは続き、寝ても起きてもダメ、おまけにこれも毎日のことなんだが夢ばかりで熟睡できず常の睡眠不足に背中鈍痛が重なり、起きられず、「もう少し寝るよ」と言い起床時刻を遅延。そういうわけで、昨日の月曜は9時50分頃にカイシャに着きました。きついわ。

 今日は春分です。肩は変わらずピリピリ痛い。腕も張る。背中の痛みも残ってる。二郎さん神経科には一昨日、妻にヤクを受け取りに行ってもらいました。二郎さん処方してくれてありがとう、レンドルミンにルボックス。総合病院のヘルニア処方、メチコバールとオパルモンはもう少しあります。

 今日は春分です。息子は野球の試合に行きました。僕と妻は後で日本・キューバ戦をTV観戦するでしょう。しっかし、このWBC、ワールド・ベースボール・クラシックですか、僕にはボクシング協会のように聞こえる3文字だけど、まぁ兎に角ひどいね、アメリカって国はいつもの如く。
 最初から決勝に行くつもりで、予選リーグの勝ち残り同士、次の決勝リーグ勝ち残りの準決勝にしても、別グループ1位対2位みたいな、普通のスポーツの国際大会なら必ずやるアレをやらない。もちろん、アメリカが決勝に行くまではキューバもしくはドミニカといった強豪と当たらないようにしてあるわけ。おまけにアメリカは予選リーグで1位になるつもりでその場合の試合日程も休みながらできるよう有利にしてあったらしいけどメキシコに予選1位奪われ思惑外れ、決勝リーグでも勝ち残れず準決勝に行けず、ってわけで、どうあがいても最後までキューバ、ドミニカなどの勝ち残りと当たらなくなったのでした。
 審判だって、3人に2人以上ぐらいがアメリカ人。日本・アメリカ戦の時だって、1人(ナニ人?)以外はみんなアメリカ人だったんだと。それでもって、あのどう観ても何度ビデオ映像同時に観ても早い離塁などしていないタッチアップにアメリカが抗議して判定覆し日本の決勝点を取り消し。メキシコ・アメリカ戦では、明らかにポールに当たってグランドにボールが戻ってきたメキシコのホームランを、今度は最初からエンタイトル二塁打にしてしまい、メキシコ側がポールの黄色が付いたボールを見せながら抗議しても判定変わらず。ほんま、バカバカしい判定が目立つのであった、アメリカという国はほんま、アンフェアな国だよ、バカらしい。

 えーっと、今日はもうじき日本・キューバ戦。基本的にどっちが勝ってもいいけど、日本応援。ってことは、やっぱ、日本に勝ってほしいのか。
 その後は明るいうちに散歩でもしたいと思っとります、そんな肩張る春の日であります。黄金って何だ、全くいかした気分はどこだ、と思いながら、前を向いて生きていきましょうと思うわけです、今日のこの日も明日も明後日も、もっともっと、これからずっと。

 ・・・はて、日本勝った。それから、今日は春分、妻とコンビ二行って「おはぎ」買った。夕方、散歩に出た。息子が帰って来た。僕は散歩がてらCD屋に行って、カニエ・ウェストの『ザ・カレッジ・ドロップアウト』のスペシャル・エディションを買った。ボーナスCD、ボーナスDVDまで付いてる、DVDにはジーザス・ウォークスのチャーチ・ヴァージョン、クリス・ミルク・ヴァージョン(意味ちょっと分からん)、ストリート・ヴァージョンが入ってる。帰って来て、家族3人で「おはぎ」を食べた。春はほんとは「ぼた餅」らしい。でも、みんな、あんまり区別してないみたいだ、「おはぎ」美味かったよ。春分は彼岸、彼岸は日本の仏教の行事、ジーザス・ウォークスのジーザスはキリスト教のジーザスね、カニエ・ウェストはラップ、というかヒップ・ホップ。去年のハリケーン・カトリーナのチャリティ番組でこの曲を聴いてずっと印象に残っててね。で、前向いて歩くんですよ。


06年 3月26日(日)   家を見る昼寝する散歩する

 この1週間もまぁあんまり変わりません。午前サマ帰りは2回程度だったか。1回はダイヤが乱れていて終電が遅れてたんで、2つ手前までしか行かない電車に乗って妻にクルマで迎えに来てもらった。相変わらず肩はピリピリ、腕は張る。

 息子は金曜が中1の修了式だった。通知票よかったす。それは結果を示した一つの指標ですが、まぁ実際、よく成長してる。僕も妻も嬉しい。

 昨日は家の検査。工務店が家廻り、外壁、屋根、屋根裏、風呂、床下等を見て、所々は我々も直に見て説明受ける、1時間半。デジカメ撮影写真もテレビで見て、改めて説明受け、話し合い、ネゴし、全部で3時間ぐらい。それで、4月に工事することにした。基礎や構造系の保証はもう10年延長となる。屋根、外壁、床下白蟻消毒など。色は何にしましょうかね。

 週末はひたすら平日の疲れが出たりする。今日は炬燵の脇で昼寝してしまった。それから妻と散歩。近隣の家並みの中を歩きつつ、我が家の次の色は何にしようかと話し合う。

 火曜日に買ったカニエ・ウェスト『ザ・カレッジ・ドロップアウト』スペシャル・エディション、よいです。なんか聞いたことある声が聞こえるなぁ、ふむふむローリン・ヒルではと思ったらやっぱりそう、彼女のパフォーマンスとのコラボの曲もあった。メロディを取り込んだヒップ・ホップなら僕は好きですね。CD持ってないけど、エミネムもけっこうよいと思うよ。

 金曜の帰り、キオスクでニューズ・ウィーク(日本語版だよ)を買い、ホワイト・バンド批判批評の記事を読んだ。もうだいぶ前から批判とか「知らなかったホントなの」的非難が出てるのは知ってる。もちろんセレブ利用の臭さとかは当然最初から感じてる。「直接現地支援に使われるのでなく活動の運営費になる、ええっ?」ってのは、僕はいちいちそんな批判非難が出ても別にええっ?なんて思わなかった、ただし特に運動当初の説明は不十分だった、それはそう思う。だけど人道支援は必要、それをやってるNGOやNPOの活動は全部無償、そこには支援しないってのは少なくとも先進諸国ではきわめて日本的な妙な反応だよ。うちは、息子が欲しがったし関心持ったようだし僕は説明して注文して買った、しばらく前。探してた頃のメモは12月29日の日記の下の方にある。こういう運動の限界を指摘したり批判したりするのは簡単だが、それだけしてもツマラナイ。まぁ記事はそういうんでもなかったけど。

 昨日、いや一昨日か、パレスチナ子どものキャンペーン のニュースレターが届いた。何だかずっと疲れ続け、週末ゴロゴロしてしまう僕だけど、もう少しコミットしたいもんです。
 今は息子が弾くピアノの音が聞こえてきます。心地好いです。


06年 3月29日(水)   Tスクウェアを弾く少年

 えーっと、昨日というか時刻的には今日に跨るというべきか、火曜は 24時15分まで働かせていただきました。まったく、とんでもないよ。
 最寄駅まで2つ手前の駅で終着となる、しかもその終電に乗って帰還、本日水曜朝に妻が他のうちの娘さん達と息子を発表会会場まで送る用事あり、さすがに昨深夜は迎え頼まず寝ていてもらい、僕はタクシーで帰還。帰宅時間は1時半はゆうに回ってたと思うなぁ。晩(どこが晩じゃ)ご飯を用意しておいてもらうのも避け、近くの空いてるコンビニで弁当とビール買って帰宅しました。で、弁当食ってビール飲んで就寝。たらたらしてるうち3時頃になってたと思うなぁ。
 相変わらず肩はピリピリ、腕は張る、よく眠れるわけがありません。

 今朝は息子がエレクトーン発表会に出演。僕はだから頑張って有休取った。妻は、息子と共に、同じアンサンブル・グループの中1、中2の少女、計3人の少年少女を発表会会場に送り、僕はその直前に起床、朝食取って支度。妻がいったん戻り、少女お二人のお母さん、それから僕、だから大人3人乗せて合計4人、また発表会の会場へ。

 いやはや、僕は睡眠不足で大変でしたが、発表会の間じゅう、ちゃんと起きてましたぞ、息子を含む少年少女3人の演奏Tスクウェアのフュージョンの曲、よかったよかった。息子はエレクトーン、少女2人は1人がエレクトーン、1人がピアノ、今日の演奏のメロディ・パートは息子でした。テンポが速く、速弾き系もありますが見事に演奏! リズムにも良く乗れてたし、速いところも滑らかに弾けていて、よかったです。だいぶ練習してた甲斐がありました。

 その後は家族3人で昼ご飯、楽器屋・楽譜屋、本屋に立ち寄ってから帰宅。僕は帰ってから、いつのまにか炬燵の脇で寝てしまいました。睡眠不足のせいだろう、頭も痛くなり、横になったら寝てしまった。起きたら、もう夕方。有休取っても半日はこれだ!

 でも今日の半日は、息子たち少年少女の演奏が聴けて良かった。満足です。明日からまたシゴトに戻る。木金と働けば、また土日はゴロ寝できるはずだ!(笑)_


06年 3月30日(木)   中学初ヒット!

 隣の市の中学との練習試合。息子は2試合目にスタメンで出ました。9番、ライト。

 試合は8対4で勝利。息子は2打数1安打で、打点も記録。1打席はレフト前ヒット、もう1打席も強い当たりで、ショートのファイン・プレーでライナーを捕られたらしい。

 息子にとっては、たしか、中学野球部の試合での初ヒットのはず。1年生だから、試合自体そんなに出てないが、中1を終わろうとする時期の試合で初ヒットが出ました。

 最寄駅からの帰路、迎えの妻の運転するクルマのなかで妻から聞いたんですがね、未だ息子も起きてたから、帰宅してから本人からも聞いた。とにかく、初ヒットです。目出度しメデタシ!_