上記は昨年 GREENDALE を買って聴き、また来日コンサートにも行って打った感想記の数々。その後、音楽業界的世間においては、この GREENDALE の評は賛否両論という感じでまちまちであることを知った。東郷かおる子の愚劣なコンサート評について はさて措き(というかこのリンク先に記した通りであるが)、この作品自体の評が僕には意外と分かれており、マイナス評価も散見されることを知った。
アマゾンに出ていた評(John Mulvey, Amazon.co.uk)にしても、「風変わりなコンセプト・アルバムであると同時に大衆劇場的な作品」、「ざっくばらんな視点で描き出される『純朴なアメリカ』――閉鎖的で感傷的、そして時に外国嫌いなアメリカ像――と、焦点がぼやけているにせよ善意から発せられている反企業的、環境賛美的なスローガンがごちゃ混ぜになっている」等々。とは言っても、この評にも、「ヤングはこの数年間でもっともエネルギッシュな歌を聴かせている」とか、「ヤングが今回の素晴らしいアルバムから引き出してくる喜びには曇りがなく、さえないパッセージを超えて聴く者の胸に迫ってくる」といった一見矛盾するようにも思える評価が出ていたりもする。最後に、「ここ数年でもっとも魅力的なニール・ヤングのアルバム」とまで言っていたりする。もっとも、コンセプト・アルバムなのに荒削りだとか、一部の主張が政治的、直接的で、おそらくは教条的だのプロパガンダ的だのといった否定的評価は確実に含まれていそうである(もっとも僕はこの評を日本語訳で読んだんだがね)。
おそらくは、日本国内のメディアの一部にもそうした評はあったんじゃないか。
アメリカにおいても、ビッグ・ネームの力作のわりに、たしか僕の知る限りではグラミーにかすりもしなかったのも、あながちその表面的な政治性が忌避されただけでなく、アーティスティックな出来ではないとの評価があったのかもしれぬ。
元々「評論家は地獄に行け」ってのがロック界で言い古された(?)言葉なのだろうが(たしか件の言葉はEL&Pの誰かの発言だったような)、しかしマトモな音楽評もある。脱線するが、(これも好き嫌いありそうだが)日本人では渋谷陽一はおそらくかなりマトモな方、日本人ではないがメディアを通して評論活動を知ることのできる在日イギリス人のピーター・バラカン、この人については僕はかなりの高評点である。
さて、どうして GREENDALE の評に上に記したような反応が現れたか。これはもうはっきりしてる。音楽がシンプルであるうえに、歌詞に込められた所謂「社会的」メッセージがこれもシンプルであったこと。自分はオツムの出来がヨイと思ってる評論家連中には反ってこれが理解できないのである。こういうの(音と言葉によるシンプルな「社会的」メッセージ)は思い切り気恥ずかしくなってしまうのだ、彼らには。おいおい、もう少し微妙な機微を表現してくれよ。あるいは、コンセプト・アルバムなんだからもっと難解にしてくれよ。そんなところだろうね。
僕はこういう反応はお粗末だと思う。実は僕自身、自分のことをけっこうアタマがヨイと思っているのだが(はっはっはっ、爆)、表現というものが常に難解であってほしいなどとは思わない。難解であるものを解き明かすことに知的快感を持つことはあるが、メッセージや表現方法がシンプルであることは即、陳腐であるということにはならない。当たり前のことだ。
コンセプト・アルバムといわれるが、ニール・ヤングは妙なコンセプト・アルバム(普通はコンセプト・アルバムは妙なものなのだ、その中によい出来のものもイマイチなものも、ダメなものもあるといったものだろう)を作ったわけではない。ある意味、イメージ的に固定観念を持たれそうな「コンセプト・アルバム」という言葉は、文脈を慎重に選んで使ったほうがよいのかもしれない。Amazon.co.uk の評者は「コンセプト・アルバムというものは過剰に練り上げられているのが常なのだが」とコメントしているのだが、GREENDALE にはその種の過剰さは全くないと言ってよい。過剰なものを剃り落とした、その意味で、まさしく「風変わりなコンセプト・アルバム」なのだ(あるいは皮肉屋の評論家なら「過剰なシンプルさが」云々と評すのかもしれぬが)。
ニール・ヤングは意識してサウンドをシンプルなものにしたのではないかと思うのが妥当な見方だ。確か何かの雑誌で見たインタビューでも本人がそんなことを言っていたような気がするが、これを単に何でこんなにシンプルなの?と受け取ったら、既に GREENDALE の街の入り口を見つけることすらできないだろう。
演奏者としては Neil Young & Crazy Horse がクレジットされているが、Crazy Horse のメンバーのうち、実際にはギターの Frank‘Poncho’Sampedro は録音に参加していない。Neil Young がギター、ハーモニカ、オルガンとヴォーカル、それに Billy Talbot のベースとバッキング・ヴォーカル、Ralph Molina のドラムスとバッキング・ヴォーカルを加えたトリオでのレコーディング。 Frank‘Poncho’Sampedro は単に個人的な仕事のスケジュールが合わなかっただけということのようだが(ツアーには GREENDALE のパフォーマンス部分はキーボードで彼が参加してる)、それでもトリオだけで敢えてやってしまうのは、元々シンプルなサウンドを基調にするつもりだったからだ。
実際、一発録りというかスタジオ・ライヴというか、仕上がりにも少なくとも表面上は緻密な計算が見られない(そのこと自体が計算かもしれないが)。ちなみに他にコーラスとしてニール・ヤングの妻の Pegi Young を含む4人。僕は 日本公演 を観た時はこの4人もしかしてヤングとクレイジー・ホース合わせて4人の妻たちじゃないか、ヤングなら有り得るかもと想ったものだが、おそらく Pegi 以外は違うみたいだな。
このアルバムは、こちらも思い切りシンプルに言い切ってしまえば、架空の田舎街 GREENDALE を舞台に、人間の若さや成熟していくということ、あるいは老いるということ、人間が過ちを犯すこと、それから家族の絆、それにメディアや体制の「暴力」などを織り交ぜ、街に生きる Green Family やその周囲の人間模様、そしてメディアや体制の「暴力」に立ち向かい街から「世界」に向かって挑んでいく少女を、シンプルなサウンドと叙情性のある歌詞で物語っていくアルバムだ。
僕は小説は読まない方だが、小説で言えば全体小説みたいなものじゃないか。収録された10曲の作品同士に繋がりがあり、いろいろなことを歌っているようで、実は一つのストーリーに繋がっている、そしてそれだけでなく、実はニール・ヤングにとっては全てが同じテーマなのかもしれない。人間は生まれ成長し成熟し老い死を迎えるが、決して一人で生きているのではない、家族があり、社会があり、時には社会とぶつかることもある、そうした事象はバラバラに存在するのではなく、一人の人間が全てを経験することも有り得る。
世の中には若者もいれば老人もいるが、若者は永遠に若者なのではなく、老人もはじめから老人であったわけではなかった。
愛妻家で子煩悩な人間がいれば社会に果敢に立ち向かう人間もいる。しかしそれらは必ずしも別個に存在するとは限らない。同じ一人の人間の人格が両方をやってのけることも、もちろんある。
そういう、さまざまな姿になって現れる人間の生やそんな人間が作る社会を、いろんな切り口から表現して、それらを一つのストーリーに繋げている。
つまり私小説でもなく、しかし人間を鳥瞰図の中に描くような「社会派」小説でもなく、一人一人の人間の生や成長、老いや死などを真ん中に据え、なおかつそれを「静」にも「動」にも描き、そのうえで「社会」へのコミットメントについて描いている。
音や言葉のシンプルさに惑わされてはいけない。ここではこれらを物語るためにシンプルであることが必要だったのだ。
もっとも、上に一部引用した Amazon.co.uk の評者が「ヤングは年齢についてのきわめて個人的な感慨を一見客観的なドラマの中に忍ばせている」と評しているのは『当たり』で、その典型例として Bandit を取り上げているのも然り。この曲は成熟や老いや人生でどう収穫を得るのかといったことへの向き合い方について、ニール・ヤング自身のアティチュードを物語るように描いていて、それで君たちはどうだい?と聴くものに静かに深く問いかける力を持っている。
「識者」とか他称され、「評論家」とか自称しまた他称もされるような連中が頭がヨイとは限らない。こいつは例えば学校のお勉強とは違う話だ。
学者より木こりや漁師や農夫の方が、本当は頭いいってことは有り得る。それは十分に有り得る。難解な理論を持てばそれは少なくとも「世渡り」の武器になるが、それが常に本物の知性であるとは限らない。知力は身体性とどこかで結びついていて、はじめて人の心を動かすものだろう。それは結局その人、ヒューマンとしての個人の在り方次第なのかもしれないが。ややこしいな人間は。シンプルに表現するということがシンプルな内実を表現しているのではなく、案外そうすることは実はややこしい人間の在り様なのかもしれないのだ。
ニールヤングには、武骨な人間の力みたいなものを感じる。美しいアコースティック・サウンドを聴かせるときは繊細な表現となって現れ、暴走機関車のようにギターを弾きまくるときには豪放に迸る電流のようなエネルギーの放出となって現れる。
GREENDALE は、少なくとも「お利口さん」が作った何やら仕掛けだらけの「コンセプト・アルバム」というものではない。そういうある種、手垢さえ付いているかもしれない「コンセプト」という言葉とは遠いところにある類の「コンセプト・アルバム」なんだろう。手垢が付いているとしたら、農夫の手垢が付いていそうなアルバムだ。農夫が農夫の言葉で喋った、農夫の手垢が付いた哲学書みたいな肌触りを、僕は感じている。
(2004年11月28日、記)