05年10月 1日〜12月29日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


05年10月 1日(土)   ソー・タイアード

 クラプトンのニュー・アルバム BACK HOME の1曲目は SO TIRED です。とっても疲れてる。・・・ところがこれは、心地よい疲れのことを歌った曲。クラプトンはこれまで人生そのものがブルーズの表現になっているような生き様でしたが、還暦を過ぎた今、ほとんど初めての、心を許せる、帰る場所としての『家族』の環境を持ち(今までも愛人は数知れず、これまでも結婚したり子供ができたりしましたが、しばらく前の彼にとってそれも安息の地にはなりませんでした)、あのトシで若き愛妻と子供を持ち、今は子供を育てることに幸せと心地よい疲れを感じている、というわけです。疲れはするが、それは心地よい疲れなんだ、どうやらクラプトンはそいういう種類のことを、その曲で歌っているようです。

 さて、クラプトンの話からいきなり日本の無名のカイシャインの話です(笑)。僕には文字通り愛妻と愛息がいて、帰るべき安息の地があります。とても僕は幸せなのです、その意味で。

 だけど僕の ソー・タイアード は心地よい疲れではありません。まぁ僕の疲れはカイシャインとしての仕事の疲れなんですけどね。今日は詳しくは書きませんが、まぁ、ったく、たまりませんわ、ホンマに。本当に、心底、疲れる。
 先日、二郎さん神経科が、またレンドルミンに加えて別のヤクを出しました。僕はまた翌朝起きるのがきつくなるといけないので、昨日までは飲んでませんでした。今晩は、明日は日曜だし、飲んでみようと思う、ミラドール。このヤク、誰か知ってる? だいじょうぶっすか?
 昨日は24時に退勤して最寄駅に辿り着ける終電に乗れず、二駅手前まで夜中1時頃に妻のクルマ迎え。帰宅して晩(?)ご飯。まぁミラドールは昨日飲んでもよかったけど、忘れてた。そのまま朝まで起きちまったよ。で、昼近くまで寝てた。眠りは浅いっすけどね。
 メチコバール、オパルモン、クラリス、アレギラ、ルボックス、レンドルミン、ミラドール。ヤク漬けですがな(笑)。明日は少し仕事系の勉強をして、それから散歩ぐらいはしようと思います。道端に 黄金の心 などありませんでしょうか


05年10月 8日(土)   疲れますが、 I shall be released.

 今週は月曜も遅かったが時間は覚えてない。(火)(水)(木)の3日連続は、退勤24時20分、最寄駅より二駅手前の駅が終着となる時間帯の最終電車、その駅に25時10分頃に着き、妻の深夜迎えクルマで家路に向かい、25時30分(要するに午前1時半ね)をゆうに回る時刻に帰宅、26時前後から風呂とか晩(??)メシとか、そうなりゃ寝床は午前3時前後。僕が眠れるのは午前3時過ぎ。

 もうじき朝刊配達のバイクが(この音聞くと眠れなくなるんだ、笑)が来ねぇかって頃までに何とかメシ食って、オパルモンやメチコバール、アレグラやクラリス、ルボックス(前の日の出勤前からだから間が空き過ぎ、笑)、ミラドール、レンドルミンを飲んで、寝床に着くわけ。

 木曜(というか時間的には金曜なんだが)は、ゆっくり歩くとカイシャから駅まで15分、早足でも12,3分が普通の距離を7分ジャストで走った(これも乗り遅れると終着駅が更に手前になって帰宅するのが大変なんだ。去年一度あったけどね、電車下車したあと途中までタクシーで進んで、その途中の地点までヨメさんにクルマ迎えで来てもらったことが!)。
 間違いなく、ベン・ジョンソンの速さだったね。まぁ僕もルボックスやミラドールとか飲んでるから、ジョンソンと同じくドーピング検査すれば失効の記録かね(笑)。

 困ったもんだ。で、実はね、この間、休みが取れないで、今は誕生日から1ヶ月後まで猶予がある運転免許証の更新最終期限があと1日ってところになって(僕の県の運転免許センターは遠い県庁所在地だけで、地元の警察署では平日しか手続きしないのよ)、昨日の金曜にようやく何とか休み取って、免許の更新へ。
 免許更新なんて半日もつぶせばできるけどさ、疲れきってたので、遅刻や早退使わずに、久方ぶりに1日休み取ったのよ。もっとも更新に行く前に職場に業務連絡メールしたり、帰宅してからもまた業務連絡メールや業務連絡電話したりしたんだけどさ。ま、機関誌の次号の特集記事、これで2本目も入稿できて、他の諸々、沢山の記事原稿もぜんぶ入稿自体は終わってる。あとは連日続いてるゲラの校正作業や、その他は表紙や特集扉の写真選定、目次頁のチェック等々ね。校了したって直ぐに次の号に仕掛かるんだけどさ。いや、仕事の話。欠員補充なしの広報課ガチョウも大変なのさ。
 で、運転免許の方は一応この間「優良」だったんだけど、でもゴールド免許保持者もたいへんなんだ、こういう手続き要すること自体は平等だもんねぇ。休みも取れないカイシャインにはアブナイ綱渡り更新だったんだよ。

 金曜は久方ぶりの休みで朝も遅くまで寝床にいて、息子と会ったのは部活帰りの、夕方以降暗くなってからの時間。
 今週は、月曜の朝から金曜の夜までの間、一度も息子と顔を合わせられなかったよ。
 ま、きつい毎日。・・・ I shall be released. _


05年10月 8日(土)   軍人恩給を拒否し続ける 尾下大造さん (1)

 以下は、2001年 8月 7日、朝日新聞の 『戦争の死者をどう悼むか』 というタイトルのオピニオン欄に掲載されていた、尾下大造さんの寄稿文だ。
 僕はこのサイトの 2001年 8月15日の日記で「靖国神社」の問題を取り上げ、その中で、尾下大造さんが 2001年 8月 7日付の朝日に寄せた文章のことに触れた(ここの部分)。
 尾下大造(おした だいぞう)さんは、1922年生まれ。1940年12月から4年半、軍隊生活を送り、中国、東南アジアを転戦した。

 以下には、その時の尾下さんの文章を全文掲載しておきたい。
 どうせ朝日には「オピニオン」というものはない。その時も朝日は4人から記事原稿を寄せてもらい、東条英機元首相の孫であり靖国に合祀された「A級戦犯」遺族の中で数少ない合祀除外反対論者として唯一公けに合祀除外に反対を唱え、かつ日本の現役総理に公式参拝を求める東条由布子氏(とうじょう ゆうこ、1939年・ソウル生まれ、東条英機の長男英隆、幸子夫妻の長女、本名・岩浪淑枝)からも寄稿してもらい、「バランス」を取っていた。「不偏不党」「客観」を装い、「論」を持たないのが朝日だ(「社説」を読んでみたまえ。「論」が幅広く行ったり来たりし、何が言いたいのか分からん「説」ばかりだ。それにひきかえ、産経や讀賣にはツマラン「論」が明確に出ているのは滑稽だが)。
 ショーモナイ朝日にとっては「無断転載」だが、私的サイトに転載・・・ である一方で、おそらく尾下さんは、こんな僕のサイトでもご自身の考えが掲載(転載)されて、少しでも、一人でも二人でも多くの人に「こういう人がいるのだ」ということが知られること自体は歓迎してくれると(僕は勝手ながら僭越ながら)想っている。

 念のため付け加えると、僕は「A級戦犯」を合祀者から外したところで、靖国が戦死者・戦没者を英霊として(追悼せず)「顕彰」していることの問題性は変わらないと考えているが、そのことはここでは詳しくは書かない(そのことは例えば 高橋哲哉の『靖国問題』にも書かれていて、僕はそれに同意する)。

 寄稿された当時は、小泉総理の「終戦記念日」(敗戦記念日)の靖国への「公式」参拝が取り沙汰されていた時期だ。当時、「結局、小泉は15日を避けて、13日に参拝した。しかし、ことの本質は何も変わらない。本人の「純粋な」(?)心情にも関わらず、姑息な方法というしかない」(このサイトの僕の2001年 8月15日の日記の最後はこう締め括っていた)。

無残な死、ひとりその無念思う 尾下大造・軍人恩給の受給を拒否してきた元陸軍軍曹

(2001年 8月 7日付・朝日新聞に掲載された尾下大造さんの寄稿文)

 昭和16年、中国でのことだ。私は5、6人の先輩とともに敗残兵の討伐に出かけた。日本兵を恐れて、河川敷のヨシの中に女性や子どもが20人ほど逃げ込んでいた。

 1年先輩の上等兵が突然、軽機関銃を十数発連射した。悲鳴があがった。地獄の光景だった。あまりのことに私は思わず「何でこんなことを」と叫んだ。上等兵は言った。「むかむかしたでや」

 虐殺、強姦(ごうかん)、放火、強奪は日常的にあった。でたらめだった。せめて自分だけはそういうことはしたくなかった。東洋平和のためと言われても、私には日本が悪いことをしているとしか思えなかった。表向きはまじめに義務を果たしたが、内心ではこの戦争を疑っていた。こんな軍隊で勝てるはずがないと思っていた。

 昭和17年、フィリピンのネグロス島に駐屯していたとき、私は上官から住民の一人を殺すよう命じられた。ごつい体つきの35歳ぐらいの男だった。部下と一緒に男を連れだした。命令だからやらないわけにいかない。「お前やれ」と、とっさに私は部下に言った。部下は男の胸を突きそこなった。男は川に落ちた。私は銃で男の頭を撃った。

 「アコー・ノー・パタイ」。

 男は叫んだ。現地の言葉で「おれは死にたくない」。私はこの言葉を絶対に忘れることができない。

 私は戦後、軍人恩給の受給を拒否してきた。戦争の犠牲者は決して私ではない。それはアジアの人々だ。救済すべきはアジアの人々であって、自分が恩給をもらうことには強い抵抗感があった。ほかの人にもらうなと言ったことはないし言うつもりもないが、自分はもらいたくなかった。

 戦死者を靖国神社に神として祀(まつ)るのも、「死んだら神になる」と言って戦意高揚を図った軍国日本の気休めでしかない。壕(ごう)の中で泣き声をあげたために殺された沖縄の赤ん坊、政府がとっくに終戦を決断していた時期に日の丸の鉢巻きをしめて飛び立った特攻兵、何も悪いことをせずに死んでいった人々は神だ。しかし、殺生を推進した人々が果たして神か。

 その靖国神社を首相が参拝するという。愚かなことだ。8月15日と日にちを決めて参るなどというのは、形式だけの参拝であって本当の慰霊ではない。日本がまだ戦争から足を洗っていないことを内外に示すだけだ。首相はまず、アジアの死者を悼み、沖縄の赤ん坊を悼むべきだ。

 私はベトナムで終戦を迎えた。私があげたおにぎりを手にもったまま、やせ衰えて餓死していった5歳ぐらいの坊やがいた。あと1週間で戦争が終わるという時期に、何人もの兵が私の目の前で無残に戦死していった。その名前、顔、言葉を私は忘れない。

 折につけ、ひとり、その人たちの無念を思う。それが慰霊であると私は思っている。

(尾下大造さん、1922年生まれ。1940年12月から4年半、軍隊生活を送り、中国、東南アジアを転戦。元陸軍軍曹。戦後、軍人恩給の受給を拒否。)_

 


05年10月 8日(土)   軍人恩給を拒否し続ける 尾下大造さん (2)

 以下は、それ から3年後、2004年 8月 2日付の東京新聞に掲載された、尾下大造さんを取材した記事だ。東京新聞さん、転載ご容赦いただきたい。たのんます。

戦前と同じ空気に危機感 元日本兵恩給拒否のワケ

(2004年 8月 2日付・東京新聞が掲載した、尾下大造さんを取材した記事全文)

 「被害者はわしではない」−。軍人恩給の受給を拒み続けている元日本兵がいる。岐阜県飛騨市の尾下大造さん(82)だ。尾下さんには恩給は「口止め料」と映る。戦禍の記憶は薄れ、「国際貢献」の名の下、再び“戦場”に兵士たちを送り込む時代が来た。飛騨の山村で、恩給と「沈黙すること」を拒んできた元日本兵の目に、五十九回目の戦後の夏はどう映っているのか。 (中山洋子)

 敗戦の翌年、一九四六年初夏のことだ。田で草むしりをしていた尾下さんに、兵隊仲間の一人が「ハンコ持って役場に来い」と声をかけた。男は「恩給あたるで」と言った。

 実際に軍人恩給制度が復活したのは五三年からで、戦後すぐの恩給運動は実らなかったが、尾下さんの「反発」はこのときから始まっている。「深いこと考えとったんでなしに、ただムカムカっとした」

 「東京は焼け野原で、豊橋(愛知県)の工場も焼け、名古屋もやられた。広島や長崎では何十万人も(原爆の)後遺症に苦しんでいる。日本中がひどい目に遭って、まだ何の手当てもできんときに、生きて帰ったもんが恩給とろうという根性にものすごい腹立った」

 尾下さんは敗戦後、材木会社で働いていた。林業が衰退していく中で、暮らしが楽なはずはない。だが、尾下さんは地元出身の元将校らに支給申請を促されるたびに拒んだ。業を煮やした県の担当者が当時、商工会に勤めていた妻に「あんたんとこはまだ改心せんか」と迫ったこともあった。

 七〇年に脅迫とも感じていた支給申請を促す連絡や通知を止めてほしいと、県の人権擁護委員会に手紙で訴えた。手紙には、恩給を受給することは「私のなにかが許さないのであります」と記した。が、その後も通知は続いた。

■連隊の記念誌『うそばかり』

 有形無形の圧力をはねのけ「わしはもらいとない」とかたくなに拒み続けた「なにか」は、軍国少年だった尾下さんを変えた自らの戦争体験につながる。

 「恩を売られとない。ものを言えんようになる。子どもや孫を戦争にやりたきゃ(恩給を)もらやいい。だけど、わしはやりとないで、もらわん」

 材木商の二男として生まれた尾下さんは四〇年十二月、十八歳で陸軍に志願する。「ニッポンはロシア相手に勝ったきっつい(強い)国だと。そういうことばかり聞かされ育った」

 志願も戦前の「皇紀(元年は神武天皇即位の年)」で紀元二千六百年の区切りの年にした。一方で「早いこと行って、早いこと帰ってきた方がいい」という気持ちもあった。

 富山東部四八部隊に入隊し、中国北部、フィリピンと転戦、ベトナムで終戦を迎えた。所属した連隊が制作した記念誌を開きながら「いいこといっぱいした、と書いて残して。うそばっかりや」と憤る。

 戦場ではレイプも強盗も日常茶飯事だったという。「わしはせなんだ」と話しながら、声を絞った。「でも、ツメ跡は残した」

 四一年のことだ。「川があって、堤防の外側にヨシがあって。中国の女の人が逃げ込んでおったので、上等兵が軽機関銃で撃ちました。タタタタタンと出るやつ。中国の嫁さんたちが撃ち抜かれて結局、死ななあかんのな。地獄の光景や」

 尾下さんは、思わず上等兵に「何でこんなことするの」と怒鳴った。当時、尾下さんは十九歳、上等兵は三つ年長の二十代前半の若者だった。「ムカムカしたでや」と言い放った。

 「戦争しとればそんなことばっかりやがいや。人間は性悪説やな。普通やったら、孫子の代まで恥になると思うから、悪いこともこらえとんのな。それが戦争になったら、悪いことするんやで。善良な人でもそうなってまう」

 「大きい戦(いくさ)のときはそんなことしとれん。小さい村に敵の兵隊の情報があって、十人ほどで討伐に行くときや。敵がおれば追っかけるが、おらんわな。帰りしなに村ん中探(さが)いて歩いて、荒らして盗んで、若いおなごが隠れとると、レイプして殺(ころ)いてまう」

 四二年、フィリピンのネグロス島で、住民を殺すように命じられた。上官の命令は絶対だ。虐待に加担するのが嫌だった尾下さんはとっさに「おまえやれ」と部下に押しつけた。部下は男の胸を突きそこない、尾下さんは川に落ちた男の頭を撃った。男は「おれは死にたくない」と現地の言葉で叫んだという。

 将校は手を汚さない。「後ろの方におって、ただ(戦場に)行っとったものもいっぱいおる」と吐き捨てるように言う。

 総務省によると、本年度予算で恩給受給者数は旧文官も含めて百二十八万人。97%が旧軍人とその遺族で、支給総額は一兆六百六十億円に上る。最低支給額が保障されており現在、短期でも一人当たり年に五十六万八千四百円、遺族もほぼ同額が支給される。

 軍人恩給の支給対象は原則、十二年以上軍に在職した者だが、三七年の日中戦争以降は特例規定があり、戦地に赴任した場合は、時期や地域によって最大で一カ月が四カ月分に計算される。つまり、激戦地での赴任が続くと最短で三年の勤務で支払い対象になる。

 尾下さんの場合、五年五カ月の在籍期間のうち、中国などの戦地で約四年半を過ごしたため、十四年以上勤務したとみなされる。

■『選挙のためでは』と憤り

 軍恩連盟や日本遺族会など受給者団体は、言わずと知れた自民党の有力支持団体だ。首相による靖国神社公式参拝を訴えており、小泉首相が自民党内で基盤を強めたのも、両団体に「首相になれば公式参拝する」と公約したため、といわれる。同首相は首相就任後、二〇〇一年八月から〇四年一月にかけ計四回、靖国神社に参拝。拝殿で「内閣総理大臣」と記帳した。

 尾下さんは「票のためだけに、心にもないようなもんに、参られたのでは死者は浮かばれん」と憤る。

 「わしに抱かれて死んだ仲間もおるの。わしが靖国に祭られるつもりがないからといって、この人たちもそうやとは言えん」と前置きしつつ、こう繰り返す。

 「遺族も(公式参拝で)うれしいばっかでない。戦死者を本当に参る気持ちがあるなら、内々に一人で参ればいい」

 この夏、自衛隊はイラクで多国籍軍に加わった。政権を揺るがすような反対運動はなかった。それが尾下さんの目には「きっつい(強い)国」と教えられて育った状況と重なる。

 「(戦前、戦中)日本は悪いことせなんだんや、という空気が広がっている。(最近では)政治家も選挙民も、自衛隊に鉄砲ようけ持たせて外国へやるのを、いいことやという」と嘆きながら、つぶやいた。

 「わしのようなもんがようけおってもいいはずなのになぜ、誰もしゃべらん」_

 


05年10月 8日(土)   軍人恩給を拒否し続ける 尾下大造さん (3)

 以下は、朝日への寄稿 からは4年後、東京新聞の取材 からは1年後、今年の 8月 3日付の岐阜新聞の朝刊に、『シリーズぎふ戦後60年 戦争を伝える』の連載記事の一環で掲載された、同紙が尾下大造さんを取材した記事だ。岐阜新聞さん、転載ご容赦いただきたい。たのんます。
 尚、この記事の下には、同紙が翌日 8月 4日付でやはり尾下大造さんを取材した記事を載せたので、それも併せて掲載する。

軍人恩給拒否・飛騨市の尾下大造さん − 残虐行為「申し訳ない」

(2005年 8月 3日付・岐阜新聞が掲載した、尾下大造さんを取材した記事全文)

 「軍人恩給がもらえるということは長期間戦争に行っていたということだが、略奪やら虐殺やらを見ただけで自分がもらって軍歌なんか歌っていては申し訳が無いからわしはもらわん。妻も理解してくれている。二人の子どもにとっても一番の誇り」。戦後、軍人恩給を拒否し続ける元陸軍軍曹尾下大造さん(83)=飛騨市古川町片原町=が言う。

 林業家の二男として七人姉弟の真ん中に生まれる。 「四歳年長の兄は現役で近衛兵に行った。父は明治末期の歩兵。おじは陸軍、もう一人のおじは海軍で表彰を受け、父のいとこは金鵄(きんし)勲章を三つもらった軍国家庭で、天皇陛下のために兵隊に行くという軍国教育にみんな洗脳されてきた。同時に村で小作や貧乏人のせがれは、出世とまでは言わないが下士官になればひげを生やして偉くなれるということで軍人になるのが貧乏人の生き方だった」

 尾下さんは、小学校高等科を出て青年学校を二年で卒業後、青年学校指導員をしばらくしていたが「山の働き手はみな出征してしまって仕事にならんし、早く行けば早く帰れる」と、一九四〇(昭和十五)年十二月、十八歳で現役志願。翌年早々に中国戦線に従軍、北支からフィリピン、ベトナムと転戦、敗戦で中国軍捕虜となり、四六年四月に浦賀に帰還するまで五年五カ月の軍隊生活を送った。

 「初めは無我夢中でついて行ったが、やがて気づいた。敗残兵討伐とかいって略奪、強姦(ごうかん)、放火、殺人、したい放題。せめて自分だけはそんなことはしたくないと思っていたが、外にいても知らずに加担していたことになる」

 日本兵の残虐行為は今では多く語られるようになったが、生身の口から聞く証言はやはりただ事でない。

 「ある時、富山出身の先輩が川のヨシ原に隠れていた女子ども二十人ぐらいを機関銃で撃った。『何でこんなことする』と言ったら『ムカムカしたでや』と。苦しんでもだえとる母子を見た時、『この戦争って、いったい何だ』と思った」

 尾下さんは、続けた。

 「四一年十月ごろ、うちの部隊へ迷って来た兵隊が、脳みそが性病に効くという言い伝えをあてにして女の人を殺した。これなどは南京大虐殺にも匹敵する話。自分で悪いことをした病気のために人を殺すなど、謝っても済むことやない。わしらのような小隊でもそんなことがあった。私の頭の中は、東南アジア、特に中国で残酷かつ人道にもとることを数多くした、申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」

 たまにいい思い出も無くはなかった。戦争といっても、兵士には生活だった。
 「ネグロス島からベトナムに転戦する時、親しくなった現地の子どもたちが鶏の丸焼きや菓子を作ってお別れに来てくれた。最高の喜びやった。今考えると、やしまなんだ(侮辱しなかった)だけ。日本の軍隊は鉄砲を持って威嚇するばかりだったので、そういうことをしなかったのがいい人のように見えたのかも」

 だが、軍隊という戦争集団の中で、常に“いい人”であり続けるのは難しい。
 「フィリピンで戦死した丹生川出身の親しかったお坊さんは、人の物を取るとか悪いことは絶対しない人だっただけに、苦しんだ」

 尾下さん自身も、ネグロス島で大隊長命令で三十代の人一人を殺した。九八年に雑誌「世界」に連載後に単行本になった「戦争と罪責」の著者野田正彰さんの取材で、初めて明かした。
 「今思うと、あれも殺すほかに道は無かったのだろうかと。悔やまれます」

 (永井豪編集委員)


 この記事には、「従軍当時の写真を前に、略奪や残虐行為に明け暮れた戦争の“正体”を語る尾下大造さん=飛騨市古川町片原町の自宅」というキャプションとともに、尾下さんが自宅で従軍当時の写真を見せてくれている写真が掲載されている。
 サイト上の本文と写真の掲載場所は ここです

 その翌日、今年 8月 4日付の同紙には、この続きの記事が掲載されている。

軍人恩給拒否 − 今なお圧力、精神的苦痛

(2005年 8月 4日付・岐阜新聞が掲載した、尾下大造さんを取材した記事全文)

 尾下大造さん(83)=飛騨市古川町片原町=は一九四六(昭和二十一)年四月、ベトナムから浦賀に引き揚げ船で無事帰還した。富山東部四十八連隊に入隊して以来五年五カ月間の軍歴が「第一種戦闘地区」や「外地の警備」ということで十五年以上在隊と換算され、軍人恩給の対象になった。

 帰還してすぐの四六年六月ごろ、役場から「恩給がもらえると思うので一円五十銭とはんこを持って手続きに来て」と通達があった。

 「海外にまだ、百万、二百万もの人が帰れずにいるというのに、はや恩給というようなことを画策している者がいたとは、けっつらけえた(けっ飛ばした)ようなことで、行かなんだ」

 五、六年がたった後、今度は軍人恩給連盟という組織からお呼びがかかった。
 「役場に行ったら、国府の出世頭で陸軍少佐になった人が中央に座り、少尉や中尉とかも二、三人いて『おれたちは早く軍人恩給がもらえるようになった。君たちも連盟に入れ』と」

 尾下さんは「おれたちをダシにして、自分たちがもっと得しようというようなことは嫌だ」と会場を出た。ところが、その後も軍人恩給話は追いかけてきた。

 「戦後十年、二十年がたっても『入れ、入れ』とうるさい。県の職員も家内を勤めていた役場で呼び出し『まだ改心せんか』と。どっちが改心や。『死ね』とか『坊主になれ』といってくる者もいた。あのころは事業に失敗して苦しい最中なのに、『金が余るのなら恩給をもらってから寄付すれば良い』などと言われ、精神的に参ってしまった」

■尾下さんは七〇年暮れ、県人権擁護委員会に宛てて「御願」を提出した。以下はその一部(原文のまま)
〈私に絶えず(少なくとも一年一回以上)軍人恩給の受給の申請をする様勧告とも圧力とも解らない連絡が、私自身と家内養母等に有る…私の信念として五年や六年軍隊に在ったといふことで恩給等要求すべきでないと言ふ強力な意志を終戦当時より堅持しておりますのでその都度断って参りましたが…真に何ともいいようのない精神的な圧力を加へて来る…古川町で、岐阜県で私一人が恩給を辞退して何がそんなに迷惑なのか、調べて戴き度く…〉

 さらに、恩給辞退の理由を次のように書き連ねた。

〈一、戦争の犠牲者は決して私では無いこと
 一、国民(軍人民間人を問わず)戦争犠牲者の救済が充分行はれていない
 一、他国民(特に中国)に対する前記は全く行はれていない
 一、右記は金銭物質的のみでなく精神的なものも含めての救済(若くは賠償)〉

■尾下さんは、声高に世に訴えたわけではない。しかし、一般に広く知られることになったきっかけは、七〇年代、東京であった歴史学者松浦玲さんの講演会。
 「日本は戦後も全く変わっていない。その証拠には叙勲や恩給も昔のまま復活した。情けない国だ。それに目覚める者は誰もおらんのか」という話を尾下さんの二男が聞いて、講演後に「一人だけそんなの要らんという人がいます。うちの父です」と講師に伝えた。

 松浦さんは翌年正月に尾下さんを訪ね、話を聞いて雑誌「辺境」(七五年三月号)の「日本人にとって天皇とは何であったか」第二部の論稿の中で紹介。これを機に雑誌「世界」などでも度々取り上げられたが、しかし、状況に変化なし。

 「昨年もまた、『申請せんか』と聞いてきた。家内に『はんこを押せ』と。どういうことですか。これは」

 (永井豪編集委員)


 この記事には、「県人権擁護委員会に訴えた「御願」のファイルを前に、「軍人恩給拒否でさまざまな“圧力”を感じている」と話す尾下大造さん=飛騨市古川町片原町の自宅 」というキャプションとともに、尾下さんが自宅で、県人権擁護委員会に訴えた「御願」のファイルを見せてくれている写真が掲載されている。
 サイト上の本文と写真の掲載場所は ここです

 こういう人が、元日本軍の兵隊であった人の中に存在します。

 関連日記として、今年 7月 3日付の 『戦争体験は引き継がれるか』、 9月24日付の 『哲学の語り口と対象』 にリンクしておきます。 _


05年10月15日(土)   ヘトヘトだけど、黄金の心を探したい。親はそのうち金婚だ。

 今週の出勤は火曜から始まり(月曜は体育の日だったっけ?)、(火)(水)はたしか午前2時近くの帰宅。(木)は午前1時近くの帰宅。昨日は疲れ切って20時過ぎの退勤、ああ4時間以上の早退だ(おいおい、何でだ?)。

 先週は月曜の朝から金曜の夜までの間、一度も息子と顔を合わせられなかったが、今週も火曜朝から金曜夜までの間、全く同様。

 僕の仕事の状態は、昨年度から、まるで日本の失われた10年の時代の時のように(いや、あれはその前の時代かな、バブルかな?)、「24時間戦えますか」のリゲインのコマーシャルのようだ。まぁ、どこに怒りをぶつけたらいいのやら、ふざけるんじゃねえよ って感じだな。
 ただ一つの救いは、いま担当している仕事の分野自体には前から関心があり、分野そのものには意欲がわくということ。先般から外部の通信講座を自費で受けていて、1回目の試験添削結果が戻ってきました。96点。こういう点数で喜ぶのはまるで子供のようだね(笑)。

 ただ、平日の勤務状態がひどいし、土日の過ごし方も、心身ダウン状態、時に持ち帰り仕事、このサイト(HTMLは僕には精神安定剤みたいなもんなのさ)、通信講座の勉強で埋まってしまって、精神以前に、身体の余裕がない(笑)。笑えるか、ふざけるんじゃねえよ

 ま、きつい毎日。だけど、ヘトヘトになっても、僕は、黄金の心 を探して、いつか、解放されるのさ。・・・ほんまか。いや、僕はちゃんと生きてくつもりさ。本当は、いま、Like A Rolling Stone も訳してみたいけどな。ま、いまは時間がない。そのうち。

 来年1月3日は親父お袋の金婚式。貧乏叩き上げの、苦労して頑張って前向きに生きてきた、僕の自慢の親父お袋さ。
 僕は『夫婦水入らず』の温泉旅行をプレゼントすることにした。僕はこの間、いろいろあって、昨日は帰宅がいつもより早かったし、ちょっと親には遅いかと思ったけど田舎に電話して、お袋と話しました。で、あらためて贈り物のことを話した。僕は、なんだか涙が出てきました。久しぶりに泣いたような気がする。まぁ昔から涙腺自体はゆるいんだけどな。
 本当は長男、次男合わせて全家族で、この金婚式祝いの時期に温泉旅行としたかったけど、結局それぞれが考えることにした。  

 親はみんな全員で旅行というのが一番だと思ってたから、僕ら次男一家だけ付いていくことはしない。
 だから、『夫婦水入らず』温泉旅行なのさ。少し寂しいかもしれないが、息子からの贈り物と思えば、楽しんできてくれるだろう。

 兄弟だからって考え方や思考様式が同じであるはずがない。大体は、両親のそれぞれからいろんな部分を別々に譲り受け、そのあとの環境でさらに性格が形成されていって、あんがい世間の兄弟も、兄弟だからこそみたいな感じで性格や考えはだいぶ違う、ってのはよくあることのようだ。
 もちろん、いいとかわるいとか、なんてことではない。兄弟だから全く同じ考えだったりしたら、「人類みな兄弟」なんて、ますますファシズムだな(笑)。だから、違うのはまぁ自然なこと。同じ親の息子達なんだから、親にどうしようって時は合ったほうがハッピーなのは自然なことだが、しかし、だからといって無理にも合わせられない、それも自然なことなのさ。 _


05年10月17日(月)   小泉バカの靖国参拝

 今日、バカ小泉が、靖国を参拝した。羽織袴でもなくタキシードでもなく、本殿には上がらず、三拝せず、私人の「装い」で。
 いや、元々、実際、演技でもなく、彼の頭の中には、私人も公人も、その区別はないのだが。
 過去には羽織袴、タキシードなどで参拝したバカ小泉の、今日のネズミ色サラリーマン姿は、演技というより、サル芝居であった。サラリーマンの僕にはよーく分かるよ(笑)。ったく。

 彼は言った。「総理大臣、小泉純一郎が、一人の国民として、靖国神社を参拝しました」。
 僕が翻訳してあげよう、別の言い方に。バカ小泉は、つまり、こう言ったのである。
 「公人である私が、私人として靖国神社を参拝しました」。

 総理大臣は公人だが、一人の国民は「国民」の一人であって、「国民」の一人は、しかして一人の国民であって、『つまるところ』『一人』として在るのであって、私人なのである。総理大臣は一人だが、それは『一人』として在るのでなく、遍く国民と国民が構成する社会に多大な影響を及ぼす公人なのである。

 「総理大臣、小泉純一郎が、一人の国民として、靖国神社を参拝しました」。・・・しかしてその意味するところは(実は『意味』できない矛盾!)、「公人である私が、私人として靖国神社を参拝しました」。・・・ところで、これは外国語に訳せるのだろうか。まぁ欧米言語に「直訳」「逐語訳」してしまったら、無茶苦茶やがな、ってな話になるんでねぇかい。

 靖国神社についてのメモ。そして、最近の日記では、この日記にも靖国のことを書いたし、この日記の後半にも靖国のことを書いた。

 今日、バカ小泉が、靖国を参拝した。

 僕たち(?)、バカな日本「国民」は、こんなバカな総理大臣を「イタダイテイル」のである。民度には、宰相度。それは相関関係にあるのかい。
 僕? 僕は日本国民の一人である。しかし、その前に日本人の一人であり、その前に、人間である。僕はそう言いたい。 _


05年10月17日(月)   千葉ロッテ万歳!

 千葉ロッテ・マリーンズがパリーグのプレーオフを制し、リーグ優勝した。カネやん監督の、31年前の優勝以来だ。あの時は、日本シリーズで、巨人の10連覇を阻止した、僕の親父が大好きな中日(僕はもっとガキのころ皆様と同じ巨人ファンだったがその頃には中日ファンになっていた)を破り、日本シリーズでも優勝した。
 今回のロッテの優勝、最高の気分だ。僕はセなら中日ドラゴンズ、パなら日ハム(ファイターズ)を応援しているが、ロッテは好きだ。とてもいい。とても良い。大好きなのである。

 千葉ロッテ・マリーンズはほんと、いい。ファンもいいし(どこかの?ファンみたいにヤケクソでグラウンドにモノを投げ入れたりしないし相手の好プレーを称えたりもするようです)、選手の雰囲気も、つなぐ野球も、監督のバレンタインも、近頃のロッテのコマーシャルまで(笑)、なかなかいいです。

 千葉ロッテ・マリーンズ万歳! 選手万歳! 日本一のファン万歳! 日本一のボス、バレンタイン監督万歳!

 今日の試合後のインタビュー、帰宅後にテレビで観ました。バレンタイン監督曰く(日本語で)「ファンの皆さん、応援、本当にありがとうございました。ありがとうございます!」。そして、監督の采配はバレンタイン・マジックと言われていますが今日はどんなマジックを使ったのですか、との質問には、
 (ここはさすがに英語でした)
 「マジックはありません。選手が、最後まで夢をあきらめない気持ちで戦い抜いた結果です」。

 千葉ロッテ・マリーンズ万歳! 日本一のファン万歳! 日本一のボス、ボビー・バレンタイン監督万歳! 選手万歳! _


05年10月22日(土)   Forever Young

 今日は息子は文化祭。息子のクラスは芝居をやり、息子はナレーションを務める。妻は、つまりね、息子の母親は、朝から立哨当番で学校へ。そのまま、息子の学校の文化祭を観てくる。

 椎間板バクダンを抱え、且つ疲労困憊の僕は家でうだうだと過ごしてきた。で、今から仕事関係の勉強。

 先々週は月曜朝から金曜夜まで息子と一度も顔を合わせず、先週は月曜が祝日(体育の日っつー休み)、火曜朝から金曜夜まで息子と一度も顔を合わせなかった。今週は仕事も一時的ほんの少し緩み、後半は家で息子と顔合わせ。昨日の金曜は椎間板バクダン抱えて明るいうちに退勤した。

 息子は健やかに育ってる。いま、中学1年さ。Forever Young !

 僕には健やかに育つ息子と、やさしい妻がいる。Forever Young !

 幸せだよ、僕は。頚椎椎間板バクダンも、睡眠ショーガイも、パラノイド・スキゾフレーニアも、腰椎椎間板バクダンも、とにかく何のそのさ。
 僕には息子がいて、妻がいて、つまり、家族がいる。Forever Young !  追記:29日(土)に 訳したよ_


05年10月29日(土)   世紀の悪文、自民「憲法」案

 昨日、2005年10月28日、自民党が「党新憲法草案」を決定し、発表した。

 世紀の悪文だけど、どうだろう、実はこんな悪文読みたくもなくてロクに眼を通してないが(おいおい、それで大丈夫か!?)、とりわけ前文がひどい。いや、全部ひどいって感じだけどさ。
 以下、前文の一部。

 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。

 これは自民党案の前文の真ん中辺の段落ね。その前後もひどくて、ただ単に詰め込んであるだけで、どんな国、どんな社会をつくりたいのか、どんな社会の姿にしたいのか、それがちっとも伝わってこない。いや、その意図は見え見えではあるのだが、一つのかたちとして読む者の心を打つものが何もない。

 上に挙げた段落は前段だけで十分ひどいと思うが、文章としては後段の方がもっとひどい。「自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する」って何のことだ。ただ単に単語を詰め込んでどうするよ。

 日本国民は法律上、日本国に帰属しているが、人間の心が何かに帰属するものではない。この前文は、まるで、心まで丸ごと帰属せよ、と呼びかけているようだ。そのうえ、気概を持て、だとさ。余計なお世話だよ。

 近代憲法は、本来、人間が社会をかたちづくり共生していくために、やむを得ず必要とする「社会を統治する権力」を縛るためのものだ。もちろん社会の構成員の義務や責任を、その権利とともに規定するが、基本は、構成員が統治権力を制御するためのものである。自民党案は、その意味でも無茶苦茶なものだと読める。

 そもそも、文章が汚らしい。世紀の悪文だよ。彼らはよく、現行憲法の前文は元々英語だったものを日本語訳しているから翻訳調で、日本語として美しくないと言うが、しかし自民党案の前文よりも稚拙な文章を誰が書けるかね。現行憲法の「翻訳調」の前文の方が、何億倍も美しい日本語になっているのは、「日本の伝統と歴史」を憲法に取り入れるのだと意気込んでるオッサンや若オヤジどもには何とも皮肉なことだ。もっとも彼らには、文章の美しさとは何かなど、何にも理解できないのだろうが


05年10月29日(土)   スティーヴ・ジョブスの箴言

 今年 6月14日、アップルの創始者、Steve Jobs が、スタンフォード大学の卒業式に招待されてスピーチしました。
 職場の同僚が、その全文を教えてくれました。日本語訳ね。

 これが非常に感動的なのです。とにかく素晴らしい。全文掲載したいけど、それは自分のところにとっておく。
 オリジナルの英語全文は、ここに あります。それから、映像は、ここね

 一部ご紹介。
 ・・・
 Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma - which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

 「君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。」
 (翻訳は市村佐登美さんという人です。僕は知らない。同僚もどこかのサイトから引用したのかもしれないし、同僚の知り合いかもしれないし?)

 この後、少し話し続けて、そして、最後の言葉はこれです。
 Stay Hungry. Stay Foolish.


 ドグマという罠に絡め取られて生きること
 =他人の考え方が生んだ結果とともに生きていくこと
 =他人の人生を生きること

 定説・通説・教義で 満腹になったりするな、
 定説・通説・教義をよーく理解してしまい、それに従うばかりの お利口さんになるな、
 Stay hungry, stay foolish.

 そういうことかな。

 僕には、僕への、そして僕の息子への、そして僕の家族への、Forever Young も大事だけどさ。こちらは祈りみたいなものさ。どこか確信に近い気持ちを込めた祈りではあるけれど。

 Stay hungry, stay foolish.

 And stay forever young. ディランの歌の歌詞は、こっち だよ。 _


05年10月29日(土)   ECHOES & JUPITER AND BEYOND THE INFINITE

 2001: A SPACE ODYSSEY の紹介の中に書いたこと。最後の追記部分。

 ピンク・フロイドの MEDDLE の中の ECHOES の音楽と歌詞(詩)が、“ 2001: A SPACE ODYSSEY ”(『2001年宇宙の旅』)の最終章 JUPITER AND BEYOND THE INFINITE の映像とその展開(物語)に強烈にシンクロするという話。
 これ、一昨日の夜中、実際にやってみた。昨日は終電で帰宅、一昨日は少しは早かったし、アマゾンに注文した懐かしの MEDDLE が今週届いていたんで、やってみたのさ。

 最終章 JUPITER AND BEYOND THE INFINITE のタイトルが出た直後に ECHOES を始める。映画の方は消音モードにしている。そこから時間にして 23分半。
 映画と ECHOES はほぼ同時に終わる。同じなのは時間だけでなく、その映像の展開と ECHOES の音楽の展開、その間の両者のダイナミズム、ストーリー展開(最終章はストーリーという言葉が似合わない展開なのだが)と ECHOES の歌詞(詩)の構成と展開。
 ・・・ 見事だった。画面に映る映像とその展開。そこに完璧に重なっていく ECHOES ・・・。いや、本当に予想以上、期待以上の体験でしたね。

 クレジットが出る直前のラストシーン、宇宙空間上に浮かぶ、眼を見開いた胎児の顔のシーンまでで ECHOES が終わり、時差は3秒程度。 ECHOES を映画の最終章タイトルが消えた直後にかけ始めていれば、ほとんど時差ゼロだっただろう。
 見事だったのは、その秒単位の違いしかない同期の時間の中で展開された、ECHOES の音楽、詩の世界と、消音モードにした 2001: A SPACE ODYSSEY 最終章の映像と展開、その両者の間で反応し合った、いや、反応というより、ほとんどそのまま重なり合った強烈なシンクロニシティ。

 印象的な、宇宙空間に浮かぶ、眼を見開いた胎児の姿のラストシーン、そこに至る前に流れる ECHOES の歌詞の最後は・・・ No one sings me lullabies, And no one makes me close my eyes, And so I throw the windows wide, And call to you across the sky ・・・。

 最終章の全編を通じ、最後にクレジットが出る直前の時点でフェイドアウトして終わる ECHOES の音楽は、2001: A SPACE ODYSSEY と見事なまでに重なり合っていた。あまりにしっくりくる映像と音。その展開と歌詞(詩)。
 細部にまで亘るシンクロニシティ( Synchronicity )の感覚の体験は、まさに神秘的なものと言っていいだろう。摩訶不思議です。 _


05年10月30日(日)   ギター

 ギターを久しぶりに弾いた(写真はこのホームページを立ち上げる時に撮ったもの。4年前の夏の写真さ)。  

 僕のPCのメモを見たら、「エレアコ、2002, 7/12弦替え、9/2緩めた」となってる。つまり、3年前の9月2日に弦を緩めたまま、ずっと弾いてなかったのさ。そう、あれからずっと弾いてなかった。弾きたいと思ったときもあったけれど、弾く気力、弾く覇気が沸かなかったのさ、今まで。

 今日、緩めてあった弦を外した。ペンチで切った。そして、新しい(と言っても、ずっと買い置きしたままにしてあった、だからもう古いんだけど)弦を張った。張り換えた。

 アンプにつないで、大きな音を出したよ。弾き方なんて、もうだいぶ忘れてたさ。指も上手く動かない(笑)。

 それでも気持ちよかった。僕はあれ以来ずっとギターを弾けなくて、でも今日、ついに弾いてみたんだ。オヴェーションのエレアコ。

 僕のPCのメモには、「ECモデル弦00/6/17替えた9/2緩めた、FenderJは?」ってのも残ってる。エレキはもう触らなくなって5年以上になる。
 ・・・今日弾いたのは、エレアコの方ね。

 僕はルボックスもレンドルミンもミラドールも飲んでる。それから付け足せば、オパルモンもメチコバールも、アレグラもクラリスも飲んでる。自称スキゾフレニクでパラノイアで医者によれば多少(かい?)のウツで、不眠症で、ついでに頚椎も腰椎も椎間板ヘルニアで、鼻も調子わるくて(笑)。それに過労で(嘆)。
 でも今日、僕はギターを弾いた。あれ以来、初めてのことさ。 _


05年11月 1日(火)   その男、腰痛につき

 今朝から、いつもに増す痛みがあった、腰に。昼前、更に確実に痛みを感じた。

 午後、業務で外出した。戻ってきた。痛みが、かな〜り「軽くやばい」状態になっていた。か、軽くない!

 チョー珍しく、夕方早め退勤。とは言え、日の入りは早い。退勤時はもう暗かった。直前にアポなし来客あり目論見より退勤遅れ、椎間板ヘルニア行きつけの病院で診てもらう時間なくなり、7月に首と肩の痛みがひどくて休んだ時(あんときゃ頚椎の方がわるさしたわけね、今日は腰椎なんだよ)に処方してもらった痛み止めヤク、ハイペンと併せて処方される胃薬アプレースを出してもらった。
 ヨメさんにね、病院行って頼んでもらったのよ。ダンナに言っといて、また痛みがひどい時は医師に診てもらうように、そうヨメさんは言われてしまったのだった。

 これでルボックス、レンドルミン、ミラドール、アレグラ、クラリス、オパルモン、メチコバール、ハイペン、アプレース・・・うわぁヤク漬け大将(大賞)だ。

 まぁ早く帰宅できただけでもよい。HTML打ってる場合でないってか。いんや、このHTMLも僕にはヤクだっての。
 HTML入れると10種類。ガッハッハッ(泣)(笑)。 _


05年11月 6日(日)   鬱蒼とした森の中で躁鬱に

 ま、躁鬱となかではなくてさ、要するに パラノイド・スキゾフレーニア・ハイ なんだよ、僕の診断では。いや、どうかな、まぁ兎に角、鬱蒼とした森の中で躁が現れたり鬱が現れたり。なんか妙にハイになってたりする感じがあるんだけどね。

 そいつはパラノイド・スキゾフレーニア・ハイそのものなのか(そんなの医学界の論文には出てないからな・・・たぶん)、あるいは直近にヤク仲間に入ったハイペン、アプレースがわるさしてるのか。しかしこいつは椎間板ヘルニアの痛み止めだし、もう一つは単なる胃薬ね。そもそも7月にも飲んでた時はたしかどうってことなかったはず。
 っつーことは、そのしばらく前に加わったミラドールが何か? うーむ、これは有り得るだろうか。いやはやそれとも最早だいぶ長期服用していると言っていいルボックスのせいか。はたまたレンドルミンか。
 まぁ、鼻の薬のアレグラ、クラリスとか、椎間板ヘルニアのビタミン剤メチコバールや血流良くするオパルモンがわるさってことはないよな。・・・そ、それともルボックス、レンドルミン、ミラドール、メチコバール、オパルモン、ハイペン、アプレース、アレグラ、クラリス、こうしてヤク漬け大将的状態になってる僕のヤクたちが鬱蒼とした森を構成して複合的に絡み合い、躁鬱なる森林浴の症状を作り出しているのでありましょうか。

 ここんとこ、朝はね、ずっとそうなんだけど、早めに眼が覚めてしまって、それで結局早めに出勤することがあるくらいなんだね。休日だってゆっくり眠れない。覚醒しちまうのさ。それでいて、やっぱり本当はもっと眠りを必要としているようで、後から睡魔に襲撃されることになる。襲撃ったって鈍い襲撃でねぇ、要するに眠いんだよ。
 僕には 持ビョー がいろいろあってね、Paranoid Schizophrenia High はその症状の一つだね。だけど近頃のもそれなのか、まぁ僕には判らんのよ、どうも。HTML以外にさ、なんかいいヤクない?
 探しますわ_


05年11月13日(日)   その男、リゲインにつき

 えーっと、昨日までを振り返りますか。

 まずは月曜から金曜の話。例によって(泣)、月曜から金曜は、夜は一度も息子と顔を合わせてません。

 月曜から木曜の4日間。
 1日だけ22時頃退勤で帰宅は23時過ぎ。
 残り3日のうち2日が終電、帰宅は午前1時より少し前。2回目の方は、終電が遅れてくれたので乗れた。
 残り1日は終電乗り遅れ、最寄駅より2駅前の駅まで夜中に妻のクルマ迎え受け、帰宅は午前1時頃(過ぎかな?)。

 ちなみに、いつもそうですが、『晩』ご飯という名の『深夜』ご飯は、いつも帰宅後にしております。妻の料理がいいもん。
 つまり、残業中は、何も食わないか、せいぜい菓子パン1個食う程度ね。

 ストレスたまりっぱなしの僕は、金曜は19時で仕事を終え、上野に出て、横浜から出てくれた職場の先輩(という呼び方は普段してないけど、8歳も年上だから友人とは書きにくいのあります、本音を話せる貴重な知人です)と酒。上野で最寄駅着の終電には乗れず、2駅手前の駅まで妻のクルマ迎え受けました。

 僕の仕事の状態は、昨年度から、まるで日本の失われた10年、いや、その前のバブル時代の時のように(?)、「24時間戦えますか」リゲイン・サラリーマン。これからも続きそうだし、もっとたいへんになる可能性すら。
 あのねぇ、ったく、ふざけるんじゃねえよ って言いたい労働環境です。

 ただ一つの救いは、いま担当している仕事の分野自体には前から関心あり。分野そのものには意欲がわくってこと。先般から外部の通信講座を自費で受けていて、1回目の試験添削結果は96点、2回目が先日返ってきて、98点でした。へっへっへ。どうだ!?
 近頃は一つヤリガイ感じる大きな仕事があって、世間へのアウトプットまであと2週間。それはまぁ楽しみです。

 ただ、平日の勤務状態がひどいし、土日も心身ダウン状態、時に持ち帰り仕事、このサイト(HTMLは精神安定剤)、ここんとこ通信講座の方もやらず飛ばしたり時間減らしたり。へい、この労働環境を創造したものよ、ふざけるんじゃねえよ

 ヘトヘトになっても、僕は、黄金の心 を探して、いつか、解放されるのさ。・・・僕はちゃんと生きてくつもりさ。
 最近、悩ましいのは時々テンション高くなることと、朝早めに目覚めてしまうことね。前者はちょっとパラノイア・スキゾフレーニアだね(これは僕の診断で、そんな名称は医学界にはありません、たぶん)。後者はうーむ、よー分からんが、しかし困る。
 とにかく、ルボックス、レンドルミン、ミラドール、メチコバール、オパルモン、ハイペン、アプレース、アレグラ、クラリス、それからHTML、それから音楽の助けを借りて、生きております。まぁ当然、一番の救いは妻子をはじめとする家族だね。

 昨夜は、先日のテストで成績グンと上がった息子に「がんばったぞ」賞で息子希望・息子命名の「北海鍋」、つまり母親(僕の妻ね、笑)が腕にヨリをかけた鍋料理で家族の団欒を味わったのでした。
 今日は息子はいま部活。妻はちょっと鼻風邪気味。僕はヘトヘトですが、まぁ何とか、ね。今日は少しは通信講座の勉強進めるつもり。
 生きております 、当たり前さ


05年11月13日(日)   ディラン、ヤング

 最近、アマゾンで2つ買いました。
 ディランの 1975年の傑作『血の轍』( BLOOD ON THE TRACKS )、それからニール・ヤングの新作、PRAIRIE WIND です。

 2枚ともええよ。そのうち、レビューしようかな。そのうち、そのうち(笑)。


05年11月19日(土)   二郎さんルボックス

 今週は、昨日が年末で終了となる派遣職員の人を引き継ぐ派遣職員の人、の歓迎会があり、18時半からだったので、19時前には退勤。

 それ以外の4日間は、終電乗り遅れが1回、終電が1回、終電の一つ前が1回、残り1回は帰宅時間が21時より少し前だったような(この日は物凄く早い帰宅に感じて嬉しかったが、よくよく考えれば、本当はもっと早く退勤できるべきなのであった)。

 ったく、昨年(今年じゃなくて昨年からだぜ!)、昨年の!4月、1年8カ月前からずっとほぼ間断なく続いてる労働環境(リンク先は先週の日記ね) ・・・ それは何も変わらないんだね、いまだ変わらず。ひでぇもんだよ。
 今週はだいぶ、職場でキレた。ふざけるんじゃねえよ ってとこさ。

 今日は二郎さん神経科に行った。ミラドールを飲むようになって、空腹感・過食傾向とハイテンションの自覚が強いことを伝えた。ミラドールはやめることになった。
 朝、ルボックス2錠。夕、ルボックス2錠。そして寝る前のルボックス1錠が新たに加わった。寝る前のレンドルミン1錠は変わらない。

 他には頚椎と腰椎の椎間板ヘルニア対応のオパルモンとメチコバール。先日まで飲んでた痛み止めのハイペンと胃薬のアプレースはなくなったのでやめる。あと飲んでるのは、耳鼻科処方のアレグラとクラリスね。それからもう一つは、自分で処方してるHTMLね(笑)。
 生きております 、当たり前さ


05年11月20日(日)   キャッチボール

 息子から、キャッチボールしないかと誘われた。
 僕の身体は疲れ切ってる。でも大丈夫さ。精神も「切れてない」。ヤクもあるけど。 HTML含めてヤク。

 夕方近くまで転寝(ウタタ寝ね)し、その後、妻も「キャッチボールやる」と言い、3人で家の前でキャッチボールした。
 息子は遠投のコントロールがずいぶん良くなった気がした。野球部だもんねぇ。さすが。

 それから、だいぶ暗くなって球が見えにくくなってきて、キャッチボールはやめ、息子は壁当て、僕と妻は一緒に散歩した。

 僕の身体は疲れてる。肩や腕なんかパンパンに張っちまってるよ。でも大丈夫。僕には家族がいる。

 息子とキャッチボールするのは久方。気持ちよいね。 今日は妻も一緒。家族3人で縦長のキャッチボールでした。僕には家族がいるんです。

 さっき、息子が2階から降りてきて、郵便箱に何か入ったみたいだからと、メール便を持ってきてくれた。
 パレスチナ子どものキャンペーン からだった。先月送金した現地の越冬ジャンパー支援金の領収書とお礼の便り、来月の催しの連絡等が入っていた。

 ずっと、生きてるのさ 、当たり前さ


05年11月23日(水)   勤労 感謝 の日?

 勤労感謝の日・・・って、どこがじゃ。

 月曜は俺にはかなり早め、21時半か22時前か、とにかく息子の就寝前に帰宅できていた。
 火曜は7時過ぎに起床、バタバタ仕度して早め出勤、最寄駅まではいつも通り妻のクルマ送り、8時45分から始業。退勤は 23時10分。最寄駅着が 24時過ぎ。それから、妻の迎えクルマで帰宅。要するに午前1時よりはだいぶ前に帰宅。ま、日付変更線は越えてますがね。で、それからバン飯。寝床に着いたのは午前2時過ぎ、かな。覚えてねぇよ。

 勤労感謝の日・・・って、どこがじゃ。
 今日は出勤せぬから寝てていいんだが、6時台に目覚めてしまい、結局7時過ぎには起きてきて、妻子と共に朝食。息子はそれから部活へ。
 俺は炬燵に半身を入れて寝込んだ。××だように寝込んだ。もう1年8カ月分の拷問のような労働環境でヘタレ込んでるよ。
 へとへとだよ。

 昨年(今年じゃなくて昨年からだぜ!)、昨年の!4月、1年8カ月前からずっとほぼ間断なく続いてる労働環境(リンク先は最近の日記ね) ・・・ それは何も変わらないんだね、いまだ変わらず。ひでぇもんだ。
 ったく、ふざけるんじゃねえよ ってんだ。そのうちブンなぐっちまいたいくらいだよ。下らないから抑制するけどさ。精神的にはキレない方がおかしいね。ギリギリで抑えてたたかうのさ、俺は。

 今日はね、息子が特に行きたがってるミスチルの年末・東京ドームのコンサートのイープラス・チケット先行予約日。昼の12時からさ。先日、会員になっておいて、何度もアクセス。申込は1回かつ2枚まで。ケチだね、興行主は。俺は家族3人で行きたいんだぜ。まぁ繋がって2人分申込完了。しかし未だ取れたわけではない。これで抽選だ(笑)。
 その後、妻が携帯でイープラスの会員になり、もう1人分の申込も済ませた。これも抽選待ちだ。

 最終的に3人分取れたりしても、席は2人と1人で分かれる。本当によ、興行主さんよ、あんたらケチだぜ。
 1人分当たったら息子にする。2人分の方だけ当たったら、妻子に行ってもらおう。

 生きております 、当たり前さ


05年11月26日(土)   円形脱毛症

 水曜 は「勤労感謝の日」、だったらしいが、

 木曜は朝8時45分から24時過ぎまで働いた。その日は、朝から夕刻まで、肩と背中に激痛 が走っていた。
 帰路は、最寄駅2つ前までしか着けない電車。夜中の妻のクルマ迎え。バン飯はそれからだ。

 金曜は朝9時から24時過ぎまで働いた。あとは同じだ。最寄駅方面まで届く終電はもうない。2つ前までしか着けない電車。夜中の妻のクルマ迎え。
 帰宅時間は午前1時半近く。「バン飯を食い始めた時刻」は、午前1時半を、過ぎている。前日と同じだ。

 今日、床屋に行った。
 円形脱毛症 がみつかった。床屋さんがみつけてくれたんだが、前回はなかったそうだ。幸い、多少は生え始めているように見えるそうだ。

 原因はそりゃ、過労とストレスに決まってる。
 もう 1年8カ月分の拷問のような労働環境で俺はヘタレ込んでるんだ。これは要するに、「暴力」と同じ ことさ。
 へとへとだよ。

 ったく、ふざけるんじゃねえよ ってんだ。

 ・・・ はて、水曜に先行予約・抽選参加したミスチル年末・東京ドーム、結果が今日出ました。妻の携帯に一つ、うちのPCにも一つ、ハズレのメールが届いたのさ


05年11月26日(土)   カイシャインの生き方?

 木曜、俺は、Mr.ジョーにメールと添付ファイルを送った。何回目かの要請だ。
 金曜夕方、Mr.ジョーは俺に声をかけた。話があった。ごく最低限の要請が、ようやく通ろうとしている。かたちになるのは年明けだ。

 Mr.ジョーは、こう言った。あそこまで書かなくても分かる。
 俺はそうは思ってない。 あそこまで書かなくても分かってるなら、こんなに延々と「暴力」的環境は続かない。しつこかろうが何だろうが、いつまでも何も起きない以上、あらためて「書き綴る」しかない。俺が「あそこまで書か」なかったなら、まだまだ何も起きなかっただろう。俺はそう思ってる。

 つい最近(?)のことだけ言っても、7月には、「8/15には」、と言われた。何も起きなかった。その後も何も連絡は来なかった。
 それから、「『8/15には』と言ったではないですか」と訊いた。「たしかに言った」、そう簡単に認めた。しかし、「だが事情が変わったんだ」、そう言われた。それからも、いつも、常に、俺から尋ねない限り、何の情報もなかった。

 他のところから他の仕事とともにやってくる話も聞いた。それも、いつのまにか聞こえなくなっていた。

 ・・・ 結局、そういうことさ。 _


05年12月 4日(日)   何だんねん?

 先週は2、3回終電乗れず、残りは息子の試験前の日とかはちょっとは早めに帰った。
 息子はもちろん地元の公立なんだけど、その学校では「中間」とか「期末」とか言わない。まぁ俺の30年も前の中学時代と比べても「時代が違う」けどさ。

 カイシャの環境は、このあいだ書いた年明けってのが、また、何だか分からんくなってきた。

 今年度のことだけ言っても、7月には、「8/15には」、と言われ、何も起きず、何も連絡もなく、それからも俺から尋ねない限り何の情報もなく、かと思うと、他のところから他の仕事とともにくる話を聞き、それも消えた。 ・・・ で、今度だ。俺にはもう分からん。

 少し期待すると、結局ますます疲れさせられる。しかし多少とも期待を残さないと本当にもう身体がもたない。

 肩が痛い。首が痛い。腰が痛い。背中が痛い。両腕の上腕がパンパンに張ってる。 ・・・ったく。
 ほんま、倒れそうだわ。
 いや、倒れんようにするわ。

 いつだって今日だって、もっと眠って休んだ方がいいんだが、早く目覚めてしまって起きてきてしまった。それから朝食。テレビ、新聞、メール送受信、そのあと、今は THERE GOES RHYMIN' SIMON 聴きながら、このHTMLしてる。

 ここんとこ土日は、家で ほとんど寝込んでばかり。
 しかし、やや久方に、金曜、家に仕事メールを放り込んだ。手が回らんもん。足も回らん。頭だけだ、回ってるのは。
 今日は午後、在宅シゴトする。勉強もしたい。散歩もしたい。今日、パレスチナ支援活動 の便りが届いた。 _


05年12月10日(土)   終電4回と展開?

 今週は月曜はたしか(よく思い出せない)、息子が寝る前に帰宅できたような。いや、違ったかな。もう分からん。
 火曜から金曜は、見事に4日連続の終電。
 終電だと帰宅は午前1時に近づきソレからバン?飯、就寝は結局、午前2時を軽々と回る、それから数時間後にはまた出勤だ。
 ったく、終電4日連続はウンザリしまっせ。

 まぁ先週、先々週は、終電さえ「乗れず」が3回、次は2回とかあったし、何が大変で何が多少は楽なのか、よく分からんのです。まぁ楽はないんだけどねぇ、結局。

 今年度のことだけ言っても、7月には、「8/15には」、と言われ、何も起きず、何も連絡もなく、それからも俺から尋ねない限り何の情報もなく、かと思うと、他のところから他の仕事とともにくる話を聞き、それも消えた。 ・・・ で、今度の展開は…、それは一旦出た話の変形バージョン、今のところは暫定の不安定な話ではある、期待したい面はあるが、先の予測は立たない…。

 新、の話が年明けに、の話はもう年度末なのか。年度末なら次年度始めと変わらんか、余計たいへんになるけどなぁ。もう分からん分からん。
 一方、昨日は人の事(まぁ Personnel Management だな)、発表され、おいらの課に、他の課から1名が。これは年明けから、そして今のところ年度末までの話。
 え? サッカーのレンタル移籍みたいなもんかって? そりゃちょっと違うな。同時に、その、他の課にあった仕事もおいらの課にやってくる。仕事は人に属すのか、というと、しかしその仕事自体は、おいらの考えでも、元々おいらが担当する課でやって、その、今その仕事を担当してる課と連携しながら進める、それ自体は正解だと思ってるんだね。

 今年度のことだけ言っても、8/1から課員1名が上記とも違う別の課に異動してずっと補充のないまま。そこに今度は他課からの仕事付き異動がおいらの課へ、しかし一旦は年度末までで次年度からは白紙状態、今んとこね。

 はて、これをどう考えたらよいのかっていうと、まぁその人がいま担当してる仕事の7、8割が一緒においらの課にくるというわけだから、単純計算すれば、残りの2、3割分の限定時簡に関しては、おいらの課が欠員状態できておいらが背負ってる部分の、その一部分を彼女に担ってもらって、おいらの過酷な勤務を緩和するという計算はできるわけだ。しかし単純に計算の通りなのかどうか。とりあえず、ガチョウとしてのおいらが責任持つ範囲は拡大されるわけだ。

 まぁね、単純計算が嬉しい方に裏切られ、元々おいらの担当課で一緒に連携してやっていい仕事が入ってくるわけだし、色々と合理化が進んで残り2、3割分の欠員カバーがもう少し比率高くなることも期待はしたい。ただ、まぁガチョウとしてのおいらが責任持つ範囲が拡大されるのは事実であって、それはそれで態勢さえ何とか最低限整えてくれればよいのだがね。

 おいらが長らく要請しているのは最低限の態勢だよ、何もワガママなど言ってない。おいらがこの2年度に亘って過酷な労働を続けて(しかもきちんと結果を出してるぜ!)いることが是正され(人間の生活、ヒューマンな生活をおいらに返してほしいわけだ、おいらは何も身勝手な要請などしてないぜ!)、それで仕事も『あるべき姿』の方向に一歩でも二歩でも進むのなら。…おいらは兎に角、期待するしかないのだよ。

 おいらはちゃんとモチベーションは維持してるんだ、2年度にわたって非人間的な労働環境を強いられてきていても。いま担当してる仕事は完全においらが適材。自分で言うのもナンだが(笑)、態勢不十分でチームワークはどうにも作れないが、おいらはこの間どんどんクリエイティブな企画はやってきた、まぁ欠員態勢でルーティンを保ちつつなんだから、まっことキツイわけで、本当はまだまだアイディアあるんだけどねぇ。・・・たのむわ、もっと仕事やらしてくれよ、おいらの力で。・・・へんだな、労働環境ひど過ぎて身体きつきつなのにねぇ。ただヤル気はあるんだよね、おいらがもっと(少しはさ!)、まぁまぁは納得できる態勢が遠くないうちにおいらの環境にやってくる、そういうことを、おいらは兎に角、期待するよ。もう身体ボロボロだもんね、期待するココロがなければたいへんなのよ


05年12月17日(土)   うるさい奴らさ

 えーっと、正直、だれかれの顔を思い浮かべてるわけじゃない。ぜーんぜん、だれも特定する人間なんていないよ。
 単に、俺の気分の問題だね。

 うるさい、奴らさ、見たくない、そのツラ、聞きたくない、その声、うるさい・・・

 歌詞から分かるだろう、昔々の俺の学生時代、当時は日本でもパンクがけっこう流行ってたのさ。この曲も、単純なビートと強烈なギター・ストロークで始まる曲だったと思うな。暴走とか爆裂とか、そんな文字が躍る映画で使われてた曲だったかもしれない。

 まぁ、そういう気分なんだよ。・・・しっかし、あの曲の歌詞自体は、完全にコミュニケーションを拒否、遮断しようとするメッセージだな。
 俺はコミュニケーションは重要だと思ってるよ、たぶん人一倍。人一倍って、一倍じゃ結局は人と同じかよ(笑)。仮に、コミュニケーション能力が著しく欠ける相手だったりした時には、どうするのかね。そりゃ最初は誰でもトライするだろう、辛抱できる限りは何度もトライするかもね、だけど、いつか、あーあ、やっぱどうにもダメだね、こりゃ「聴く耳」「知るミソ」持たねぇや、なーんてハッキリ思っちまった分かっちまった、それでも人は喋るのかね。

 ふざけるんじゃねえよ ってのは、パンクなんて言葉すら無かった時代のポリティカル・パンク(??)、頭脳警察の歌の歌詞です。ったく、ふざけるんじゃねえよ ってのはアル話だよな。

 えーっと、今週はどうだったかな。分かんなくなるんだよ、もう。いちいち記憶に残してるのはたいへん。今週、終電は何回だったかね。他の日は? 労働時間は?
 ハッキリしてるのは、2年度分の疲労疲弊消耗磨耗被暴力困憊クソッてのは既にずっと以前からテーヘンな状態になってましてね、ずっとずっと、首が痛い、肩が異常に張る、上腕がパンパン、手が痺れる、頭の鉄片(テッペンね)から足の爪先まで硬直って感じ・・・ んなわけですよ。

 ヘトヘトになっても、俺は、黄金の心 を探して、いつか、解放される ・・・ わけです。 俺は 生きてる からね。 俺には家族だっている。
 ま、今日、明日は、通信講座のリポートさんでもやろうと思ってる。

 Heart of Gold 、いいっすねぇ。_


05年12月18日(日)   あしたのジョーは『会社』員ではない

 ここんとこ、どこんとこ、もう、いつぐらいからだろう、土日は持ち帰り仕事や勉強やらなきゃ、他の、もしくは残り時間は、ああ、それから、このHTML以外の時間はね、たいてい寝込んでる。身体がきつくて、寝込んでるんだよ。この時期なら、半身は炬燵の中さ。それで、寝込んでるのさ。

 俺が少年の頃、 あしたのジョー は、闘い、闘い、闘って、最後に、自分のコーナーで白い灰になった。
 あしたのジョーは、ボクサーだった。ボクサーを知らない人は、サイモンとガーファンクルの名曲「ボクサー」を聴いてくれ。よく分からんかったら歌詞カードでも見てくれ。それでも分からんかったら、俺はもう知らん。

 さて、『会社』というものに、 あしたのジョー は必要か。いいや、そんなものは自明の理、『会社』は あしたのジョー が生きる場所ではない。

 ある『会社』に、一定以上の能力と意欲と、それから、ここではもっと重要なことに、驚異の忍耐力とド根性を持って、その『会社』の仕事をしている『会社』員が散見される。その『会社』は、結局、そのバラバラに働く個々の あしたのジョー に頼って『会社』(その『会社』にとってはその『会社』のごくごく一部、ってことだがな…)を回している。いや、頼ってる、というよりも、 あしたのジョー を放置している。

 俺が少年時代に観た あしたのジョー はリングの上での孤独な闘いに文字通り生命(いのち)をかけ、最後に灰になった。リングでは誰も助けない。そこは孤独な1対1の闘いの場だ。

 『会社』に あしたのジョー は必要か。あしたのジョー は、『会社』員になれるのか。いや、実際、俺がもの凄くよく知ってる『会社』には あしたのジョー がいて、頼られ、いや、実のところ、放置されている。
 そのうえ、ボクシングと違って、タオルを投げるセコンドもいない。

 あしたのジョーは『会社』員ではない。

 ふざけるんじゃねえよ。
 『会社』は組織なのさ。組織は、 あしたのジョー が動かすものではない。組織ってのはそこに属する個々の人間のチームワークが働いて、有機的に動く一つの擬似的な生き物なのさ。本物の会社はね、有機的な擬似生物のはずなのさ。(…でなければ、組織とは言えない。組織でなければ、本来は『会社』ではない。)

 俺の2年度分の疲労疲弊消耗磨耗被暴力困憊クソッてのは既にずっと以前からテーヘンな状態になってましてね、ずっとずっと、首が痛い、肩が異常に張る、上腕がパンパン、手が痺れる、頭の鉄片(テッペンね)から足の爪先まで硬直って感じ・・・ んなわけですよ。
 あしたのジョーは『会社』員ではない。

 俺はいつまでも あしたのジョー などやってられないはずだ。

 ある『会社』に、一定以上の能力と意欲と、それから、ここではもっと重要なことに、驚異の忍耐力とド根性を持って、その『会社』の仕事をしている『会社』員が散見される。その『会社』は、結局、そのバラバラに働く個々の あしたのジョー に頼って『会社』(その『会社』にとってはその『会社』のごくごく一部、ってことだがな…)を回している。いや、頼ってる、というよりも、 あしたのジョー を放置している。
 俺はそんな『会社』をやめて、出て、そして戻ってきた。

 俺は、灰にならない。灰になっちまったら、俺の 生きること はどうなる? 俺の家族は?

 俺が灰になってから、俺の家族がリーガル・アクションをしたところで、さんざん疲れたあげくに手に入るのは金だけさ。
俺の家族も、俺も、そんな金を、俺の 生きること と引き換えにしたりしないさ。
 ただね、一つハッキリさせておくと、千万が一、俺が灰にでもなっちまったら、俺の家族が黙ってるわけはないよ。その時は覚悟してもらった方がよい。
金など、生きること の引き換えになるものではないし、そんな取引は成立しないけれど、しかし、たしか、金みたいなものを要求しないとリーガル・アクションは成立しないことになってるはずだ。

 俺には同志がいるのさ。家族であり、同志だよ。『レッズ』でジョン・リード役のウォーレン・ビーティが、臨終の間際に、恋人役のダイアン・キートンに呼びかけた言葉だよ、同志ってのは。

 俺たちが探してるのは、本当は労災・過労死裁判の賠償金のような 金 でなくて、 黄金の心 だね。
 そういうわけだから、俺はいつまでも あしたのジョー などやってられないはずだ。 そう思ってるよ。

 俺は ロックな日常を求めて 生きてんだから。
 俺は奴らに消されたりしないぜ。 俺はもちろん生きてんだし、生きてっからさ


05年12月23日(金)   天チャン誕生日 でなくたって休みたいわ

 今日はサルお方の誕生日だそうで日本国民の休日となっております。…「祝日」?

 まぁ息子の誕生日や妻の誕生日やおいらの誕生日、とにかく家族の誕生日はおいらなら祝いたいねぇ。
 しかしサルお方はおいらの家族なんかじゃない。…え? おまえはサルお方の赤子ではないかって? むむむ、その言葉、アジア太平洋戦争終戦後60年経っても使うとはキ、キサマ!?
 ・・・なに一人でHTML喋ってるかね? ま、サルお方の誕生日っつーものがあって、今日はおいらもカイシャは休みさね。

 しっかし、別にサルお方の誕生日でなくとも、おいらは十二分に静養を取りたいのだね。

 おいらの2年度分の疲労疲弊消耗磨耗被暴力困憊クソッてのは既にずっと以前からテーヘンな状態になってましてね、ずっとずっと、首が痛い、肩が異常に張る、上腕がパンパン、手が痺れる、頭の鉄片(テッペンね)から足の爪先まで硬直って感じ・・・ んなわけですよ。

 おいらには同志がいる。 Comrade さね。『レッズ』でウォーレン・ビーティが演じたジョン・リードが、臨終の間際に、恋人ルイーズ(こっちはダイアン・キートンね)に呼びかけた言葉。おいらはこの映画でのこの言葉が好きです。
 おいらには妻が Comrade です。そのうえ、息子もいます。

 今日は一日ぐったりのおいら。妻は元気です。息子はピアノの練習してました。明後日、発表会があるんでね。おいらはぐったりしてたけど、でも、そういうわけで、平和な一日だったですね。

 おいらは 黄金の心を探してるんであって、サルお方の誕生日などどーでもいいんだが、しかし平和な休日は好きですね。
 まぁね、家族の誕生日でなくとも、マーティン・ルーサー・キング牧師とかガンジーとか、そういう人の誕生日なら大事だと思うよね。やっぱ歴史上の意味を持ってると思うもん。その一個人がもし「誕生」しなかったら歴史はどう動いただろうかって意味でね。それに、やっぱ偉大な人の誕生日なら祝うのもいいねって気になるでしょ、そういう人の誕生日ならね。


05年12月24日(土)   ローサイ たのむぜ

 ここんとこしばらく妻にヤクもらいに行ってもらってた俺の頚椎・腰椎椎間板爆弾の罹り付けの医院に行った。
 おいらは院長先生に診てもらっているんだ。

 「いやはや、これはキミ、長らく付き合っていくしかないなぁ。」
 診療費の方は860円也。

 ちょっと飲み忘れのせいもあって、メチコバールはまだ1週間分残ってるんで、今日、処方してもらったのはメチコバール3週間分とオパルモン4週間分。
 これで薬代は3,310円也。
 メチコバールも通常通り4週間分にしてたら合わせて4,500円程度ってことか。

 診療費と薬代、合わせてみてくれ。保険差し引いて、実・負担分がこれだぜ毎回。
 これ、ちなみに椎間板ヘルニアの処方薬のみね。俺にはいろいろあっからね!

 腰椎は3年以上前から、頚椎は2年以上前からだが、これがいっこうに良くならない、時に激痛をよぶ時もある、
ヤク代がずっとかかり続け、時には痛み止めだって出してもらってるんだ。
こいつはね、明らかにローサイです、労災

 おいらは静養が必要・・・なんだけどねぇ。

 おいらの2年度分の疲労疲弊消耗磨耗被暴力困憊クソッてのは既にずっと以前からテーヘンな状態になってましてね、ずっとずっと、首が痛い、肩が異常に張る、上腕がパンパン、手が痺れる、頭の鉄片(テッペンね)から足の爪先まで硬直って感じ・・・ んなわけですよ。

 ところで、今日はクリスマス・イブです。僕はクリスチャンではありませんが、今日は東京にあるキリスト教会、日本聖公会 のサイトにリンクしましょう。


05年12月25日(日)   静養したい

 静養したい。マジ、静養したい。頭から足まで硬直してる。たまらん。

 昨夜、NHK教育さんで、パレスチナ人のミシェル・クレイフィとイスラエル人のエイアル・シヴァンの共同製作によるドキュメンタリー映画「ルート181」、それから来日した二人の監督へのインタヴューが紹介される番組があった。

 「ルート181」というのは、1947年の国連でのパレスチナ分割決議案の番号から取った言葉。つまり、国連決議181号。
 当時、シオニズムの運動活発化、ナチス・ドイツをはじめヨーロッパにおけるユダヤ人迫害、そしてそれらの相乗作用もあって、パレスチナへのユダヤ人の移民が加速。そんななかで、国連決議181号は、パレスチナの人口の3割を占めたイスラエル人(元から住んでいたユダヤ人と移民して入ってきたユダヤ人)に55%の土地を与え、残り45%を7割の人口のパレスチナ人(パレスチナのアラブ人)に与えようとした、実は初めから不平等な分割案。
 ・・・戦争を経て、イスラエルはその当初案より更に更に大きな土地を得てしまってますがね。

 映画「ルート181」は、パレスチナ人のクレイフィとイスラエル人のシヴァンが、この国連決議181号の幻の境界線に沿って旅をし、そこに住むイスラエル人、パレスチナ人、様々な背景を持つ人々の声を拾っていくもの。いやぁ、かなり興味深い内容。録画もしましたが、この映画に関わる書籍も出ているようなので、それも近いうちに買うつもり。アマゾンでも買えるよ。

 今日は息子のピアノの発表。行ってるスクールのクリスマス・コンサートというものです。
 息子はミスチルの『いつも微笑みを』を弾きました。練習がんばってた甲斐ありましたよ。よかった、よかった。写真もビデオも録りました。

 帰宅してからはラジオ体操をやりました。
過労と頚ヘル・腰ヘルで身体が硬直してしまい、首が痛い・肩が痛い・腕が張る・腰が痛い・足が張る、そういう困ったオッサン(僕のことですわ)のために、何とかしようと、妻がラジオ体操をMDに録音してあったのです。
 「ラジオ体操、やろうよ」っというわけです。ああ、ありがたき、妻の心遣い。いや、愛情というべきでしょうか。感謝、感謝です。正直、炬燵に入って縮こまっていたい状況でしたが、炬燵から出てラジオ体操1回やってみたら、少し楽になった気がしました。
 ・・・さてさて、2005年も、もう少しですなぁ。


05年12月29日(木)   出戻り過労男の雑感

 出戻り男に未来はあるか?
 そりゃ、もちろん、ある。なぜかって、そいつに既に現在があるからだ。現在を持っている以上、未来は創れるし、未来はある。
 その代り、いやその代りでも何でもないが、現在があるってことは、過去もある。おいらは生まれたての赤ん坊でもないし。ま、赤ん坊だって過去はあるぜ。母ちゃんのおなかの中とかDNAとかさ。
 まぁそれはともかく、現在を持つおいらには過去もあるが、未来もある。それだけのことさ。

 最近は、以前と比べて、そうそう頻繁には「出戻り」を意識したりはしないが(っつーことは時折りはする)、昨日は飲み会でたまたま別の出戻り例や出戻り一般論みたいなものが話題になったから意識したわけね。
 まぁ出戻りはたしかに出戻りだが、出戻りにも個々の個性ってのがある。世に「出戻り」がどれだけ沢山あるか、それとも少ないのか知らないが、「出戻り」にはその数だけの異なる個性がある。みんな個性があるわけです。勝手(かどうか)言わせてもらえば、一般論はやめてほしいと思う。・・・ っつーか、おいら自身は自分の出戻りのみに向き合っているわけで、それだけのことなんだからそれでよいんだろうけど。で、この話題はここまで。

 あ、昨日といえば、昨日はトップの人から直接ホメられた。いやぁ、カネなんて無関係でも、言葉で真っ当に評価されるのは嬉しいものです。それは、本当に、シンプルに嬉しいものだと言っておきます。正直、ありがたい。

 えーっと、それから、一昨日、妻子が東京ドームにミスチルのコンサートを観に行きました。息子が大ファンでしてね。本当は家族3人で行こうと思っていたが、父親の分のチケットは取れなかったってわけ。
 で、父親にはどのみち鬼のように仕事があるんで、とりあえず9時半まで仕事して、それから待ち合わせ場所に向かった、帰宅は共にする為にね。しっかし、妻子の方が遅かった。ライブはずいぶん長かったようで。息子は満足していたようであって、良かった良かったのでありました。

 おいらは今日も、たまらない。
 何がたまらないって、とにかく腕や肩が張ってシカタナイ。上腕が異常に張ってる。腰も痛い。手も痺れる。

 今日の朝日の読者欄、トップの記事は直ぐ眼に入りました。いやぁ、眼に入って痛いこと、痛いこと。
 『過労の夫療養』だって。「休む間もなく働き続けた」、「夫の体調が変だと分かったのは昨夏。」、「眠れないとこぼした。」、「原因が明らかに過労」、「やがてドクターストップがかかった。」、「こうなる前に休養を十分とれていれば、と悔いが残る。」・・・。

 ドクターストップって、どうやってかかるんだろう。
 タオルを投げるセコンドが付いてないボクサー ってのは、いかがなもんだろうか。オレだよ、オレ。まぁ心情愛情的には妻がタオルを投げたいわけだけど、オレが投げさせないもんね。そもそも「会社員」はボクサーじゃないから、タオル投げなくてよいようにするためのコミッショナーみたいなのが必要だね。その点、会社は組織であって、これが悪しきシステムのみの、あるいはシステムのない組織となってしまうと難しいんだね。つまり、そこには幻想のシステムがあって、要するに、アルようでその実ナイという仕組みであって、そうなってしまうと、責任は幻想の(実在しない)システムが取るっていうそれ自体幻想が成り立って、要するに誰も責任取らないことにもなりかねないわけ。これが組織や組織論の盲点です。

 ってゆーか、盲点でもなんでもないか。アホらし。ふざけるんじゃねえよ って言いたくもなるわけだが、しかし実在しないシステムが相手なんだから(だってシステマチックな面が多少とも認められなければシステムじゃなかろうに)、誰に文句言ったらいいのか分からんわけよ。・・・え? じゃぁ文句は自分に言えってか。責任もオレ? そんなアホな話はないよ。責任はね、やっぱ明らかにしなきゃいかんわけ、草の根天皇制じゃないんだからさ。ん? 何?

 とにかく、アレコレかれこれ形を変えつつ異常な態勢が無視され、放置され、振り回され、過労と頚ヘル・腰ヘルで身体が硬直してしまい、首が痛い・肩が痛い・腕が張る・腰が痛い・足が張る、そういう困った状態が、そうですカレコレ、ヘタしたら2年にも近づきつつあるわけですわ。
 近頃は、タイヘンだ、タイヘンだって言ってるヤツの話聞くと、(一部除いて)アタマに来たりする。おいおい、それでタイヘンなのかよって(笑)。たまらんね。

 A little love and affection
 In everything you do
 Will make the world a better place
 With or without you

 こう歌うニール・ヤング( GREENDALE:falling from above )を聴きながら、おいらはこうして、Hyper Text Markup Language なるものを喋ってるわけです。ま、おれは最後の一節は With you and us と聴きますわ。

 あ、今日の最後に突然の一言。オレはホワイト・バンド批判には与しないよ。たしかにキャンペーン当初は説明不十分だった、もっとカネの具体的使い道を説明すべきだった。しかし、それにしても、現地に直接カネが使われるものでないのか、それでは詐欺だ、っていう批判・誹謗中傷が、しかもまるで鬼の首でも取ったかのように「偽善だ詐欺だ」と喧しいわけだが、そういうアンタ達こそ、もしかして偽善したかったの? って言いたくもなるわけ、オレなんかさ。政策に影響を与えようとするキャンペーン、それから「現地に直接」救援・支援等するNGO・NPO等の活動の運営費に使われる、それでいいじゃないか。なにもかもタダで物事ができるわけねーだろ。下品な、それでいてオマエら要するに「世の中のこと知りませんでした」ってことじゃろうと言いたくなるような低レベル理解の批判はアホらしいわけ。
 オレが言いたいのは、たしかに最初は説明がかなり足りなかった(今はけっこう充実してきてるようです、説明も)、それと、オレの趣味からすると、イカにも広告代理店がやってま〜す(実際、要するにそういうもんみたいだけど)って臭いがプンプンする広告コンテンツがあんまりシュミではないってことくらい。ちなみにおいらは持ってません。息子が欲しがってるが、今はなかなか手に入らない、在庫ギレのところが多くなってるようでして。
 ・・・さてさて、2005年も、もう少しですなぁ