05年 6月 5日〜8月16日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


05年 6月 5日(日)   バディのオーラを浴びた

 昨日、6月4日、ジャパン・ブルース・カーニバルに行った。

 今年は20周年だって。少なく見積もって優に半分以上は行ってると思う。しばし行ってなくて3年ぶりだが、前回もバディ・ガイ、今回もバディ・バディ。もちろんバディはメイン、昨日は真ん中がノースミシシッピ・オールスターズ、その前のトップは麗蘭。主催はいつものM&Iカンパニー、司会進行も例年通り、日本唯一の(?)ブルース司会者ごとうゆうぞう(ブルース・ハープますます上手くなってるな、本業なんだろう?)、アシスタントも例によってカメリヤ・マキ(美人でブルース・ギターもそこそこ弾ける、本業なんだろう?)。会場はもちろん日比谷野音。妻子と家族3人で行きました。

 野音に入る直前からパラパラし出して、開演前にかなり強く降り始め、麗蘭の時はドシャ降り。カッパで耐えました。でもバディが出てきた時はほとんど止んでて、そのうち空見上げたら星も見え出した、いい気分! バディが途中でやった FEELS LIKE RAIN 、雰囲気出てたな。

 麗蘭は「時と場所」を意識してか、ブルーズっぽい曲を多く演った。仲井戸チャボ麗市も土屋蘭丸公平も初めて観たけど、なかなか良かった。思った以上に良かった、かな。もしくは期待と同等。・・・が、正直言って、次のノース・ミシシッピ・オールスターズ、そしてトリのバディ・ガイが出てきてしまうと、麗蘭の印象がぐっと薄くなったのは厳然たる事実。

 ノースはギター、ドラムス、ベースの3人。曲調は違うんだけど、でもセンスはGラブに似ているような気がした。Gラブをヘビーにした感じ、そう言っても、そーんなに遠くないと思う。ギターのボトルネックもなかなか良かったね。

 麗蘭は楽しみにして行って、それは実際に生を聴いたらそれはそれで期待のまま良かったけれど、だから、逆にそれを基準にしてしまうと分かりやすい。・・・つまり、バディまでいくと、「期待に違わずイイな」と思った麗蘭の影が完全に薄くなった。何が違うっていうか、それを終演後に妻と話してたら、妻も同意見で、妻の言葉はほとんど言い当ててるね、つまり、「バディ・ガイはその場の雰囲気を変えてしまう」「その場の空気を呑み込んでしまった」。
 そうです、バディは、改めて、今までもそうだったなと思ったけれど、ステージに出てきていきなりオーディエンスを鷲掴みしてしまいました。始まって終わる最後の時まで、聴く者観る者の集中力を切らさない。要するに、こちらが集中しよう、なんて意識する必要がない。オーディエンスを惹き付けて離さない強烈なオーラがある。ステージにいる間、ずっとオーラを出し続けている。

 バディは生粋のショーマンだし、エンタテイナーだし、それでいてもちろん同時にブルース・マン。ブルース司会者ごとうゆうぞう氏が「昭和11年におぎゃぁと生まれ」と紹介してたから、今年で69歳。
 69歳ってのは誕生年を知るから分かるんだけど、パフォーマンスを観聴きしてる限り、全然年齢が分からない。っていうか、聴く側観る側に本人のトシを感じさせない。円熟を感じさせる音楽ももちろんいいけれど、バディのはちょっとそういうタイプとも違うな、今のところ。パワーに、年齢からキテもよさそうな衰えが現れてない感じ。一度も座らず、以前同様にステージの右から左まで行き来、前面に出たり後ろに下がったり、果ては前回もあったように、野音のステージ下に降り、階段状に上がっていく客席の脇を上り続け、弾きまくりシャウトしまくる。ギターもボーカルも、変わらずパワフル。

 いつも感心するけれど、バディはギター(昨日も冴えてた)だけでなく、ボーカルも素晴らしい。そして、ギター、ボーカル共に、ボリュームの強弱の付け方が絶妙、天下一品。

 バディは1曲目はウチのBBAのライブ・イン・ジャパンにも収録されてる GOING DOWN で始まり、アンコールの時はマディの GOT MY MOJO WORKING も熱唱熱演激演。十二分に満足させてくれました。いやぁ、もうバディは何回も観ているけれど、ハズレというものがない。大満足!

 帰りは家族3人で有楽町から東京へのJR高架沿いに歩き、野音でブルースを楽しんだ後の居酒屋打ち上げ飲食。その後は息子の好きなフレッシュひたちで帰路へ。良かった、良かった。

 今日、ワレに帰り(?)、やっぱり首、肩痛く、腕の張りヒドシ。きっつい。なかなか蓄積疲労は取れません。でも息子に夕方リクエストされ、腕張っても首肩痛くても久方ぶりの息子とのキャッチボール。やっぱ息子と投げ合うのはコミュニケーションしてる感じで楽しい。やってる時はいちいちそんなカタカナ言葉は意識しないけどさ、でも兎に角いいもんです。
 首も肩も痛く、腕が張り、そうだ、腿も張ってる。疲れてんな、ったく。でも何とかするさ、何とかなるさ!_


05年 6月12日(日)   アン・バンクロフト

 アン・バンクロフトが亡くなった。6月8日(水)の夕刊に出てた。享年73歳。1962年『奇跡の人』でヘレン・ケラーの家庭教師アン・サリバンを演じてアカデミー主演女優賞。『奇跡の人』の舞台では1960年にトニー賞。でも何と言っても僕ら(僕らって誰から誰までを指してるか不明ですが)には1967年 『卒業』 のミセス・ロビンソン。

 9日(木)はやや調子わるく早く退勤。10日(金)はもっと調子わるくて早く退勤。病院へ。鼻も喉も炎症、風邪でありました。熱は 37度3分。夜は 37度7分までいってその後に下がった(薬のせいじゃろう)。
 翌日11日(土)は朝が 38度1分。一時やや下がったが午後また 38度近くなり、夕方は 38度2分。その後はやや下がり、本日12日(日)は朝がちょうど 37度。午後には 36度5分まできた。もうちょっとかね?

 今からちと仕事。・・・しかし、普段から首や腰が痛くて腕張り足張り手痺れ状態なのに、熱出してずっと横になってたから、今は特に腰の辺りが痛い。腰が延びきってる感じ。嗚呼。
 Give Me Strength to keep me searching for a Heart of Gold.


05年 6月18日(土)   真摯でいて且つ真摯に振る舞うこと

 昨日の夜、NHKのBSでアメリカ映画音楽ベスト100っていうアメリカのどこかの曲制作の番組を放映していて、途中から観た。『明日に向かって撃て』(ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド)の『雨にぬれても』が懐かしいポール・ニューマンとキャサリン・ロスの自転車2人乗りのシーンと共に流れ、ライザ・ミネリの『ニューヨーク、ニューヨーク』のド迫力のボーカルも聴くことができ、『ウェスト・サイド・ストーリー』の劇中歌は何曲もランク・インし、6位は『ミセス・ロビンソン』 で、ポール・サイモンやアート・ガーファンクルのインタビューと共に 『卒業』 のシーンも紹介され、栄えある1位は『オズの魔法使い』の『虹の彼方に』(♪Somewhere Over the Rainbow )。

 番組を観てて改めて思ったことがある。ランキング紹介とランク・インした数々の曲の紹介、そしてそれが使われた映画の紹介。その所々に作曲家や作詞家や歌手や俳優などのコメントが紹介される。ジュリー・アンドリュース、アンディ・ウィリアムス、バーブラ・ストライサンド、ポール・アンカ、ポール・サイモン、アート・ガーファンクル、セリーヌ・ディオン、ディオンヌ・ワーウィック ・・・ その他、僕の知らない数々の人々。みんな、真摯に、熱心に、心を込めて、真剣に、その曲や、その歌や、そのメロディや、その歌手や、その映画のことを語っている。みんな、要するに、真面目だ。もちろん笑顔を見せたり、笑いながら、あるいはシーンを思い出してエキサイトしながら話したりもするが、兎に角、真剣そのものだ。真摯そのもの。真面目なのだ。

 日本でも時々こういう番組がある。何十年間でのロック、ベスト何たらとか、映画音楽ベスト何たらとか、映画ベスト何たら、とか。そして、やっぱり、日本のミュージシャンや、歌手や、俳優がコメントしたりする。それが、けっこう不真面目なんだ。いや、不真面目というと語弊がある。まぁウソを言ったりはしてないと思う。ただ、上の例のような真摯な感じ、心というか、魂のこもったコメントはあまり見ないし聞かない。それどころか、ヘラヘラしていて、オチャラケたやつが結構多い。

 僕は寂しいな。僕は真面目だ。そして、真面目に話すのも好きだ。真面目に話すのって恥ずかしい? 言葉は大事だぜ。ふざける時は、もちろんあってもいい。僕はふざけるのも好きだよ。ただ、真面目に話すのは好きだ。真面目に考え、真面目に思い、真面目に感じていることを話す時は、真面目に話せばよい。心を込めて話せばよい。何でもふざけ倒す文化は低レベルだと思うな。真面目にやろうぜ。

 最後に関係ない蛇足。先週熱出してから、熱は下がった後も、何というか、身体に力が入らない。これはじきに治るに違いないが、やっぱり蓄積疲労の為せる業、治りに時間がかかるね。身体が弱くなってるみたいです。日曜の午後に熱が下がった後、石炭(漢字違うよ)は残り、そして腹の調子がわるくなり、昨日は二郎さん神経科・内科に行って、レンドルミン・ルボックスの他に、胃腸薬や石炭(漢字違うよ)のヤクももらった。腹の具合はよくなってきたかなぁと思うけど、今度は昨晩から頭痛がけっこう続いてる。嗚呼、これも1年余の異常な蓄積疲労の為せる業? 誰が責任持つの? 自分にはあるけど、自分にだけあるとはとても思えないな。
 肩も首も腰も痛い、手が痺れる、これはずっと同じ。もう付き合っていくしかありません、当分、という長い間。
 Give Me Strength to keep me searching for a Heart of Gold.


05年 6月20日(月)   体調わるかった。仕事休んだ。

 今朝起きると、若干、岩になっていた。僕は転石。巌は遺憾。苔は生さない。転ばぬ先の杖。転がる先の杖。それある?
 兎に角、体調わるかった。休むことにした。また寝た。9時にシャに電話。課内に伝言。業務連絡。

 1カ月前までの1年間余の僕の労働状態、勤務状態は極めて異常だった。スーパー・アブノーマル。ほとんど深夜ばかり。終電乗れない日もしばしば。泊りも何回か。朝9時から翌日の夜までレベルの徹夜ぶっ通しも3回(つまり単なる徹夜なんかじゃないんだ)。流石にこんなに異常な勤務は日本広し(?)と言えども、そう多くない。まぁでも結構いるな、日本、おかしいから。

 近頃は退勤遅くない。1週間余前には風邪ひいたし、遅くない。実際、以前の1年余からは段違い平行棒の差。帰りは早いよ。でも反って、そうなってから、1年余の蓄積疲労、疲れがはっきり出てきたね。

 その前から元々、腰椎や頚椎の椎ヘル抱えてたんだ。治るわけない。アッカしたね。神経科だって前から。たまらんね。兎に角、今日は休んだ。今、ジェフ・ベックの Jeff 聴きながら、これ書いてる。これアップしたら、在宅仕事する。とほほ、かね。
 Give Me Strength to keep me searching for a Heart of Gold.


05年 6月25日(土)   いつか僕が死んだら

 えー、まぁ60年くらい先の話ね。

 今週、通夜に出る機会があった。そこそこ大勢の人が来てた。まぁ平均的パンジンよりも社会的に影響「力」持ってた人の通夜だし。

 帰路、僕は思った。まぁね、60年くらい先の話かね(笑)。俺ね、100超えるもんね。息子の喜寿を両親が祝うってのもいいねぇ(笑)。

 あ、話を戻す。その、人間は、いつかは死ぬ。いつか僕が死んだら、人を集めるようなことはしてほしくない。そんなことやらぬだろうと期待するが、期待しても死んだ後の話。遺言でも残しておかなくてはならない。

 いつか僕が死んだら、人は集めない。訃報を知らせて通夜したり告別式したりするってのは人を集めるってことだ。いや、集まりたいから人が来る?
 まぁ僕はね、それはしない。しないことを要請するものである。死ぬ者の権利として、死せる機会に人を集めぬことを要求する。身内だけでいいよ。身内ってのは内々の親族ね。それも、三々五々でいいじゃん。もしも、訪ねてくれる人がいたなら、の話ね。あとは、数少ない友人が元気あって、線香あげたいって訪ねてくる人がもしもいたなら、の話ね、それも三々五々でご挨拶すりゃいいよ。

 頼む。妻と息子を含む内々の者たちでしばし悼んでくれれば十分。会合なんてしないこと。金も集めないこと。だから、お返しもない。・・・で、それでさ、しばらくビートルズの STRAWBERRY FIELDS FOREVER とか、流していてください。他には IN MY LIFE とか、 ALL YOU NEED IS LOVE とか、 スティービーの LOVE'S IN NEED OF LOVE TODAY とかさ。

 もしも僕が死んだら、いつか僕が死んだら、人は集めないこと。それと音楽は、STRAWBERRY FIELDS FOREVER 、 IN MY LIFE 、 ALL YOU NEED IS LOVE 、 LOVE'S IN NEED OF LOVE TODAY とかね。
 あ、上に線香のこととか書いたけど、ちょっと宗教分からんね。それに、墓どうするんだろう。彷徨うのはナンだしね。今の僕らなら、やっぱり無宗教の墓がいいかね。宇宙を律する絶対的なものはあると思うけどね。そりゃ、あるよ、法則がある。それを神と呼ぶか呼ばないのか、あるいは別の呼称が妥当なのか、それはその時々でいいじゃないか。
 でも、死を宗教という次元に還元するかは別問題。僕らの今の気持ちは無宗教がふさわしいかな。
 ま、いちおうね、60年くらいは先の話、なんですよ。
 それまで、ずっとさ、Give Me Strength to keep me searching for a Heart of Gold._


05年 6月26日(日)   オブリージュと 楽しみと

 この間、ボーナスが出た。このご時勢、カイシャインとしてボーナス出る環境にいる幸運には感謝したい。

 昨晩、妻子を伴って、外食した。回転寿しか焼肉か。普通に寿し(の方がもちろん美味い!)とも思ったが、息子はネタが何でもありの回転寿しの方がかえってよいようなんである。僕は焼肉の方が良かったが、息子がどっちかっていうと回転寿し。そっちにした。

 やっぱ、回転寿しは安いね、あれだけ食ったのに。焼肉食ってりゃ、プラス数千円はかかってる。

 この間、ユニセフ(日本ユニセフ協会ユニセフ本部 )から通信が来てた。スーダン、ウガンダ、ジンバブエ、コロンビアなどを含み、アフリカ諸国が過半となる地域の『忘れられた緊急事態』への支援を求めるもの。この緊急事態は、ユニセフはじめいろんなところに出ているからここでは詳細は書きません。ユニセフからは、スマトラ大地震・大津波被災者への支援に参加 して以降、たまに通信が来る。今回の支援金には参加することにしました。昨日焼肉食べてれば、僕らはそのくらい十分使ってる。

 特に理屈は用意しなくてもいいけれど、たとえば一つは オブリージュ とか。他にも考え出せばいろいろあるでしょう。オブリージュはそういういろいろのうちの一つ、かな。

 今日、アマゾンに注文した。ライ・クーダーの、かの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』、そして新作の『チャベス・ラヴィーン』。
 それから、書籍。逸見庸の『永遠の不服従のために』、高橋哲哉の『靖国問題』、イスラエル人女性ジャーナリストのアミラ・ハスがガザ地区やヨルダン川西岸占領地に住みながらそこからリポートした『パレスチナから報告します』。

 そう言えば、久方、『週金』 の話題、書いとこう。
 一昨日の 6月24日・第562号、これ内容、良いね。特集の韓国『時事ジャーナル』誌との合同企画、両国識者等、まぁ昔風の言葉で言えば「右」から「左」までの計20人に聞くってやつ。これがまた両誌の記者同士の人間的交流があって成立した企画で、いかにも韓国人の人間臭さを感じるサイド・ストーリーがあってよい。そもそも企画自体が充実してるけど。これ、これからもやってほしい。読み物というだけでなく、これを続けること自体が日韓の交わりを深め存在を認め合う『運動』に成り得るもの。ヨイです、これ。
 前から僕がアホと思ってる、あの「櫻井よしこ」女史の『週刊新潮』連載コラムを叩く記事もヨシ。いくら、レベルの低いアホでも、この国の民度の下では影響力あるオバサンなので、しっかり叩いておいた方がヨイ。女史は相手にしませんの素振りで逃げるんだろうが、何だったら「内容証明」付き公開質問状くらいの記事にしてもいいくらい、マイナス影響のある実に「困った」オバサンです。

 今日も肩痛いよ、首痛いよ、腕張るよ、手痺れるよ。昼飯後は在宅シゴトよ。
 メチャ痺れるよ、左手が。胸も痛いんだけど…。嗚呼。
 60年先かよ、死ぬときは たのむよ
 それまで、ずっと、Give Me Strength to keep me searching for a Heart of Gold._


05年 7月 3日(日)   ジェフ・ベックを生聴き

 昨日、7月2日、ジェフ・ベックを生聴きした。場所は東京国際フォーラム・ホールA、開演は午後5時。

 開演はほぼピッタリ。3曲目に BLOW BY BLOW の中の Cause We've Ended As Lovers 、感激。そして次の曲が Rollin' And Tumblin' だったのは結構ビックリ。ジェフのボトル・ネックでイントロのリフが始まると、ステージ脇からあっと言う間にボーカルが現れ、歌が始まり、更にもう1曲、うた有りの曲やってすーっとステージから立ち去った。後はまたしばらく、インストのみが続く。ジェフの他は、ベース、ドラムス、キーボードのみのシンプルな編成。でも十分。
 2部構成だったが、特に前半、後半で趣向が違うという感じでもなかった。1部の後半の方で、特別に学校があって遅れて出発した妻子がやって来た。

 WIRED の中の Goodbye Pork Pie Hat 、 Red Boots 、 Blue Wind も演りました。特に Blue Wind はカッコよかったな。最近の曲も沢山演ったはずだけど、おいらはちょっと曲名とサウンドが結びつかず。他には、ジミ・ヘンの Hey Joe も、これはもちボーカル付き。そう、ボーカルは必要な時だけステージに出てきたのだった、ご苦労様。

 アンコール2回。最初のアンコールの最後の曲が Over The Rainbow だったのはサプライズ。以前のクラプトンの来日公演のそれとはまた違った味わい。ジェフのギターとキーボード、楽器はその2つだけ、ボーカルは無し。
 ジェフは機嫌良さそうで、もう1回アンコールに出てきて、ボーカルを伴って、 Going Down 、嬉し懐かしBBAのライブ・イン・ジャパンにも収録されてる曲ね。先月のジャパン・ブルース・カーニバルの バディ の1曲目がそれでした。

 ある意味かなーり感心したのは、30年以上も前にレコードで音を聴き、当時も写真で観ていたジェフ・ベックを、今こうして初めて生で聴き、ギターを弾く姿を生で観て、そして双眼鏡でもじっくりと観て、それがどうにも当時とほとんど変わってないんじゃないのという印象。あれが今、だいたい 60歳か、それ越えた辺りでしょ? ちょっと信じられない。
 本当に変わってない。トシ取ってる感じがしない。いいとかわるいとかじゃなくて、例えばクラプトンと全然違うトシの取り方してる。・・・うーん、トシ取ってんの?
 それと、クラプトンが、手でギター弾いてるってんなら(普通はみんなそうです)、ギターを弾いてる時のジェフ・ベックは、ギターが身体の一部になってるって感じかな。手と、あるいは身体と、ギターが一体化していますね。

 とにかく永年のギター少年、って言えばいいのかな。いつまでもギター少年に憧れられそうで、鋭利な刃物のようなサウンドを聴かせ、クールで、兎に角カッコよいね。・・・家族3人、十分に満足したのでありました。

 終演後は近くの越後そば屋でビール、そば、その他、団欒の飲食。帰路はフレッシュひたち也


05年 7月 3日(日)   行なう。行なった。行った。

 行なう。
 これ、どう書く? つまり送り仮名。僕らが学校で習った頃は「なう」ね。今は学校では「行う」だろ、多分。世間の趨勢はそっちだし。

 行なった。
 これは? 「行った」って書くと「いった」とも読めるよ。「皆で行った演奏会」は「いった」のか、「おこなった」のか? 「皆で行った花火大会」は「いった」のか、「おこなった」のか? 文脈で判断するったって、やっぱ不便だろう。

 これは実は調べてみると分かる。ずーいぶん昔の昭和の話、内閣が告示なんてのを出して、動詞の活用語尾で送り仮名ふるのを全て『本則』とし、「行った」等、一部の誤読のおそれがあるものについて、「行なった」と送る(送り仮名ふる)ことも『許容』としたんだど。
 でもね、これはやはり不便ですよ。一律に活用語尾としなくとも、実用で決めればいいじゃん。やはり上記の誤読を招く一部は、僕らが小学校で習った頃のように、「行なった」、したがって現在形も「行なう」、こうしておくのが便利なのです。国民の利便性を考えてもらいたい。当時は新聞も雑誌もみんな「行なった」だったと思うよ。

 今は朝日はじめ一般紙はみんな「行う」「行った」だ(後者は「おこなった」も「いった」も見た目同じってこと)。だけど兎に角、『許容』だからね、自由は自由なわけよ。そういうわけで、例えば『週刊金曜日』、改めて見たら「行なう」「行なった」だね。僕が買った書籍で、今年刊行のものとか新しいものでも「行なう」「行なった」で統一しているものはあります。少なくないのかもね。僕はこっちの方が実用的だし、よいと思います。

 今日、酒を断って帰宅した。
 これさ、「断った(たった)」、つまり断酒したのか、「断わった(ことわった)」、つまり酒の誘いを断わったのか、どっちかね? 後者だったら、やっぱり「断わって」の送り仮名がよいでしょう


05年 7月 3日(日)   戦争体験は引き継がれるか

 一昨日、日付は昨日だけど、つまり、金曜夜中の「土曜」午前1時過ぎ、「朝まで生テレビ」は、その日は「生」ではなくて録画版だったけど、当然と言えば当然、パネリストは 80歳前後の高齢者が大半。その人達は海軍、陸軍の旧(大日本)「帝国軍人」。ちななみに、俳優の池部良もいました。

 これはもう相当な記念すべき貴重な番組。兎に角、この人達の「証言」とも言うべき発言は、記録され残されるべきですね。僕はDVD録画して観ましたが。

 南京戦に参戦した人が、当時、蒋介石もナンバー2も敵前逃亡し中国兵は「便衣服」に着替えて街に残り、兵士も市民も区別しにくかったことには触れつつも、日本軍によって兵士などとは呼べぬ「女子と子ども」が縄でつながれ、揚子江に投げられ、翌朝になると川にたくさんの死体が浮かぶ、それを片付けるのが辛かった、と発言。今だから私は隠したりしたくない、とその老人は言った。被害者の数などは分からない、ただ、『南京虐殺』と言われるものは、確かにあったと明言している。
 その同じ人が、フィリピンの戦線にも行き、兵士と在留邦人が共に移動する中で、在留邦人の食糧は時に軍に奪われもしたし、飢えて亡くなる婦女子が多くて無残だったと。

 台湾人の元日本軍兵士も出演した。俘虜監視役を務め、日本人の上官が逃げる中でBC級戦犯となり、戦後6年経過してから日本へ。しかし日本に来れば、今度は日本の入管の役人に、「お前は台湾人であって日本人ではない。外人登録しなさい」と言われ、戦時中の給料も、「お前は現地で解雇扱いになっている、お前の給料はない」と言われてしまう。日本人の軍人と遺族がもらっている軍人恩給も全く受給されていない。

 政治的立場や考え方は非常に幅広い中からの人選だったし、互いに意見が合わないところも当然のようにあったが、とにかく貴重な発言ばかりだった。敗戦(「終戦」)後もインドネシアの独立戦争に参戦した人、当時まさに日本軍が玉砕せんとするガダルカナルへ艦船で救援に向かった海軍軍人だった人、特攻隊だったが悪天候が生死を分け戦後も生き続け今発言する人、学徒として帝国軍隊に加わった軍人・・・。

 印象的だったのは、小泉の靖国参拝に賛成する人が少数派だったこと。もちろん逆の立場の人もいたが、反対派の方が多かった。そして、靖国の遊就館は先の戦争を美化するものでしかない、あんなところに総理が行くのは問題外と言い切る人もいたし、私的だろうが何だろうが私は行かない、という人もいた。逆に肯定的な意味で、若い人は遊就館に行ってほしい、と言う人もいた。かなり幅広い考え方が背景にある旧軍人のパネリスト達だったが、いずれにしろ、発言は重たいものばかり。

 当時のたいへんな時代を生き、戦争体験を持つ人は既に多くが世を去っている。これからでもよい。未だ間に合うと思いたい。僕は、こういう番組は何度でも企画されるべきだと思う。とにかく、壮絶な体験が語られた番組だった。僕は録画して観たんだけど、これはずっと保存しておこうと思う。また、改めて観るかもしれない。あまりに多くの貴重の発言があって、ここに書き切ることはできません。

 ・・・靖国と言えば、先月、2005年6月14日、あの戦争が終わって 60年経とうとしている時、台湾の先住民、タイヤル族などと呼称されるんだったろうか、戦前は日本人から高砂族と呼ばれ、日本軍兵士としてずいぶん加わった人たち、そうして戦死して靖国に合祀されてしまっている「祖父達の魂」を持ち帰る儀式をしたい、とその台湾先住民の遺族たち約60人が靖国神社を目指したが、その手前で「右翼による暴力」から守るとの建前により、日本の官憲に押し止められた。確かに右翼は集まっていた。しかし、どう考えても、右翼と日本の官憲が実質グルになって台湾先住民の靖国入りを押さえ込んだとしか思えない。ひどいもんだよ、ほんとうに


05年 7月 3日(日)   テンション下げたい。痛み和らげたい。

 昨日、息子の中学の催しに行った。参観。普通の授業でなく、「いじめ防止」プログラムの一環としての子供達の催し。その後、僕が先行し、その後、妻子も追い、ジェフ・ベック のコンサートへ。

 帰宅後は、LIVE 8 を少し観た(ぜーんぶ録画した。今朝8時過ぎくらいまでやってたのかな、後でだんだん観ていく)。20年前の LIVE AID も今回同様、ボブ・ゲルドフがオルガナイザー。
 当時はエチオピアの飢餓が特に注目されていたけれど、そういう意味では、20年経ってもアフリカと世界の問題は大きく進展していない、とも言える。欧米中心のミュージシャン達の取り組みを「偽善」等々と皮肉る向きはあるだろうが、僕はそういう批判はしない。僕はやることには意味があると思う。批判するのが座して批判派なら僕は共感持たないし、またこうした取り組みは反ってマイナスだ、単純に「カネでなく自立の技術を伝えるべきだ」ともっともらしく言う向きもあるが、実は何十年も前から存在しながら「緊急事態」で在り続けるアフリカの問題はそういうレベルで解決できる話ではない。その間に何十万何百万という人が死んでしまうだろう。イタチごっこだと思う人もいるかもしれないが、「カネでなく発展するため自立するための方法をアフリカに」というのは如何にも正しそうだが、それで解決するレベルに今のアフリカと世界はない。グローバリズムの問題を含め、世界はもっと錯綜している。
 署名がどれだけ力になるか分からないが、昨夜は LIVE 8 のサイト で家族3人、署名した。活動の目的や署名の目的は、サイトに記載されてるよ。活動自体の大きな目的は、簡単に言えば、前世紀末から行なわれている最貧国債務帳消しの運動の目的達成、そしてアフリカ支援の強化、これらを、今、スコットランドで開催されようとしている先進国8カ国の首脳会議、つまりサミットに集まる各国首脳に訴えようとしている。

 ・・・さて、話をガラッと変えて。
 首が痛い。両肩が痛い。両方の上腕が張る。左手が四六時中痺れてる。背中が痛い。腰が痛い。足が張る。時に気分がハイになる。
 身体は帰宅後にかえってひどくなるかな、仕事場でそれを時には忘れてシゴトしていても、そこから離れるとかえって「実際にある身体的な苦痛」がより意識の面に浮かび上がって来て、自覚症状となって、よりはっきりと出てくる。
 気分は逆に職場にいる時の方がよくない現象が現れるかな。しばしばあるのは、ハイ・テンションな状態。メールなどに、妙にどーでもいいことをダラダラと書いてしまう。その時、気分は相当にハイになっていたりする。・・・あー、もっと落ち着きたい。そうだ、落ち着こう。うん、落ち着こう。

 ・・・テンションを下げたい。痛みを和らげたい。・・・じっと、落ち着こう。じっと。落ち着こう


05年 7月 5日(火)   椎間板

 昨日、特に首と肩の痛みがひどくて早めに帰宅した。
 今朝、4時半ごろ目が覚めてトイレへ。近頃、しばらく前から再び明け方に目覚めること多し。眠りが浅い。先日、あれ、いつだったっけ、あ、そうだ風邪の治りがけに腹の調子がわるくて内科に行きたくて、しかし帰りがやや遅くなって間に合わず、内科も神経科もやってる二郎さん神経科に行って久方に対談、ここのところヨメさんによるヤクもらいが続いていたが、まさしく久方の対談、その時に直接処方してもらって続けてるレンドルミンとルボックスもらってて、あ、そうだ、更にそれがまたキレかかり、昨日、ヨメさんに補充に行ってもらっていた、兎に角ね、レンドもルボも飲んでるんですが。
 話を戻す。…で、6時過ぎにまた目が覚めた。その間も夢ばかり、浅いね。そのうち、首と肩だけでなく、腰の痛みも強く感じ、身体はいつか巌のようになっていた。イカン遺憾、僕は苔生す巌でなくて苔の生えない転石さ。

 両肩の後ろ側に鉄の棒が入ってるような痛さ。バリバリに張ってる。俺の肩で逆上がりや蹴上がりするのは誰だ、止めてくれ。…今朝は鉄の棒が増えた感じだな。

 しゃーない。休むことにした。職場に電話。上司にも電話、書類回りの件。
 それから病院へ。待合から出て携帯でまた職場に電話。フレックスにつき時差があるんだ、人により。で、今日の仕事の件で連絡。まぁ一応、指示っていうんだろうかね。連絡だね、連絡。

 病院の後、付近で最近開院したマッサージ師のところにも行こうかと思ってた。
 まずは椎間板のかかりつけ医師。この人はとても信頼できる。今までのメチコバールとオパルモンに、更に出たのが痛み止めハイペン、併せて胃のためのアプレース。メチコは痺れを和らげる神経系効果のビタミン剤、オパルの方は痛み緩和系とこの頃勘違いしてしまっていたが、そういや違う、今日改めて訊いたがこれは血液の流れを良くする効果。痛みが増してきているのならばってわけで出ました痛み止め。メチコとオパルは続けてる、いつもの通りの4週間。痛み止めはその半分期間です。

 「もう長いんですが、こうやって過ごしていって治ればよい、兎に角それまで付き合うしかないんですよね。」
 医師「そうそう、どうしてもキツクなれば手術だけどなぁ。まぁ未だ大丈夫ならこのままいこか。」
 「はい。まぁカイシャに行けば仕事はしてますから。」(つまりまぁできてますからってとこね。)

 「先生、相談なんですが。マッサージとかどうなんでしょう。整体とかマッサージして痛み和らげようかなと。」
 医師「あ、それは反ってわるくなるかもしれんな。しない方がいい。」

 ・・・というわけで、マッサージに行くのはやめた。
 「僕とか素人はあんまり揉んだりしない方がいいですか?」
 医師「いや、そうやって自分でやる程度はいいが、あんまり(マッサージ師にってことかなぁ)強くやられると、反ってわるくなりかねない。」
 …そう医師は言うのだった。

 いや、あの医師は信頼できるから確かに違いない。ただ、どうなんだろう、後で考えてみると、おいらは「整体」とかって言葉を出したからだったかなぁ、もしかして。行こうとしてたのは整体ではなくて鍼灸マッサージをやる人による所謂あんま、按摩マッサージだったのだ。しっかし、おいらは整体も按摩も正確には違い分かってないしね(語感からくるニュアンスだけ感じられるけどさ)、ただ、按摩なら大丈夫だよってんなら、医師はきっとそう言うだろう。してみると、一般にマッサージ師によるマッサージは今のおいらの椎間板の状態や症状にはよかないってこと? いつかまた機会が出てしまった時には、按摩は? って訊いてみようか。でも按摩なら大丈夫だけどなぁってんなら、やっぱ言うよな、あの先生は。うーむ、質問はまたの機会に気が向いたらかね。

 ・・・さて、この付き合いもけっこうたいへんだね。
 首が痛いわ、両肩張るわ、両方の上腕(特に外側かな)が張るわ、左手が四六時中痺れてるわ、背中が痛い、肩の後ろに横に鉄棒が入ってるような感じだわ、腰が痛いわ、足が張るわ、どうせいってんだ。

 そういうわけで今日は休んだ、夏期休暇1日目取得とするよ、そのうちおいらの課がまた一人減るのさ、今のうち、こんな時は夏期休暇消化とするのさ、消化ってのは寂しいね、おいらも夏の家族の楽しき休暇は取るぞ少しは。
 なんだか休みにしても例によって在宅シゴトの妙な誘惑に駆られるが、今日はしません。両肩できるだけ休めましょうぞ。ホンマ鉄棒だよ両肩貫通、肩ぱんぱん、頼むから懸垂せんといてや余計痛くなるってばさ。
 痛いのになんでホームページ更新するんだってか? これはヤクなのです、精神の方の。HyperText Markup Language を喋るのは僕の精神を和らげます。痛みは身にも心にも有り得るのです。…でも、ほどほどに、だね。嗚呼ホンマに両肩痛い、なんでもホドホドやな


05年 7月10日(日)   一休さん

 職場内の一部に出てるメディアで、一休宗純(一休さん)が言った言葉として、
 ナルヨウニナル.シンパイスルナ
 という一言(二言?)が出ていた。

 僕はそれを見て直ぐに思った。これはビートルズの LET IT BE だ。  

 でね、 一休さんバージョン を作りました。

 一休さん、ちらっと調べましたが、かなり個性のある禅僧だったようですね。

 僕はこの言葉を前向きに受けとめるわけです。そしてロックなアティチュードは維持する。
 抽象的だってか。僕は抽象的に書いてるんですよ。

 社会を見渡すと、なるようになる、などと言ってられない状況はいくらもある。だから、そんなふうには文字の通りには取らないのです。そりゃ、そうですよ、しかし、こういう言葉は僕という個人が生きるうえで、生きることと共にある銘、なわけです。忘れそうになったら想い出すわけです。

 はて、首が痛いわ両肩張るわ両上腕が張るわ特に外側それも右腕だわ左手が四六時中痺れてるわ背中が痛いわ肩の後ろに横に鉄棒が入ってるような感じだわ(この間はトンガリ帽の小人が僕の背後から両肩につかまって「わーい鉄棒だ鉄棒だ、懸垂してやる」ってんで僕は「まぁ懸垂しても大車輪はするなよ」と応えたら「ああ分かったよ」と言っていた)、腰に近い背中も張ってるわ足も張るわ、どうせいってんねん。

 HyperText Markup Language を喋るのは僕の精神を和らげます。痛みは身にも心にも有り得るのです。…でも、なんでもほどほどに、したいもんです。そのほどほど具合が肝要なんでしょうか、どうでしょう、一休さん_


05年 7月17日(日)   心身を

 近頃、っつーか、ここしばらく、まぁ再び三度というわけなんだが、就寝中の夢が多い。回数も、時間も。で。目覚めても憶えてたりする。っつーわけで、眠りは浅い。睡眠不足は慢性化している。

 で、手は痺れ、首肩痛く、腕は張り、足も張り、腰も痛み。両肩の後ろの背中側には鉄棒が貫いている感じでね、そこに毎日トンガリ帽の小人がぶら下がってきて言うわけよ、「わーい鉄棒だ、懸垂してやる」、僕は応えて「懸垂くらいならいいけど大車輪はやめてな」ってさ。腹にぶつかるからねぇ。
 そこんとこきて慢性の睡眠不足なんだから、まぁきついさね、一休さん


05年 7月17日(日)   あきらめない

 この春に小学校を卒業して今は中1になってる息子が、最近、小学校から「卒業アルバム」をもらった。表紙めくった扉には卒業証書を受けとる本人の写真。それぞれ用のものが作られたわけだ。よくできてます。

 中には、こども達が書いた自分史や未来の計画みたいなものが書かれ、『今の自分について』という趣旨の文や、『未来の自分へ』という文が書かれてる。

 息子は「今の自分は、四年生の時の二分の一成人式の時に書いた『最後まで、あきらめない』を今も続けています」と書いていた。「だから、野球をやっている時も、テレビで野球を観ている時も、(負けていても)『まだ勝てる』と思っている」と書いている。「やるときは、しっかりと、最後まで、あきらめずに、楽しくやっていきたい」と。・・・こうやって思ってがんばってればよいなと僕は思う。
 今も家族の時間を共にする居間には、息子がたしか四年生の時に書いた『何かをやる時は最後までがんばる。』という決意表明が貼られている。

 『未来の自分へ』は、「どんな仕事をやっているか。夢どおりの仕事をやっているか」と問いかけ、「全体のことを考えて楽しくしっかり行動しよう」と呼びかけている。僕は、この「全体のことを考えて」という言い方に、賢治の詩にある雰囲気を感じ取って、妙に嬉しくなった。

 はて、僕は何をあきらめないか。僕は何をがんばっているのか。あきらめないってことはどんなことか。時には こんな態度 だったりもしますかね、トム・ペティさん


05年 7月18日(月)   カエル

 昨日の感動を、友人のメールに返信してるうちに思い出した。では、メールから、そのまんま。

 俺は昨日、ずいぶん感動したことがあったよ。家の中にいたら、妻が俺を呼びにきた。
「お父さん、うちの庭にものすごく大きなカエルが住んでるよ」

 慌てて庭に出ると、息子が2年くらい前に雨の日の後にうちの小庭に作ったトンネルみたいな穴が今も残ってて、そこから巨大なカエルの頭が出ていた。いや、びっくりした。
 ガキの頃にはよくヒキガエルとかトノサマガエルとかガマガエルとか、大きいやつを見たが、自分が小さくてカエルもより大きく見えたに違いないその頃に見た巨大なカエルよりも、昨日見た、うちの小庭の穴に住んでるらしいカエルの方が間違いなく大きい。

 息子が帰ってきてから、息子も一緒に3人で見に行った。もう隠れていたので、小枝を中に入れたら、ものすごい力が伝わってきて、ゴゴゴと低い鳴き声が聞こえた。そのうち、顔を出してきて、息子も見て「で、でっかい」と言ってびっくりしてた。

 どうか、うちの敷地で長生きしてもらいたいって思うよ。
 もっとも、カエル様には、この土地の所有者が人間だなんて、そんなこと認められるはずがない。断固、認めないだろうな(笑)。
 カエルにはカエルの自由がある。人間から見れば、不自由そうにも見えるけどなぁ(笑)。

 カエルは写真撮っときゃ良かったな。
 ・・・メールでその前に書いてたことはこんなこと。

 自由で思い浮かべるのはエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』だったりするけど、内容は大方(?)知ってたりするが、原書はもちろん翻訳書も読んでない。それとか、むかしむかしの学生時代に流行った浅田彰の「逃走論」とかスキゾ・キッズとか。
 だけど、自由であることの孤独とか責任とか不自由ってのは、そういう社会学や心理学の書籍に手を出さなくたって、案外、坂口安吾の堕落論にだって書き込まれてる。
 去年は何かの雑誌で、普段はあんまり好きでもない西部邁がけっこう合点のいく、考えてみればえらくシンプルな「自由」の「不自由」論に触れていて、へぇーっ結構いいこというじゃんと思った。

 ・・・勘弁してくれ。おれはヘルニアで首も腰も肩も駄目なんだからさ。のんびり運動するさね、たまに。でもこのまま運動不足ではやばいな。身体的に本格的に弱くならないうちに、徐々に鍛えなおさなくてはならないだろうな。

 はて、メールのテキストの順番変えたところで、結局、脈絡あるような、ないような。
 ・・・兎に角、でっかいカエルには感動した。生き物には時々感動させられる。おいらも生きてるからかね


05年 7月23日(土)   カエル再び

 今週は初め早め・・・だったかな、水木は遅く木曜が終電、昨日はまぁまぁ、たぶん明日は少し在宅シゴト。まぁまだ振り分けられんこととかあってさ。それはまぁもうさて措いといて、とりあえず。

 今日は午後はテレビ録画しておいた映画を妻と観た。それを、当サイトの 「映画」コーナーにアップ。RUNAWAY JURY 、邦題はニューオーリンズ・トライアルね。やっぱ原題と邦題、ちゃうなぁ。

 夕方近く、妻と小庭に出て、カエル を再訪問。いたよ、今日も。顔というか、アタマというか、見えました。元気にしてや。

 わしも何とか元気。妻子は元気やで


05年 7月24日(日)   キャッチボール

 今日は在宅シゴトやらなかった。まぁ仕事に関係するファイルみたいなものは打ったんだけど。ま、それはさて措き。

 今日は昼食後、家族3人で、先日1学期終了後に学校であった面談(妻が会社出勤の前に行ったのさ)の中身について、家族3人で話した。その後、息子は遊びに行った。

 息子が夕方帰ってきて親父に「キャッチボールやろうか」。それで、外にやりにいって、息子はそれまでバッティング練習してたみたいで、自分のこのあいだ買い換えたグラブは郵便箱の中、まだカタイみたいでね、そこに入れて少しでも柔らかくしようってわけだろう。息子が郵便箱から自分のグラブを出すと、その下に封筒。
 封筒は パレスチナ子どものキャンペーン からだった。機関誌『サラーム』だ。この活動が支援している地域や、そこの子どもたちの様子などが報告され、活動に関わっている人にも励みになるもの。いい機関誌です。

 それから、息子とキャッチボールをした。そのうち、妻が買い物から帰ってきた。今、妻は夕飯の支度中。僕は今、ライ・クーダーの新作チャベズ・ラヴィーンを聴きながら、このHTML語の文章を打ってる。ライ・クーダー、いいよ。今回はロスに昔あったヒスパニック系の人々の街を舞台にした音楽。音楽ももちろんラテン風味。っていうか、ラテンそのものなんだろうか。僕はラテン音楽に精通してないから明言はできないけれど、少なくともヒスパニックの人の音楽を取り上げてるってとこかな。つまり、アメリカで、スペイン語を話すラテンアメリカ系市民・住民の人達ね。市民・住民って書いたのは、アメリカ社会が彼等を市民扱いしていない面もあるからね。彼等を、彼等の一部を? まぁ日本社会だって、なーんにもエラソーなこと言えない。

 ライ・クーダー、今度のもいいです。・・・今日は息子とキャッチボール、その前にじっくり家族3人で言葉のキャッチボール。いや、親父がちょっと騒々しかったけれどね。言葉のキャッチボールは、野球のボールのようには簡単にいかないものさ。
 でもいい休日だった。そう思う。それで、しばらくしたら家族3人で夕飯なのさ


05年 7月31日(日)   明日からまた欠員1名。

 まぁ赤字にするほとでもないのかね。僕は麻痺してるかもしれんし。

 近頃、そんな欠員バナシなどとは全く関係なく、もうしばらくの間、再び三度(?)、眠りがたいへんになってる。レンドルミン飲んでるんだけど、いまいち。なかなか寝付けない。

 ただ寝付けよりも朝がもんだい。朝、目が覚める。夏は日が長いから、もう外は明るかったり明るくなりかかってたり。で、その後がなかなかきつい。そもそも、大体その時は記憶が定かの夢から覚めたばかり。要するにどんな夢だったか、その「夢の途中」を正確に憶えてる。要するに、もともと眠りは浅いんだと思う。眠りが浅いから夢を見るのか、夢を度々見てしまうから眠りが浅いのか。
 朝、目覚めた後でも、とにかく眠いんだから1時間でも2時間でも眠りたいんだが、これがなかなか。それは決して夏で朝から暑いため、というのではない。夢から目覚めの影響もあるのかどうか、頭痛とかぼーっとした感じとか、それでいて、何かを考え始めてしまう。考え始める、というのは思考を始めるということ。思考しながら眠りにつけますか。こりゃたいへんですぜ。

 ・・・そういうこととは実際、関係し合っていないんだが、明日から僕がガチョウしてる部署がまた欠員となる。昨年度、昨年5月下旬から年度末までずっとメンバー内1名不在で、とんでもない1年だったけれど、今回はそこまでひどくはない。あれは異常過ぎた。
 そこまでひどくはないし、今後もあそこまではひどくならないだろう。・・・でも、またまた欠員が長期化したりすれば別。そうなりゃ僕は、人間の生活を保ちながら「できる範囲で」対応させてもらいます。
 いまだって昨年度の後遺症は相当なもんだぜ。これからは縮んだ寿命を延ばしていくのさ。もう、頼むぜ。

 今日は息子は野球部の遠征試合。妻は午前、息子が去年まで参加してた小学生の野球チームの市内大会準決勝への応援。今は昼飯支度中。午前勝利したので午後は決勝への応援。僕はたぶん、午後はちょこっとかな、シゴトに手を付けるだろう。

 さっき、小庭に出て カエル 訪問。だけど姿は見えなかった。どっか行ったかね。あれだけデッカクなっちまうと隣家の敷地側とかには行けないと思うんだけどな。まぁ住処の穴の中に入ってるのかも。
 小庭では、ひまわりがだんだんに成長していてそのうち咲いてくれるかな、ゆりも大きくなり、それから、こぶしの木はもうずいぶん大きくなってる。どんどん大きくなってる。僕は今、何故か昔々のスネークマンショーをかけながら、このHTML打ちをしてる。「いいかよく聴け、この電話な、盗聴されてんだぜ」


05年 8月 7日(日)   −1+(新所掌シゴト+1)⇒椎間板爆弾点火?

 今月初めから欠員1なんだけどね、まぁ今後はどうも、このタイトルのようになるわけよ、たぶん。まぁ点火はせんけど。

 欠のあとシゴト拡大を伴うから補とは言えんのだがそれはそもいつ?

 −1+(新所掌シゴト+1)⇒椎間板爆弾点火?

 ぼかぁ、01年から腰椎・椎間板爆弾仕掛けられてるからね、それで02年には悪化したからね、それで03年からは頚椎・椎間板爆弾も入ってるからね、以来、左手はずっと痺れてるからね、そのうえ昨年度なんか担当課はほとんど当初から欠員のままでまぁずいぶんボロ雑巾になったからね、まぁそれでも僕は大丈夫なわけよ、いつか僕は解放されるだろうって。まぁ俺はそのつもりなわけよ


05年 8月 7日(日)   日本製・カエル・家族自慢

 昨年11月に買ったDVDビデオレコーダー、最初からどこかイマイチな操作感覚、ディスク読み込みに時間掛かり過ぎのきらいもあり、やな予感もあったが、ついに木曜から読み込めず再生も録画もできず、その店では以前もテレビ買っていきなり映りひどくて直ぐに交換なんてのもあったから『交渉人』ロック様としては力を発揮、昨日交換と相成った。まぁね、日本の電化製品の品質劣化、どのメーカーにしろ、もう10年以上前から感じてますがね。

 カエルは今週、息子によって確認されてる。そのうち、冬が来ても我が小庭で冬眠してくれることを期待。

 では今日の最後は 家族自慢。 おいらの兄貴はミュージシャン、ギタリスト、コンポーザー。今度、ギターのモニターの仕事で兄貴の自作曲が使われる。打ち込みなしの生録。リズムセクションはTOTOのマイク・ポーカル(ベース)とサイモン・フィリップス(ドラムス)。どうだ、参ったか。誰に言ってんだ。知らん。ジャムらないで、録音は日米に分かれてね。
 てなわけで、三色テンコ盛りの日記ね。ほんじゃ。


05年 8月15日(月)   帰省の旅

 12日(金)、15日(月)、16日(火)休み。まとまった休みはここしか取れない。なんじゃいこりゃ!
 だけど妻がパートで働く会社の方は、元々この3日だけが夏期休暇なんである。世間ではこういう状況を知らぬ人も大勢いるよね、たぶん。

 今回は大回りの帰省。息子の発案。新幹線で豊橋へ。

 そして新所原まで戻って天浜線へ。天浜線の新所原駅には美味い鰻屋がある由。
 右の写真がその駅ね。黄色いシャツは息子です。この駅舎の中の左側に鰻を焼いてる店がある。どうも生産者自身がやってる店のようで。僕達3人は鰻屋から奥につながってる部屋で座って食しました。つまり、この駅舎の左にくっ付いてる部分があってね、注文して、駅舎を出て横に回り、その床敷きの部屋に入り、鰻を待つ。いや、よい昼食でした。

 僕と息子はうな丼、妻は鰻うどん。いやぁ、この鰻、美味かった。絶妙な加減でこんがり焼けてる。妻の鰻うどんってのも超美味。のってるのは同じくこんがり焼の鰻、これにうどんの味がしみ込み、それでもってうどんの方にも鰻の味がしみ込み、共に美味の相乗効果なのである。ここは十二分に一食の価値あり。
 こんがり焼の鰻はまっこと美味いです。駅舎前のクロネコ・ヤマトの旗にも、黒猫だけでなく鰻の絵が描かれております。

 はて、その後、天浜線で三ケ日へ。そこからトロッコ列車「そよかぜ」号に乗車。右の写真。写ってるのは妻子。このくらいなら人物特定できませんでしょう。個人情報保護しております(笑)。

 それで天竜二俣駅にて下車(トロッコはここまで)。駅の近くでやってるNゲージ模型のジオラマ館まで歩いた。近くだが駅構内、線路内を歩けたら近くても当然そうではなくて結構回り道するので時間はまぁまぁかかる。道が意外と分かりにくいが、鉄道好きなら諦めない。
 本来は3時で終了のところ、過ぎてたけど片づけ中でまだ運転されてる模型もあり、中に入って見せてもらえた。

 二俣駅の前には、道を渡った向かいにSLが置かれてる。息子がまだもっと小さかった頃に来たことあり、そこにも再訪。記念写真。こっちはデジカメでなく普通の一眼レフで撮りました(僕は写真は詳しくなくてね一眼レフの仕組みもよう分かっとるわけではない)。

 天浜線にまた乗って、いざ我が田舎へ。親父の迎えを受け、実家に行きました。久方ぶりに会う、親父お袋、同日に帰省してきてくれた兄貴一家。兄貴一家の長男だけ部活で会えなかったのは残念。
 田舎に帰ってよいのは何と言っても親父お袋の顔を見て話すこと。お袋は今月74歳。親父は来月77歳の喜寿。そして来年1月は金婚式。苦労した親父お袋には、まだまだずっと、長生きしてもらわないと。

 田舎の家で2泊3日過ごし、昨日14日にこっちに戻った。途中、東京は神田、神保町の書店街を歩き、『ヒロシマわが罪と罰 -原爆パイロットの苦悩の手紙』(ヒロシマ原爆の戦闘機群のパイロットであるクロード・イーザリーと哲学者ギュンター・アンダースの往復書簡)を探す。地元の書店やアマゾンで既に品切れ・在庫切れを知っていたものの、神田の書店街なら何とかと思い、探す。しかしナカナカみつからず、とりあえず断念。書店街の中に天婦羅屋をみつけ、夕食食べて上野に出て南東北(?)の我が家に向かった。

 帰省の旅は、往路、復路、多くの知らない人とすれ違います。アピールのバッジとかTシャツとかはこういう時こそ使わにゃ。少しくらいは効果ある、時もある。というか、こういうの着る人がまぁまぁ増えればそれなりの効果はある。大体、そのために作られてるし、うーん、でもこれを買った時のお金も活動に使われたりすると思えばアピール効果まで主張しないとしても意味ありか。まぁとにかく折角なんだ、僕や妻はよく着てるのよ。
 僕と妻はアムネスティのTシャツ(妻のはアムネスティのシンボルろうそくの炎のマーク、僕のはイマジン)と We are all Palestinian のTシャツを往路、復路で着ていたのでした


05年 8月15日(月)   クロード・イーザリーのこと

 ・・・で、その本が手に入らない クロード・イーザリーのことを書いておきたい。

 クロード・イーザリーのことは、今月、8月 7日放映のNHKの番組で知った。あまりじっくり観れなかったが貴重な情報を得た。地上波だったかBSだったか、兎に角たしかNHKだったはず。ついでに言うとナンヤカヤでNHKに文句はあるが、しかしこういう貴重な番組や一方で民放をほとんど占拠する劣悪番組を考えると、やはり時に視聴率「のみ」ではなさそうなNHK的在り方も貴重には思うのであります。・・・はて、主題はNHKのことなんかじゃない。

 その番組で知ったクロード・イーザリーという人のこと。その数奇な後半生。

 広島に原爆を落とした戦闘機エノラ・ゲイのパイロットが「自分は任務を果たしたまで。戦争を早く終わらせることができてよかった」と言っていること、今年だっけ去年だっけ、アメリカのスミソニアンの博物館がエノラ・ゲイと共に広島の被害を展示しようとしたら、アメリカの退役軍人会から猛反発にあって広島の被害は一切展示できなかった、結果その博物館の館長は辞任した、ということ。番組で紹介された、この辺りまでは、僕も以前から知ってる。

 当時、広島に原爆を落としたエノラ・ゲイを中心とする戦闘機の一団の中で、気象確認を担当し原爆投下に適切な天候かどうかをチェックしてエノラ・ゲイに「投下可能」を連絡する任務を果たした戦闘機のパイロット、クロード・イーザリーという人が、その後、自分がコミットした巨大な殺戮に悩み、個人が果たすべき良心を社会に押し付けることはできないという考えを世に明らかにしたこと、そのことでイーザリーは周囲から孤立し、(驚くべきことに)精神病院に入れられてしまった、という事実を初めて知った。

 番組によれば、このイーザリーという人と、ナチスにより友人の全てを殺された経験を持つユダヤ人哲学者(ドイツ)ギュンター・アンダースが、十数回の往復書簡を交わしているそうだ。
 ギュンター・アンダースは、当時アメリカのケネディ大統領に書簡を送り、「イーザリーの精神は正常であって、周囲の人間こそ精神に異常をきたしている側である」として、イーザリーを精神病院から出すよう訴えた。しかし、結局イーザリーは、精神病院の中で生涯を終えたということだった。

 僕はこの話にひどく心を打たれた。不意打ちされたような感動を覚えて、ネットで検索したり、地元の書店で調べてもらったりしたけれど、彼等の往復書簡を公開した書籍の翻訳書は折角1980年代に日本でも発行されていたのに、それに文庫本化もしていたのに、どうも今は大抵の書店で在庫切れ、出版元のちくまさんでも品切れ状態。僕は今日ね、もう筑摩さんにメールしましたよ、復刊してくださいなってね。頼みます。

 ぜんぜんレベルというか、扱う領域は違うようでいて、でもけっこう共通してる部分もあるのかな、とにかく僕は、このクロード・イーザリーの逸話で、ポール・サイモンのS&G時代の曲「とても変わった男」まで想い出してしまった。
 ・・・その歌の最後は、「だけど彼は本当は最も変わった男なんかじゃなかったんじゃないか」(Wasn't he a most peculiar man ? )・・・で終わってる。

 クロード・イーザリーは、自分がやったことは巨大な殺戮につながり、巨大な罪を犯したことになるのに、(アメリカひいては国際?)社会から何の制裁も加えられないことに疑問を抱き、そのことを公言しつつ、しかしそのことに注視しようとしない周囲から孤立し、精神病院に入れられてしまった。いったい、どっちが正常でどっちが異常なのか。

 イーザリーは、1945年 8月 6日 8時15分、原爆搭載機エノラ・ゲイ号の先導機としてのストレート・フラッシュ号に搭乗、気象観測と原爆投下が気象状況上可能かどうかの判断という役割を担い、エノラ・ゲイに「準備完了」「投下可能」を連絡した。
 彼はアメリカ国家とアメリカ社会から英雄視されるが、当のイーザリー自身は巨大な殺戮行為の影に怯え、自らの罪に悩み苦しむ。しかし、罪を意識するにもかかわらず、国家や社会は彼に罰を与えない。イーザリーは、社会が自らに罰を与えるべく、郵便局を襲って強盗するという挙にまで出る。
 しかし、彼が罰を求め罰を受けるに値すると考えた行為が「ヒロシマ」に関わることである以上、その彼の罪は、彼を含む一団に原爆投下を命令し、そのうえ彼を英雄に仕立て上げているアメリカの国家の罪に行き当たることになる。結局、イーザリーは英雄の役を降ろされ、精神病患者の役を演じさせられる。彼は決して演じていないが、国家が、社会が、彼の周囲が、彼にその役割を押し付けたのだと僕は思う。

 イーザリーは、精神病院に強制的に入院させられ、隔離収容されてしまった。

 経緯は僕は知らないが(番組でその経緯の詳細も紹介されたとしたら僕は見逃し聞き逃している、僕はあまりじっくり観れないまま不意打ちのような感動で記憶に残しているに過ぎないから)、ドイツの哲学者、ギュンター・アンダース(ドイツ語の発音ではアンデルスかも)が、このクロード・イーザリーと往復書簡を交わしている。この哲学者はユダヤ人で、友人の全てをナチスに殺されてしまったような凄惨な過去を持つ人だった。

 いくらか、ウェブで調べました。ギュンター・アンダースはイーザリーへの書簡の中で、「あなたの後悔は間違っていない」「今後も良心の立入禁止区域を作らないように」と言っているそうだ。彼は、第二次世界大戦以降、人々が「良心の立入禁止区域」を作り、自らが良心の呵責を感じないまま巨大な殺戮、虐殺のシステムの歯車や部品になってしまう社会になってしまったと述べている。

 「良心の立入禁止区域」とは、文字通り、良心が立ち入ることができない、良心の呵責のないままに罪ある行為を行なってしまうエリアを示しているようです。僕が探している、『ヒロシマわが罪と罰 -原爆パイロットの苦悩の手紙』という翻訳書の原書の書名が、どうも『良心の立入禁止区域』というらしいってこともウェブで情報を得た。この本、読みたい。読みたいよなぁ。何とかならんかなぁと思い、筑摩書房にメールもしましたが、はて。

 さて、このイーザリーの逸話を知ったNHKの番組ですが、その同じ番組だったと思うけど、ヒロシマの記念式典の模様が韓国のテレビでどんなふうに報道されているかも紹介されていた。
 韓国のアナウンサーは、こう言っていた。「ここでは、日本は被害者に見えます」。
 この言葉はもちろん韓国側からの悲しい皮肉である。

 日本は、結局、日本人、日本社会の自らの手で戦争のはじまり(それはもちろん太平洋戦争だけでなく中国との十五年戦争、韓国や台湾の植民地化に遡っていく)から終わり、そして敗戦後も含め、その真相を究明していないし、自らの手による総括をしていない。戦勝国から裁かれ、そして巨大な被害を与えたアジア諸国からの指弾が続けば「反省」の言葉を述べ、しかし真に深い洞察と反省を行動で示したことなどないから、いつまでもいつまでも中国や韓国が日本を裁こうとする。日本はそれを理不尽だとし、元々「東京裁判」は戦勝国が敗戦国を裁いただけのものだとして正当性に疑問を投げかけまでし(もちろん「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆投下や東京、ドレスデンをはじめとする数々の都市への無差別大空襲による殺戮行為・戦争犯罪が戦勝国アメリカによるものというだけで裁かれていないのは不当に違いない)、そして堂々巡りを繰り返している。

 日本国は、そして日本人の多くは、例えば、「靖国」の意味さえ問い切れず、いや問おうとせず、日本の伝統だとウソぶいて(もちろん靖国は日本の伝統ではない)、過去を振り返ろうともせず、現在を見つめようともしない。日本の国家や社会、大衆が振り返る日本の近代は、きわめて表層的だ。

 「良心の立入禁止区域」という言葉は深い。良心が機能せず、それでいて巨大な殺戮や虐殺の「システム」の部品になってしまう、そんなエリア。そこがそういうエリアである以上、そんなエリアに立ち入ってしまったら、あるいは立ち入らされてしまったら、その時は手遅れになりかねない。クロード・イーザリーの問いかけに(彼は社会に向かって問いかけようとしたのか、最後まで自分自身の罪に直面していたのかもしれないが)、ギュンター・アンダースのイーザリーへの働きかけに、僕は不意打ちをくらわされたような感動を覚えた


05年 8月16日(火)   靖国、櫻井よしこ、「つくる会」、若者

 今日の朝刊で知った。靖国神社 は、昨日の敗戦記念日(どの新聞にも「終戦記念日」としか書いてないが)の1日だけで、20万5千人の参拝者を迎えたそうである。大鳥居の向かいの休憩所にある女性店員によれば、「(自分は)40年近くここで働いているが、今年の客入りは昨年までと比較にならない。特に若者が増えた」とさ。

 昨日ね、NHKで何だか困った討論番組やっててね、中韓含むアジアの留学生や、日本の公称「一般視聴者」(だって靖国参拝オッケーよとか南京虐殺は幻よなんて発言が出る度に拍手が鳴り響くんだから)をスタジオに沢山並べ、そのうえ 櫻井よしこ おば(あ)さん(高齢者差別の意図は全くありません、櫻井よしこさん、おばさんって書くとあなたの名前と共によりイメージが沸くんで、あなたの写真をここに貼らない僕にはこれが一番分かりやすい書き方ね)、えー、その 櫻井よしこ 氏が出演してて五月蝿いこと五月蝿いこと。今は蝉時雨の季節なのに五月蝿いこと五月蝿いこと。本当に困った人ですが、どんなに困った人か書くのは面倒くさいし、まぁこの人の書いたものでもどっかで読んでください。たぶん、文春とか新潮とか、正論とか諸君とか、あるいはサピオとかにどかどか登場してるでしょう。国粋の方たちの御用達ですからねぇ。

 例えば南京虐殺は中国側の主張する被害・死者数がオーバーであろうことは察しがついても、それであれが丸ごと無かったかのように言うのは無茶苦茶よ。僕は当時の駐南京のドイツ人ジョン・ラーベの日記も読んだし、一時はたしか「(新しい歴史教科書を)つくる会」のおっさん達が頼りにしたこともあったような、主張は保守的、でも実証主義で定評ある歴史学者・秦郁彦氏も、2万は固い数字と言ってる(5万だったかな? たしか2万、ここでは問題はそのことではない)。

 南京虐殺は丸ごと無かった「かのように」言うのは無茶苦茶よ、と書くのは、櫻井よしこ おばさんも、問われれば「あったことは認める」って応えるから。だけど、中国側の数字を批判しながら自身が数字をレトリックにして、まるで無かった「かのように」喋るのが彼女ら彼らの戦法ね。いや、そんな意図はない、と彼女は言うかもしれないが、彼女のレトリックは聞いている大衆の耳をそのように仕向ける。いや、それも意図はない、と彼女は言うかもしれないが、それなら彼女ら彼らは知識人とは呼べまい。もっとも知識人かどうかなんて実際のところどうでもよく、ああいう輩が厄介なメディアというものに頻繁に登場することが問題だ。さりとて言論の自由、表現の自由、という。まっこと自由とはヤッカイなものだ。我々はやっぱり賢くならなくてはいけない。この、自由に見えて、情報が溢れる現代という社会において。

 ところで、写真にしたってそうだね。たしかに写真が本物か贋物かは重要。使用する側はなるべく検証が必要。だけどその写真が他の場所の写真だったとかいったことで、少なくとも二次的に他意なく使った側を攻撃し、ここまでならともかく(間違った写真の使用がよくないのは確かだからね)、それをもってその写真が一例となって掲載され記述された出来事を全て無かった「かのように」主張する。これは彼女ら彼らの常套の「プレゼン」方法なんです。

 いや、しっかし、昨日のあの番組に 櫻井よしこ おばさんが登場、留学生達と対面、これは恥ずかしい構図だったね、一日本人の僕には。まぁ、櫻井よしこ おばさんみたいな人たちが日本の言論界で幅を利かしているのは事実だし、日本理解には役立ちましたでしょうか。中国や韓国の言論界も誉められたものかどうか(こうした国々では単に反日・日本批判をしていれば存在価値があったりもしかねず? それはそれで言論の質が問われる環境ではあるでしょ?)、それは僕には分からないけれど、まぁそれよりも自分の国を何とかしろって感じかね、日本人は。

 このあいだ、東京都杉並区の教育委員会が、来年度から区内の中学校で使う歴史教科書に、「つくる会」の歴史教科書を採択したんだと。どうも、僕が住んでる人口数万の市でも、このヘボ教科書を採択するよう求めるなんていう請願が市議会に出てるらしい。とんでもねーや。
 これ、たぶん全国にわたってるよ、つまりこの動き。それも何年も前から着々と準備されてね。「つくる会」はそういう運動組織なんだから。要注意、と言って、どれだけの日本人が耳を傾けるんだろうか。だってさ・・・。いや、それでも言うのだ、喋るのだ、こういうものに反対する人は自らの場に立って、できる範囲で喋り続けるのだ。いや、時には「できる」以上に喋らなくてはならない瞬間が、何度もあるのかもしれない。

 もう1回書いとこう。今日の朝刊で知った。靖国神社 は、昨日の敗戦記念日(どの新聞にも「終戦記念日」としか書いてないが)の1日だけで、20万5千人の参拝者を迎えたそうである。大鳥居の向かいの休憩所にある女性店員によれば、「(自分は)40年近くここで働いているが、今年の客入りは昨年までと比較にならない。特に若者が増えた」とさ。

 僕はそれより首が痛い、肩が痛い、腰が痛い、ピリピリ痛い、井上陽水「傘がない」。いいや、傘は無くとも歩けます。あった方がいいけどな。今日はそもそも晴天蝉時雨


05年 8月16日(火)   首痛く 腰痛くとも 蝉時雨

 頚椎と腰椎の椎間板ヘルニアを抱え、悩みつつ、出戻り職場で働くカイシャインの俳人の句である。言っておくが、俳人であって廃人ではない。この句は所謂「まんま」の句である。

 要するに、首が痛い。腰も痛い。ピリピリ痛い。電気が通ってるような痛みである。手も痺れる。
 この春までの1年余の極度の過労が、椎間板をさらに痛めつけたのであろう。首、肩、腰の痛みはこの数日で増している。首の他、肩や腰の何箇所かの局所が痛む。「軽くヤバイ」、いや、「かなりヤバイ」状態であろうか。
 そんなひどい「痛み」を嗤うかのように、小庭に背を向けてHTML語を話す俳人の背後を、いつもの夏と変わらぬ蝉時雨が降り注いでいる。暦の上では立秋を過ぎたとはいえ、それは暦の話。あくまで暑い、夏の日の一句である。

 冗談じゃない。数日前から本当に痛い。張る。ずっと続いているが、数日前から、特にひどい状態なのである。首に近い肩と腰については、はっきりと分かる「一点」何ヶ所かが痛む。上腕も、脹脛も張っている。

 腰椎は既に4年近く前から。頚椎は2年以上前から。頚椎がつまり、2003年 6月くらいの発見であった。発見ってさ、左手が痺れ出して1、2週間してからも痺れがとれないので、病院に行って結局MRIの筒に入って調べて分かったのであった。腰も発見当初、左腿だったか、脹脛だったかの痛みから始まったのだが、レントゲンでは何も出ず、MRIでスキャンしたのよ。以来、神経への効果が期待されるビタミン剤メチコバールを飲み、昨年度の途中からは更に血流循環を円滑にする効果が期待されるオパルモンが加わった。

 MRIっつーのは、Magnetic Resonance Imaging 、磁気共鳴映像法っていうやつの略称だそうで、僕はこれまで腰で2回、首で1回、つごう3回お世話になってる。あれ、閉所恐怖症の人だったら大変だよ。僕もぜんぜん楽しかないけどねぇ。
 レントゲンのようにX線や放射性同位元素を使わないで、身体内部を外部から、強力な磁場や電波(パルスね)によって検査する方法なんだと。僕にはよう分からんが、身体内の水素原子核の状態をみることで(んんっ?)、人体の任意の部位から信号を収集、信号の強さに応じてそれを画像化する。水素原子は、人間の体内で最も多く、水分の形で約70%、脂肪を含めると約90%、だから、水素原子を見れば体の中が分かるんだって。分かる? ・・・僕なんかいま、スペースアルクから引っ張ったもんね。

 お医者さんによれば、薬飲みつつ過ごせて、日常生活が何とかなれば、で、そのうち治ればそれが一番よいんだと。先月だったかは一時さらに痛み止めまで飲んでいたが、今はその時よりきつい。

 兎に角、基本的には手術は避けたい。お医者さんもそう言ってる。「日常生活可能なうちは、そのまま付き合いましょう」。「いつか治る場合があります」。「しっかし、どうにもならなくなれば、手術するしかあんめぇ」、ということなんだそうである。・・・で、手術となれば、とうぜん入院だし、治ってからもリハビリ必要、その後、職場に戻っても、通常通りの勤務(深夜残業や泊りや徹夜は通常じゃないぜ)ができるようになるまで、けっこう時間がかかる。つまり、何ヶ月もヘタしたら何年もまたまた僕の生活に影響する。僕の生活だけでなく、僕が働いている職場にも影響する。そりゃ僕の代わりくらいいるんだろうが、それでも椎間板の手術とリハビリ理由にクビ切れんだろう。人件費ももったいないが、僕もアタマきちゃった場合は労災申請だってしかねないからね。まぁ昨年度のことなんか、どう考えても労災です。いいかげんにしてくれ。

 ここんとこ頭も痛くなるのは、副鼻腔炎のせいじゃろうか。僕はそのうえ、ルボックスとレンドルミンも飲んでるんだから、おい、頼むよ。いくら転石リーマンだって、いつかは本領発揮して怒髪天を突くで。・・・ってか。

 さっきね、けっこう大きな地震がありました。遠いところに住む兄貴が心配して電話くれました。蝉時雨は今も続いています。僕はがんばりやしょう。妻も今日まで会社は休み。息子も部活は休み。家族で共に夏休み。貴重な日なのであります。地震は要注意であります。今日も首と肩と腰が痛いのです。ピリピリ痛むのです。休みましょう。
 今日は妻子の共作のドーナツを食べました。今は夕方。蝉時雨は今も聞こえます