03年 3月 2日〜3月22日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

03年 3月 2日(日)   MY LIFE IS IN YOUR HANDS を歌う

 今日はゴスペル・ワークショップの日。今日は、いつものインストラクターとは別にもう一人、プロのヴォイス・トレーナーによるヴォイス・トレーニングがあった。姿勢とか、遠くを見て近くに焦点を当てないで歌うようにとか、高音だから上を向いていってしまう歌い方はダメとか、HAPPY という歌詞なら HAPPY な顔「やったーっ!」っていうような顔をして歌うようにとか、片足上げて歌ってみて常にそのくらいの姿勢でとか・・・いろいろ勉強になりました。なかなか身にはつかないけど。それに HAPPY の顔も難しい。今の自分のような人間にはきついよな、無理に出来る顔じゃないし。まぁでも、例えば OH HAPPY DAY を歌う時なんかは、せっかくなんだからそんな顔をしてみたいもんですが・・・。

 今日はいよいよ、カーク・フランクリンの MY LIFE IS IN YOUR HANDS の練習に入った。と言っても、ヴォイトレ(?)がいつもより時間長く、その後に前回までの2曲の復習があったから、新しい練習曲の MY LIFE IS IN YOUR HANDS は、今日のところは前半手前辺りまで。

 MY LIFE IS IN YOUR HANDS はカーク・フランクリンの6年前のアルバム GOD'S PROPERTY に収録されたバラード調のゴスペル。カーク・フランクリンのことは、この教会のブラック・ゴスペル・ワークショップの1回目に参加した2年前に初めて知った(その時のレパートリーに彼のアルバムの曲があったので)。カークさんの音楽は、その夏のカークさん初来日公演も大阪まで観に(聴きに)行き、すっかりファンになった。

 今回のワークショップで取り上げたのは彼のオリジナル・ヴァージョンではなく、ブルックリン・タバナックル・クワイアというクワイア(今年のグラミー賞のゴスペル・クワイア部門でグラミー獲得)のヴァージョン。でも今日聴いた感じでは、オリジナルとあまり変わらないアレンジで安心。何たってカークさんのが好きなので。実際、やはりこれはカークさんのオリジナルの方がかっこいいとは思うけど。

 今日は息子は野球の練習が午後だったので、ゴスペルは練習開始に間に合わず、途中母親が抜け出して息子を迎えに行って、息子も途中からキッズ・プログラムの方に参加した。途中からでもという本人の希望があってのことで、どうやら息子も楽しんでいるのは確かなようです。

 MY LIFE IS IN YOUR HANDS は次回のワークショップで後半の方も歌うことになる。全篇通して歌うことになるのが楽しみだ。自分にとって YOUR HANDS って何だろう。何とか苦しくても凌いでいきたい。いつか本当に笑えるようになりたい。凌いでいきたいと強く願うし、いつかはその先で笑いたい。しかし、そんな日は来るだろうか。そう思ってしまう今の毎日だ。自分はしっかりしなくてはと思っているけれど、一方で、ずっと自分が堪えていけるように、大丈夫でありますようにと、何かに願いたくなる、その何かだろうか。時々想い出すようにでも、希望は持っていなくちゃいけない。本当は常に希望を持っていられればいいんだろうけど。そうありたいという希望はあるけど。そうなれるかな、いつか。どっちにしても、長い間でも何でも苦痛を堪え、その先でいつか心から笑うことができるだろうか。いや、いつか何とかする。何とかなる、何とかする、そう思うしかない。とりあえずでも何でも、無理してでも、そう思おう。忘れてしまっても、時には思い出してそう思おう。そうしていけるように祈ろう。


03年 3月 8日(土)   sin 罪ということ

 この数ヶ月、罪ということを考えている。いや、考えているというより、罪という言葉を、時折り思い浮かべている。そして、心の底の方で意識している。時に強く、時にぼんやりと。

 罪といっても、盗みとか殺人とかといったような、法律に違反して罪に問われるという類の「罪」のことではない。ただし、念の為に拘っておくと、これらも広義の罪に含まれるだろう。ここでいう罪とは、極めて広い、もしくは深い意味の「罪」という言葉だ。と言って、具体的に定義付けすることも難しい。あえて、ずいぶんと不十分な英語の知識を使うのなら、ここでいう罪は crime や guilt とかいうことではなくて、sin ということだと思う。この罪は、通常は道徳上もしくは宗教上の意味合いを持った言葉として使われていると思うが、ん? 正しい解釈かな? いや、guilt の方は宗教上の意味合いの罪として使われる場合もあるようです。 ・・・まぁいいや、とにかく、強いて言えば、自分の思い浮かべる「罪」という言葉のニュアンスは、そういう感覚に近いものです。sin のような言葉が言い当てようとする人間の意識みたいなもの、と言えばまぁまぁ近いでしょうか。いや、かなり近いのかな。おそらく、キリスト教は、その意識に、宗教もしくは信仰の世界から光を当てたんだと感じてるんだけど。違うかなぁ。けっこう当ってると思うんだが。

 私は自分の罪を感じている。何に対する罪か。罪の対象を文字通りの自分自身の外に措くのなら(しかしこれは外とは言い切れないんだけど)、自分が苦しい精神状態を続け、家族との生活にも影響を与えているに違いないことについて。簡単に言えば、夫がいつも苦しそうにしている、父親が何だかいらいらしている、辛そうにしている、元気がない。これは妻や子にとって良いことではない。愉快なことではない。したがって、家族に対する罪を感じる。子は未だ小さな子供であり、彼の世界の大半を彼の能動的な関心事が占めている。だから、親の全てが伝わるわけではない。しかし、それでも子は大人が考える以上に敏感だ。そうでなくとも、自分は自分の家族との関係に関し、自分の罪を感じる。しかし、そういう言い方だけでは当っていない。

 自分が罪という言葉を思い浮かべる時、その時の自分は家族とのことを意識しながら、しかしその意識のさらに下にある心の奥底で、何か心というものが生まれたところ、その「心の始まり」の部分みたいなところで、罪を意識している。家族とのことをその重要な部分とする自分の人生に対する罪。そういう言い方をしても、うまくは言い当ててないな。その言い方の中には収まり切らないし、そういう言い方が連想するものよりも、もっと奥深いところから意識しているような気がしている。海底から、あるいは地中から、海面に、地上に、罪の意識が向かっている。深いところで意識しながら、その意識は上に向かってくる。それでいて逆の方向も感じる。奥深いところに向かっていく意識。
 うまく言えない。しかし、とにかく罪という言葉が一番しっくりくる。それ以外の言葉はしっくりこない。それは、自分がずっと誤った決断をしているのではないかということ、自分の苦しみは時間軸を逆行することでもしない限り最早解消されないだろうということ、しかし過ぎた時間をやり直すことは不可能であること、そういうことが自分の感情を強力に支配しているけれど、自分の意識は、悔恨とか後悔とかいった言葉では正確に言い表せない。馬鹿なことをしたなぁと思うが、その程度の意識には留まらない。悔恨も後悔もあるが、それでは言い足りない。自分はずっと、罪という言葉を思い浮かべていた。毎日毎日、強烈な苦痛を意識するが、その意識には、罪という言葉に一番近いものを感じている。

 上にも記したことだけど、罪といえば、そしてそれで sin という言葉を連想するのなら、それは例えばキリスト教が提示する「罪」という言葉にも近いのだろうと思う。何も宗教を意識して感じていることではない。実際自分は宗教の信仰というものはないが、おそらくはキリスト教などが使う「罪」という言葉は、今の自分が感じているような意識をある人間が抱いた時に、すーっと違和感なく、あるいはあまり違和感なく、(その人間の)心の中に入ってくる言葉なのではないかと思う。
 そういう意味では、神が存在するかしないかといったことはさて措き、いくつかの宗教が広く信仰されている背景には、当然それなりの理由があるものだろうと感じる。実際、その弱さを含め、人間の精神の本質や根源的な部分、その奥深いところにあるもの、もしくは奥深いところで生まれるものなどに対する深い理解や洞察が、いくつかの宗教にはあるに違いない。それは確実にあって、人間を正確に理解しているからこそ、人間の心の根源的な部分に訴えてくるものを持っているわけだ。信仰者からすれば、神が人間を理解しているのは当然のこと、ということかもしれないが、とりあえず私はそういう解釈はしない。その解釈は信仰がある場合にのみ可能な解釈だ。ただ、とにかく宗教は、例えばキリスト教は、人間の本質を極めて深いところで理解することによって成り立っていると思う。この数ヶ月の、自分の罪というものの意識を通して、改めてそう感じている。感じているが、それ以上の思索を重ねる精神的な余裕がないな、自分には。
 キリスト教だけではない。私は宗教に造詣があるとはとても言えないが、どういうわけか、以前から親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機説に、キリスト教に通じる考え方を感じている。親鸞がここで言う「悪人」は文字通りの「悪人」かもしれないが、しかし親鸞の考えは文字通りの「悪人」に留まらず、広い意味の「罪人(つみびと)」あるいは「苦悩する人」をも含み込んでいるように思う。人間の弱さとか苦痛とか罪とかいったことの捉え方が、キリスト教とそう違わないと感じる。ちょっと脱線したかな。ま、いいや。私は混乱してるんです、相変わらず。正直なところ、もうずっと、おさまりがつかないのではないかと不安を感じてしまう。

 罪を感じている。この間の自分の転がり方を想えば、自分が何らかの影響を与えてしまった多くの人たちにも感じるところがある。だけど、そういうことだけではない。何か精神の深いところで感じる罪の意識がある。自分の運命、それは愛する家族にも重要なことだ、どうにもならないことに支配されるような意識を感じながら、しかし自分自身の罪を感じる。今の自分の精神状態は自業自得というものだろうけれど、自業自得だということを、強烈な罪の意識を伴いつつ感じている。つい、最早どうにもならないと考える。これからずっと苦痛ばかりかと考える。何とか気持ちを改めたいとは思っても、今のところどうにも制御できない。罪の意識にさいなまれる。どうしてだろう。悔恨や後悔は当然だけど、そんな程度のものではない。今の苦痛は「罪」という言葉でしか言い表せない。他にしっくりくる言葉が、何一つ思い浮かばない。

 毎日苦しい。以前のようには喋れない。以前のようには動けない。だけど自分の中身は変わっていない。変わっていないと思うが(そもそも中身なんてあったのかい?)、そいつは奥底に沈んでいる。沈澱している。
 いつも感情を殺している。いや、抑えているのではない。出てこないのだ。殺しているのではなく、死んでいるといった方が当っている。だけど死んでいない。これだけ苦しくてたまらないのは、生きているからだ。苦痛が生きていることの証になっている。楽しいと思ったり、幸福を心から感じたり、そういう日は再び訪れるんだろうかと思う。楽しく感じ愉快に思うことも、生きていることの証だ。生きていかなければ、何も得られない。自分には愛しいと想う存在がある。それ以外に、前を向こうという感情が起き上がってこない。ただ、それだけでも、生きる理由は十分にあるはずだよな。


03年 3月 9日(日)   April come it will, but the same, or more ..... Let it be.

 じきに4月が来る。春の季節が来る。だけど私は、苦痛が変わらないことを知っている。苦痛は増すことだってあるかもしれない。苦痛の中身にほんの少しの変化があるかもしれないが、苦痛の核は、その本質は、変わらないことを知っている。知っているが、今はこのままいくしかない。苦痛とつきあっていくしかない。時間は解決しないと思う。それ以外の何かが必要だが、それが何なのか、全く見当がつかない。そんなもの有り得るのかとも思うが、ないと決めてしまったらあまりに苦しい。

 この苦痛の核はもう消えないのだ。苦痛とつきあって生きていくうちに、何か苦痛に対置出来るものをみつける。いつか手掛かりを得て、何かをみつける。どこでみつけるのか知らないが、何とかできると信じたい。できると思えないんだ。できると信じることだ。信じて、生きていくしかない。生きていかなきゃ何事も起こらない。これからも変わらないかもしれないが、変わることも、変えることも、生きていくことを通じてしか実現しない。当り前さ。生きていくことだ。ずっと生きていくことだ。


03年 3月15日(土)   BRIDGE OVER TROUBLED WATER

 S&G の、ポール・サイモン の、BRIDGE OVER TROUBLED WATER を訳した。今の気持ちを表現に入れて訳した。いつもに増して、思い切り意訳した。あまりに有名な「明日に架ける橋」という邦訳、邦題は、あの曲のタイトルとして名訳であると思う。「明日」というのは映画などにも良く使われる邦題の常套句ではあるが、あの曲においては名訳と言っていいだろう。ただ、自分の訳では「渦巻く水に架ける橋」という直訳的な邦題にした。

 以前、テレビで、この曲の成り立ちを特定の視点から取り上げた特集番組を観たことがある。一昨年の 9.11 アメリカ同時多発テロの後に、この名曲が改めて注目を浴びたこと。この曲はゴスペルとしても解釈できること。番組をビデオに録ってあったので、今日改めて観てみた。

 この曲のピアノ演奏をアレンジし、実際にピアノを弾いたラリー・ネクテルは、ポールからゴスペル風にアレンジしてくれという依頼を受けて、あの名演奏をした。Bridge Over Troubled Water という名句も、ポールの好きなゴスペル曲の歌詞に出てくる I'll be your bridge over deep water というフレーズからヒントを得ているというし、もともと新約聖書の中のマタイの福音書に書かれている Jesus walks on the water という言葉が、この表現の起源だという説も紹介されている。この曲は確かに曲調もゴスペルという解釈が可能だろうし、歌詞などは読み方によってはゴスペル風というよりもゴスペルそのものだ(自分の訳ではゴスペルそのものの訳し方にはしていない)。また、S&G 解散後のポールのソロ名義のライヴ・アルバム LIVE RHYMIN' の中では、ポールがゴスペル・グループのジェシー・ディクソン・シンガーズと共に、ギターとオルガンの伴奏で歌うゴスペル版(と言って間違いないだろう)BRIDGE OVER TROUBLED WATER を聴くことができる。(ちょっと脱線すると、ちなみにこのライヴ盤でジェシー・ディクソン・グループだけで歌っているゴズペル JESUS IS THE ANSWER も、極めて感動的で心を揺さぶるパフォーマンス。私はこの曲を通して初めてゴスペルの素晴らしさに触れました。)

 ポールは 9.11 の惨事の後、よくライヴで BRIDGE OVER TROUBLED WATER を取り上げているようだ。あの直後の犠牲者追悼チャリティ番組の中でポールはこの曲を歌っているが、S&G 版のオリジナルとはまた雰囲気が違って、より重苦しさの中から希望をつないでいこうとする雰囲気の曲調にアレンジされている。今、ライヴでのポールのこの曲の歌い方は、この番組出演の時と同じような歌い方になっているようだ。

 ・・・今週は、我々の結婚記念日があった。15年前の結婚式の日に二人で歌った曲が BRIDGE OVER TROUBLED WATER 。自分は妻に、人生のパートナーに、何ができているだろうか。この数年、同伴者である私が感じる私個人に原因がある苦痛を、共に人生の一部にして生きている彼女に、心から申し訳なく思う。だけど、申し訳なく思うだけではどうにもならないのだ。申し訳なく思うけれども、しかし元気を出して、何とか希望につながっていくように生きていきたいと思う。二人で生きていきたいと思う。たまたま二人の間に生まれ、希望ある未来をつかもうと成長している息子を見守りつつ。我々はそれぞれ一人であるけれども、二人でもあり、三人でもある。息子はいつか巣立っていくことになるけれどもね +


03年 3月16日(日)   コイズミ曰く 「ウチはやりませんが、ヨソがやるのは賛成です。」

 亡国の(あ、誤植だ「某国」です)準元首(?)コイズミさんは、先週のいつだったか、記者の質問に答えて、「国連の新決議があってもなくても、我が国は武力行使には参加しません。」と言いました。記者の質問は、国連の新決議の動向にからんで、アメリカの対イラク武力行使を支持するかどうかの立場の説明を求めたんだと思うが、コイズミさんはそこから逃げてこう言ったんだと思うな。まぁしかし、後方支援というヤツはともかく、「我が国」が武力行使の前線に参加しないことは確かだろう。ヘイワケンポウがあるもんねぇ。

 「我が国」政府がどうあってもアメリカ政府を支持するのは明らかだし、実際、安保理の非常任理事国中間派に対し、ODAを全面に出してアメリカ側につくように説得しているのも報道されている通りだろう(実態は報道より露骨なくらいかもしれないが)。

 結局、「我が国」政府の立場はこうです。
「我が国はヘイワケンポウを戴いておりますので、自らは血を流しません。しかし、イラクの大量破壊兵器モンダイは、アメリカさん達がイラクを攻撃して、民間人も含めて沢山の人が死なないとカイケツしません(アメリカさんの本当の狙いがイラク政権転覆で、それが国際法違反の内政干渉目的の武力攻撃であるとかいったことには、我が国は口を出しません)。我が国は血を流しませんが、他の国が血を流してまでモンダイカイケツすることには賛成です。いやぁ、我が国は何しろヘイワケンポウがありますからねぇ。え? 協力しないのかって? そりゃ協力しますよ。お金なら出来るだけ出します。アメリカさんの言うことを聞かない弱小国にはお金で誘惑しますし(フランスさんとか強国はコワイですしお金だけじゃ無理ですが、弱い国はお金で動いてくれるはずなんです)、アメリカさん達が(もしかしたら自暴自棄のイラクさんも)あの国のモノを破壊した後にもういっぺん作り直すときは、喜んでお金を出しますよ。その時は利権もありますし、巡り巡ってお金は我が国に還流して来ますからねぇ。我が国だって潤うかもしれません。」

 今回は侵略行為に対する解決策ではありません。ブリクス氏もあと数ヶ月で査察は終了すると言っています。今どうしても武力でカイケツするという必然性はありません。本当に平和憲法が「我が国」のポリシーなら、徹底して武力攻撃に反対し、いくら時間をかけても、査察という平和的解決策の続行を求めるしかないはずでしょう。つまり、コイズミさん達「我が国」政府が、平和憲法を仕方なく「戴いている」ことは明々白々なんですね。
 将来の北朝鮮の本格的脅威に備え、その時にアメリカさんの協力が必要だから、今はとにかくアメリカさんに従っておかないといけないという説もあります。コイズミさん達の言動の理由の一部がそこにあるのは間違いないでしょう。ならば、せめて「我が国」国民にそう説明してみたらどうでしょう。今や自国民に総スカン状態に近いブレアさんも、反対する自国民に説明し説得するということ自体は、イッショケンメイやっているようです(功を奏していませんが)。コイズミさん達は、「我が国」国民を愚民と思っているか、とにかく恐れているか、そのどっちかでしょう。いや、もともと「我が国」の政治のマニュアルには、為政者が国民に説明するという作法そのものが書かれていないのかもしれませんが。

 「我が国」国民もどうでしょう。平和憲法が「我が国」に必要なものか、ヨイものかどうか、あるいは全ての条項がそのままでヨイのか、議論は必要なことです。「我が国」は平和憲法があって、国際紛争の解決に武力は使わないということになっていますが、その一方で、国際紛争のカイケツに武力を使うことが大好きなアメリカさんの軍隊を沢山招き入れていますし(もちろんそれが国際紛争カイケツのために「我が国」から出動出撃したりもします)、それを法的に根拠付けるニチベイアンポ条約も結んでいます。なんか、変だよねぇ、ずっと。議論を避けて矛盾を放置するのに慣れた国内は通っても、国際社会にはなかなか説明つかないイビツな状態です。私は平和憲法はあった方がいいし、そのうえで現実を少しずつ近づけていく努力をするのがヨイと思いますが、今の状態は、どんどん平和憲法がお飾りになってきているだけで、最早現実との乖離は深刻な状況です。
 このクニをダメにしている理由の一つは、憲法という法治国家の最上段にある法律が、ただの絵に描いたモチになっていて、そのうえみんなそんなことに慣れっこでもう気にもしていないということだと思います。憲法を変えたい人は本当は相当に気にしていますが、それ以外の人はほとんどそのことは気にかけていません。護憲護憲と言ってる人達(の一部? でも最近あんましそういう言い方しないか…)も、実際にはあんまり気にしてないような感じがします。信じてもいない人がお経唱えているようなもんです。

 たぶんあの憲法を持つってことは、本来は相当な覚悟が要ることでしょうね。もともと、アメリカさんが「我が国」の再武装を防ぐために「我が国」に持たせたってのは事実です。結局、嫌だった人も渋々それを受け入れ、ヘイワが好きな人はそれを後生大事に、金科玉条の如く大切にして神棚に飾ってきました。もうそろそろ、よーく意味を考えて、もう一回考え直した方がいいかもしれません。「我が国」国民は、本当はどんな憲法が欲しいのかってことを。多数の意思と意志をもって決めるしかないんです、本来は。私個人が嫌なら反対の意思表示自体はしますが。いっぺん決め直して、どういうクニにしたいのか、話し合わないといかんのではないでしょうか。でないと、このクニは不健全な「法と現実乖離国家」のままで、場合によったらますますその度合いを増していって、クニのタミも、それを当り前と思ってクニの中のいろんな制度や政治行為に参加することになりますよね。もうムチャクチャですがな。現実と乖離しても歯止めになるって人がいるかもしれませんが、どんどん歯止めが弱くなっているのも確かですし、憲法をそういう抑止手段目的のみでヨシとするってのも、本来的には不健全です。やっぱ、きちんと仕切り直すことをしないとダメかもしれません。難しいな、これ・・・。

 余談。案外アメリカはこれからだんだん衰退していくかもしれないと思います。ただ、これまでの歴史上の帝国の衰退が次の帝国の誕生につながっていったのとは違って、21世紀の現代の帝国の衰退は、世界全体の衰退をも伴う危険があるので、オウボウでランボウな現代の帝国の衰退を、無条件で歓迎するのもアブナイとは思います。


03年 3月16日(日)   今日も MY LIFE IS IN YOUR HANDS を歌う

 今日は今月2回目のゴスペル・ワークショップの日。MY LIFE IS IN YOUR HANDS の後半を練習し、全篇を歌うところまでやった。

 一週間ほど前だったか、教会の方がこのサイトで拙訳を発見して紹介したいと言って下さり、今日の練習の途中、自分が訳した MY LIFE IS IN YOUR HANDS の訳詞が配られて、全員で一緒に一通り声を出して読んだ(読む、それも全員でってのは予想してなくてちと気恥ずかしかったけど)。I can stand の stand は耐えるとか堪えるとか訳すのが本来だろうなと思っていたけど(実際教会の方がカナダ人の宣教師に確かめてくれてそれが正解でした)、自分の訳では stand から連想して「立ち上がる」にしている。また、test and trial は「試みと試練」といったところが正確な訳だが、自分の訳では「試練と試行錯誤」にしている。たまたまそう思いつつ意識して少し意味をずらしていたところで、そういう注釈も付けていただいた。訳したの昨年の11月だが、ずっと感じている苦痛をイメージし、「耐える」ではいかにも自分の実態通りの「いっぱいいっぱい」な精神状態が迫ってくる気がして、せめて歌の中では「立ち上がる」という意味に捉えることで、そこにより能動的な行為を読み込みたかった(本当は未だ出来ていないけどね)。そういう心理は今も変わらない。実際のところは耐えてるという感じなので、かえって歌の中では「立ち上がる」と言いたい気になる。それと、今の自分の苦痛には試行錯誤という言葉がふさわしく、こっちではなぜか自分の体験と実態に引き寄せたくて、trial を trial and error 試行錯誤にして語意をずらしてしまった。試行錯誤っていうほどに行動したというより、行動そのものは単調だったけど、心の中で試行錯誤していたように思うし、どうにも心身の定まりをつけられないという経過、状況は、試行錯誤という言葉の語感に近い感じがする。
 JESUS は日本的にイエスと訳し、イエスから YES を連想して、肯定すること、受け入れることをイメージする。けっこう心の中をややこしくさせることが少なくなくて、受け入れるという行為はなかなか難しい。まぁとにかく、この歌は、一時音楽を聴くことすら頭に浮かばなくなった後、ようやく少し聴けるようになってきた初期のうちに心を揺り動かした歌だ。今も、それは変わらない。多くの人の歌でもあり、自分の歌でもあるという気持ちで歌っている。それ以前にカーク・フランクリンの音楽に出会っていたことにも感謝したい。

 今日も妻が野球から帰宅した息子を迎えに行き(妻は上手いんで自分なんかより余裕あるし、笑)、息子は途中からキッズ・プログラムに参加。息子もずいぶんと楽しいようだ。今年は GW の礼拝堂でのコンサートもあるが、他のクワイアとの合同コンサートもある。そこまでは聞いていたが、さらに他のイベントから誘いが来たそうだ。がんばりやしょう。いろいろありまして、苦しいことは苦しいのです。MY LIFE IS IN YOUR HANDS は、希望と祈り(自分はクリスチャンではないが「何か」に祈っている)を込めて歌います。


03年 3月17日(月)   爆撃前のゴスペルとミサ

 今日のTVニュースで、イラク攻撃に備えるアメリカ空母(ハリー・トルーマンとか言ってたな)の乗組員の様子が紹介されていた。土曜の夜に集まってゴスペルを歌う黒人兵。日曜のミサに参加する 100人近いカソリックの白人兵。アメリカの白人はプロテスタント系が主流だけれども、ニュースではカソリックのミサの方だけだった。プロテスタントはプロテスタントで、まぁ何かやってるんだろう。

 これからイラクを攻撃する。戦争に参加する。つまり、人を殺す。人を殺す前に、神を賛美するゴスペルを歌う。ミサを行なって神に祈りを捧げる。何とも嫌な光景だ。彼らの考える神が存在するとしたら、この殺戮をどう見る? これから殺される人に救いは要らない? 異教徒だから? ゴスペルを歌い、あるいはミサに参加する彼らは、それすら意識していないかもしれない。

 広島や長崎に原爆を落とした戦闘機のパイロットも、神父だったか牧師だったかを伴って神に祈りを捧げてから、何万人もの人を殺し都市を破壊するために出撃した。ヒロシマ、ナガサキに限らず、戦争にはいつも宗教の行為が加担する。

   イスラムの一部が聖戦を現実の戦争と捉えて殺戮行為に臨んでいる事実もあるし、パレスチナを破壊し続けるイスラエルにもユダヤ教の関わりはある。日本だって戦前は神道が国家神道化して戦争に動員された。仏教もヒントゥーもシークも、やる時はやる(殺る)。

 今日テレビ画面で見たゴスペルやミサの風景。彼らは、今回の戦争をバックアップするキリスト教原理主義者のグループとは関係ないに違いない。おそらくは、ごく普通にいるクリスチャンなのだろう。ゴスペルを歌う光景は、大きな声で迫力ある歌声を聞かせ、身体を揺らせながら手拍子を取り、彼らが軍服を着ていること以外は、よく見られるブラック・ゴスペルの風景だった。何とも言いようがない、やるせない気分になった。


03年 3月21日(金)   爆撃前のゴスペルとミサ再考(補足)

 4日前の日記で取り上げたことを再考し、というより考えの基本は変わらないが、ちょっと補足する。爆撃前にゴズペルを歌ったり、ミサに参加して神に祈りを捧げたりすることについて、批判的に取り上げるのは簡単だ。実際、批判されて当然の光景だとは思う。ただ、そこでゴスペルを歌っている兵士、ミサに参加している兵士の心の内を想像してみる。なんで、こんな補足するのかっつーと、今の自分の心の中のこともあってのことです。弱い時は弱いものに心が向かってしまいまして・・・。

 彼らは実際、敵側にいる他者を同じ人間として思い浮かべる想像力に欠けているかもしれない。少なくともあの瞬間の彼らの多くが、その種の想像力を欠いているのは確かだろう。厳密には、多く、とまで言えるかどうかは定かでないが。

 彼らには他者が見えない。しかし、それは彼らに限ったことでなく、もちろん自分も含めて、大多数の人間がそうだ。戦争前に神に祈りを捧げる光景がやるせない、悲しい光景であることは間違いないが、彼ら兵士の中にも、複雑な心の内を抱えている人間はいるはずだと思う。矛盾した感情を内に秘めてもいるだろう。戦争は頭の中を空っぽにするかもしれない。しかし、みんながそうだとは思わない。

   どれだけの兵士が戦争の矛盾を考えているかどうかは、わからない。ただ、自分がこれから死ぬかもしれない、そういう恐怖と闘っている人間は少なからずいるだろう。もうちょっと踏み込んで、そこにいた兵士を一括りにせず、一人一人の個別の人生を想像してみる。どうして軍隊に入ったのかということにも、それぞれの個人史があるだろう。しかし、死んでもいいと思っている人間が大勢いるとも思えない。
 攻撃前にゴスペルを歌うこと。ミサに参加して神に祈りを捧げること。皮肉な光景だと斬って捨てるのは簡単だが、当り前のことだが、彼らは彼らで一人一人別々の人生を生きてきて、どこかで機会があって軍隊に入り、今は自分も死ぬかもしれない攻撃に臨んでいる。彼らの中には、心の内のどこかで、死の恐怖に怯えているものもいるだろうと思う。何かにすがりたいものもいるだろうと思う。その時、彼らには彼らの神がある。その時、彼らの神は彼らの神であって、敵側の神ではない。残念ながら、宗教は今も、人間を普遍的に救うものにはなっていない。神が存在するとしても、宗教そのものは、人間がかたちづくってきたものだ。人間は弱いのだ。

 既に始まってしまったこの戦争には、何の正当性もない。フセイン政権は札付きの独裁政権なのだろうが、そんな国なら他にもあるというのが、世界の現実だ。国連決議違反が攻撃される理由なら、イスラエルはとっくに破壊されている。湾岸戦争の時とも違う。イラクはこの間、外国を侵略していないし、ましてアメリカを攻撃してもいない。アルカイダとの関係を疑うアメリカの主張も相当に怪しい。少なくとも証拠がない(そもそもフセイン政権は世俗政権であってビンラディンのイスラム原理主義からはほど遠い存在だ)。大量破壊兵器の所有の有無の確認も、有るとしたらその廃棄も、この数ヶ月かなりの効果を上げていた査察を続ければ、目的を達成できた可能性は十分にあったはずだ。アメリカは最初から戦争ありきだったのだ。その背景が石油なのか、キリスト教原理主義なのか、中東にアメリカ型の新秩序を構築することなのか、その全てなのか、いずれにしても、アメリカは最初から宣戦布告を決め込んでいた。イラクの気候も計算し、その時を決めた上で、逆算してタイム・スケジュールを組んで、その計画通りに時間をかけて兵士や兵器を移動してきたということは、誰の目から見ても明らかだ。その脅威がフセイン政権の査察への協力姿勢を促進もしくは維持させたということも言われるが、ならば未だ査察を続けることも可能だったのだ。
 そんな戦争に動員された兵士が、愛国心に燃えたり、死の恐怖と闘ったり、国に残した家族を想ったりしつつ、ゴズペルを歌い、あるいはミサに参加する。そして、その先で人を殺す。悲劇であることは間違いない。


03年 3月21日(金)   LET IT BE

 LET IT BEを、例によって勝手に、自分の今の気分で訳した。ビートルズではジョン・レノンやジョージ・ハリスンの方が好きだが(今やこの二人を除くポールとリンゴしか生き残っていない)、ポール・マッカトニーの曲にも好きな曲は多い。まぁ大多数の曲はジョンかポールの曲なんだけど。

 憂鬱で、苦しくて、明るい気持ちになれないのは、これからも続くんでしょう、きっと。苦痛がいつなくなるのか、なくなることなんてあるのかすら、今は見当もつきません。だけど生きていかなきゃ、明るい希望が見えてくることはないわけです。生きることにしか、可能性はない。当り前だな。生きていくのなら、今は受け入れるしかない。
 転がり落ちた情けなさも、情けなくてモノもろくに言えぬ状態にあることも、人一倍モノ言いたい性格なのにモノ言う覇気が出てこないことの苦痛も、この間に関わった人達に対する負い目の意識も、一方で義理を負ったように感じる苦しさも、自分がひどく惨めに思えることも、それが自業自得のことだから余計に苦しく感じることも、誰にも文句を言えないから余計に苦しいと思うことも、後悔も悔恨も罪の意識も、以前もっと親しくしていた仲間との間に感じる、言葉にならない何かをひどく辛く感じることも、これからの諸々の不安も、どうしたら苦痛が和らぐのか、今はその手掛かりがつかめていないということも、ということはつまり、いつまで、どのくらい今の苦痛を堪えれば少しは楽になるのか見当もつかないってことも、その他の何もかもも、今はそのあるがままを受け入れて、その全てとつきあいながら生きる。他に対処の仕方がないもんね。たまに、忘れることがあれば、忘れよう。あるがままに、生きていけるかね。何とかなるか、生きてりゃ。そのうち、苦痛に対置させる何かもつかめますかね。何とかなるか、生きてりゃ。じゃ、生きますよ。
 言い切れない書き切れない諸々がありまして、いやそんなこと誰だって曝け出して生きていたりしないんだが、心の内に抑えて平静でいるためには、何かその核となるものが必要なんだな。前は、中身は希薄だったかもしれないけど、核をもっていることを意識できていたな。それが失くなってしまったという感じだ。本当のところは失くなってしまったわけではないと思うのだが、少なくとも表現出来ないんだという気がしている。だから、苦しい。
 徐々にでも、元気を出していきたいんだが、まぁ少なくとも時間はかかるな。時間だけじゃ解決しないんだから、時間以外の何か、何かが必要なんだろうけど、それもみつからないうちは、あるがままに生きるわけです。辛いけどなぁ。まぁしゃーないのか。しゃーないんだよな。何とかなるさ、生きてりゃ。時々そう意識していかんとね。そう、時には意識していかんとな。いつか何とかなるってことを。あるいは、いつか何とかするんだってことを


03年 3月22日(土)   世界が注視しないパレスチナの出来事

 世界の関心が秒読み段階に入った米英軍によるイラク攻撃開始(侵略戦争開戦)に集中していた 3月16日午後5時20分頃(現地時間)、占領地パレスチナのガザ地区ラファの病院で、アメリカ人女性 Rachel Corrie (ワシントン州オリンピア出身)が、その23年の生涯を閉じた。死因は頭蓋骨及び胸郭の骨折。イスラエルによる日常茶飯事のパレスチナ人家屋破壊を止めさせるため全くの非武装で活動していた彼女は、当日まさにその活動の最中、家屋破壊中のイスラエルのブルドーザーによって轢き殺された。彼女が参加していたISM(The International Solidarity Movement)のホーム・ページに事件の詳細が、和文の概要は、彼女が生前にアメリカの家族に送った手紙と共に、パレスチナ子どものキャンペーンの更新情報、最近のパレスチナ情勢 3月19日付に掲載されている。事件がイスラエル側が主張するような「事故」でないのは、The Electronic Intifada のこのページ(当分の間はアップしているはず)を見ても、明らかだろう。これで、このアメリカ人女性は、イスラエルに殺され続けるパレスチナ人の死者の隊列に加わることにもなった。
 私は最初、この事件を、何日か前に昼食に入った食堂で、たまたま手にしたスポーツ紙の片隅のベタ記事を見て知った。犠牲者がいつもの通りパレスチナ人だったら、最早ニュースにもならなかったかもしれない。

 テロの原因は、よく言われる貧困よりも、この世界に存在する圧倒的な不平等と不公正にあると思う。イラクのフセインが前科持ちの独裁者であるのは確かだが、それでも今回のアメリカによる強引な開戦は、この世界をますます危険で不安定なものにしてしまうことだろう。