03年 3月23日〜4月12日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

03年 3月23日(日)   友人のない国

 以下は、私の友人に送ったメールそのまんまです。

 放っておけば戦国時代のようになってしまうのが常なので、戦勝国になろうとしていた米英は、戦後の世界を安定させるために国際連合を作りました。もちろん問題はあって、いきなりイスラエルを建国させてしまうわ、日本やドイツは未だに公式には敵性国だし、60年程前の戦争に勝ったもんだけが、拒否権を持ち続けています。

 いずれにしても、今回、国連は失敗したといって独断で開戦したのが米英だというのは皮肉です。まぁアメリカは所詮国連を利用の対象としかしてないし、ベトナム戦争だってコソボ空爆だって国連決議とは関係なかったわけですが。・・・でもコソボの時はまだある程度の国際社会の後ろ盾がありました。今回アメリカは支持表明した国のリストをわざわざ発表して選別にかかってますが、40ヶ国まで達したそうですが、今回のはほとんど脅迫みたいなもんですからねぇ。

 この間TVに出てくる評論家が、フランスはかっこいいこと言ってるが、本音は結局石油の利権確保が最大の目的だし、自国のアラブ系移民に配慮してってこともあって言ってるだけのことなんだと、貧相なシタリ顔で説明しているのを見ることがあります。

 そりゃそういう面は当然あるでしょう。欧米が国益を冷徹に判断しないはずがありません。しかし、それだけだとする評論家の発想は本当に貧しく感じます。ヨーロッパにはそういう、一部からは「きれいごと」だと指弾されかねないことを、真顔で言って真面目に議論できる土壌があります。やはり自分で宗教改革し、ルネッサンスし、革命を起こし、王様を殺し、共産主義の思想まで生み出し、大戦の戦場となり、そういう歴史を経てきた彼らには、平和や国際協調を真正面から真顔で議論できる民族の経験を持っていると思います。

 一つの側面から、フランスの立場を、単純に言ってみます。
「われわれは武力行使を最後の手段として担保する。最後の手段として否定しないが、しかしそれは、取り得る中で最悪の手段だ。この数ヶ月の査察は効果を上げており、査察の続行で解決する可能性は未だある。だから現時点での国際社会の概ねの了解を得ない武力行使には反対する。独裁国であっても、現時点での他国への侵略や国内外の残虐行為が認められない限り、その主権を他国が武力行使によって転覆させることは、最後の、取り得る最悪の行為だ。残念ながら独裁国は数多くあり、そんなやり方が横行したら、世界は恐怖の混沌に陥る恐れがある。ただし、もう一度言うが、武力行使を絶対的に否定するものではない。われわれは絶対的な平和主義の立場を取らない。我々にも武力行使の用意はあり、必要な時にはそれを行使する能力と意思を持っていることは、国際社会が広く周知していることだ。」(後段はいちいちくどい表明はしていません。しかし、世界はそれを知っています。)

 ドイツはこうでしょうか。
「われわれは武力行使による解決には賛成できない。現時点で国際社会の理解が得られているとは言えないし、査察の続行で解決する可能性はある。国際社会が一致して武力行使を決定する時はわれわれも一定程度の協力の用意はある。我が国の近隣諸国の理解を得つつ、協力することは可能だ。しかし、今はその時期だと認められない。」(こちらも、後段は実際には表明していません。しかし、実績により国際社会はドイツのその可能性をおおよそ理解していると思われます。)

 ニッポンはどうでしょうか。つい先日ホームページに載せたそのまんまですが、
「我が国はヘイワケンポウを戴いておりますので、自らは血を流しません。しかし、イラクの大量破壊兵器モンダイは、アメリカさん達がイラクを攻撃して、民間人も含めて沢山の人が死なないとカイケツしません(アメリカさんの本当の狙いがイラク政権転覆で、それが国際法違反の内政干渉目的の武力攻撃であるとかいったことには、我が国は口を出しません)。我が国は血を流しませんが、他の国が血を流してまでモンダイカイケツすることには賛成です。いやぁ、我が国は何しろヘイワケンポウがありますからねぇ。え? 協力しないのかって? そりゃ協力しますよ。お金なら出来るだけ出します。アメリカさんの言うことを聞かない弱小国にはお金で誘惑しますし(フランスさんとか強国はコワイですしお金だけじゃ無理ですが、弱い国はお金で動いてくれるはずなんです)、アメリカさん達が(もしかしたら自暴自棄のイラクさんも)あの国のモノを破壊した後にもういっぺん作り直すときは、喜んでお金を出しますよ。その時は利権もありますし、巡り巡ってお金は我が国に還流して来ますからねぇ。我が国だって潤うかもしれません。」

 こういう国に、友人は出来ないでしょう。最近アメリカのネオコンの一部に、常任理事国からフランスを外して、日本を入れろという意見が出ているようですが、ずいぶんとニッポンも気に入られたもんです。しかしアメリカのネオコンは本音のところでは日本人を侮蔑していると思います。少なくとも友人だと本気で考えているとは思えません。

 日本は戦後、外交を放棄してアメリカに一任し、従い、アジアの周辺諸国との「本気の」相互理解促進にも努力してきませんでした。戦前のドイツと日本は体制としても安易に比較できませんが、戦後のドイツが(西ドイツ時代から)分断国家という厳しい状況にありながら、ヨーロッパの一員として認められるように外交努力をしてきたのは確かでしょう。むろん、ヨーロッパにおける民族と歴史はアジアのそれと比べて「共に歩んできた」という度合いが強いですから、これも単純に比較できないことではあります。ただ、とにかく日本は外交をしませんでした。要するに、友達づきあいは騙したり騙されたりもあるし、時にはご機嫌取らなきゃいけない時もあって僕らは苦手なんだ、全部アメリカさんにお任せし、警備もお任せします、僕らはヘイワシュギでいきますから、あとはショウバイに専念させて下さい、というわけです。

 本気で日本が国際協調の新機軸を作りたいのなら、そのための画期的な思想と覚悟が必要だと思います。そういう意思が日本人にあるかどうか、そろそろ日本人自らが決めたら、もう少し日本人は胸張って生きていけるようになる可能性もあるように思います。ただし、裕福ではなくなるかもしれない。けっこう質素な生活を強いられるかもしれません。日本人は自分で決めたことがあんまりないのです。戦前、自分でいろいろ決めてみたら(本当のところは欧米のエッセンスの表面を濃縮して仕入れただけかもしれませんが)、大失敗してしまったので、もう自分でモノを考えるのは懲り懲りだと思っているのかもしれません。今は北朝鮮の脅威もあるし、これも自分で何ともできないし(そもそも先方がアメリカしか相手にしないと言ってますが、そりゃそうでしょう、日本を相手にしてもしょうがない、と思われてるわけです、あの国からも)、余計に行き詰まっていますね。

 実際のところは私も今かなり覇気に欠けるので、こんなこと書いていると消耗してくるのですが、ついやってしまいました。暗いですね、この戦争と日本は。


03年 3月23日(日)   家族

 今日は息子も出演するヤマハの発表会。息子の参加したグループのエレクトーン演奏も、なかなか上手でした。一所懸命練習した甲斐がありました。母親からもよく教えてもらってたし。

 最後に参加者全員の合唱があり、正面を向いていたので、客席から息子の顔がよく見えました。今の息子の顔は、父親にそっくり。ぼくが小学生の頃の顔そのまんまに思える。

 このまま、元気に、健やかに成長してほしい。遺伝子があるんだから、いろいろ父親に似ているところもあるだろう。似ているのなら、そこはぼくがこれから、いろいろと伝えてあげるよ。ぼくの失敗を伝えてあげて、どうしたらもっと力強く生きていけるか、ぼくの失敗の経験を通してでも伝えたい。お父さんはお父さんで、これから、自分を立て直していけるように、あきらめないで頑張らなくちゃいけないね。健康を保って、前を向いて生きて、お前のこともちゃんと見守っていきたいと思っています。そうあらなくちゃと思っているし、だからお父さんの生きる目的は必ずあると思って、生きていきたいと思います


03年 3月29日(土)   ALL ALONG THE WATCHTOWER

 ボブ・ディランの ALL ALONG THE WATCHTOWER を訳した。この曲はもともと 1967年リリースのアルバム JOHN WESLEY HARDING に収められた曲。だけどディラン通でない俺はこのアルバムを聴いたことがないし、知らなかった(ネットで調べたのさ)。
 だけどこの曲自体は何度も聴いている。ディランの曲の中でも最も好きな曲の一つだ。ついでに言うと、ジミヘンのカバーもめちゃくちゃカッコいいし、もう10年も前になるが、ディランのデビュー30周年記念トリビュート・コンサートでのニール・ヤングのカバーもかなり良かった。

 この歌の歌詞は難しい。ディランの言いたい意味は何なのか、正確にはわからない。ジミヘンやニール・ヤングだって、それぞれの解釈で歌っていたに過ぎないだろう。もちろんそれでいいんだけど。
 ネットで検索してみたら、素人で訳してる人間はけっこう多いようだ(ちなみに玄人の訳詞がいいとは全然限りません)。やはり、それぞれ解釈がずいぶんと違うところが何箇所もあるし、ほとんど逆の意味に取っているところだってある。そんなもんだ。いいじゃん、それで。訳詞は訳者のオリジナル作品だ(開き直りか)。しばらくギターも弾いてない俺は、今や訳詞もリッパな趣味の一つ。寂しい話か。しかし、アートに自分の解釈をかぶせる、これってアートの基本的鑑賞方法だろうが(どんどん開き直る)。

 There must be some way out of here って出だしにいきなり惹かれた。脱け出す方法はある。希望の言葉です。道がないことはない。そう思うしかない。いや、何としてもそう思おう。今なくても出来るかもしれないし、作るかもしれない。今見えなくても、そのうち、いつか、見えてくるかもしれない。ジョーカーはトランプでは番外の札だが、最高の切り札にもなる。そうでしょ、ディランさん。


03年 3月29日(土)   アメリカの現大統領をコケにするアメリカ人 (言いたいことが言えるということ、言えないということ)

 しばらく前にアカデミー賞の授賞式をテレビで見ていて、面白いシーンに出くわした。「ボーリング・フォー・コロンバイン」を撮って長編ドキュメンタリーのオスカーを獲得した、マイケル・ムーア監督の受賞スピーチ。映画の方は、全米ライフル協会かなんかの親玉で銃規制反対の急先鋒、名優(?)チャールトン・へストンへの直撃インタヴューを含む、銃社会アメリカを皮肉ったドキュメンタリー・フィルム(観てはいません)。この監督はれっきとしたアメリカ人。確か、ノーテンキに世界を破壊させかねないアメリカの風潮を、痛烈に批判する著作とかもあったと思うけど。

 件の受賞シーンで、この監督は他の候補作品のスタッフと共にステージに上がり、マイクを取ってスピーチを始めた。
「我々はノンフィクションを愛しています。」
 ありきたりのスタッフ等への感謝の決まり文句もせず(あれはあれで別に良いですが)、普通のスピーチはこのくらい。この後が凄かった。
 曰く
「しかるに現代は偽りに満ちています。」
「イカサマ選挙で選ばれたインチキ大統領が、デッチ上げた理由を盾に国民を戦場に送り出している。」
「ブッシュは恥を知れ。ブッシュは恥を知れ。」(連呼!)
「法王を敵に廻したらキサマの持ち時間も終わりだ。」

 こんな感じだったかな。会場は拍手と歓声とかなりのブーイング。アカデミー賞といえば、アメリカのエスタブリッシュメントの晴れ舞台の一つと言ってもいいだろう。そこでアメリカの現大統領をコケにしたんだから、ブーイングした連中は相当に不快だったのかもしれない。「戦場のピアニスト」で主演男優賞(だったと思う)を受賞した俳優が、やはりスピーチで反戦的なメッセージをソフトに伝えた時はそれを拍手で迎えた会場も、マイケル・ムーア氏の時は騒然となった。一部笑いもあったのは、彼の風貌も含めてユーモアのセンスが発現されているからかもしれない。ちなみに決めゼリフで(イラク攻撃に反対する声明を出している)ローマ法王を取り上げたのは、おそらく自称「敬虔なクリスチャン」ブッシュへの強烈な皮肉。報道によれば、ブッシュは自分の属する宗派の(戦争に批判的な)高位の人の会見要請も拒絶する一方で、狂信的なキリスト教原理主義の連中の話には熱心に耳を傾けるらしい。今やブッシュ政権は石油利権派とキリスト教原理主義グループ、新保守主義者などにかなりの部分牛耳られてるという説だってある(どうやら本当のようであるところが恐ろしい)。あっと話が逸れた。


 ところで、言いたいことが言えるってのは基本的にいいことだ。それが一番望ましい。それに越したことはない。
 人はどうあれば言いたいことが言えるか。まず最低限必要な条件は、言いたいことがあるってことだ。こいつは重要な条件です。言いたいことがあんまりない人だって、つまり言いたいことが多少はあるが別に言えなくたって大して気に留めない人だって、世の中には確実にいます。もしかしたら、少なくないかもしれない。どうかな、わかりません。
 他の条件は? あとは人によりけりか。自分は自分自身に最低限の自負なり矜持なりを感じていなくちゃダメだ。そうでなきゃ、なかなか意見なんて言えないよ。
 言えない時の他の条件は? これは多くの人がそうかもしれない。自分が弱い立場にある、もしくはそう感じる、思える時に、そのことを意識すると萎縮するよな。自分の場合は、他人に対して、というよりも、自分の情けなさに恐れおののいて萎縮するって感じだけど。萎縮しないためには、例えば心臓に毛が生えていたりしなくてはいけない。まぁそういう人だって、世の中には確実にいます。多いか少ないか、そんなことはわかりませんが。

 以前も今も、言いたいことはある。いっぱいある。もっとも、今は外に向かって表現したいという欲求自体は以前より弱いだろう。何しろ覇気に欠けるからね、今の自分は。というか、自覚的には、覇気がない。

 今の自分は、言いたいことが言えない。自分がモノを言うのに必要な、最低限の自負なり矜持なりを、自分自身に感じることが出来ない。全く出来ない。ああ、こんちくしょーって感じだ。いや、こんちくしょーって強く思うのはたまで、正確に言うと、うーって低く唸ってる感じだな。ガキの頃から(おそらく)人一倍モノ言いたい性格で生きてきた自分は、今の自分を自分ではない人間のように感じる。とりわけ月曜から金曜の特定時間帯に激しいんですけどね。自分ではない人間が自分の姿をして歩いたり座ったりしていて、その心の奥深い部分に自分である自分が潜んでいる。うーっ・・・

 言いたいことが言えないのは苦しい。もの言えぬほど唇寒しから脱け出すのは容易じゃない。容易じゃないけど・・・
 There must be some way out of here ってことにしておこう。必ず、必ずあるだろう。俺はそう思うぞっ。


03年 3月30日(日)   アメリカのダブル・スタンダード(イスラエルとイラク)

 報道によれば、3月26日、イギリスのストロー外相が、欧米社会がイラクに国連安保理決議履行を迫る一方で、イスラエルの決議違反を見逃している事実を自省を込めた言い方で指摘し、これに対し、イスラエル外務省がさっそく翌27日、駐イスラエルのイギリス大使を呼んで公式に不満の意を伝えたとのこと。イギリスはイラク戦争を遂行する米英に対するアラブ諸国の不満を少しでも抑えたいというのが動機であって、ある意味アラブ諸国に対するアリバイ的なポーズに過ぎない可能性大なのだが、イスラエルはイスラエルで、そのことを見透かしてイギリスへの不満の意を伝えたということだろう。

 イスラエルがパレスチナ問題に関連する数々の国連総会決議もしくは国連安保理決議をことごとく無視、これらに違反し続けていることは公然の事実。欧米の少数派言論人やアラブ諸国は欧米社会ひいては国際社会のダブル・スタンダードを批判し続けているが、むろんアメリカ政府にしろその他の世界の各国政府にしろ、イスラエルの度重なる継続的な決議違反の事実も、それが国際社会で事実上放置される結果になっているという事実も、共によーく知っている。まさしく、このことは全世界の公然の事実なのだ。

 1948年の第一次中東戦争。そもそもその原因は、シオニズムによる移民の動きを経た当時でもパレスチナの 7%の土地しか所有していなかったユダヤ人(人口は当時この地域内に130万人いたパレスチナ人に対して当時は60万人のユダヤ人)に、国際管理下に置くとされたエルサレムを除く全土の57%の土地を与えるという、恐ろしく不公平・不公正な内容の、前年1947年の国連パレスチナ分割決議181により、翌48年に一方の当事者であるイスラエルが(他方の当事者であるパレスチナ人には)一方的な建国宣言をし、パレスチナ人及びアラブ諸国側がこれらを受け入れなかったことにあるのだから、とりわけ当時の国連が国際紛争を真に公正に解決するための国際機構としては極めて不十分な機関だったのは確かであるが・・・。(不公平・不公正かつ一方的なパレスチナ分割決議は33対13で採択。ちなみにこの時イギリスは棄権。そこに至るまでの、イギリスを抜きん出た筆頭とする欧米社会の重大な責任については、ここでは詳述しない。なお、これについては昨年 4月27日の日記で簡単に触れた。

 イスラエル側が土地の77%まで拡大占領する結果となった第一次中東戦争後の1948年暮れに採択された、パレスチナ難民の帰還(と帰還しないもしくは出来ない難民の補償)を認めた国連総会決議194。これを再確認する決議は繰り返し採択されている。
 イスラエルがさらに残りのガザ地区(第一次中東戦争後はエジプト支配下)及び東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区(同様にこの間ヨルダン支配下)まで占領することになった1967年の 6日戦争(第三次中東戦争)後に、イスラエルに対してこの戦争による占領地からの撤退を要求して採択された安保理決議242(同時にアラブ諸国にイスラエルを含める中東地域の全ての国の生存権を認めることを求める一方で、パレスチナ人を難民として規定するのみでその民族自決権を考慮しなかったという問題点も含んでいた)。
 1973年の第四次中東戦争後に、上記の安保理決議242を踏襲する内容で採択された安保理決議338。
 その他にも手元に資料がなく決議の号数がわからないが、1967年の戦争による占領地へのユダヤ人(イスラエル人)入植凍結を要求して採択された1980年の決議。1993年のオスロ合意(パレスチナ人にとっても不十分なものだったが)によるパレスチナ自治区からのイスラエル軍の撤退義務を採択した2002年の決議。

 他にも間違いなくありそうだが、詳細な資料を参照しないと書き切れない。はっきりしているのは、イスラエルがイラクの例などとは比べ物にならない長い年月にわたって、しかも数々の国連決議に対する度重なる違反、不履行を繰り返し、なおかつその不履行を継続しているということだ。イスラエルは占領地から撤退するどころか、占領地のパレスチナ人家屋の破壊を続ける等、その暴虐の限りを尽くした軍事行動、破壊行為を止めようとしない(このイスラエルの姿勢がパレスチナ人側のテロを誘発し続け更にイスラエルは報復の度を強める)。

 そして、このイスラエルの政策をその強力な軍事力と経済力で支援し続けてきているアメリカ。このダブル・スタンダードを平然と強行するアメリカ。にもかかわらず今や唯一のスーパーパワーとなったアメリカの暴走を止められない国際社会。テロリズムが国際社会が容認できない主義と行為であることは間違いないが、しかし、アメリカが余程の自制をしない限り、テロリズムの勢いが弱まることがないのも確かだろう。テロリズムを扇動しようとする人間なりグループなりにどんな政治的宗教的動機があろうとも、テロリズムが、日常生活のレベルで絶望の淵に追い詰められている者たちの唯一の拠り所になっているのも、また確かな事実だと思うからだ。今のアメリカがテロとの戦いを標榜することには、単に矛盾という言葉だけでは到底形容し難い、(見捨てられた民からすれば)極めて悲劇的なアイロニーがある。
 テロリズムを国際社会が容認することは不可能だ。しかし、これまでのアメリカ、そして今のままのアメリカが、テロリズムとの戦いに本当に勝利するなど、絶対的に不可能なことなのだ。


03年 3月30日(日)   息子の初ヒット

 相変わらず苦痛から逃れられない気分でいる日曜の午後。息子が出るかもしれない、息子が所属している地域の小学生の野球チームの試合を観に行った。家の中でうだうだしていた自分だが、午前中の試合を観に行った妻が帰宅し、午前の試合には出れなかったが、午後にもう1試合あるという。情けなくも重い腰を上げ、妻と共に観に行くことにした。午後の2試合目は9番打者として先発した息子の、3回裏の第1打席。初球の高めの球を打って内野陣の頭上を越える、右中間のヒットを打った。これが息子の、チームに入り、たまに試合に出るようになってからの初ヒット。「初ヒット」だと声を出し、思わず大きく拍手してしまった。その後の打者の時に2塁に進んだ後は、進塁することに気を取られていたか、残念ながら牽制でアウトになってしまったのは失敗だったが、失敗はこれから気をつければいい。帰って来てから、ヒットを誉めてあげた後で、その時の不注意についても話してやった。しかし、とにかく今日は初ヒット。息子もヒットは喜んでいるし、これからもやりたいことを頑張ればいい。

 人間は、家族と仕事と社会(地域及び広い意味の社会)の3つの足場を持って生きている。そういう趣旨のことを本で読んだことがある。本人が自覚しているにせよしていないにせよ、確かにその通りだとぼくは思うし、それぞれの場を生きることがぼくの理想だ。そして、もちろん、それらは別々にあるのではなく、有機的に繋がっているし、そのことを出来るだけ知るべきだと思う。人はどうあれ、それがぼくの考えだ。

 ぼくは今バランスが取れていない。以前は、かろうじてという自覚ながら、とりわけ仕事の場に苦痛を感じながら、しかし自分が許容する範囲でバランスを取っていたと思う。今は取れていない。足場はそれぞれにあるが、一つの場から生まれた苦痛に起因する、しかしそこに留まらずぼくの心の底に沈澱する苦しみが、暗雲のように全てに覆い被さらんばかりの力でぼくを圧倒しようとしている。ぼくはどうしたらいいのか、どうしたら苦しみから脱け出せるのか、今も見当がつかない。だけど、ぼくには家族がある。愛する家族がある。ぼくには、この世で一番大事だと確かな気持ちで思える存在がある。

 ぼくは今、バランスを失っている。立ち止まっているのか、覚束無い足取りで歩いているのか、それはよくわからないが、とにかくバランスを失っている。
 それでもぼくには家族がある。愛する家族がある。この世で一番大事だと心から思える存在がある。ぼくには、苦しくとも、生きる理由がある。生きるに足る、素晴らしい理由があるのだ。希望を感じることの出来ない不確かな足取りでなく、確かな足取りで生きるに足る、素晴らしい理由があるのだ。そのことを感じながら、これからも生きていきたい。愛する家族という、生きるに足る存在があることを感じながら、これからも生きよう


03年 4月 5日(土)   I SHALL BE RELEASED

 ディランの I SHALL BE RELEASED を訳した。例によって意訳した。タイトルはどうとでも訳せる。僕は解放されるだろう。釈放されるだろう。自由になるだろう。

 I SHALL BE RELEASED は、ザ・バンドもカバーしているし、彼らのラスト・ワルツの中での、出演者総出でディランをフューチャリングして歌われたバージョンもいい。10年ほど前の、ディランのデビュー30周年記念トリビュート・コンサートでの、クリッシー・ハインドのバージョンもかっこよかった。

 ディランはライヴでもよく曲の歌詞を変えるというし(そもそも演奏も日によって変わるほどって話もある、意図してやってるんだかそうなってしまうんだかわからんけどなぁ)、たぶん複数のアルバムに収録された曲なんかは結構変わってるんじゃないかな。ぼくはディラン・フリークとは言えないから、詳しくはないんだけど。
 I SHALL BE RELEASED も、歌詞の方もその時々で変わっていて、1番2番の順番が変わるとか一部表現が変わるとか、ある部分を省略(?)するとか、とにかく本人がいろんなバージョンを作ってしまっている。ここでは、ボブ・ディランの公式サイトにアップされている歌詞をチェックして訳した。

 基本的にいつも通りの意訳なんだけど、特に1番の So I remember ev'ry face of ev'ry man who put me here ってとこは、オリジナルから意識的に意味をずらした(ここはずれてるはずだ)。まぁ、自分のために訳詞をやってるんで、自分用に変えさせてもらった。訳された世界は訳者のオリジナルなのです(強引!)。

 いつか、そんなに遠くないうちに、僕は解放されるだろう。きっと僕は釈放されるだろう。いつか、遠くないうちに、僕は自由になるだろう。具体的な、明示できる根拠がなくたって、そいつがない時にはなおのこと、とにかくそう思い続けることが大事だってことさ。ねぇ、ディランさん。

 だから、いつか、そんなに遠くないうちに、僕は解放されるだろう。きっと僕は釈放されるだろう。いつか、遠くないうちに、僕は自由になるだろう。


03年 4月 6日(日)   ゴスペル練習日

 今日はゴスペル練習日。いつもは野球の練習後に途中からキッズ・プログラムに参加する息子だが、今日はアウェイ(!)での試合があって、ゴスペルには不参加。というわけで、妻と二人で参加して歌ってきた。

 MY LIFE IS IN YOUR HANDS の後半を再練習した後、少しだけ I CAN BE GLAD の練習にも入った。今回のワークショップでは初めてやる曲だが、この曲は去年の GW のワークショップでもやった曲。かなり気に入った曲なので、再び歌えるのは歓迎です。
 今季1回目のコンサートの日も近づいてきました。もっともっと喜びを感じながら歌いたいものだけど、今はちょっと違うな。何をしていても、何かに抑えられている。何かって、何なのかはわかってるけど、わかれば解決するとか解決の手掛かりがわかるってもんでもないし。でも、それでもゴスペルを歌うと少しの元気は出るな。歌はやっぱりいいです。

 ディランの I SHALL BE RELEASED という言葉を頭の中に入れておきたい。これも何か手掛かりとか根拠とかないと容易じゃないんですが、まぁそう意識して思うことにしましょう。めちゃくちゃ疲れるし、危なくなるのを防ぐって感じで四六時中なんか無理だけど(まぁでも一方で四六時中思っていたいくらいなんだが・・・そんなん出来るかいな!)、とにかくしゃーない。今、他に方法がないもんね。 I SHALL BE RELEASED です。文句あっか!(誰かに言ってるのではなく、自分が作って自分で感じている空気みたいなものに対して言っております。とほほ・・・。ま、いいじゃん。)

 息子は去年、学校で「何かをやる時は最後までがんばる。」という目標を書いていて、この間から、それは僕の希望で家の居間の壁に貼り付けられている。最後までがんばるって、僕は「何を」最後までがんばるのか。これは必ずしも職業とか仕事とか、必ずしもそういうこととは限りません。何だかわからない。わからないが、とにかく貼っておこうと思った。今はまぁ、とにかく生きることです。当り前かい。当り前かもしれないが、重要なことなんだ、これは。それも当り前だけどさ。そいつの重要さを前よりも意識しているのは確かです。その意識は、愉快なものではありませんが、コントロールできるものでもありません。ま、1日1日、がんばりやしょう。


03年 4月12日(土)   人生のポケットから出る方法はどこかにある

 最近、名前なら大抵の日本人が知っている日本の俳優と香港の俳優が自殺した。古尾谷雅人とレスリー・チャン。二人ともファンというのでは全くないが、名前なら知っている。古尾谷雅人なら、たぶん何かのテレビ・ドラマで何回か観ているに違いない。レスリー・チャンは、やはりテレビで顔くらいなら観ているだろう。二人とも40代半ば。自殺の理由は知らない。ファンではないし、理由に関心はない。ただ、何となく、自殺なんて嫌な話だなと思った。そう言ったら、ほとんど誰もが似たようなことを言うのだろうけど。

 二人の自殺に関して、劇団主宰の人が、何日か後の新聞のコラムにこんなことを書いていた。その人のことは知らない。だけど、この人の感想は気になった。曰く、「気がついたら人生のポケットに入りこんで出られなくなった。そんな怖さを彼らの死に感じた。」

 ポケットに入ってしまってそこから出たいと思い、しかし出られない。出られなくて苦しい。少なくともそこまでなら、何だか自分のことを言われているような気がしてくる。「人生のポケットに入りこんで」「出られなく」・・・何だかわかり過ぎるよ、この表現は。わからなければ幸いです。別にわかる必要なない。いや、ある種類の人々は、どうやらそういうものがあるらしいってことは意識していた方がいいかもしれないけれど。人のこと気にしている余裕はないか。

 人生のポケットから出る方法はあるか? その回答はない。具体的な正解はない。はっきりしているのは、ポケットから出なければならないということだ。あるいはポケットだと思わないこと? 思わなければ話は簡単。思わなくなった瞬間、それはポケットではなくなる。そんなことが簡単に出来れば悩みはないね。

 件のコラムはこう締め括っている。「一度、人生の物差しを取り換える作業が必要かもしれない。」
 締め括り以外はよくわかるコラムだったが、最後の言葉は自分にはあまり届かない言葉だ。言いたいことはわかるし、この言葉が届くような状況にある人、あるいは心の隙間にピタッとはまる人はいるだろう。そう思った。しかし、今現在の自分自身にはしっくりこない。もっと前の自分には必要だったし、意味があったかもしれない。物差しを取り換えるっていうよりも、物差しを少しずらして気持ちを楽にしてみるってことならね。それが以前に出来ればどれだけ良かったかと思うけれども、でも今の自分には、そんな作業は効き目がないように思う。
 以前から入りかかっていたんだろうが、その先がポケットの中かもしれないということを十分に意識できないままやり過ごし、結局ポケットにはまり込んだ。自分自身の有り様と人との関係がややこしくなり、どうにも息苦しい。おそらくは物理的に脱出しなければ解決しないんじゃないかと思うのだが、物理的な脱出なら既に1度経験済みのところに抜け抜けと舞い戻ってしまったんだから、全てがねじれ過ぎてしまっていてどうにもならない。このままでいながらポケットから出られると思えるほどの物差しの交換でもしたら、万一そんなことが可能なら、その時は自分は自分でなくなっているってことだと思う。要するに、そういう方法は、今現在の自分にはいいアイディアだとは思わないんだな。

 人生のポケットから出る方法はあるか? 正解もその手掛かりも持たない時は、とにかく「方法はある」と思っていることでしょう。ポケットから出る方法は必ずどこかにある。あるいは、いつか必ず、自分はポケットから出ている。気がついたらポケットから出ていた。何でもいい。とにかく、いつか出ている。なぜなら、方法は必ずあるからだ。まるで「念仏」か。いや、それが必要な時もあるのです。いつまで言い続けているんだ、こんなこと。わかりませんな。必要なうちは、言い続けます。必要がなくなったら言いません。来年の今頃も言っているかもしれません。言ってないかもしれません。とにかく、メシを食い、愛する者を気にかけ、愛し、勉強し(何を何のために?)、ものを考え、眠り、眼を覚まし、メシを食い、そうやって生き続けることです。そう言い続けながら、生き続けることです。死んで花実が咲くものか。そう言うじゃん、昔っから。 


03年 4月12日(土)   変えられないこと、変えられること

 ずっと前に、新聞にマイケル・J・フォックスが書いた「ラッキーマン」という本の広告が出て、そのコピーが自分の心をつかんだので、その紙面だけをとってある。あのバック・トゥ・ザ・フューチャーのマイケル・J・フォックスです。30歳の若さでパーキンソン病に侵された彼が、自分の人生や仕事、家族、病との闘いを書いた本だということで、そのうち読もうかなと思ったが、今も読んでない。読む元気が出ないが、広告のコピーが妙に気になった。もともとこの本の何ページかに書いてある言葉なのかもしれない。

 「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分で変えられることは変える勇気と、そのちがいがわかるだけの知恵をお与え下さい。」

 起きてしまったこと、やってしまったこと、過去の事実は変えられない。残念だが、変えられない。他人も変えられない。例えば自分のどこかを変えることができたとして、そのことで自分に関係する他人の心のどこかが変わることがあっても、基本的に、他人を変えることはできない。自分ではないからだ。
 自分で変えられることは何? 過去と他人は変えられない。ならば変えられるのは今の自分だけってことかな。できても一部だけどさ。全部変えるなんて出来るはずもないが、そもそもそんなことあったら、そいつはもう自分じゃないもんね。しかし俺に必要なのは、未だに、まずは受け入れるってことだったりして。そこから進んでないのかい? わからんわからん。今考えるのやめとこ。早いとこ風呂入ろう。もう息子は入ってるんだ。


03年 4月12日(土)   2003年の花見

 もう1本書くぞ。
 妻が美味しい弁当を作って、野球の練習から帰った息子共々、3人で花見に行った。天気は雨。公園の芝生で傘差しながら弁当を食べ始めた。雨の中で食べるのは大変だ。結局すぐに駐車場の車に戻って、車中で食べた。一応、桜の花は見えたよ。もう見頃は過ぎてんだけどね。これが今年の花見。来年も、3人で観ます。その時は、息子はまた1年分成長しているのです。親はどうでしょう? まぁ頑張りましょう。生きましょう。と書いているうちに、一人で風呂に入ることになってしまった。