02年 1月 4日〜 4月27日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

02年 1月 4日(金)   変化起こすか!

 2002年。変化起こすか、起きるか起きぬか・・・。

 去年11月3日の日記 を想い起こせ。


02年 2月11日(月)   HARVEST へ。

 この1ヶ月のうちに大きな決断をした。しかし自分自身には「大きな」という気負いはない。それはもう既に気持ちは固まっていたからだと思う。何年も前から・・・。

 HARVEST を意識するようになったのはいつ頃からだったろう。人生にも「収穫」、「収穫期」があるはずだ、HARVEST のある人生を歩みたい・・・。そんなふうに兄貴が話すのを聞いたのはもうずいぶんと前のこと。少なくとも 5年以上は前の話。初めて聞いたその時こそ、ふーんそんなふうに考えているのかという感じだったが、それが自分自身の話になるまで、さして時間はかからなかった。ごく自然に、自分も人生を同じように捉えるようになっていた。と同時に、この年齢にして、自分は自身の人生を HARVEST に向かわせる手掛かりを何も持ち合わせていないのではないか、と思った。そう思うようになって、もう 5年経つ。
 既にいくらかの種は蒔いているのかもしれない。そう思いたい。しかし痩せた土だ。一体いつどんな花を咲かせ、何が実るというのか。皆目検討もつかない。この間に強く思ったのは一つ。このまま続けても、自分自身がそう認めることの出来る「収穫の時」は来ないのではないか、ということ。自分なりの何か、「自身の spirit が認知できる何か」を実らせることは出来ないのではないか、ということ。しかし、愛する家族がある以上、放浪者になるわけにはいかない。そう思いながら、5年の月日が流れた。

 今の持ち場では自分なりにベストを尽くしてきた。やる以上はやれる限りのベストは尽くした。自分なりの貢献もしてきたと思っている。しかし「変えたい」「変わりたい」という思いは強まるばかりだった。そうした中で身心の平衡感覚を保つのは至難だった。
 人生のパートナーが最初からこのことをよく理解し、ずっと応援しつづけてくれたことが、どれだけ心強い支えになっていたか、言葉では言い表しようがない。そしてもちろん息子の笑顔も・・・。

 今の持ち場には 3月でサヨナラだ。この春から、新しい環境をスタートさせる。家族と過ごす時間も増やせそうだ。賃労働と人生の折り合いみたいなことも含めて、改めて構築していきたい。再スタートだ。そのなかから、HARVEST の確かな手掛かりをつかんでいきたい。焦ることはしない。全てを前向きに、ゆっくりと調和させていきたいと思う。

(未だ寒い冬の休日の午後、陽が差し込む部屋で NEIL YOUNG の HARVEST MOON を聴きながら・・・。)


02年 3月10日(日)   始まりの季節

 今頃は 終りの季節
 つぶやく言葉はさようなら
 6時起きの あいつの顔が
 窓の彼方でチラチラ
 朝焼けが 燃えているので
 窓から 招き入れると
 笑いながら入りこんで来て
 暗い顔を紅く染める
 それで 救われる気持ち

 (細野晴臣 HOSONO HOUSE「終りの季節」より)

 「終りの季節」は「始まりの季節」でもある。
 「収穫」を求めて再びもしくは新たに旅を始めることにし、私は「それで救われる気持ち」になった。そのあとは私の生き方次第。

 「終りの季節」でもあり「始まりの季節」でもあるこの時にあたって・・・。  私を応援してくれたパートナー、支えになった息子、アドヴァイスしてくれた兄貴、理解してくれた両親、この間に共にたたかってきた人たち、ここに至る心情を共有した友人、そしてこの時にあたって声をかけメールをし実のある言葉のやりとりが出来た多くの人たち、一時でも心が通い合ったと思える全ての人たちに感謝したい・・・。


02年 3月13日(水)   我々の大事な日

 世の中に記念日はたくさんある。独立記念日、建国記念日(日本のそれはハテナの紀元節)、戦勝記念日、休戦記念日、敗戦記念日(日本の終戦記念日は正しくはこう呼ばれるべきだろう)、憲法記念日、創立記念日、サラダ記念日、ナントカ記念日、カントカ記念日、・・・・・・。

 誕生日ってのも生誕記念日なわけだから、俺にとっては(当然私事です)一番大事なのは誕生日と結婚記念日かな。だけど前者は自分の意思で選び取ったわけではないので、自分の意識の働いた日、あるいはある種確信めいた気持ちを込めた記念日として、俺の場合は結婚記念日の方により特別なものを感じるな。
 この際、籍を入れたとか入れないとか、結婚式をしたとかしないとか、同姓であるとか別姓であるとかそういうことの問題ではなく、我々の場合は、これからの人生を共にしていきたいという我々自身の気持ちを、自分達の手作りの結婚式というかたちに表現した、その日が我々にとっての大事な記念日だということ。
 束の間の休息と充電の日々だ、今日はパートナーと息子と3人で、うまいもの食いに出掛けよう。


02年 3月17日(日)   日比谷線ぶらり途中下車の旅

 今日は電車好きの息子のビッグ・イベント、親子3人で「ぶらり途中下車の旅」へ。今回は親父のリクエストで、築地に行って美味いものを食いたい、ということで日比谷線で「ぶらり」をやることにした。
 というわけで築地だけは下車を決めていたんだけど、しかし日曜日の築地の市場はほとんどの店が休み。入り口で気が付いて本当に愕然! なんでこんなこと予め考えなかったんだろうって、そこで3人で笑ったのは後の祭りでありました。それはさておき・・・。

 まずは上野駅を広小路口から出てアメ横へ(これは息子の希望)。賑やかさって意味では韓国の南大門市場や東大門市場に軍配が上がるものの(行ったことがあるのでつい思い出す)、やっぱり活気があっていい。だからってわけじゃないが、韓国モノ売ってる店で韓国の海苔とキムチふりかけを買った。
 日比谷線は仲御徒町から乗車。件の築地駅で下車した。古代インド様式の築地本願寺本堂を左に眺めつつ築地場外市場へ。日曜日で閑散とした風景にがくっとしつつも、市場の中や周囲をぶらぶら歩いてから、中で24時間営業している「すしざんまい」という店で昼食。さすがにこの店は大繁盛で待たされたが、カウンターに座れて好みの握りを食べた。親父は昼間からビールも。トロを少し火であぶったネタの握りを珍しく思って食べたが、これがなかなかイケた。
 次はふらっと霞ヶ関で下車。前職(あ、未だ正式には今月いっぱい在職中)の仕事でたまに来た、その他にデモでも何回も歩いた霞ヶ関界隈をぶらり。外務省では既に桜が咲いてました。やっぱ今年は早いわ。それとも、ムネオ潰しが功を奏してサクラサクってか・・・。しかし、外務省だって悪代官ムネオと共犯なのに今は被害者づらなんだからな、いい気なもんだぜ。真紀子憎しのリーク作戦とムネオ潰しの極秘文書公開はおんなじだな。外務省に都合の悪いことだってちゃんと公開しろよ。あ、いかんイカン、脱線し過ぎだ、ここは「ぶらり」の旅日記。えーっと、小3にしてはやたらと時事に詳しい息子に「ここがあの、ムネオや真紀子で話題の外務省だぞ。」と紹介。
 続いて歩いて国会議事堂前へ。息子が将来立候補したらなんてアホな冗談言って、母親「そんときゃ献金すんの?」親父「まぁ10万円ぐらいはしてやろう」などというわけのわからん会話をしつつ、憲政記念館近くをふらっと歩いて、休憩。尾崎行雄の記念碑も見ました。軍国主義の時代に辞世の句を懐に入れつつ国会で演説ぶつこと2度、3度、街頭演説の内容により不敬罪で起訴されたことも(結局無罪)。今は政治家の器もちっこいよなぁ。
 尚、ここには日本水準原点もあります。なんでも、日本各地の標高を測定する為の基準点として明治24年に定めたとか(そこは標高24m余とか記してあった)。それと、この辺りからは皇居方面がよく見えます。いつかは主権者に開放してもらいたいな、あの広大な敷地、一般参賀の日とかじゃなくて全面開放!
 さて、再び日比谷線に乗車して恵比寿で下車。歩いて恵比寿ガーデンプレイスへ。少し休憩した後、ガーデンプレイスタワーの最上階、39階へ。39階と38階から、渋谷、新宿方面などを遠望。代々木公園辺りもよく見えた。電車好きの息子は眼下の山手線や埼京線にも注目。最後は歩いて恵比寿駅に戻り、日比谷線で上野に向かった。
 今日の「ぶらり」は最初は(「ぶらり」の前から)築地がメインの予定だったけど、うっかり日曜日に来てしまってメインから外れ、結局は霞ヶ関下車後の散策に一番時間をかけたみたいだ。まぁハプニングは当然なので、家族一同満足して帰路に着きました。ちなみに切符は一日乗車券。営団地下鉄のガイドマップみたいなものをもらえたのは得した気分だった(得したわけないんだけどさ!)。

 夕飯ではさっそく、アメ横で買った韓国の海苔とキムチふりかけを食した。キムチふりかけってのも結構イケる(ちょっとニンニク入り)。次の「ぶらり」は時期も場所も未定。何しろ「ぶらり」だからなぁ・・・。


02年 3月17日(日)   イスラエルの兵役拒否

 夜9時からのNHKスペシャルは「兵役拒否−イスラエル・62人の決断」。昨年夏に始まったイスラエルの高校生の兵役拒否の動きについて取り上げていた。特に当初から声を挙げてきた一人の高校生とその父親の苦悩。祖父はイスラエル「建国」時の第一次中東戦争に従軍、父親も第三次、第四次の中東戦争に前線に送り込まれる精鋭部隊のパラシュート部隊の一人として参戦している。そんな一家の息子が、インターネットで意思を同じくする他の高校生と共に兵役拒否を宣言したのだ(イスラエルでは、18歳になれば男で3年、女で1年9ヶ月の兵役が国民の義務となっている)。
 彼自身は、一昨年の、銃撃戦に巻き込まれたパレスチナ人父子のうち未だ幼い子供の方が銃弾に倒れて死亡するという、世界中に衝撃を与えた(しかし昨年のアメリカ同時多発テロと軍事報復以降は忘れ去られようとしている)映像を見てショックを受けたのが一つのきっかけのようだが、彼らの主張は、イスラエルの攻撃はパレスチナ人の新たな暴力を生むだけで他の何物も生み出さない、我々イスラエル人はパレスチナ人と共生する以外に平和に生きる道はない、というものだ。彼らは、現在のイスラエルによるパレスチナへの武力攻撃は国家テロだとまで言っている。これらの主張があの国でどれだけ過激に受け取られれ、どれだけの迫害に遭うのかは、我々日本人には想像しがたいほどのものだろう。パレスチナとイスラエルの問題に関心を持ち、かの地を訪れたことのある私にしても、とても実感としてわかるようなものではない。番組では、これまでの友人を失い、大人達からも激しく非難されながら、前向きに自らの主張を語る若者達が紹介されていた。

 街を爆撃しても、家をブルドーザーで壊しても、パレスチナ人の自爆テロを含む反抗が止まないなかで、イスラエル国内でも、和平しか平和を生む方法はない、イスラエル軍は占領地から撤退すべきだ(ヨルダン川西岸とガザ地区を指すのは間違いないが、ここに同じく'67年の第三次中東戦争以来占領し続ける東エルサレムを含む人がどれだけいるかは不明)といった声が、依然として少数派ながらも以前より目立ってきているという。今年に入ってからは、将校を含む予備役の兵士が、占領地での軍務を拒否するという新たな動きも出てきている。軍務を拒否した兵士は、平和運動の集会で「イスラエル政府は、虐げられたパレスチナの人々にさらに屈辱感を与え、結局そうして新たなテロの温床を作っている。我々は貧しいパレスチナ人をもっと厳しく貧しい生活に貶めよと軍から命令されているのだ。我々は占領政策を終わらせなければならない。」と訴え、兵役拒否宣言した高校生の代表は、同じ集会で、かってアメリカ国内で少数から始まったベトナムからの撤退を求める運動の例を挙げたうえで、「改革は少数から始まる。兵役を拒否しよう。占領への協力を拒否しよう。」と訴えた。当初62人だった兵役拒否の高校生は既に100人を超え、最初の10日間で170人余となった軍務拒否の予備役兵は今は300人を超える規模となり、共にイスラエル政府の激しい非難を受けているという(ちなみに前者は招集後に刑務所に送られ、以後も公務員等の職業には就けなくなる)。

 番組で特に紹介された一人の高校生は、軍の召集を受けたうえで兵役を拒否し、今は軍の刑務所に収監されている。父親は息子への理解を徐々に進めながらも賛同には至らず、苦悩しながら息子の現在と未来を見守っている。イスラエルでの彼らや彼女らの兵役拒否、軍務拒否を含む平和運動は、圧倒的多数の周囲の厳しい非難の眼に晒される。「平和な」国の「平和な」運動ではない。「平和に」見える国からは、本当に理解し共感することは容易でないはずだ。しかし、間違いなく僕らも彼らと同時代を生きている。簡単に「同時代」と言うのをためらうほどに彼我の落差は大きいが、だからと言って歴史書を読むかのごとく彼らの現実に触れようとするのは間違いだと思う。彼ら彼女らの現在は、否が応でもアメリカを通じ世界を通じ、僕らの現在とつながっているのだと思う。僕らは今、たくましい想像力を持たなければならない時代を生きているのだ。


02年 3月23日(土)   シオニズムへの疑問(イスラエルの兵役拒否にみられるラディカルさ)

 今日の朝日の朝刊の 9面に、17日(日)の「日記」で取り上げた、イスラエルの高校生による兵役拒否に関する記事が大きく掲載されている。当初62人だった賛同者の数は現在105人にまで膨らみ、このうち数人に既に召集通知が来ているとのことで、記事では、召集所で改めて兵役を拒否して軍刑務所への収監、出所、召集、収監、出所と繰り返し、今、三度目の召集命令を待つヤイール・ヒイロ氏(18歳)、現在裁判闘争中のアミル・マレンキ氏(18歳)、今年7月に召集される予定のハガイ・マタル氏(18歳)の 3名が紹介されている(17日のNHKスペシャルで特に特集されていたのはヒイロ氏とその父)。
 ヒイロ氏はユダヤ人とアラブ(パレスチナ)人が平等に暮らす国を求め、マレンキ氏は全ての軍を否定する徹底的平和主義を主張し、マタル氏はパレスチナ国家を認めたうえでイスラエルとの共存の道があると訴える。マタル氏の主張はおおむね現在国際社会が求めている線に一致する考えだが、前の2者は思想的にその先を行っている(別にどちらが優れているということではないが)。マレンキ氏の考えは場合によったらガンジーやキング牧師にも通じるかもしれない非暴力思想とも取れ、十分ラディカルではあるが(とりわけイスラエルのような「紛争」の絶えない国では相当にラディカルである)、残るヒイロ氏の言っている内容はそのままシオニズムに対する根源的な疑義であり、ことイスラエルにおいてはあまりに「過激」かつ「異端」思想として受け取られるものであって、このような考えをイスラエル人高校生がイスラエル国内で堂々と主張しているという事実自体が、これまでのイスラエルの歴史からすれば極めて驚くべきことと言っても過言ではない。

 彼は言っている。

 「私はユダヤ人が自分たちの国をつくるというシオニズムに強い疑問を持っている。私が支持するのは、ユダヤ人とアラブ人が平等に暮らす一つの国をつくることだ。」

 後半の考えは、残念ながら、多くの人が、実現困難な理想であり、少なくとも短期的には実現不可能な夢だとみるだろう。パレスチナの「紛争」の激しさをテレビでよく眼にする人にはそう取られるだろうし、パレスチナ問題をよく勉強し、両民族の共存を願う人からしても、より現実的に深刻に、当面実現は極めて難しいのが実態だと受け取られるだろう。しかし、私が注目するのは、ここでは、むしろ発言の前半である。
 この主張はイスラエルにおいては「危険」思想扱いをされる程度のものと言ってもいいだろう。例えて言えば、戦前の日本国内において日本人高校生が日本の「建国神話」を否定する考えを堂々と主張するという例え方も可能かもしれない。
 しかし、シオニズムは神話というよりも、現実の、現代のイスラエル建国の背景にある思想、国の成り立ちを定義づける思想である。世界中に離散していたユダヤ人(今もそうだが)に「シオンの丘に還ろう(そしてそこにユダタ人の国を建設しよう)」と呼びかけるシオニズムが思想的バックボーンとなり、世界のユダヤ人差別が結果としてこの思想による運動を強め、またナチスのユダヤ人虐殺がこれも結果として運動を加速度的に強化することになり、そして長年のユダヤ人迫害を懺悔する一方で問題を内部に抱えたくない当時の欧米社会の強力な支持を得ることによって、現代のイスラエルは建国されたのである(バルフォア宣言に代表されるイギリスの二枚舌外交はこの建国前史の系譜にあり、また、現在PLOをしばしばテロリスト呼ばわりするイスラエル政府だが、イスラエル建国運動の中でもテロは重要な戦術の一つとして採用され実際に行なわれていた)。
 イスラエルの多数を占める保守派からすれば(ここでのこの範疇には労働党などの革新政党も含まれてしまう)、シオニズムの否定は現代イスラエルの国家そのものを否定しかねない極めて「危険な」思想に映るはずだ。その意味で、今回の高校生ヒイロ氏の主張は、先の戦前日本の例えなど及びもつかないほどのラディカルな思想だと言っていいだろう。

 一方、兵役拒否に賛同する高校生のそれぞれは、実際には、イスラエルという国の在り方や軍に対して、さまざまな考え方を持っている。そのなかで、シャロン首相らへの手紙では、みんなが共通して賛成出来る「占領拒否」とそれにつながる「兵役の拒否」だけを掲げたということだ。極めてラディカルな思想を内包しつつも、現実社会にアプローチする際のこうした「行動の柔らかさ」、この辺りも今回の兵役拒否の動きにおいて注目すべき点ではないだろうか。
(ちなみに、ヒイロ氏は中学生の頃からアラブ人やパレスチナ人と交流する平和団体の活動に参加しており、昨年夏に交流キャンプでマタル氏らと出会った後、首相ら宛てに「兵役拒否」の手紙を送ることにしたという。こういう平和団体がどれだけの困難のなかで活動しているのか、そこにはおそらくは僕らの想像を超える厳しさがあるに違いない。)

 今日の記事に紹介された、昨年夏のイスラエル人高校生62人(当時)の、シャロン首相ら宛て「兵役拒否」の手紙の「要約」を、ここにそのまま引用したい。

 私たちはイスラエルで生まれ、育ち、間もなく軍の兵役招集を受ける若者です。私たちはイスラエルの人権侵害に反対します。
 土地の強制収用、家屋の破壊、パレスチナ自治区の封鎖、拷問、病院に行くことの妨害など、イスラエルは国際人権法を侵害しています。これは市民の安全確保という国家目標の達成にもなりません。安全はパレスチナ人との公正な和平によってのみ達成されます。
 良心に従い、パレスチナ民衆の抑圧にかかわるのを拒否します。

 彼らはこの間、国内で右派から「裏切り者」呼ばわりされ、一般市民からも「臆病者」と批判され、和平派の左派政党メレツ(規模としては弱小政党)からさえ「占領には反対だがイスラエル社会唯一の共通基盤である軍を否定すべきではない」との忠告を受けた。彼らはあくまで「異端」であり、少数である。
 しかし一方で、今年1月末からは、軍の予備役の士官たちが占領地での軍務を拒否する運動を始め、 軍務拒否の予備役兵の数は既に300人を超えているという。イスラエルの中で、何か大きな変化が始まろうとしているのかもしれない。高校生の兵役拒否は、これから始まる長い変化・改革あるいは革命の時代の予兆であるかもしれないのだ。

 彼らは僕らと同時代を生きている。このことをどう捉えたらいいのだろうか。アメリカという大国に庇護されながら国際社会の一角におさまり、世界中にモノを売りまくってきた日本というクニの僕らは、間違いなく彼らとも同時代を生きている。僕らはどこでどう繋がっているのだろうか。


02年 3月26日(火)   花見

 今年の満開は早い! って言えば、この時期、桜のこと。ここ北関東もやっぱ早いのだ。まぁ一応ここも首都圏ってことになってるけどなぁ(どーでもいいっすけど)。いずれにしても、ちょっと早過ぎるよな。なんでこんな早いんだ、早いと日本人にどんな影響が出るんだぁー、なんつーことも真面目にでも面白可笑しくでも展開出来るんだろうが、今日は時間もないのでやめとこ。

 というわけで今日は家族で花見。まずは、我が家の庭のこぶしの花を記念写真(右上、こっちも満開なんだ、これで)。で、パートナーの愛情弁当(だと思ってます)を持って、ぼうず共々家族3人で、クルマで隣り街のF代町はK貝川の近くの見所へ向かった。どこでもいいんだけど、今年は何となくここにした。ドライヴのBGMは CSN&Y の 4 WAY STREET 、ライヴの名盤です。

 しっかし、今日は寒い。まぁ4月並みの陽気で開花も満開も早かったわけだけど、今日はとにかく寒い。雨も時々パラつく曇天で、写真はちょっと暗かったかも(右下、クリックすると拡大しますねん)。晴れてりゃもっと綺麗に写ったはずなんじゃが。
その他に2枚載せとこう(写真2と写真3、以上の2枚は Webspace容量調整の為、6月8日削除しました)。

 でもやっぱ花はいいね〜。もちろんサクラに限らず、なんだけど。サクラが日本でこんなに人気があるのは、日本人は春夏秋冬、春から始まる季節感を持っていて、おまけに今は学校や会社、役所などの年度も3月に終わって4月に始まる、こういう季節や生活のサイクルの境目に咲いて散る、でまた特にサクラの花の美しさには実際観る者をその世界に引き込むほどの美しさがあるからだろうって思うけど(桜の木が多く花が多いとなおのこと効果あり)、もっと突っ込んだ考察はこれも割愛。考え出すと、なんか改めて面白い発見もあるような気がするけどなぁ・・・。誰か時間と関心があったらやってみて下さい。

 いや、でも肌寒かった。ビールも冷たかった。しかし、弁当は美味かった!

 以上、というような、例年に無く早い花見でありました。簡単ですが、花見の報告はこれで終わりっ。


02年 3月30日(土)   ロジャー・ウォーターズ、ライヴ!

 ロジャー・ウォーターズのコンサートに、家族3人で行ってきた。場所は東京国際フォーラム、ホールA。ロジャー・ウォーターズと言えば、そう、あの人です、元ピンク・フロイドのメンバーで、フロイドの全盛期の特に後期は、ほぼリーダー格だったと言っていい人。ロジャーが抜けた後も3人が残ってピンク・フロイドと名乗ってはいるけれど。

 内容は昨年12月に発売された、アメリカでのライヴを収録した DVD(すっげクウォリティ高いです)のそれと大体同じ構成。2部に分かれていて、1部は In The Fresh から始まって、大作 THE WALL や THE FINAL CUT 、ANIMALS 、WISH YOU WERE HERE 、フロイド初期の A SAUCERFUL OF SECRETS などから選曲。
 休憩はさんで2部は、不朽の名作 THE DARK SIDE OF THE MOON 、フロイド脱退後のソロ・アルバム、また再び THE WALL から選曲し、アンコール後のラストはロジャーの新しい曲、Each Small Candle でしめくくり。やっぱ THE DARK SIDE OF THE MOON からの Breathe( In The Air) のイントロには感激したな。
 ツアーのメンバーもほぼ DVD と同じなんだけれど、ギタリストの一人がドイル・ブラムホールUでなかったのは残念。代りのギタリストもまずくはなかったけど(特に2部は元気だった)、ドイルの奔放な弾き方は、様式美の音楽の中にあって映えるものだったと思うんだけど(テクニックも凄いし)。コーラスのケイティ・キスーンは相変わらずかっこよかった(色っぽいし、笑)。歌も上手いよなぁ(言うまでもなく)。私もパートナーも彼女の大ファンです。ケイティとギタリスト3人のうちの1人のアンディ・フェアウェザローは、我々にはクラプトンのライヴでお馴染み(ケイティは去年は来なかったけど)。

 私とパートナーの2人は、以前ロジャーが抜けた後のピンク・フロイドの日本公演を観たことあるから(確か代々木オリンピック競技場だったと思う、ライトショーなどのビジュアル面も含めてベリー・グッドでした)、これでピンク・フロイド4人分を観たことになるなぁ(そういう問題じゃないか、笑)。でもシド・バレットは無理ですね(彼の写真は今日のステージのスクリーンに映し出されました)。

 休憩はさんで3時間、スクリーンにもアニメーションや実写等さまざまな映像が映され、ライティングの効果もあって、息子もなかなかに楽しめたみたい。ラストの Each Small Candle の後には、スクリーンに AMNESTY の文字が・・・(うちは時々活動にちょこっと協力しているので親しみあります、です)。そう、アムネスティ・インターナショナルの名がはっきりと映し出されたんだけど、もしかしたら、この曲はアムネスティのキャンペーンの為に作られたのかも。そう言えば歌詞もそんな歌詞で、この曲の時だけ、歌詞が赤い文字でスクリーンに映し出されていたのも印象的でした。日本のミュージシャンもあんまり当り障りの無いかんじのチャリティならたまにやるけど、アムネスティとかに協力するってのは聞いたことないな、日本の場合(アムネスティは日本支部もあり)。ちなみに近年ではユーリズミックスがアムネスティに協賛するライヴをやってます。

 ピンク・フロイドといえば我が高校生時代に最も入れ込んだロック・バンドの一つ(もっと早く生まれていれば伝説の'71年箱根・芦ノ湖畔、箱根アフロディーテでラリってたかも、笑)。フロイドは'72年にも来日していて、ロジャー自身の来日は30年ぶりみたい。
 フロイドの曲を生で聴くのは感動するし、ロジャーを始めとしたバンドのパフォーマンスも良かった(例えば、TIME の時のドラマーのパーカッションの迫力は特筆もの)。満足の一夜でした。全体としては、2部の方が出来が良かったかな。

 そうそう、蛇足だけど、開演前といい、休憩中といい、男子トイレの混み様はハンパじゃなかった。女子トイレの比ではなくて、これって普通と反対なんだけど、やっぱああいう理屈が濃密な音楽ってオトコ向きなんだろうか(実際、聴衆は男が圧倒的だったかな)。少なくともロマンティックな音楽じゃない、かもね。


02年 4月 6日(土)   この先に向かって、未来に向かって

 今週から新しい環境が始まった。これから、新しい分野での勉強と歩みを進めていくことになる。
 5年ほど前から「変える」ということを考え始め、行動し始め、決意し、希望を実現に至らせたこと、つまりこの間の選択は、自分にとってはつくづく最善の選択だったと思う(決意とか選択というとかっこいいが、実際はかっこわるいほどに苦しんでいたんだけれども)。
 むろん今後の展開は今からわかることではないが、変えたこと自体は間違いなく最善の選択だった。もともと自身の人生の必要な選択なのだという想いをもって行動はしていたが(行動したり諦めかけたり・・・実現は難しかった)、希望が実現することになってから以降、さらに前の環境から離れて以降、その確信はより絶対的なものとなった。今振り返って、つくづく良かったと思う。
 もちろんこの感慨は、俺(と俺の家族)が決めるべき俺自身の人生の選択に関するものであって、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、自己の生活と不可分でなくなれば(タックス・ペイヤーとしては繋がっている)、改めてかなりの客観度で過去の経験を評価出来るわけで、その結果、以前の評価をある種の感慨をもって再確認しているということだと思う(・・・いやはやまったく!)。

 不安がないと言えばウソになる。しかし、自分の人生は自分で切り開いていくしかない。結局、この当り前のことを肝に銘じるということなのだと思う。
 さぁ、1回限りの現実の人生だ。前を向いて、実り多いものにしていきたい。・・・もちろん、愉快なものにも、ね。


02年 4月27日(土)   サブラ・シャティーラとジェニン

 今回のイスラエルのパレスチナ占領地への武力侵攻(しかもオスロ合意後の自治区を中心とした侵攻、二重三重の意味で不法な侵攻と言っていいだろう)で、ヨルダン川西岸の自治区ジェニンの難民キャンプにおいて民衆虐殺があったのではないかとの疑いが取り沙汰されている。イスラエルがメディアの立ち入りを統制してきたため(この間に多くの証拠「遺体」をいずこかに埋めたのではないかとさえ疑われている)、インターネット・マガジンのThe Palestine Chronicleを含む少数のメディアによるものを除いて、被害の詳細が外部の眼に触れることはほとんどなかった。この数日でようやくのこと、一般メディアにもジェニンの悲惨な状況が映像入りで報道され始めているが、住居をやたらめったらブルドーザーで破壊した様子からは(瓦礫の下に今も多くの被害者の遺体が残されているのかどうか)、それだけで十分に虐殺の名に値する行為があったのではないかと推察されるものがある。

 そこで私は、サブラ・シャティーラの名を思い出すのだ。今から20年前、1982年のイスラエルによるレバノン武力侵攻の際、イスラエルによって当時の PLO がレバノンから追放された後の 9月の暗黒の 3日間(9月16日〜18日)、ベイルートのサブラとシャティーラの難民キャンプで、キャンプがイスラエル軍によって包囲され、また夜間にはイスラエル軍によって照明弾が打ち上げられる中、イスラエル軍によってキャンプ内に引き入れられた右派キリスト教徒民兵による難民虐殺が行なわれた。ここで多数の婦人、老人、子供を含む 3,000人以上とも言われるパレスチナ人が虐殺されたのは多くの国際的な調査が認めているが、当時同様に他のキャンプでも虐殺行為があったとされ、また、レバノン武力侵攻全体の被害者は死者 2万人、行方不明者、負傷者を加えるとその数は数万人規模と言われた(むろん正確な数字は不明)。この殺戮行為を推進した、当時のイスラエル国防大臣が、現在のイスラエル首相シャロン、その人である。

 20年後のジェニン難民虐殺疑惑に対し、緒方貞子・前国連難民高等弁務官を含む国連現地調査団が現地入りしようとしているが、イスラエルは調査団の人選について事前に相談(!)がなかったことや調査対象、調査方法等への不満を訴え、調整が難航しているという。既にAmnesty International − アムネスティ・インターナショナルが、ジェニンでイスラエル軍が非戦闘員多数を殺傷し、戦争犯罪に関与した可能性があるとする調査結果を公表し、国連が設置した旧ユーゴスラビア戦犯法廷と同様の方法による真相究明が必要であると主張しているが、アメリカによる効果的な圧力のないままに、イスラエルの許容する範囲で国連現地調査が行なわれるとしたら、ジェニンの真相はどこまで明らかになるのだろうか?


02年 4月27日(土)   パレスチナ、イスラエル・・・

 私がパレスチナ、イスラエルを旅したのは 19年前の 1983年、9月から10月にかけての3週間。約1年かけて世界(の一部)を「貧乏旅行」した時のことだ。
 ヨルダン側からヨルダン川西岸のイスラエルによる占領地に入ったのだが、その頃のヨルダンは被占領地も建前でヨルダン領もしくはアラブ領としており、占領地に出る手続きは簡単だった。ヨルダンの支配区域を抜けて占領地に入ると、Welcome To ISRAEL と書かれた大きな看板が旅行者を迎えていた。エルサレムやベツレヘム、ヘブロン、ビルゼート、ナブルスなどを含む占領地やハイファ、テルアビブなどを旅し、そしてやはり占領地のガザ地区に1、2泊した後に、エジプトへ向かった。レバノンはベイルートのサブラ・シャティーラ難民虐殺があったのはその1年前のことで、当時のレバノンは旅行者にはあまりに危険で、さすがにレバノンには入らなかった。確か観光目的でのレバノン入国はほとんど不可能だったはずだ。

 テルアビブではホロコースト博物館に行き、イスラエル建国前のユダヤ人の被抑圧・弾圧の歴史を見た。ナチスによる虐殺もあれば、ユダヤ人商店の強制閉鎖もあった。ハイファでは公園で孫と遊ぶ老人を見ながら、彼らの世代の(青年期そして実際には現代に及ぶ)苦難を想像した。
 しかし、一方で、現代のパレスチナ人の街で私が見たのは、イスラエルによって強制閉鎖されたパレスチナ人の商店だった。その方角からイスラエル兵に向かって石が投げられたという理由で・・・。私が訪れた前の週にパレスチナ人が(イスラエル兵に)射殺されたという街もあった。占領地にはユダヤ人入植地まで作られ、貧しいパレスチナ人が乗るバスはおんぼろで、イスラエル人の乗るきれいなバスとは大違いだった。通りすがりの旅行者の眼にも、パレスチナ人が誇りを持って生きるのは容易なことではないと感じられた(占領などに無縁な世界で生きる我々は、そもそも良くも悪くも「誇り」など意識しないが)。彼らが、我々には軽々しく想像できないほどの屈辱感に耐えながら「今」を生きているのは確かだと思った(屈辱を日常として、もはや意識しない人さえいたかもしれない)。ビルゼートでは祖国解放に燃える学生達の歓迎を受けた。・・・私が旅したその時からですら、既に約20年が経過してしまった・・・。

 事の始まりはイスラエルの強引な建国だが、その前には欧州社会でのユダヤ人の苦難の歴史があった。欧州社会で差別され抑圧されたユダヤ人の歴史があり、そこから勢いづいた、国を持たないユダヤ人の建国運動、シオニズムの運動があった。第1次大戦時のイギリスはオスマントルコとの戦いを有利にするためにアラブの協力を期待してアラブ側に独立国家を約束し、同時にユダヤ資本による戦費調達を期待してシオニズム支援を約束した。フランスとのシリア、パレスチナ分割統治の密約を併せれば三枚舌外交をし、イスラエル建国前のパレスチナの土地はイギリスの委任統治領となった。そして、建国後のイスラエルは、アメリカによる軍備と物資の強力な支援を受け続けてきた。アメリカのユダヤ資本や議会のユダヤ・ロビーと利害関係を共にする、アメリカのエスタブリッシュメントによって・・・(イスラエルを敵に廻したら、アメリカ大統領選に勝利するのは極めて難しいだろう)。現代の欧州各国では、アラブ移民の増加もあってパレスチナ側に同情的な部分がある一方で、依然としてユダヤ人に対する負い目も強力に作用している。

 パレスチナ問題、イスラエル問題はイコール宗教対立などというものではなく、その根源は欧米世界のご都合主義にある。宗教は時として対立するが、しかし一貫して衝突するものではない。実際には、政治や経済の対立や抑圧が火をつけているのだと思う。ファナティックなファンダメンタリストは、その対立に影響され、もしくはその対立を利用しているのだ。欧米世界の責任は極めて重い。責任は歴史的にあるというだけでなく、欧米がその根源を作ったことからすれば、現代の問題の解決に果たすべき責任も重大なはずだ。

(むろん、世界の「経済大国」日本の国際紛争解決における責任も大きいのは言うまでもないが、ここではそれは本題ではない。今の日本にその能力があるかどうか、ということについても・・・。中東世界には比較的「身ぎれいな」歴史を持つ日本ならではの役割が本当に可能なのか、ということも・・・)