03年 8月 3日〜8月18日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

03年 8月 3日(日)   2003年の8月のある日

 って言ったって、「ある日」も何もありません。今日は 2003年 8月 2日の日曜日であります(ここはこのままにしときます。この日記書いたのもアップしたのも 3日の日曜日だよ。2日じゃありません。そもそも 2日は前の日の土曜。他は修正したけど、他も全て昨日の日付はみんな間違ってた。単なる間違いっていうよりイカレてます。8月 4日、記)。

 今日は 「映画」「卒業」 をアップしました。ずっと放置していたサイトに3作目です。ま、今後はどうかわかりません。

 息子は野球の大会。妻は応援と父兄の手伝い。・・・ 母親がたくさん貢献しているんだから、こういう言い方もないだろう。保護者、というか子供達の親としての手伝い(と応援)です。
 僕は夕方から仕事。今日は日曜ですが、仕事の用事があります。明日は休みます。よく眠れるでしょうか。少しでもよく眠りたいですね。そして、起きてる時は出来る限りビビッド(?)にならなきゃいけない。なかなか、ね。とりあえず、今晩まぁまぁ眠れますように。


03年 8月 4日(月)   ベングリオンのパレスチナの現実

 今日の日記の1本目や。
 今から 55年前の 1948年 5月14日、イスラエルの初代首相ベングリオンは、国家独立宣言(建国宣言)の中でこう言ったそうです。
「イスラエル国家は ・・・ イスラエルの預言者が心にいだいた、自由、正義、平和の諸原則を基礎とする。宗教、人種、性にかかわりなく、その市民すべてに完全な社会的・政治的平等を保障する。宗教、良心、教育、文化の自由を保障する。あらゆる宗教の聖地を保護する。そして、国連憲章の諸原則を忠実に守るだろう。 ・・・ 」( NHK出版「イスラエル兵役拒否者からの手紙」177頁より孫引き)

 新聞報道によれば、それから55年余り経った 2003年 7月31日、イスラエル国会は、パレスチナ人がアラブ系イスラエル人と結婚してもイスラエルの市民権を与えないとする市民権法改正案を、賛成53、反対25、棄権 1 (議席数120 )の賛成多数で可決したそうです。これで、両者は結婚しても、イスラエルでの同居が認められないことになります。
 イスラエルにはアラブ系国民が約110万人ほどいて、彼らは 1948年のイスラエル建国時に難民にならずに残ったパレスチナ人とその子孫だということです。

 実はイスラエルのユダヤ人の中にも出身により階層はあります。人口的な多数派は、セファルディーム( 11世紀から15世紀まで続いたイベリア半島におけるキリスト教徒の国土回復運動レコンキスタによりスペインから追われてイスラム圏に移住したユダヤ教徒とその子孫)とほぼ同じ人々を指すことになるミズラヒーム(イラクやモロッコなどのアラブ諸国から 1950年代にイスラエルに移住してきたユダヤ教徒とその子孫)ですが、政治と文化の支配層はアシュケナジーム(東ヨーロッパ出身者)が占め、近年になってようやくミズラヒームからエリート層への進出が見られるようになってきているようです。

 昔々の学生時代の貧乏旅行でシリアを訪れた際、ユダヤ教徒の教会シナゴーグがあるのを見つけ、シリアにユダヤ人が住んでいることを知って驚いたことがあります。
 話は若干それますが、上に挙げた書籍「イスラエル兵役拒否者からの手紙」の中で、ミズラヒームの一人がこう語っているのは印象的です。「私はアラビア語を話すユダヤ教徒です。このことに関して、コンプレックスはまったく感じていません。アラブ人との生活は、天国の暮らしではありませんでしたが、キリスト教徒と暮らすよりははるかにましでした。ですから、私たちはパレスチナ人と対話する方法をさぐらなくてはなりません。ロマンティックな幻想で言っているのではなく、それが私の日常生活なのです。私たちはアラビア語を話し、アラブ料理を食べ、アラブ音楽を聴いて暮らしています。」
 ユダヤとパレスチナ(アラブ)を対立させているのは、単に宗教や民族の違いで片付けられるものではないようです。元々の対立の核心には政治があり経済があり、国際政治があり、国際社会の無関心や身勝手があります。宗教や民族の違いは対立や紛争激化の触媒になるものなのです。


03年 8月 4日(月)   豊かとか貧しいとか幸せとか不幸とかについて

 今日の日記の2本目やで。
 昨日は夕方から仕事に出かけ、職場に向かう途中でCDを2枚買いました。1枚はピンク・フロイドの ATOM HEART MOTHER(「原子心母」)。この間「2001年宇宙の旅」を久しぶりにビデオ再生して観た時、「原子心母」を聴きたくなりました。実は前からLP時代のB面にあった IF って曲が気になってたこともあるんですが。そのうち僕の訳詞に入れるかもしれません。「2001年宇宙の旅」の最終章とシンクロするという ECHOES を含む MEDDLE も買いたかったのですが、その店にはたまたま置いてありませんでした。発売30周年を記念した THE DARK SIDE OF THE MOON(「狂気」って邦題、はまり過ぎ、笑)のデジタル・リマスター盤も気持ちが動いたのですが、ちょっと今現在の自分にはこのまとめ買いはヘビーなのでやめました。BRAIN DAMAGE や ECLIPSE (「狂人は心に」とか「狂気日食」とか邦題はぶっそうですなぁ)なんかも訳したい気がしたりして。ま、気は確かですから大丈夫です。(3枚とも昔は他のフロイドのアルバムと共にLP盤を持っていたんですが、兄貴の持ち物だったかな、今も田舎の家にあるかな、今の自宅にはLPを録音したカセットしか置いてませんでした。何故か? WISH YOU WERE HERE だけずいぶん前にCD買ってたな。まぁこれで「原子心母」はCDで聴けるようになりました。)

 もう1枚はサイモンとガーファンクルの 1967年のニューヨークでのライヴ盤を買いました。ポールのギター1本にポールとアーティのハーモニー。こんな音源がCD化されていたなんて。いや、奇跡です。聴いてみたら見事なパフォーマンスでした。

 話をちょっと、とばしましょう。一昨日の新聞の投書欄にこういうのが出ていました。僕は新聞の投書欄はあまり興味ないんですが、時々ふっと眼にとまる時があります。件の投書は在日中国人の「主婦」の投書でした。部分的に引用します。
「夫の会社は、世間一般のゴールデンウィーク・お盆・国民の祝日の休みが一切無いです。平均週6日働き、朝6時半に会社に向かい、深夜11時前後にくたくたで帰宅し、お風呂と食事の後、5分もしないうちにソファでグッスリ。可哀想で、いつも悲しくなり、妻として何とかしてあげたいですが、何も出来ないです。こんな状態はもう2年ぐらいになります。」
「日本人はいつも自分の国が先進国であり、人々は幸福に生活していると誇りにしています。でも、中国から来日して5年の歳月がたちましたが、いまだにこの国の豊かさが見つかっていないです。」

 実際、豊かさって何でしょう。日本は世界第2の経済大国といいますが、どう考えても世界で2番目に幸せな国だとは思えません。当り前といえば当り前で、多くの人が思っていることかもしれません。個人個人の自分の人生に対する主観的な幸福感を計量出来るモノサシがあったら(そんなものあるはずないのですが)、日本人は間違いなく世界でもワーストランキングにした方が早いんじゃないでしょうか。よくある豊かさ指標とか幸福度指標みたいな、あんな類のものは客観的な価値観があるという思い込みを前提に作るモノサシなんだから、ああいうものだけじゃあんまり信憑性ないと思いますがね。

 日本が世界で稀に見る自殺大国で家出大国なのは、これは統計(客観的数字)が示しています。過労死なんてのも日本社会を特徴付ける現象の一つですね。そもそも karoshi は既に日本発の国際的に通用する用語になっています。最近は過労自殺なんて言葉まで使われるようになってしまった。
 自殺ということで言えば、この数年の日本では、1日辺り 100人になんなんとする人々が(正確には 90人前後ぐらいか)自殺しています。平均で、これが毎日ということです。平均の世界では、昨日も 90人ぐらい、今日も 90人ぐらい、明日になればまた 90人ぐらい自殺する。
 死ぬことは生きることの反対ではなく、本来生きること、生きていくことの延長にあるものです。延長上にあるものの生物的選択(?)でなく、自覚的日常意思的選択としての死の多さは、多くの日本人が生きている世界が決して、生きていることの豊かさを感じさせない世界であることを象徴しているものではないでしょうか。自殺が社会だけを背景にするものでなく、一人一人がどのように生きて成長して、育まれて、(死ななければ)成人になっていく年老いていく、その、一人一人のどのように、ということに関わっているにしろ、これほどの統計的な大きさ(社会現象と言えるに違いない規模)からすれば、多くの自殺例が、社会をかたちづくる特定の何かにほぼ共通に背景付けられていると考えるのが自然でしょう。当然ながら一人の人生はその特定の一人にしか生きられませんが、一方で、しかしその人生はその特定の一人の力のみによって進められていくものでもありません。その人は自らの人生を自ら生き、自らを育みますが、当り前のことですが、同時にその人は親に育まれ、周囲の人に育まれ、社会に育まれて生きていくのです。

 僕は昨春仕事を変えましたが(そもそもその人の生業は当人の「豊かさ」や幸せや幸福感みたいなものを決定付けるものではありませんが)、それは物質的な豊かさと何の関係もない転進でした。収入が大幅に落ちるのは承知のうえでしたし、実際落ちました。しかし、その転進は結果として全く稚拙な行為だったのだろうと思います。というか、それも承知のうえではあったのですが。
 結局僕は失敗し、自ら転がり落ち、一時は無給の身分になり、挙げ句の果てに人の情無しに有り得なかった元の生業への復帰というところに辿り着きました。頭が割れんばかりに悩んだ末のことだったのですが、今は僕の脳みそは混乱の最中です。豊かでない心持ちに苦しみ、脱け出たつもりが(これがいけない、何かを目指すこと先にありきの転進ではなかったのです)、結局今はますます混沌の中です。眠りにもつけない。笑う人もいるでしょうが、やむを得ません。僕の脳みそは僕がどうやって自分の人生を生きるのかということから離れられないのです。というか、何をしているのか、自分はどう思っているのか・・・。

 日本はODA大国で、その産業技術や管理手法、労働倫理などが、そのままに近いカタチだったり、変形したりして、南の国々に伝わっています(南北問題の南ってことです)。企業は海外展開し、近代産業社会に必要な鋳型を求めます。どの国にも文化はある、そのまんま日本人のようにはならんさ。それはその通りだと思います。しかし、日本人の労働倫理も企業社会のカルチャーも、何もかも、格別日本人の民族性みたいなものに依存しているわけではありません。事実、日本人は江戸時代はけっこう遊び上手だったという説を聞きます。そもそも「9時−5時」スタイルを基本として人間の日常を動かすのは、近代産業社会の要求なのです(この1日8時間型を基本にこれを超えることを超過勤務と言ったりしますがこれも社会の要求です、日本の労働基準法36条は使用者と労働者が限度について合意した場合のみ超過勤務させられることを認めているので、本来は超過勤務はこの制度の例外なのですが、日本では法規上の例外事項が日常の現象になっています)。
 この「9時−5時」スタイルを近代産業社会が要求するということにおいて、民族も文化もあったもんじゃありません。つまり、システムは人間を変えるのです。何も近代化を否定するのではありません。しかし、近代化イコール豊かさの追求と思ったら大間違いなのではないか。飢餓や国内の武力衝突に苦しむ国々の平和や平穏を支援するのは当り前です。富める国がやれることはやるべきです。しかし、近代産業化社会みたいなものが構築されてなくたって実はそこそこ豊かで、自然も食料資源も十分にある国々が今もわりとたくさんあります。減ってきているでしょうが、未だあります。少なくありません。日本とその国々とで、どっちの子供が笑っているでしょうか。日本でも、どう考えたって、昭和30年代から40年代(あえてここは昭和といいましょう)にかけての時代の子供達は、今の日本の子供達よりも笑っていたと思いますね。子供がストレスをためる、中学生ぐらいで人生に疲れるなんて言う、そんな話はなかったと思いますね。まぁおそらくは都会ではもう始まっていたんでしょうけれども。
 南の国々は北の国々の一部のこういう物言いに反発する場合があるのですが、しかし南でも一部は気づき始めてるんじゃないでしょうか。どうなんでしょうね。人類がカッコつきの「進歩」をするのは誰にも止められなくて、やむを得ないとでもいうんでしょうか。最近のグローバリゼーションへの全世界的な反発はどういう歴史的意味がありますかね。

 僕のこの数年の人生の転がり方からすれば、第三者からすれば、こんなこと言ってる資格は僕にはないという見方もあるかもしれません。いろんな考えの人がいるのは事実ですからね。でも、あえて近頃減退気味の勇気をもって言えば、僕は資格はあると思います。というか誰にも資格はあるのです。人間は結局、本質的に勝手なのです。ある人の人生は客観的に宙に浮くかのように存在しているのではなく、誰かが、つまり、そのある人が、その人生を生きているのです。その人生を生きることができるのはその人ただ一人だけなのです。僕はこの間に迷惑をかけたりひどく煩わせてしまった人達、方々に心から申し訳なく思っているのだけれども、一方で、僕という人間は結局変わらない。昨日の夜の僕と今朝起きてからの僕にはどこか違いがあるのだけれども(つまり養老猛司によれば同じ人間ではないらしいんだ、笑)、それでも基本は変わらないから、僕は僕自身を自己認識できている。そうして、僕は僕の人生を勝手に生きようとしている。それでいて、その勝手の仕方がつかめなくて眠れなかったりしているんですがね。以前は何とかバランスを保っていたように思うんですが、もう今となっては至難の技ですね。無理があります。そうして、困ったもんだと感じながら、勝手に悩み苦しんでいる。本当に困ったもんだ・・・。

 僕はたぶん人がいい方だと思いますが(笑)、つまり他人のことをいろいろ思いやったりします(笑)、近頃ますますそうです(でも家では昼間ためたものが出てイラついたり妻を思いやることに欠けたりもします、以前より増しています、これは全然だめです、いけません)、要するに本質的には(!?)まぁまぁの「いい人」だと思っているのですが(笑、可笑しいかな)、しかし、結局自分の人生に関してはエゴが働きます。これは利己主義とかいって悪くいうものでなく、人生というものの必然だと思うのです。僕が勝手なのではなく、人間が生きることが勝手なのです。僕はそれをある程度自覚していますが、つまり主観的にそうとらえていますが、仮にホンモノの客観みたいなものがこの世にあるとしても、それはその通りに評価されるでしょう。僕は僕の人生をどうにかして生き、それを他の誰かが代ることはできません。辻褄合わせのために生き切ることは容易ではないでしょう。人間は孤独です。だんだん言っていることがわからんくなってきたな(笑)。僕は幸い、愛する家族を持っています。その事実は、僕の人生におけるホンモノの豊かさをサポートしてくれるものではあるに違いありません。

 本当の豊かさは、物質的なものを指していないのは明らかでしょう。日本人は(物質的な)豊かさを求め、社会が共通の目的でまとまり、共通の規範で動き、多くの日本人がそれに従い、そして(物質的な)豊かさを実現し、そのことによって社会は共通の目的を失い、共通の規範で動きにくくなり、少なからぬ日本人が社会の基盤を強固にするものとして存在していた規範に信を置かなくなり、それを前提にしたルールを守らなくなりました。子供達の行動にもそれは現われ始めています。どう考えたって、昔の子供達の方が笑っていたと思いませんか。人生における豊かさは一筋縄でいかないようです。僕にもこんなことを考える資格はあります。誰にもそれがあるように。僕はますますそんなことを考えるようになってしまいました。世の中には、こういうことを考える人を嘲笑しかねないムードもあります。いいでしょう。いろんな人がいます。結局、自分の人生は自分で生きなければなりません。その意味で勝手に生きるしかありません。辻褄合わせは苦しいものです。僕は僕なりに、長ーくかかっても、何とか上向きにしていかなくてはいけません。それと、ちゃんと眠らないとねぇ(またそれか)。未だ未だかかる、わけのわからん話でありました


03年 8月 8日(金)   酒気帯びで二郎さんの神経科へ行く

 今日は夕方、職場で創立記念日の永年勤続表彰がありました(確か本当は今日じゃなくて曜日の関係のはず)。30年、20年、10年・・・。むかしむかし僕も 10年表彰受けたことがあります。17年いましたからね、居続けたなら誰にでもあることが僕にもあっただけです。だけど今日表彰された人にはお疲れ様ですと言います。その先は人それぞれでしょう。人生はその人の人生ですから。僕はヘンな奴には違いなく(周囲と違うこと「その事実そのもの」は不思議と気になりませんが)、今年は再びの新入り、というか出戻り。本当は面の皮は薄いくせに、酒は好きな方なので出されていたビールを少々飲む間いて少しは近場の人と話もし、それからその場を早めに後にしました。こういう日はなるべく早く退勤した方がいいです。まぁ本来は早退予定日だったんですが。ま、仕事の話はこのへんで。考えはないこともないですが、今日、特段言いようもありません。
 そういうわけで、酒気帯びで二郎さんの神経科に行きました。二郎さんからは、アルコールはあまり勧められないと言われていますが、大して飲んでないので、別に気づかれもしませんでした。そもそも普段しばしば飲んでますがね、少しぐらいは。やっぱ夏はビールくらい飲みたい。

 先週から今週は残業が多くて疲れがたまりました。率直に言えば気の進まない分野なうえ、もともとのココロの問題もあって捗れてるとはとても言えませんが、まぁ一息しつつも、それなりに精一杯やってはいる、というぐらいでしょう。以前の自分なら大丈夫だったんですが、今は圧倒的にパワー不足です。前だってもっと続けばひどい時もあっただろうけどさ。とにかく疲れが残ります。たまります。2週間ぐらい前は残業のせいもあって頭が冴えてしまって寝つき難い感じがしましたが、ここのところは疲れが一定の線を超えて、そのために寝つくことはできているようです。ただ、深くはないし、そもそも時間が短い。よかぁないです。かなりの睡眠不足、わるいことはわるいです。

 ヨーロッパ諸国と比べて日本人の働き方はあまりに貧困だ、というのが二郎さんの持論です。行ったことがあるかどうか訊いたことはありませんが(僕は昔々旅した程度です、あ、新婚旅行もフランス・・・関係ないな)、妙に説得力ある話し振りです。まぁ実際それって間違いないですからね。
 二郎さんによれば、日本は労働行政もひどくて何の指導もしてない。何かが起きてしまったあとに責任がどうのこうのと言っているだけだとの由。これも全くその通り。僕の数少ない経験で、労働基準監督署でちゃんと役割果たす仕事してるところって少ないかもな、と思います。

 二郎さんは労働問題に詳しいようです。時々それらしい話が出ます。まぁ今の僕が、以前よりまして、長時間労働を避けた方がいいのは確かでしょう。ただ、僕のココロの問題そのものは、労働時間そのものとは直接関係あることではなくて、二郎さんもそれを知ってはいますが。
 この2週間については、自分なりの判断や推断ができません。本人が何か言えなければ、二郎さんも格別判断のしようがありません。引き続き同じ処方と相成りました。海にクラゲが出てくる頃、また二郎さんに会いましょう。


03年 8月 9日(土)   T・K生のこと

 1本目。・・・ ごく最近、ちょっと驚くニュースがあった。T・K生って呼び名、ずいぶんと久しぶりに聞いたんだ。
 学生の時、韓国人政治犯救援運動や日韓民衆連帯運動と呼ばれていた運動に参加していて、その頃よく岩波の「世界」を読んでいた。当時の「世界」には「韓国からの通信」という連載があって、韓国の軍事独裁政権下での民主化運動をレポートしていた。筆者の名はT・K生。匿名だった。

 時代は変わった。韓国に軍人ではない大統領が登場して既に久しい。「世界」の「韓国からの通信」はずっと前に連載を終えている。連載が終わる頃だったか、終わってからだったか、T・K生は実在しない、「世界」の編集長が自分で書いた偽のレポートだというウワサが出たのを記憶している。おそらく新潮とか文春系が書きたてたんじゃなかったか。学生時代に熱心に読んでいた僕はショックだったけれど、しかしそのウワサも怪しい気がした。全くのウソだったなんて信じられなかった。だけど、真相はどうだったのか、一読者として追いかけもしないまま、そのうち忘れてしまっていた。

 T・K生は池明観(チ・ミョングァン)氏だった。僕は宗教哲学者であるこの人の本も読んだけれど、そっちの内容はあんまり覚えていない。長い間、日本に亡命していた人だったはずだ。韓国の民主化グループからの報告を、池明観氏がレポートとしてまとめていたらしい。「世界」に連載されていたのは 1973年から'88年、実に15年に及ぶ。
 池明観氏は既に78歳。今はソウル在住だ。民主化の功績について一人脚光を浴びるのは嫌だったし、その民主化を闘った人が政権にいる間は、時の権力をほめることにも繋がりかねないと思って、明かさぬまま死ぬつもりだったとの由。この2月に、同氏の日本での恩人、隅谷三喜男氏を病院に見舞った時に発表を薦められたということだが、隅谷氏はその見舞いの1週間後に亡くなっている。当時の「世界」の編集長、安江良介氏(後の社長)は、編集長自らが書いていたとの批判を飲み込んだまま、何も語らず 1998年に他界した。

 僕が学生時代にむさぼり読んだ「T・K生」は実在した。しかし、一人の人間といったら間違いだろう。当時の韓国と日本で、韓国の民主化を望み闘った、多くの人の想いが作り上げた架空の闘士として、一人の活動家・思想家である池明観氏が「T・K生」を演じていた、と言った方がいいのかもしれない。とにかく久しぶりに「T・K生」の名を耳にし、目にした。こんなに月日が経っていたなんて。・・・ 驚いたニュースでした。


03年 8月 9日(土)   12歳の地図

 2本目。・・・ 先日、ニュースステーションの特集が、12歳の少年少女を取り上げていた。「12歳の心」とか、そんなタイトルだったような気がする。むかしむかし「十九歳の地図」なんて本があったよね。たしか中上健二だったんじゃないか。映画もあったな。僕は本は読んでなくて、映画は観たかもしれない。内容は詳しい記憶がない。今は19歳じゃない。世間の脚光を浴びるのは12歳だ。もちろん近頃の少年少女犯罪の影響ってわけだ。

 件のニュースステーションの特集はバカバカしかった。下らなかった。渋谷に遊びに来る都心の12歳の女の子。賢くて育ちも良くて出来そうだ。その子がちらっと紹介された後、取り上げられたのは3人の12歳。清里だったかの素晴らしい自然の中でホテルを経営する父親の下で育つ12歳の女の子。なんだっけ、吹奏楽かなんかやってたな。それから、どこの地方だったか忘れたけど、マウンテンバイクの日本選手権の少年の部で42戦41勝、早くも成人の部に挑戦し出して壁に当って奮闘している少年。もう一人は、沖縄の三味線(三線、サンシンだっけ?)の修行に励む少年(家元の家かなんかに生まれた子だったかな)。3人とも生き生きしてました。目的や目標や希望に向かって一所懸命。清里の子は、番組の企画だろうけど、友達二人と何時間かかけて渋谷まで(初めて)遊びに来るなんて企画にも登場してました。「かわいい、かわいい」と言いながら、女の子が欲しそうな服とかを買う、当り前の光景です。

 おいおいニュースステーションのプロデューサー氏よ、ディレクター氏よ、登場した3人は今の日本の12歳とどう関係してるんだい? みんなハツラツとしていて適当に素直で多少(ほんの少し)は年頃でひねていて(ひねてるところはほとんど見えなかったけど)、何が凄いって目的みつけて生き生きしていて、あんな子たちやあんな親とかの環境って、日本国中探してどれだけあるんだっての!? ああいう環境でああいうふうに育つ子なんて、そうそういないんだって。それでいて、ああいう環境であんなふうに育っていく子は、30年前だっていたんだって。今同様に比率は少なくともね。いつの時代もいたんだよ、ああいう子は。えらい子たちだけど、最近の(えらい)子でも何でもないよ。

 今起きてる問題は全然違うだろ。ちゅうっくらいの適当な豊かさなり、あるいはごく普通の借金なりローンなりがあって(おんなじか、笑)、まぁそんなサラリーマンか自営業か、どこにでもありそうな環境で見たところまぁまぁいい子、勉強も普通以上に出来たりする、あるいはかなーり出来たりする。そういう子は昔は少年犯罪しなかったんだよ。良くも悪くも「いい子」で勉強出来りゃ、なんか世の中いいことがあるような幻想が昔はあったのさ。今はなーんにも見えない。あるいはなーんでも見える。先が見えるような気がする。・・・ニュースステーションが特集した、ああいう環境で育った、ああいう子たちは犯罪なんて犯さないって。違うんだって。なんにもわかってないよ、あんたたち。12歳あたりの少年少女が犯罪犯したり巻き込まれたりするんで、明るく生き生き育ってる少年少女を(いや、あの子たちはいいと思いますがね)適当にみつけてきて適当に特集作ったんだろ。ほんとうにお粗末な特集だったぜ。久米宏も何か気づいたらしく、次のコーナーへの移り際に何か皮肉言ってたような気がしたけどな。ま、とにかくバカバカしい特集だったな。バカらしくて、本当に呆れましたね。特集するんなら、ちゃんとやってくれっての。


03年 8月10日(日)   もしも

 ピンク・フロイドの ATOM HEART MOTHER 「原子心母」の中の IF を訳しました。子供の頃LPで持っていたこのアルバム(買ったのは僕の兄貴だったと思うけど)、そのA面のアルバム・タイトル曲(何しろ壮大な組曲です)がやたらと有名だけど、実はB面も佳曲ぞろい。曲調からは意外だけど(一風変わった朝食の風景みたいなものも録音されている)、B面もA面とセットになってコンセプト・アルバムって感じかな。・・・くどいですが曲調は全然違います、AとBでは。もっともCD時代になるとAとかBとか関係なくなっちゃってるんだよなぁ。

 ピンク・フロイドは THE DARK SIDE OF THE MOON 、WISH YOU WERE HERE 、ANIMALS と、どんどん饒舌になっていって、THE WALL につながっていくんだけど、その時代もいいけど、ATOM HEART MOTHER とか MEDDLE とかの方が感覚的感性的ではあったな。この時代のフロイド、いいです。ATOM HEART MOTHER は 1970年。あっしは小4ですね。ははは。

 僕は正気ですが、「もしも」を訳しました。むかしっから、この詩、好きだった。


03年 8月17日(日)   盆に田舎に帰る

 盆の里帰りをしていました。方向の違う妻とあっしの両実家を一筆書き(?)して廻る強行日程であります。

 まずは妻の実家。もう十数年来体調がすぐれない母と父が待っていました。今年のお盆は子らの家族、孫達もみんな一緒になり、賑やかになりました。必ず仏壇に線香をあげます。お願いします。昼間はみんなで墓参りに行きました。線香をあげて、仏壇と同じように、手を合わせて家族親族の健康長寿幸福をお願いしました。あっしもお墓の中の祖母には生前に病院にお見舞いしたことがあります。もう17年も前です。職場で出会った妻とあっしですが、母と祖母の具合がわるくなり、妻は職場を辞めて田舎に帰りました。祖母はそれから1年余りで亡くなり、結局2年間離れ離れになっていた妻とあっしは(と言ってもクルマぶっ飛ばしたり電車ぶっ飛ばしたり?で何とかしばしば行き来しておりましたが)、東京タワーの近くで、今で言う人前(って言うんだっけ?)の式をして結婚いたしやした。15年前です。その後数年して横浜から某県(?)に引っ越して以来、妻の実家にわりと近いところに住んでおります、ジャンジャン(?)。調子はよくはないようですが、孫の顔を見て、母も気持ちが明るくなったようでした。母も父も口数の多い人ではありませんが、お盆の時期を穏やかな笑顔で過ごせたと思います。
 次はあっしの実家の方。スーパー何やらやら新幹線やらローカル線やらを乗り継いで、息子の好きな電車の旅です。あっしの田舎では予定されていた花火大会が雨であいにく順延となってしまったのは残念でした。しかし、同じ時期に里帰りした兄貴がバーベキューの道具を用意してきていて、雨の中、実家の駐車場でバーベキューをやり、楽しい時間を過ごしました。雨の中どうかと思いましたが、強行した兄貴に感謝です。いや、実際楽しいもんでありました。今回はずっと雨。雨の中を墓参りしました。一昨年亡くなった祖母の三回忌にあっしらは息子とあっしの風邪で行けなかったので、今回の最重要な用件です。雨が激しく線香はあげられませんでしたが、手を合わせて家族親族の健康長寿幸福をお願いしました。家の仏壇ではいつも通り線香をあげました。同じようにお願いしました。お願いしていいところにはとにかくお願いさせていただくのであります。あっしの母は難病ありますが、薬を飲んで元気にしております。近頃は絵手紙など習い事も盛んにしております。前向きです。父は歌が上手いです。昔々はのど自慢荒らしで鳴らしました。最近もたまにステージ(!)があるようです。兄貴もギタリスト、コンポーザー兼アレンジャー(これはやりたい順で仕事は反対の順に多いようです)で生業まで音楽です。いいですねぇ。あっしも音楽好きですが、あいにく生業にするには程遠い才能であります(月と地球ぐらい才能が隔たっています)。あっしの息子は、あっしら弟兄(あっしら兄弟のことです)の都合が合って兄貴の3人の息子達と会えるのを楽しみにしております。兄貴の長男は中2ですが、もう自分の父親や叔父(あっし)よりも背が高いです。あっしらが小さいですが、甥も大きいのであります。大人は老けるばかりですが、数ヶ月で変ったりもしません。子供は大きくなるのが速いです。息子は一人息子なので、大人になっても従兄弟達と連絡したり相談し合ったりする関係でいてほしいと思っております。電車を飛ばしたり(?)クルマを飛ばしたりすれば会うことも出来ます。っつーわけで(?)息子は久しぶりに会った従兄弟達と離れ難く、従兄弟達の離郷(離・親の故郷)予定に合わせ、1日両親と離れて残りました。夏休みだから出来る、思い出の1日です。途中まで妻が迎えに行き、無事帰って参りました。あっしは万一の場合の中継連絡係としてしばし留守番をいたしやした。
 そんな盆の里帰りでありやした。両家両親とも昭和一桁。身体の具合も心配です。未だ未だ親孝行せねばなりませんです。というか、これからもっと親孝行せねばならんです。両家共にこれまで以上に顔を見せるようにしたいものであります。あっしの方から心配かけてしまうなんて、もってのほかでありました。しっかりせねばなりませんが、ま、ぼちぼちです。田舎ではアルコール入ったせいか寝付きはまぁまぁでしたが、やっぱり夜中に眼が覚めます。冴えます。そこからが特に浅くなります。後に残る夢を見ます。夢を見るとますます眠りが浅いです。妻の実家ではヤクを飲み忘れて眼を閉じてる時間もえらく短くなりました。とほほ。ま、ぼちぼちでんな。大阪弁(?)のぼちぼちとは意味が違いますがな。


03年 8月18日(月)   私はここにいる

 ピンク・フロイドの WISH YOU WERE HERE を訳して、「う た」 のサイトに加えました。作詞はロジャー・ウォータース。この時期のフロイドは大抵ロジャーの作詞かな(実は最初はっきりしないのでわからんと書いて一旦アップしたのですが、よく確かめたらやっぱロジャーでした)。先日訳した IF でもロジャーの名を載せましたが、あの ATOM HEART MOTHER 辺りの時期はけっこう他のメンバーも、曲だけでなく詩(詞)もやっているようです。後期になるとほとんどロジャーじゃないかな。

 WISH YOU WERE HERE は、驚異的なセールスを記録した THE DARK SIDE OF THE MOON (邦題は「狂気」、この邦題は一応そのものズバリでした、「月の裏側」の方がずっと知的な表現だけどさ)に続くアルバムとしてフロイドが2年半ぶり(ぐらい?)に発表した、1975年の WISH YOU WERE HERE の中に入っています。このアルバムは当時邦題が「炎」となっていてオイオイって感じでしたが、「あなたがここにいてほしい」という副題も付いていました。これはフロイド側が WISH YOU WERE HERE という曲のみ邦題を指定してきた、その邦題です(彼ら日本語知らんから誰に相談したんでしょうかね)。

 私(か兄貴?)は(私が)中3の時にこのアルバムを買ったんですが、前作と比べて荒削りな音に微妙な違和感を持った憶えがあります。ただ、このアルバム・タイトル曲の WISH YOU WERE HERE については、美しい曲だと思いました。フロイド初期の重要なメンバー(おそらくはリーダー的存在だった?)シド・バレットに向かって書かれたのは間違いないでしょうが、同時に不特定多数のリスナーにも向けたメッセージが含まれているかもしれません。

 シドは狂人になってしまったってことで有名です。廃人になったなんて話もいろんなところに書かれていました。実際はどうなってしまったんだろう。そもそも今も生きてるのかどうかさえ、私は知らないです(どこかのサイトでも見れば書いてあるのかもしれませんが)。しばらく前にCD屋さんでシド・バレットのアルバム、というか彼の曲を集めたアルバムを見て、うーん、この人は今どうなっているんだろう? とっくの昔に死んでしまっているのか? それとも今も生きているが精神的に「他界した」状態のままなのか、いやけっこう普通(って何だ?)の人になってるのか?? ・・・ なんぞと少しの間、想いを巡らせたものでした。

 アルバム WISH YOU WERE HERE の最初と最後を飾るのは SHINE ON YOU CRAZY DIAMOND って曲の前半と後半のパートで、この曲もシド・バレットに捧げられていて、こっちはもう完全にシドのみに向けて書かれた曲だと思います(まぁプロなんだから一般リスナーを全く意識してないはずはないけど)。邦題は「狂ったダイヤモンド」となっていて、これは何だかオソロシイ。私なんかダイヤモンドじゃないから、「狂った転石」とでも自称しましょうか、なんてのは軽口ですな。SHINE ON YOU CRAZY ROLLING STONE ・・・ やめとこ。ちゃんとした転がり方していないし。ん、ちゃんと転がるって何だ? 転がってればとにかく転石でんがな。
 私の中3時代、朝の始業前だったか、昼休みだったか、清掃時だったか、あるいは下校時だったか、時間帯はよく憶えていませんが、 SHINE ON YOU CRAZY DIAMOND が校舎・校庭で流れていた時がありました。たしか放送委員か何かだった友人がかけていたんだと思うけど。田舎の中学校の木造校舎の時代です。自分達の学年が入らない新築コンクリ校舎の工事が始まっていたかもしれません。校舎から出て校庭の外に向かう坂をどっちに向かってか、とにかくその辺りを歩いていた時に流れていた記憶があります。身体は校舎側に向かっていたような気がするな(そんなことあんまし関係ないか、笑)。おかしなことを憶えているものです。最近よく子供の頃のことなんかも思い出すのですが、うーん、いけませんかね。・・・ ま、大丈夫でしょう。

 近頃ますます夢を見ます。内容はいろいろですが、目覚めた時に記憶に残っているタイプの夢です。これを見るといけません。何がいけませんって眠りが浅いのです。困ったものですが、しかし、ここにいる限り何とかなるでしょう。私はここにいますから。

 私はここにいます。私はずっとここにいますが、フロイドの WISH YOU WERE HERE を訳してみました。フロイドが指定したという「あなたがここにいてほしい」というタイトルは勝手に「ここに君がいてほしい」にしてしまいました。中身も勝手な自己流だし、商売じゃないんだから勝手でいいよねぇ。「ここに君がいてほしい」っつーわけで、私はここにいます。あっちにはいきません。ここにいます。大丈夫だっ。