03年 1月26日〜2月 8日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

03年 1月26日(日)   ハイファに還って

 昨夜の BS で、イスラエルの地中海に面した都市ハイファで開かれたユダヤ人とアラブ人の合同芸術祭についてのドキュメンタリー番組をやっていた。ハイファはイスラエルの中では珍しく、現在市長も率先して両民族の共存を訴えている都市だという紹介だった(そんなハイファにあってさえ、昨年はパレスチナ人による自爆テロ事件が起きているけれど)。
 イスラエル在住でイスラエル国籍を持つアラブ人の存在は複雑で、民族的には所謂パレスチナ人と同じだが、一言で言えば、難民とならずイスラエル国土となったパレスチナの土地に残ったアラブ人ということだろうか。ハイファではおそらく比較的人口比率が高く、ハイファの人口の2割をアラブ人が占めるという説明が番組であった。しかしここは説明不足であって、イスラエル建国前はどうだったのか、さらにはシオニズム運動が盛んになる前はどうだったのか、その辺の詳しい説明があって然るべきではないかと思う。また、あるユダヤ人芸術家を紹介する際、1930年代に建国前のイスラエルで生まれたという表現をしていたが、これもおかしい。建国前はまさしく建国前であって、そこにはイスラエルという国は存在しない。2000年前に溯れば話は別だろうが、1930年代であれば、イギリスの委任統治領だったパレスチナと表現すべきだろう。そういうわけで、ナレーションにはいくつか不満が残る番組だった。

 ハイファの試みは貴重だ。合同芸術祭に出品された作品には、難民となったパレスチナ人の心情を訴えるアラブ人の作品があれば、パレスチナ人(アラブ人)とイスラエル人(もしくはユダヤ人)の対立が絶望的に深まっていくことを象徴して表現するユダヤ人の作品もある。そして、両者の対話も生まれている。その中でもなお議論の中に対立は生まれるが、それでも共存を目指そうとする意思が共有されているという印象だった。

 番組の中で地中海を臨むハイファの街並みが映し出されると、自分がその都市を20年前に訪れたことを懐かしく思い出した。ただ、ハイファにいたのは2日程度で、あまり細かいことは憶えていない。アラブ人労働者が専用と思われる汚いバス(街にはもっときれいなバスが走っていた)で、どこかから帰って来たのを見たこと、それと、市内の公園で(おそらくは)孫を連れてきたユダヤ人の年老いた男性を眺めているうちに、こちらが自分勝手に、風貌からしてヨーロッパからの移民に違いない彼が苦難の時代を過ごして今は(矛盾に満ちた母国の中で)彼として幸せをかみしめているというストーリーを想像し、写真を撮らせてほしいと言って断わられたこと、そんなことが、いささか苦い想い出として思い出される。そして、地中海を臨む街並みが何故か郷愁と共に。

 今日はここまで。何とか番組を観て、何とか感想を書いてみたけど、今日はこのくらいで。
 (パレスチナ人の作家ガッサン・カナファーニの作品に「ハイファに還って」というのがあったと思う。当の作家は確かイスラエルによって暗殺されたんじゃなかっただろうか。何かで読んだ気がするが、今はっきりした記憶はない。作品自体は私は読んでいないが、昔を思い出し、日記のタイトルに借用した。)


03年 2月 1日(土)   不可能な自己否定に向かう心と付き合うこと

 朝起きると頭が重いことが多い(毎日?)。今の状況になってから、それっていつからだ、何段階かに分かれるじゃん(たぶん大きく言って3段階です)、えーつまり一番直近の状況になってから、当初は疲れてわりと眠れていたんだけど(夜中に目が覚めるが疲れが先に来てしばらくして眠る、まぁ夢の残像が残ってばかりで熟睡してませんが)、この頃はちょっと違う。前とはタイプが違う不眠、全面的に眠りが浅い感じ。実際には心身が疲れるから眠りたいのだが、浅いところで夢ばかり見てしまう。朝起きると結局頭が重い。朝本当に起きなきゃいけなくなって、しかし眠りたい、しかしもう気持ちが寝てられない(もちろん出勤日は気持ちだけじゃなくて、起きるしかないよねぇ)。一時は土日はすっげ疲れがたまって比較的眠れたのに、今は土日も同じだな。ん、こんなこと書くとますます眠れなくなるか、止めとこ(もはや遅いか)。

 団塊の世代の学生運動で「自己否定」って言葉が流行った(あっしはその頃小学生)。あれ、出来っこないと思う。稀有の人を除けば、出来っこありません。当時は本人だって本当は出来ないくせに、他人にも求めたりする。生きながらにして自己否定なんて出来っこないから、出来ない。果ては内ゲバで殺してしまう。そうです、死ねば否定出来ます。存在を無にするという意味では否定だ、そういう意味だけど。自己否定して同時に生きてるなんて、そんなん普通の人間には出来ませんよ。あっしは、もちろん、普通の人間です。普通って何?

 自己否定したくなる。しかし生きようとは思う。こいつの両立はたまりません。否定したくなる自己と向き合って毎日を生きるのは苦痛です。向き合うのを止めるのが「逃げ」に思えれば、しかし、こうやって向き合えば苦しまざるを得なくて前向きにならない、それを承知で向き合うこと自体「逃げ」のような気もする。しかし逃げたくて向き合っているのではない。向き合うことから逃れられなくて向き合っている。だけど逃れられないと感じることから逃れることは力の要る作業で、その力の要る作業から逃げているってことだろうか。ほっときゃ忘れることに意識して向き合ってるわけじゃないからなぁ、向き合うのを止めようとして、ほっとけば向き合ってしまうその気持ちを無理矢理抑えれば、それだけで爆発寸前のストレスになりそうだ。っていうわけで、結局どうやって、否定したくなる自分と向き合ってしまう、その気持ちの動きと付き合うのか、ということだろうか。はは、わけわからんぜ。

 10歳の息子が、ついこのあいだ、「何かをやる時は最後までがんばる。」と自分で書いた紙を持ち帰った。学校であった1/2成人式という行事の機会に「抱負」を書くように指導されたらしい。まさか父親を反面教師にして書いたんじゃないだろうななんてふと思ったが、そうじゃないことは確かなようだ(反面教師でも息子に役立てばマシか、笑?)。がんばろう。父ちゃんと母ちゃんはお前を応援する。

 自分が最後までがんばるものは何だろう? 必ずしも職業だと規定しなくてもいいよな。志? どんなだ。何を最後までがんばる。最後までがんばったことがあるのか。最後って何だ。大事なことは何を最後までがんばるのかってこと? 何をって大言出来るほどのものでなくたって、とにかくやめないこと。やめないって何を? 職業か。いや、はっきりさせたいことは、やめなきゃいいってもんじゃないよな、もちろん。でもふらっとやめるよりマシかい。いや、やめるもやめないも、何にいかに取り組むかってことが大事なんだろうから、やめるやめないって現象だけ取り上げても意味ないです。問題は自分自身。自分は自分の心の動きや志向は認める。肯定する。しかし実際にしたことは愚かだった。これから、最後までがんばるのは何? やめないことは何? 決めたこと。何を決めた。何か決めたのかい。決めるものがあるのか。何言ってんでしょうかねぇ。40過ぎてこんなわけのわからんこと言ってていいのか。

 とにかく、自分を否定したいんだよな。生きながらにして否定出来たら楽だね。でもそんなことは出来ないんだ。自己否定に向かいがちな気持ちと付き合いつつ生きる。その気持ち自体は認める。肯定する。というか、受け入れる(これが至難なのです)。そのうち、心の中の風向きを変えられるだろうか。やっぱりどっかで光は見出したいからね。

 I shall be released ? ( I wish to see my light come shining ...)


03年 2月 1日(土)   善人なおもて往々を遂ぐ、いわんや悪人をや。

 善人なおもて往々を遂ぐ、いわんや悪人をや。

 親鸞が「歎異抄」の中でそう言っている。自分の理解では、面白いことに、キリストも同じ思想の持ち主だ。この言葉はおそらく、洋の東西を問わず、時代を問わず、人間の本質を突いている。

 自己否定したくなる自分がいる。悪というと言葉はきついが、自己否定とは、要するに超ド級のマイナス評価だ。まぁ良し悪しを善悪に置き換えて、自分は自分のことを悪人だって思うくらいなんですがね。苦痛です。苦しいですが、まぁ苦しいと思うのも、生きている証拠でしょう(当り前か)。最近友人にメール打ってて、上の言葉をふいに思い出した。
 親鸞が言ってるのは、確か狭い意味での、文字通り悪人のことだったと思う。悪人正機説って言うんだっけ? ただ、自分は門外だけど、おそらく親鸞の言いたいことは、人間の弱さ、失敗した人間、人間の苦痛や苦悩、そういうものにまで敷衍できるんじゃないかと思う。そこに、キリストの人間に対する眼差しに共通するものがある。と言っても、あっしはキリスト教も実は詳しくはないんですがね。

 俺はとにかく門外漢だからなぁ。けっこう門外漢は頓珍漢だったりして。ま、いいや。明日から月2回、久しぶりにゴスペルを始める。ゴスペルってグッド・ニューズって意味らしい。ゴスペルはキリスト教のオリジナルだから、その前に神からの、って修飾が付くわけで、福音てことになるんだろうけど。俺は何も信仰に生きようとしてるんじゃないけど、何らかの絶対的な力は信じたい。信じるっていうより、信じたいってニュアンスかな。グッド・ニューズというのはいい響きの言葉です。とにかく、生きましょう。


03年 2月 1日(土)   ラディカルな思想 − イスラエル兵の兵役拒否 −

 先日、パレスチナ問題の解決を側面から支援する日本の NPO の会員になった。ホームページで知ったんだけど、最近、その NPO の事務局長が翻訳をして、「イスラエル兵役拒否者からの手紙」という本が出版された。編者はペレツ・ギドロンという人で、イエシュ・グブウル( Yesh-Gvul 、イスラエルの兵役拒否者のグループ)の創設メンバーの一人。本はさっそく書店で注文したけど、今の自分の心身の状態ではほんの少しずつ読んでいくってとこかな。それはさておき・・・。

 イエシュ・グブウルのホームページには、彼らの明確な意思を示す宣言が載せられている。
【 以下、この黒括弧内は 2016年9月3日 加筆 → 当時ホームページへのリンクを貼っておいたのだが、どういう経緯か不明だがなんと別団体のものらしい Website に変わってしまっていた。驚いたがとにかく経緯詳細不明。ただし幸い彼らの Facebook をみつけたので、代わりにそのリンクを ここに貼っておく。】


男性兵士、女性兵士を含む、イスラエル防衛軍の兵士である我々は、ここに宣言する。
我々は、占領地において継続されているパレスチナ人に対する抑圧に加担しない。
同じく警察活動や(イスラエル人)入植地の警護活動にも参加しない。


 イエシュ・グブウルとは「限界がある」という意味のヘブライ語で、「もう我慢できない」という意味と共に、領土的にも限界があるという主張が込められているとのこと。イスラエルに複数ある兵役拒否者団体の一つで、母国の戦争による領土拡大に反対し、占領地からの撤退やイスラエル社会の軍事主義的な側面の緩和を主張している団体だ。創設されたのは 1982年のレバノン戦争の最中というから、意外に(?)歴史が長い。メンバーの多くは絶対的な平和主義者というわけではなく、兵役につくこと自体を拒否しているわけではないということだが、占領地内の軍務につかない、パレスチナ人抑圧には加担しない、命令があれば軍事刑務所に投獄されることと引き換えにしてでも拒否する、という極めて具体的な主張をしている。

 イスラエル国内の兵役拒否の運動にはさまざまな流れや考え方、拒否の度合いの違いが存在するようだが、いずれにしても、ついこの間の選挙でもシャロンのリクードが大勝してしまうイスラエルにあって、この運動を続けるのは並大抵のことではないと思う。平和な国の平和運動(も否定しないけれど)とはわけが違う、この思想のラディカルさ(イスラエルの兵役拒否 イスラエルの兵役拒否にみられるラディカルさ)について再考してみたい気もするけど、今は熟考するパワーなし。機会があったらまた考えます。


03年 2月 2日(日)   reap, harvest

 reap にも harvest にも収穫するっつー意味があるようですが、英語上の明確な意味の違いはあるんでしょうかね。あっしの英語力ではわからんのですが。

 辞書を引くと reap は動詞で、harvest には名詞と動詞がありますが、あっしの手持ちの辞書では、reap と harvest (後者は名詞の方)には、似てるようで違うような(?)、比喩の用法が出ています。

 reap what one has sown
 reap the fruits of one's actions

 共に「自分でまいた種を刈る」「自分の行動の償いをする」というわけで、ご丁寧に辞書には「自業自得」という四文字熟語まで書いてくれてあります。 reap as one has sown「自分のまいた種を刈り取る」「因果応報」なんて用例まで出ていて、こっちの四文字にはもっときつい響きがあって、勘弁してほしいです。

 いいものが報いられる例も出ていますから reap が必ずしも悪い結果を「刈り取る」という比喩ばかりでもなさそうですが、たまたまかどうか、harvest の方には良い例しか出ていません。

 The research yielded a rich harvest.

 訳は「その研究は豊かな収穫をもたらした。」となっています。つまり、研究があったからこそ、豊かな収穫があったんですね。実の成る種をまかなければ、良い収穫は得られない。すみません、当り前でしたね。

 harvest moon なんて美しい言葉もあるし、Neil Young さんの名作のタイトルもあるし(笑)、やっぱ人生の収穫って言えば harvest を使った方が良さそうです。

 あっしは昨春までの5年間ほど、とにもかくにも別のことをしようと思い、そのうち自分の日々の環境を変えなければ手掛かりも何もない、なーどと想いを強め、後半の方は、はっきりしてるのは、このままじゃ人生の harvest は得られない、とにかく変えることだぁーと勢いを増し、しかし修行の足りない中年親父には機会もなく、最後にふっとみつけた機会をつかんで動きました。
 想いは真面目でした。いや、自分はとにかくやたらと考えるタチでして、なんかね、真剣でしたね。まぁそういうわけで今もやたらと真剣ではありまして、これはもう生まれながらの性格なので変わりません。こいつばかりは、無理に変えようとしたら他の部分もおかしくなってしまいそうでして。

 真剣だったのですが、それだけだったんですね。何か実の成る種をまきましたかって言われれば、困りますね。もちろん種をまかなきゃ始まらんことは理解してます。あっしがやろうとしたことは、とにかく畑を変える、それから実の成る種をまいて肥料をやって育てる。で、あっしは失敗しました。いろいろ釈明は出来るのですが、釈明してても自分が苦しくなるだけですね。
 今は、reap what I have sown ってとこでしょうか。確かに自分が決めたことです。実が成るかどうか事実上度外視していて(そういう意識ではなかったんですが)自分でまいてしまった種、ではあります。「自業自得」ですか。

 harvest は自分の人生にほしいですが、ほしいほしいと言っていても誰かくれるわけじゃないですね。ただ、今は reap what I have sown の reap の作業が、あっしにはあまりに重労働でして、心身をやむなく酷使しております(心のせいで身もそうなっておりまして)。harvest は遠い話です。今を何とか凌ぎませんと。いつまでかかるかも想像つきませんが。
 harvest は遠い話ですが、しかし、自分の人生の中で愛する家族を持ったことは、ある意味、重要な harvest の一つと言うべきでしょう。そのこと自体は、あっしにとってあまりに重要なことです。そのためにも、自分のためにも、凌いで生きなければなりません。

 とにかく、自分を否定したいんだよな。生きながらにして否定出来たら楽だね。でもそんなことは出来ないんだ。自己否定に向かいがちな気持ちと付き合いつつ生きる。その気持ち自体は認める。肯定する。というか、受け入れる(これが至難なのです)。そのうち、心の中の風向きを変えられるだろうか。やっぱりどっかで光は見出したいからね( I wish to see my light come shining ...)

 I shall be released .  という気持ちをどっかに持ってないといけませんな。 


03年 2月 2日(日)   ゴスペル再開

 本日、ゴスペル再開しました。今日始まったゴスペルのワークショップに夫婦で参加、これからしばらく月2回。一昨年、昨年の GW に参加して、その後のクリスマスに向けたワークショップには参加しなかったから、我々夫婦はこれで3回目。
 今日は新曲1曲( Put All Your Trust in Jesus )。自分のテノールのパートは一部音採りが(自分には)難しい。だけどやっぱり、ゴスペルを歌うのは気持ちいいね。

 ゴスペルの意味はグッド・ニューズ。グッド・ニューズに向かっていきたいもんではあります。


03年 2月 3日(月)   鬼はそと、福はうち

 本日は節分。親子3人でやりました。

 鬼はそと、福はうち。

 息子が幼稚園の時に作った鬼のお面を被り、私、息子、妻と交替で鬼役をして、元気に節分をやりました。
 鬼はそと、福はうち。


03年 2月 8日(土)   このまま耐えられるのか、想像出来ないがいつか好転するのか出来るのか

 いやはや辛い。毎日辛いけど、日によって辛さに違いがある、幅がある。「かなり辛い」から「めちゃくちゃ陰鬱でもうギリギリ」まで。これも幅って言うのかね。
 1日のなかでも心の(悪いなりの)多少の変化があるんだけど、日による違いの方がより感じる。

 とにかく気持ちが入っていけない。仕事はやってるけど、覇気が出てこない。考えをはっきり言う人間だった自分が、意見を言う気にならない。ならないのか、なれないのか、いやその両方だ。どっちの感情が大きいのか自分でもわからないけれど、とにかく両方だ。手を付けた仕事は何とかする、それなりにきちっとやってはいると思う、今のところ何とか(本当か、本当とも言えないぜ)。しかし心が動かない。というか虚弱な拒否反応だろうか。心に重力を感じない。浮遊している。居るけど居ない状態。自覚的には透明人間。人の眼を意識するのでなく(実は正直言って時々けっこう意識する、というか自分に向かっていて他人を意識する余裕が無い時と自分に向かうことが揺らいでほんの少し自分から心が離れて今度は他人の中の自分の存在をモーレツに意識してしまう時とがあって…)、そういう浮遊した精神状態で大勢の人間の中に居るのがたまらなくなる。ふっと消えたくなるけれども、消えることも出来ない。瞬間移動とか出来ませんかねぇ。消えたくなったらワープ出来るといいんだが。

 たまにほんの少しプラス側の兆しを心に感じるときがあるんだけど、これが正真正銘のほんの少しで、正真正銘のたまーの話なんだな。どうにもこうにも心が閉じていってしまう。もはや人に対してもそうなってるんだろうが、ものごと全般に対してそうだ、開いていけない。
 何とかなるのかなぁ。という言い方が甘くて、何とかするのだ、と言いたいところだが、そう言ったら心の中の本当の状態と相当にギャップがある。結局、自分のこの間の経緯、過去、過去に関わった物事、人間関係、それらの過去と今のギャップ、今の地点に至ったことによる新しい関係性、義理、恩義、過去に抱いた気持ち、その気持ちの過去と今、何もかもねじれていて、心の中で混沌としている。全く整理がつかない。いや、誰だって心の中なんて乱雑なんだろうけど、ちょっと程度がね。まぁ混乱したり、ぐちゃぐちゃなまま沈澱したり、かと思うと竜巻のようにぐるぐる廻ってネガティブに沸騰しかかったり、まぁ制御不能です。いやちゃんと生きてるんだから完全に不能ではなくて、境界線に近づいたり少し離れたりしながら抑制しているんだろうけどなぁ。

 今思ったりすることは、過去にそう思っていたら効果的に働いたに違いないものだったりして、しかし今となっては現実的でなかったりする。このまま何とか耐える、もしくは少しでも好転させていくためには、自分の存在の意味を自分で納得出来るようにしなくてはいけなくて、それは過去よりもずっとその必要性もしくは不可欠性みたいなものが強くて、しかしそうなろうとすればするほど本当の自分の気持ちや心の動きと乖離していく気がする。ああ何とも自分を追い詰めちゃったなぁ。こんなややこしい心の動きをする人間じゃなければ、そもそも辞めなかったな。そんな人間だったからこそ辞めてしまったのに、そんなヤツが同じ場所でどうやって生きていける。何もかも考えて考え抜いてとにかく耐える、って決めたつもりだったんだけどな。耐えるっていう決め方がいけねーのか。何てったって、もう現実的に身動き出来なくなるだろうから、それで自然と気持ちが落ち着いていくんじゃないかなんて思ったもんね。両手を縛ってしまえば、そのうち口だけで落ち着いてモノ食えるようになるかい。まぁ限定された心理的条件のなかでも何とか自分らしさは出せる、表現の方法はある、とかいろいろ考えたりもしたんだけどなぁ。そもそも気持ちがうまく動いてくれないんだよな。

 過去の時期にもっと心理的に距離を置いていればよかった、ある程度の割り切りが出来ればよかったと思うんだけど、そうすればけっこうイケてたかもしれないのに、今はそれ、難しいんだな。心の中ははっきり距離があって、その距離感とそれほど大きなギャップなく生きられればいいのに、過去を通って今に至った自分には難しいんだな。本当の心の風向きと、心理的に負担を感じながらそうあろうとする(しかし出来ない)心持ちとの間に大きな乖離がある。自分の居る意味がないと苦しいと思う。しかし、自分の心は動かないから、意味が作れない。本当のところは、居る意味などなく過ごしたい。というか、意味なんてちょっとあればいいんだ。ドライでいたいんです。本当の心はドライを欲しているんです。いろいろ経緯があってね、本当はドライで居たいのに、一方でドライで居ようとする気持ちが居心地を悪くさせる、ところがやっぱり逆に経緯を辿るとね、ドライでない変にポジティブな自分ってのも、居心地悪いんだ。居心地悪いってのはずいぶん穏便な言い方で、実際は普通で居られない、ていうか、居るのが辛いんだよな。とにかく心理的には背負ってしまった気がして、自由にものを考えれない気がしてしまう。このまま居るとして、どうやって解決する。人生に便利な解決法なんてないだろうけど、こいつは解決の糸口でもみつけないと危ないのであります。みつけないのなら、とにかく耐えるってことだろうけど、そうは言ってもなぁ。耐えられなくなっても、オルタナティブな環境に心が動くこと自体にも最早大きな心の負担があって、どうにもこうにも出口がないよ。全く俺はバカヤローだ。

 どんどん後退している。実際には昨春から突然人生が動いてしまったとは言えない。何年も前から出て行きたい気持ちだけは持ち続け、何か具体的な目的をみつけられないままに最後まで気持ちを切り換えられず、最後は苦し紛れになって止らなくなった。そこからずっと人生が後退している。最早戻っても動いてしまった世界には戻れない。もちろん、戻れない。出るのも後退なら戻るのも後退。決めて動くたびに後退している。新たな後退を続けている。精神のフリーハンドをどんどん失っている。周囲に壁が立ち上がって、徐々に、もしくはどんどん迫ってくる。閉所になる。壁も厚くなる。出口がみつからない。出口が狭くなる。退路も崩れていく。精神の行き場がなくなっていく。出口をみつけられない。人生が後退している。撤退も至難だ。わけがわからない。どこかで反転できるのか。出来ないのなら、少なくとも後退してきた歩を止めて留まることができるのか。後退よりはマシか。しかし後退を重ねた地点で留まって耐えていられるのか。そもそも遥かに後退を重ねた地点で、それ以上の後退だけは何とか堰き止めて、どうにかそこに踏ん張っているということ、そんなことにどれだけの意味があるのか。それでも更なる後退よりはマシなのか。いつか前進できるのか。向きは定まるのか。向きを定めて進むことができるのか。自分を自分たらしめる精神を保ったまま、しかし後退している精神をどこかで反転できるのか。好転できるのか。わけがわからない。

 下らん日記書いてどうするってか。何か書いてないと落ち着かない。書くことは、頭にあること、心にあることをアウトプットする作業なのです。それで頭から、心から、無くなるってわけじゃないけど、それでもほんの少し乱雑さが緩和されるのさ。どのくらいほんの少しかって言うと、角砂糖一個分くらいの程度です。こんな日記やめてしまえ。いや止められない。ここに続けないと気がすまない。何でだ。わからない。止めたら終わりだ。続けてどうなるのか。わからない。現実が語っていくだけだ。


03年 2月 8日(土)   ゴスペルを歌うこと、クリスチャンでない者がゴスペルを歌うこと、もしくは今の私がゴスペルを歌うこと

 一昨年、近隣のキリスト教会で初めて開催されたブラック・ゴスペル・ワークショップに参加した。昨年も続けて参加した(ブラック・ゴスペル・ワークショップ)。そして新たに考えるところがあった。一度突き詰めて考えてみた(クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か?)。その後は様子見、気持ちにまかせることにした。しかし、それと関係なく、昨年後半の、クリスマスに向けたワークショップには参加しなかった。たまたま自分には日程の都合も良くなかったが、そもそも参加したいという元気が湧かなかった。そして、先週から月2回の日程で始まった、4回目のワークショップに参加し始めた。元気が湧いてきたからではない。逆に、昨年後半よりもさらに、というよりさらに極度に元気がなくなった。しかし、そこまできたら、反って何とか心身を開かせようとする。再び参加しようと思った。

 昨年考えたことを、今もう一度突き詰めようとは思っていない。今はそのパワーもない。ただ、ほんの少し思ったことを書き留める(結局長々と書いてしまうのだが)。

 先週出てみて、やはり出て良かったと思った。今の自分には JOY とまでは言えないだろうが、歌えば気持ちは少しでも上向きになる。なぜだろうか。理由はいろいろあるだろうが、ここでは一つの観点について書く。昨年考えたこととダブるかもしれない。今の自分の心の状態のなかで改めて確認した、という面もあるかもしれない。ただし、考えている(書いている)私の心の状態がだいぶ違う。

 ゴスペルには特有の力が秘められていると思う。ゴスペルにはネガティブな要素がない。私は人間の創造するものとして、ネガティブな要素(怒り、暴力性、憎悪、諦念などなど)のある音楽やアート一般を否定しないし、表現として優れたものも少なくないと思う(ただし今の私の精神状態には不向き)。ただ、ゴスペルにネガティブな要素は有り得ない。もちろん苦しみや悲しみが現実世界にあることを否定してはいないが(というよりもそうした苦悩があることを前提にしているのだと思うが)、時にはそのことを歌いこんだうえで、しかしそこから喜びのある世界に向かうことは可能なのだという信念がゴスペルの力強さを裏付けている。信念の力は強い。信念であるからこその強さは、当然ながら、その信念が強固であればあるほど増す。それが絶対的な信念であれば、ある種絶対的な力強さを持つことになる。信仰は絶対的な信念なのだ。ゴスペルの強さはそこにあるのではないかと私は感じている。
 信仰に拠って立つ神に対する賛美、そして今はもしも悲嘆にくれていても生きていく力を取り戻せるのだということへの確信(正確に言えばこれは神への賛美や信仰を通して、ということになるのだろうが)、こうしたことを歌いこみながら、この世界を生きていくことには辛さよりも喜びがあるのだという信念を表現すること。私がゴスペルを歌いながら感じ取ることはこのようなことだ。私の解釈がゴスペル解釈として正統的なものかどうかは定かでないが、ゴスペルが他の音楽と一線を画すのはこうした点だろうと私は思う。クリスチャンであれば神に対する賛美の歌だと言えばそれで十分(少なくとも言葉のうえでは)理解出来ることなのかもしれないが、クリスチャンでない私にとっては、そこから創り出される生きていくことの喜びや苦難からの回復への絶対的な確信や信念、人生に対する喝采のような感情などが強く印象づけられる。

 私は教会で行われているワークショップに参加しているが、推測だが、これがカルチャーセンター辺りでのワークショップでは、私に対してこれほどのゴスペルの強さを感じさせないかもしれない。もちろん、自宅で一人で歌っても妻と二人で歌っても、あるいは好きなゴスペルの CD を聴いても、私はゴスペル特有の力強さを感じるのだから、それが教会以外の場所ではなくなるということはないのだが、教会で歌うことはゴスペルのパワーを増強させる効果があるように感じている。それはなぜなのか。

 今の私はクワイアでゴスペルを歌う自分がクリスチャンではないという事実にさして「こだわり」を持っていないが、自分がゴスペルもしくはゴスペルを歌うことを通して力を得ているということを考える時には、そこを無視するわけにはいかない。私はクリスチャンではない。

 私の心の中を表現すれば、物理とか宇宙とかを考えると、この世界を制御する絶対的な力(もしくは物理的な原理のようなもの?)はあるはずだろうと感じ、また、そこからなのかどうかは別として、何か絶対的な存在(実存)の力を得て自分が苦悩から解放されたいという気持ちをふっと持つ時もある(まぁ特に今はめちゃ苦しいもんですから)。動機はさまざまでも、たぶん大抵の人はふっと何か絶対的な力を一瞬でも信じて何かを願う時ってのはあるよね。ちょっと話が逸れたけど、この世界を制御する原理に何か意思、もしくは意思のようなものがあると考えたら、それはもうかなり神への信仰に類するものになると思う。私はそれを信じないと言う気はしないのだが、しかし「信じている」とは言わないし、言えない。わからないものはわからない、といったところだろうか。あるいは、わからない以上は信じていない、と言ってもいいのだろうが、あまり積極的にそう言う気にはならない。信仰に向かっているからではなく、わからないものはわからないという一言で十分だと感じているからだ。

 話が本題からやや離れた。そんなクリスチャンでない私だが、にもかかわらず教会で歌うことで余計にゴスペルの力を感じる。というのは、やはり上に述べたゴスペル特有の力と関係している。というか共通の力が強さを相乗しているのだと思う。教会には当然絶対的な信仰がある。クワイアに参加している中にもクリスチャンがいる。ワークショップを主催しているのも教会だし、指導者はむろんクリスチャンである。そこでゴスペルを歌うことによって、生きることの喜びや苦悩からの回復が可能であるということに対する絶対的な信念や確信を、相乗効果を持って私が感じ取っているのだと思う。
 ゴスペルで歌われる確信や信仰者の持つべき信念には揺らぎがない。人間だからその確信や信念の持ち主には時に揺らぎがあるのかもしれないが、その考え方自体は原理的あるいは本来的に揺らぎを持たない。それは科学の法則などとは違うものであるにもかかわらず、しかし原理的に揺らがない。そこが他の政治思想などの社会科学と宗教的な信仰との違いだ。揺らぎのない確信には絶対的なパワーがあるのだ。

 人生から心配や不安の種を取り除くことは不可能だ。しかしどれだけ不安に思うか、ということは人間の問題だ。回復することが出来る、人生には喜びがある、そうしたことへの(神への賛美を通した)確信を歌という表現にしているのがゴスペルだと思う。私は信仰者とは言えないし、実際クリスチャンではない。たぶんこれからもそうなのではないかと何となく思っている。しかし、ゴスペルを歌う楽しみと喜びは続くと思う。そこから自分の心が生きていくことの喜びを信じていくことに向かおうとするし、実際ゴスペルを歌うことは心底楽しいと感じている。信仰者でないものが信仰に裏打ちされた音楽を信仰者と共に楽しむことはある種の疑似体験的な行為と言われるかもしれないが、もしもそれが当っているとしても、その疑似体験を通して得ている喜びや、自分の人生に対してネガティブになりがちな心の揺れを反転させようとする、その時の自分の心の動きは本物だと思う。そういう意味で、リアルな体験だし、歌うことを通して確かに一定以上の開放感、解放感を得られているのであって、リアルな音楽体験でもあると言っていいだろう。

 音楽そのものがいい。メロディがいい。もともとブルーズやソウル、ファンクなどのブラック・ミュージックが好きで、ロックも好きな自分には、ルーツ・ミュージックの一つでもあるブラック・ゴスペルは音楽としても合っている。楽しいですよ。だけど、仮に、自分の好きなブラック・ミュージックのコーラスなどを練習するワークショップがあったとして、それに参加して得られる心地良さは、ブラック・ゴスペルのワークショップで得ているものとは違うものになると思う。前者は好きなことをやっている楽しさだが、後者はちょっとそういう表現では言い表せない。ゴスペルには音楽としての楽しさだけでない、特有の力強さがあって、そこに独特の魅力の源があるからだと思う。私はそう感じている。


03年 2月 8日(土)   突然ですが、いつかエルサレムに行こう

 これは昨日ふっと頭に浮かんだこと。何故か突然頭に浮かんだのだが、どうだろう。

 今は辛い。苦しい。苦しみの出口が見えない。苦しくなくなるということが想像できない。いつ、どのような経過を経て、どのようにして苦しみが和らぐのか、とにかく想像がつかない。苦しみの先が見えないし、緩和させていく方向性が全くわからないのは、きつい。きつ過ぎるから、最終的には思い切り減っていなきゃな。時々頭がふらっとする。

 ふっと昨日の夜に頭に浮かび、妻に話し、何だか辛いくせに可笑しい気分になった。何故か、エルサレムに行こうと思った。
 将来、妻と一緒にエルサレムに行こう。今から20年前に行ったエルサレムにもう一度行こう。エルサレムや周辺の、ユダヤ、キリスト、イスラムの3つの宗教の聖地を辿ってみよう。何て言うんだっけ、あの美味しいサンドイッチを食べよう。そして、パレスチナの街を歩こう。パレスチナのその時の現状を実際に見てみよう。20年前にしたように、彼らのなかに入って話してみよう。歴史的な場所も歩いてみよう。場合によったら、これからの自分の活動をつなげてみよう。

 今は行けない。行くパワーもない。いつか、ずいぶん先であっても、妻と共にエルサレムの街を歩いている自分の姿を想像するのは楽しい。この先に楽しいことを想い描かないと前を向いていけない。それにしても何でエルサレムが思い浮かんだのか。ゴスペルやってるからキリスト教の聖地に? パレスチナ問題に関心が強いし、最近は支援団体に入ったから、だからパレスチナに? わかりませんな。とにかくエルサレムが浮かんだ。ヨルダンやシリアにももう一度訪ねたいところがあるが、あんまり風呂敷を拡げるのはやめよう。とにかく、エルサレムに行こう。息子も都合よかったら連れてこうか。その頃はもう結婚してるかい? 先にある楽しいことを考えよう。楽しいって言ったってエルサレムなんだぜ、わざわざ(?)エルサレムってところが俺らしいじゃないか。