02年 4月28日〜 6月 7日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

02年 4月28日(日)   パレスチナ問題、雑記録(アメリカのユダヤ・ロビー、占領地の入植地)

 本日の新聞報道2点についてのメモ書き。

 このホームページ4月27日付の2本目の日記で、建国後のイスラエルは、アメリカによる軍備と物資の強力な支援を受け続けてきたが、それはアメリカのユダヤ資本や議会のユダヤ・ロビーと利害関係を共にする、アメリカのエスタブリッシュメントによるものであって、イスラエルを敵に廻したら、アメリカ大統領選に勝利することは極めて難しいのではないか、と記した。
 今朝の新聞報道によれば(朝日の国際面記事を参照した)、アメリカで最も強力なユダヤ系ロビー団体は、その名をアメリカ・イスラエル公共問題委員会というそうだ。両国は公共問題を共にするってわけで、アメリカ大統領選挙年だった 2年前のロビー活動費が112万ドル。他の同種の組織のロビー活動費とは、数字が一桁違うらしい。
 今月21〜23日の 3日間にわたってワシントンのホテルで開催された年次総会には(アメリカの)大統領首席補佐官、上院民主党院内総務、下院共和党副院内総務などが招かれ、「両国のきずなは揺るぎない」だの「アメリカはどんな時もイスラエルの友人だ」だの、競うようにイスラエルへの友情(?)を示す挨拶が行なわれて、おまけに(イスラエルの)シャロン首相もエルサレムから衛星中継で演説し、自分達はアフガニスタンでのアメリカ同様にテロと戦っているのだと主張したとのことである。
 アメリカって、エラソーに民主主義大国面しているけど、こういう構造は日本の族議員と圧力団体の関係とけっこう似ている面もある。しかし、アメリカのこういうケースでは、国際社会の動向を左右させてしまうようなもっと巨大な力が働いてしまうわけで(大体よその国の実質元首みたいなヤツまで顔出してくるんだぜ!)、どうにも「国際的に」始末が悪い。っていうか、こういう問題になると公正も民主も無いわけだ、アメリカのエスタブリッシュメントってのは。

 新聞報道からもう1点。
 27日朝にヨルダン川西岸の自治区ヘブロンから西に 8キロのユダヤ人入植地に武装したパレスチナ人が侵入、銃乱射により死傷者が出る事件が起きたという記事。
 非戦闘員攻撃は許されることでない、というのは簡単。実際その通りだろう。ここで言いたいのはそのことではない。
 そもそも、このユダヤ人入植地って何だ!? もはや当り前のように報道に使われ、何の解説もされない「ユダヤ人入植地」って何? ヨルダン川西岸占領地を「占領」しているだけで不当、不法であって、従来から国連も撤退要求決議をしている(その意味で最近の「とりあえず自治区から撤退」決議は内容としては後退した、さしあたっての要求なんだけど)というのに、その不当に占領した占領地にさらに入植地をボコボコ乱造して、イスラエル人一般市民(だけかどうか知らないけど)をドカドカ入植させている、このイスラエルという国が長期にわたってとっている政策って、もうムチャクチャなハナシだろーが! これって、「我々はこの土地を金輪際手放しません」と宣言してるのと同じだろ。占領地に入植地を造り、入植地を増やし、ユダヤ人(イスラエル人)を移住させ、占領地のユダヤ人人口を増やし・・・。こんなことが罷り通っていることの異常さを、メディアは何度も何度も繰り返して説明しろよ。悲しいことに、しつこく挫けず説明しなくちゃ、日常になった「異常」はもはや意識されなくなっちまうんだ。


02年 5月11日(土)   ブラック・ゴスペル・ワークショップ

 この日記は下の翌 5月12日(日)付の日記クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か?につながります。続けて読まれることをお勧めします。

 GW の今月 3日から 6日まで、近隣のキリスト教教会で行なわれたブラック・ゴスペル・ミュージック・ワークショップに参加した。最初の3日間が練習で、最終日はリハーサルとコンサートという日程。共にクリスチャンではないがロックやブルースなど音楽をこよなく愛する私とパートナーの二人は昨年に引き続いて参加、また、今年はキッズ・プログラムという試みがあり、小4の息子もそちらに参加した。
 最終日の礼拝堂でのコンサートは、まず子供だけで2曲、その後に大人が途中に講師(音楽牧師)の説話や参加者のインタヴューをはさんで6曲、最後に子供と大人が一緒に2曲歌うという構成。最後の Oh Happy Day は大人だけの部での最初の曲でもあったので、ワークショップ中に大人が練習したのは合計で7曲だった。

 私とパートナーは十分楽しめたし、昨年同様に大勢で共に練習する過程やその成果の発表とも言えるコンサートなどで、参加者として大きな感動を味わうことが出来た。息子の方も、多くの外国人の子供も含めての、初対面の子供達とのワークショップの経験はきっと意義深いものだったはずだし、ワークショップやコンサートはもちろん、ワークショップ中に教会の中や外でその子供らと共に無邪気に遊んだことも併せて、ずいぶん楽しい体験だったのではないかと思う。

 このワークショップは昨年始まったもので、昨年の GW に参加したときも楽しんだし、また、昨年の最終日のコンサートの際の、今年と同じ講師(音楽牧師)によるブラック・ゴスペル成り立ちの歴史から始めて現代の日本におけるゴスペル流行の意味につなげる説話は、私の心の琴線に触れるものがあった。流行の背景には、物はある程度豊かになったはずの日本人の中にある「心の渇き」のようなものがあるのではないかという指摘は、この数年自分の人生における迷路にはまり込んで悩み苦しんできた(今ももちろん解放されたわけではないが)という自覚を持っていた自分にぴったりと当てはまるものだったし、そしてそんな精神状態をもってまさに飛びつくようにワークショップに参加した自分自身の心中にあまりに深く入ってくるものだった。私はその時自然と涙を流していた自分を、今もはっきりと覚えている。距離をおいて立っていたパートナーも、説話のその部分を私がきっとそんなふうに受け取っていると考えて、その時は私の方を見ていたほどだった。

 そして、今年のワークショップも当然のように参加。今年も良かった。楽しめた。ただ一つ、私とパートナーが共に感じた、しかし昨年は感じなかった「心に引っ掛かるもの」があった。それは主催者側の問題では全くなく、それぞれ主体性のある人間としての我々が、個人個人として感じたもので(それでいてこの点は二人がほとんど同じように感じていた)、しかも、たとえ現象として些細なものであったとしても、我々には大きな意味のある「引っ掛かり」なのだった。

 もともと取り立ててキリスト教に抵抗感はない。その歴史の中に、キリスト教の宣教師に「結果として」欧米列強の外国支配の先兵となってしまった面があることを始め、(他の宗教同様に)批判しなくてはならないことがあるのは承知しているが、一方で、専制支配下の人々の解放の為に、世界の非常に多くの国々でキリスト教のグループが貢献し、今も活躍しているというイメージもある。素人の印象ではあるが、一般的には他の宗教よりも比較的に現実世界の改革に関心があって実際に現実的に効果のある働きをしているという印象だ(素人の解釈に過ぎないが、イスラム教は社会への関与云々というよりも社会そのもの、生活のルールそのものという感じがする)。
 その現実世界への積極的関与の姿勢がマイナスに働いたこともある、ということかもしれない。しかし、キリスト以来、多くのキリスト者(クリスチャン)の活動が、抑圧される側の解放を目指してきたということは言えるだろう。時には、南米の被抑圧者解放運動における「解放の神学」のように、具体的な社会運動を支えるものになるケースもあるというくらいに(韓国の民主化運動にもそういう活動があった)。

 キリスト教にはそういう角度で関心を持ってはいるが、信仰しているのではない。そんな私やパートナーには、昨年のワークショップにはある種の「居心地の良さ」があった。教会の中で多くのクリスチャンと共にワークショップに参加していながら、我々がクリスチャンではないこと、キリスト教の神を信仰していないということ(他の宗教における「神」も信仰していないが)などを特に「心に引っ掛かる」ようなかたちで意識する時はなかった。彼らはクリスチャンだが我々は違うという、その一線を明確に意識しないままに参加し、ただひたすらブラック・ゴスペルの昂揚感を楽しむことが出来た。クリスチャンでないにもかかわらず、教会にいて特に違和感を意識することもなかった。そういう意味で、結果としてどこか「居心地の良さ」があったのだと思う。

 今年はちょっと違った。現象としては些細なことだろうが、大きな意味があった。

 同じ意味を持つ、ふたつのことがあった。一つは、コンサート中の説話の一言。昨年同様にゴスペルの背景や流行の意味についての話があった後で、「このクワイア(ゴスペルの合唱隊を指す)にはクリスチャンではない人もいるが」とことわったうえでの一言。我々の耳と心には、キリスト教の神を信仰することを勧める一言、クリスチャンになることを勧める一言だと明確に意識的に受け取られた言葉だが、正確な表現は記憶していない(そもそもその時は英語の一語一語を注意してヒヤリングしようと努力していなかったが、通訳された言葉も明確には記憶していない)。いずれにしても、「神の愛について考えてみることを勧める」もしくは「神の愛を受け入れる準備をしてもいいのではないか」という趣旨の一言だったと思う。

 もう一つは、その後、やはりコンサート中にあった、参加者へのインタヴュー。昨年のコンサートの時は参加者が聴衆の前で感想を述べるコーナーがあって、そこではワークショップに参加して得た自信や感動が語られていたが、今年はインタヴュー形式で、昨年参加した時はクリスチャンではなかったが、この間にクリスチャンになって今年も参加した一人が、その経緯を語るという内容だった。その時も、説話でキリスト教を勧められたように受け取った一言の時と似たような、自分の気持ちの「引っ掛かり」を感じた。そういう企画があること自体は、このシチュエーションからすれば当然と言えば当然なのだろうし、決して不快な気持ちになったのではないのだが、クリスチャンでない参加者として、やはり昨年と比較すると、うまい表現がみつからないが、どこか若干の「居心地の悪さ」を感じた一瞬だった。

 宗教が布教をその活動目的の一つにするのは当然だし、キリスト教はその歴史において布教にきわめて熱心な宗教だったのだから、キリスト教の教会がキリスト教を布教しようとするのは至極当然のことだ。しかも、そもそもゴスペルは神を賛美することを内容とする音楽であって、(とりわけ教会において)クワイアとしてゴスペルを歌うことは、音楽の行為でありつつも、ある意味(というより、やはり至極当然のように?)宗教的な行為であるのは間違いないだろう。したがって、今年の我々が感じた「引っ掛かり」は、本来それを感じても不思議ではないものなのだと思う。
 考えてみると、キッズ・プログラムの子供達だけで歌う日本語のゴスペルの歌詞を見たり聴いたりした時も、似たような「引っ掛かり」はあった。我々大人のクワイアは英語で歌っていて、神を賛美する歌詞ではあるのだが、やはり英語を母語としない者にとっては、その意味を100%体で感じる、100%ストレートに意識するということ無しに歌うのは可能なのだ。しかし、母語である日本語となると違う。言葉の意味がそのままストーンと心の中に入ってくる。英語でゴスペルを歌った時には感じなかった、ある種の「引っ掛かり」を意識せざるを得ない。

 ある種の「引っ掛かり」とは何か? それは突き詰めればこうなる。クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為は可能なのか? (それはつまり、個人で CD でも聴きながらゴスペルを口ずさんで音楽的に楽しむ、ということではない。)
 私とパートナーはクリスチャンではない。今後もクリスチャンになるということは想像出来ない。もちろん、この世に、いつか我々は死ぬということ以外に確かなことはない、という言い方をすれば、どんなことでもこの先を断定することは出来ない(しかしそんなこと言ったら身も蓋もない、笑)。この先もクリスチャンにならないとしても、我々がクワイアでゴスペルを歌い続けて楽しむということは有り得るのだろうか。それは可能なんだろうか。可能だとしたら、それはどういう意味で可能なんだろうか。
 さて、どうなんだろう・・・。


02年 5月12日(日)   クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か?

 この日記を読んでくださる方は、先に 5月11日(土)付の上の日記ブラック・ゴスペル・ワークショップを読んで下さい。この経験があって、以下の思考があります。

 まずは上の日記で取り上げた「引っ掛かり」をもう一度。

 クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為は可能なのか? (それはつまり、個人で CD でも聴きながらゴスペルを口ずさんで音楽的に楽しむ、ということではない。)
 私とパートナーはクリスチャンではない。今後もクリスチャンになるということは想像出来ない。もちろん、この世に、いつか我々は死ぬということ以外に確かなことはない、という言い方をすれば、どんなことでもこの先を断定することは出来ない(しかしそんなこと言ったら身も蓋もない、笑)。この先もクリスチャンにならないとしても、我々がクワイアでゴスペルを歌い続けて楽しむということは有り得るのだろうか。それは可能なんだろうか。可能だとしたら、それはどういう意味で可能なんだろうか。

 この問いの答えを探してみる前に、ちょっと廻り道してみたい。いくつかの似たような問いかけ(だいぶ離れているものから、わりあい似ているものまで)について考えてから、本題へ入ってみようと思う。それはつまり・・・

 黒人でない者がブルースを歌うこと演奏することは、もちろん可能だ。むろん音楽としてのブルースは黒人にこそ見事に表現出来るという面は有り得るだろうが、ブルースを歌うスピリットに、肌の色は関係ない。以前、unplugged のツアーでのクラプトンのライヴを横浜アリーナで観た時、公演終了後の帰路、後ろから「白人ばかりのメンバーでブルース歌うのはヘンだよねぇ。」という声が聞こえてきたが(実際にはベースは黒人のネイザン・イーストだった)、あれは全くアホの世迷い言。ブルースは黒人でなければダメだ、なんてのはナンセンスだ。まぁ今もブルース・ミュージシャンは黒人が圧倒的に多いし、それはおそらくはこれからもそうなのかもしれないし、私個人もバディ・ガイを始めとして黒人ブルース・マンは好きなのが多いんだけど、しかしクラプトンのブルースだってイイし、死んじまったスティーヴィー・レイ・ヴォーンやポール・バターフィールドのブルースだって泣かせる。次元はあまりに違うけど(笑)、私が下手なギターでブルースの真似事して楽しむことにも、何ら問題はありません。真似事だけでなくて、可能なら自分で作ったって構わない(私の場合はその才能がないだけ、哀)。

 クリスチャンでない者がキリスト教の教会で結婚式を挙げることについては、私自身の考えは否定的だ。クリスチャンでない者が、自分達の人生の一大事である結婚を、信仰していない神の前で誓うのは「違う」と思う。それは仏前にしても、神前にしても然り。

 クリスチャンでない者が、キリスト教の信仰に基づく宗教画を鑑賞することは可能だ。クリスチャンであるか否かで、鑑賞の仕方に違いは出るかもしれないし、感動の内容は異なる部分があるだろう。しかし、キリスト教の宗教画が信仰に基づいて描かれたとしても、それは鑑賞する立場によって一つの芸術作品となるわけで、それをクリスチャンでない者が鑑賞することは可能なはずだ(作者の宗教的熱情の表現を含めて)。

 クリスチャンでない者が、キリスト教の宗教画を描くことは可能か。これは完全には難しいのではないか。模写や摸倣なら可能だろうが、信仰がない以上、宗教画とはならない(見分けは難しいんだろうが)。もちろん、例えば、単に布教の様子を絵に描く、というようなこと自体は可能だ。

 仏教徒でない者が、仏像を鑑賞することは可能か。これは全く問題ない。作者が信仰心に基づいて彫ったのであっても、その表現の結果としての芸術作品を、仏教徒でない者が鑑賞することは可能だ。ただし、信仰のある人間には相応の鑑賞方法や姿勢が有り得るとは思うが。

 仏教徒でない者が、仏像を彫ることは可能か。これはどうだろう。クリスチャンでない者がキリスト教の宗教画を描くケースのように難しさはあると思われる。ただ、何か、唯一絶対神を信じるキリスト教と、宗教というより哲学という面も感じられる仏教との間には結構大きな違いがあるような気がしていて、特定の個人ではない「ホトケサマ」の顔を彫るのは、宗教としての仏教への信仰がそれほど強くなくても可能なのかもしれない、とも思う(これが例えばタイのような小乗仏教の世界になるとまた事情が違うかも)。

 さぁここから一気に本題に近づきます。

 クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルを音楽鑑賞することは可能か。これは可能だ。クリスチャンとして神を賛美するという信仰心が音楽のかたちで表現されているブラック・ゴスペル。この音楽をクリスチャンでない者が鑑賞し、その表現(芸術)に感動したとしても不思議なことではない。ブラック・ゴスペルでない賛美歌をクリスチャンでない者が聴いて、その美しさに感動することが有り得ることと同列に考えてよい。ただ、例えばクリスチャンでない私の場合、昔の伝統的なブラック・ゴスペルを聴くのは好きだし、ポール・サイモンの'74年のライヴ・アルバム LIVE RHYMIN' に収められた、ジェシー・ディクソン・シンガーズの Jesus Is The Answer には文字通り心を動かされるし、カーク・フランクリンのコンテンポラリー・ゴスペルも大好きだ、しかし、もし小坂忠の歌う日本語のゴスペルを聴いたらどうだろう? 小坂忠がクリスチャンでなかった時代の名作 HORO は今も好きなアルバムの一つだけど、今の彼が歌う、日本語で神を賛美する歌を聴いた時、日本語を母語とし、クリスチャンではない私は、若干の「引っ掛かり」を感じてしまうかもしれない、と思うのだが。でも、それでも少なくともその音楽が全体として私の心を動かすのなら、私はそこでその音楽をストレートに受けとめて(ヴォーカルの声を音楽を構成する楽器の一つのように受けとめて、歌詞を音楽を構成する素材の一つとして受けとめて)、やはり感動する、という可能性は十分にあるのではないか。

 クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作詞をすることは可能か。これは無理だろう。これは有り得ない。信仰心を偽ってただ単に文字を書く、ということなら別だが。

 クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作曲をすることは可能か。これはどうなんだろう。曲を提供すること自体は可能だけれども、そういうことが現実的に有ることなのかどうか、私は知らない。もちろん、例えば、ゴスペルとして作曲されたのではないポップスやリズム・アンド・ブルースのオリジナル曲の歌詞を変えて、アレンジを施して(場合によったらメロディはそのままでも?)ゴスペルとして再生するということは有るハナシだ。カーク・フランクリンの THE NU NATION PROJECT に収められた Gonna Be A Lovely Day はそのパターン。

 さて、どうなんだろう・・・。
 クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為は可能なのか?

 個人で CD でも聴きながらゴスペルを口ずさんで音楽的に楽しむ、ということは可能だ。その音楽を好みの音楽として受け入れて、一緒に歌ってみる、そんな時に私は必ずしも歌詞の意味を正確に解釈しているわけではない。それはポップスやロックの場合でもそうだ。もちろん、リスナーとして、しばしば歌詞を重視する時はあるけれども。

 ゴスペルを聴くのは絵画で言えばキリスト教の宗教画を鑑賞することに当り(クリスチャンでなくても感動は出来る)、ゴスペルを作詞したりゴスペルとして作曲したりすることがキリスト教の宗教画を描くことに当るとしたら(クリスチャンでない者には困難もしくは不可能)、クリスチャンでない者がクワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為はどう位置づけられるんだろうか。強いて言えば、絵画で言うところの模写や摸倣の行為をしつつ、その芸術を楽しむことが可能か、ということに近いのかどうか。自らの声と体全体とで表現する音楽と普通の絵画の世界との間にある、芸術としての特性の違いもあると思うし、そう単純に置き換えられるものでもなさそうだが・・・。

 ワークショップの講師(音楽牧師)の説明では、旋律がブルースだろうがリズム・アンド・ブルースだろうがロックだろうがヒップホップだろうがポップス調だろうが、その歌詞が神を賛美するなら、それはゴスペルだってことだった。例えば今年のワークショップで経験した7曲の中では、少なくとも鑑賞する音楽としては、カーク・フランクリンの Gonna Be A Lovely Day が好きだし、もう一つ挙げるのなら、こちらはオリジナルからゴスペルなのかもしれないが、ブラック系のポップス調のメロディを感じさせる I Can Be Glad という曲が好みだ。Oh Happy Day もわりと好きだな。

 それに対して、私にいかにもゴスペルという印象を持たせる曲(本当はそういうことでもないのかもしれないが)は、歌詞に神を賛美するフレーズの繰り返しが多く、しかも音階が上がっていく、もしくは高い音階がキープされるというパターンが多い。で、これが、歌っているとハマルんだ。気持ちが盛り上がるというか、昂揚感がある。おまけにこれを(自然と)体を動かしながら歌っていると(大勢で歌っていると余計に?)、何か体全体で昂揚感を感じるものがあって気持ちがいい。

 どうも歌詞にも原因があるのかもしれない。クリスチャンではないが、クリスチャンが神を賛美する歌なのだとその歌詞の意味を理解しながら歌っていると、少なくともその間、クリスチャンにとっての唯一絶対的な存在への服従(これは決して信仰していない者として否定的に表現しているのではない、つまり、「帰依」とはそういうことなのだと思うのだ)を、クリスチャンではない者として疑似体験していることになる。そんな面があるような気もする。そして実際に精神的な解放感は感じるし、音楽体験としても確かな心地良さがある。単純に言えば、少なくとも一定の持続する時間の間、何かストレスのようなものを本当に発散出来ていて、気持ちがいいのだ。つまり、そういう気がする、というのではなくて、正真正銘、気持ちがいい。したがって、疑似体験の面を持ちながら、しかしその昂揚感や解放感はニセモノではない。それは実際に解放感を味わえるという意味で、リアルな音楽体験だ。

 ところで、我々が参加したワークショップはキリスト教の教会で行われたものだが、この数年の日本ではブラック・ゴスペルが広く流行していて、いわゆるカルチャーセンターの類でもゴスペルの教室は開かれている。そもそも日本におけるクリスチャン人口の比率は極めて小さいのだから、そんなゴスペル教室の参加者にはクリスチャンは少ないのではないか。そして、そこはキリスト教の礼拝堂ではないし、ステージに十字架もない。どんなんだろう。カルチャーセンターのゴスペル教室(やその発表会)だったら、今回我々が感じた「引っ掛かり」のようなものは感じないのだろうか。そうだとすると、そのカルチャーセンターのゴスペル教室で歌われるゴスペルと、教会で歌われるゴスペルの違いをどう考えたらいいのだろうか。クリスチャンでない者の立場からすれば、例えば、前者ではほとんどの参加者と共に、神を賛美するゴスペルの昂揚感を疑似体験することになる、と言えるかもしれないし、後者の場合は大半の参加者がクリスチャンとして(実際我々が参加したワークショップではそうだった)神を賛美するゴスペルを歌うことの昂揚感を体験している中で、少数のクリスチャンでない者としてそれを疑似体験している、しかしその音楽体験は十分にリアリティがある・・・。

 私とパートナーはクリスチャンではない。今後もクリスチャンになるということは想像出来ない。この先もクリスチャンにならないとして、我々がクワイアでゴスペルを歌い続けて楽しむということは可能だろうか。可能だとしたら、それはどういう意味で可能だろうか。教会のクワイアでゴスペルを歌うということも、一つの音楽体験として続けていけるのだろうか。
 この問いの答えは簡単ではない。しかし、とりあえず性急に結論を出すのはやめよう。というか、強引に結論を出すなんて、論理だの理屈だのが好きな自分には無理なハナシなんだから。どれだけ時間がかかることか、あるいはわりと早いうちに割り切る(?)ことになるのか、それはわからないけれども・・・。まぁもう少し様子見しようか。・・・いやはや、頑張って思考を重ねてみたんだけどなぁ(笑)。


02年 5月25日(土)   「パレスチナ」、「アフガン」をつくるものとしてのアメリカ

 既に旧聞になるが、パレスチナのジェニン難民キャンプの虐殺問題は、結局国連による調査も行われないまま、真相究明が果たせないという結末となった。それにしても、イスラエルが国連の調査計画につけた条件は常識はずれなものだった(パレスチナ問題においては何が常識なのかわからなくなってくるが)。「調査対象地域はジェニンに限定する」(イスラエル軍がパレスチナ人の遺体をブルドーザーで片付け、他の地域に埋めてしまったという疑いが取り沙汰されていた)はまだしも、「調査される軍人はイスラエル側が選ぶ」「調査された軍人の証言は公表しない」果ては「国連は調査結果による勧告をしない」に至っては、一体何の為の調査なのか、もう調査の実施もバカらしくなるといったレベルのハナシだろう。
 この調査はイスラエルの難色によってさんざん延期されたあげく、軟禁されていたアラファトの解放と取り引きされ、イスラエルの実質的な拒否にあって、実現されることなく終わった。そして、その後ろ盾をしていたのは、もちろんアメリカである。アメリカがイスラエルの調査拒否を認めていたからこそ、イスラエルは強気でいられたのだし、逆に言えば、建国以来の最大の経済的軍事的援助国であるアメリカがそのイスラエル偏重の姿勢を改めない限り、イスラエルの横暴を終わらせることは至難なのだ。・・・そして、この間もイスラエルのパレスチナ自治区侵攻やパレスチナ人によるイスラエルへの自爆テロは続いている。

 ところで、近頃アフガニスタンが国際的な話題に上ることはずいぶんと減った。世界が注目するのはアルカイダが強大な勢力を誇ったアフガン、アメリカが空爆するアフガンであって、生身のアフガン、国の再建に立ち向かうアフガンではないのだ。
 しかし、アメリカの中東政策におけるダブル・スタンダードがなければ、アルカイダがこの世に生まれていたかどうか。アルカイダがなければ、つまりアルカイダ(オサマ・ビン・ラディン)による財政支援がなければ、タリバーン政権の長期化があったかどうか・・・。相当に疑問だな。そもそも彼らは、アフガニスタンがソ連に侵攻された時代にアメリカがばらまいた武器で肥え太った部分があるわけだけど。

 こうやってアメリカの負の影響力を指摘することは出来る。でも、何が起きればアメリカが変わる? あるいは何が起きても変わらないとしたら、どうしたらアメリカは変わるのか? ・・・・・・。


02年 5月25日(土)   バディ、我が息子にピックを手渡す!

 日比谷野音での毎年恒例のジャパン・ブルース・カーニバル。今年で17年になるというが、私とパートナーが行くようになってからでも14年経つ(この間ほぼ毎年行っている)。今回のメインはバディ・ガイ、私がバディのライヴを観るのも、10年ぐらい前の渋谷のオール・スタンディングを含めて5、6回目。
 私は過去に一度だけ最前列に陣取ったことがあるが、今年はそれに次ぐイイ席! 真中やや左側のステージ前から2列目に家族3人で並ぶことが出来た。野音ではほとんど最前列と変わらない位置だ。何しろステージにはほとんど手が届きそうなくらいなんだから。

 今年も和服とブルース・ハープで登場の自称「ブルース司会者」(途中の「主催者からのお知らせ」や「ブルース・クイズ」では例によって京都から参上の共演者のギター弾きカメリア・マキちゃんも現われた)の MC により夕方5時半開演、トップバッターは日本のKOTEZ & YANCY(って綴りだったかな?)でバック・バンドと共に数曲。「何にもない、何にもない」で始まるCMで使われた(ような・・・)曲をやったけど、あれって彼らが作った曲だったのかな? 独特の雰囲気のあるサウンドでした(二人はブルース・ハープとキーボードのユニットで二人ともヴォーカルをとる)。

 次に登場はジミー・ヴォーン。あの故スティーヴィー・レイ・ヴォーンの兄貴だ。後半加わった2人組のコーラス・ユニットや女性ヴォーカルも含めて、けっこう楽しめた。今年で51になるようだけど、ジミーは律儀にブルース弾いてたな。ただ、やっぱりビデオとCDのみで知る弟スティーヴィーの方がヴォーカルもギターもカリスマ性も上、ではある。あと、ジミーのバンドでちょっと驚いたのはベーシスト無しだったってこと(他にはキーボードとドラムスとサイド・ギター)。

 しんがりはバディ・ガイ。今年で66になるというバディだが、その無秩序で制御のきかないフレージングとヴォーカルは健在だった。この人の場合、ステージングもノー・コントロールであの歳にしてステージを右に左に前に後ろにと動き、しまいにはステージから飛び降りてしまって、野音の客席最後方まで行って弾きまくり歌いまくってしまい、マイクやケーブル(今時?ギターにおそろしく長いケーブルを付けてた)を運んでついていったマネージャーのようなおっさん(と言ってもバディよりはずっと若い)はご苦労さんでした。(まさにこういう感じ 1:50 以降のバディに要注目!!! このクリップでは「マネージャーのようなおっさん」がマイクを持ってバディにずっと付いて行ってる。以上、この括弧内は 2016年9月18日加筆。)
.. とは言え、さすがにトシはトシで、だんだん真面目に弾かない(笑)時間帯が長くなってきてる感じだけど、時折り聴かせるクレイジーな、喉を絞りきるようなヴォーカルは相変わらず凄かったな。ギターよりも、ヴォーカルの方に、トシを感じさせない凄味があった。あの両手を顔の両側にかざして顔の表情を破壊(!)して歌う様は、まるで岡本太郎だな、バディにかかると「ブルースは爆発だ!」ってこと。コンサートは最後の方でジミー・ヴォーンも再出演して二人の掛け合いのギターも聴かせて、アンコール無しで終わった。というか、すぐに「ブルース司会者」が登場して終わらせたって感じかな。ジミーのパートの時の予定外だったかもしれないアンコールがあったし、バディもノリまくって延ばしに延ばし、時間は相当押してたみたいだったけど。

 今回のブルース・カーニバルで我が家(!)が特筆すべきは、我が息子がバディから直接ピックをもらったということ。それも演奏中に、その時本人が使っていた、バディの名前入りのピックを!

 その時息子は席を離れてステージ下の最前列の位置で、ステージ前のガードの柵につかまってノッテいたんだけど、バディはそこにギターを弾きながら急に近づいてきて、眼前に小さな子供(息子)をみつけると「よく来たな、坊主」という風情でニヤリとし、あっという間に息子にピックを手渡してしまった。もう真後ろにいた親父は感激しまくり、その時バディが何という曲をやっていたかも憶えてない。最後の方で客席に撒かれたピックとはワケが違う値打モノ、もうこりゃ我が家の家宝かな(名前がプリントされた、ただのピックだけどさ)。息子も当然嬉しかったようだな。いやはや、とにかくヨカッタヨカッタ! これで息子も将来は天才ギタリスト間違いなしか(笑)。

 いい気分で野音を後にし、有楽町界隈の居酒屋で一杯やってから帰路に着きました。26日の日曜日の方は、ジミーの代りに元ヤード・バーズ、元フリート・ウッド・マックのブリティッシュ・ブルース伝説のギタリスト、ピーター・グリーン。M & I カンパニーさん、本当に有り難うさんです(明日は我が家は行かないけど)。 


02年 6月 7日(金)   今年も近鉄を応援する!

 我が息子は大の近鉄ファン。それにつられて両親も野球と言えばまずは近鉄(私は元々中日ファン、今年は阪神も熱烈応援中)。今日はひたちなか市総合運動公園市民球場で行われた、大阪近鉄バファローズ対日本ハムファイターズのナイトゲームを観に行った。

 本当は外野芝生席(椅子なし)が良かったんだけど、前売りは外野分が売り切れ、しゃーないのでちょっとだけ高い内野自由席を買って行った(まぁ明らかに当日でも OK なんだけど)。現地でも「チケットの交換は出来ない」ってことで、結局内野席の三塁側に陣取った。でもベンチに行き来するローズなど間近に見れたし、ブルペンは真下だったし、バッターボックスだってそんなに遠くない(写真はローズの打席、クリックで拡大)。十分楽しめました。

 息子は応援グッズのバットやこの日球場で買った近鉄のタオルマフラー、母子合作の応援ボード(その一つ、中村用のもの、お見せします)などを使い、時折り外野の私設応援団とも調子を合わせながら熱烈応援! 試合は近鉄にしては珍しく単打攻勢が実って5対0の完勝。中村は1安打だったけど、ローズは4安打。ローズは後半レフトからセンターに移り、日ハム最後の打者のバックスクリーン際の特大フライをフェンスにぶつかって取るという超ファインプレーまで見せてくれました。欲を言えばお家芸のホームラン攻勢も見たかった、ってとこかな。でも先発パウエルも見事な完封勝利で、めでたしメデタシ!

   いやぁ、それにしても、やっぱ野球は野外だな。去年は大阪ドームで西武戦を観たけど、どうしたって野球は外。妻の作った弁当を食べ(私が作ってもいいのですが、笑)、ビールを飲み、ポップコーンなんぞを食い、夜空の下で応援する。デイゲームなら青空の下。アメリカでドーム球場が廃れて行ったのもむべなるかな。野外でプロ野球を観る開放感と解放感は格別です。(今日はクルマで球場を後にした時も近鉄の選手用の大型バスと一緒になり、なかなかに吉日でありました。)