08年 1月 6日〜6月9日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


08年 1月 6日(日)   健康第一とさせてもらう!

 大晦日を過ぎ、兄、兄の子3人、僕、妻、息子で初詣に出掛けた。空を見上げると満天の星。本当に見事。僕がいま住む街も田舎といえば田舎だが、とてもこんなきれいな星々は見れない。まして都会では絶対不可能。空にはこんなに沢山の星があるんだとあらためて実感できた至福の天体鑑賞。

 3日、妻子と3人で買い物。僕はそこで「福ネズミ」の置き物を買った。それからしばし散歩、ウォーキング、散策。小山に登り、延々と続く茶畑の中から振り返って我が生まれ故郷を眺める。

 その日の晩は中学の同窓会。といっても、小学中学の9年間、4クラス、その1学年の仲間は転入転出以外は変わらず。おそらくは他ではそうそうない濃密な同窓の仲間たち。その懐かしの面々と会う。
 4年に1回、以前は毎回は出ていなかったが、前回出たので4年ぶり。今回一番会う必要があり、会いたかった旧友とも再会。健康を願う。

 4日、駅で親父お袋に見送られ、故郷を再び発つ。親父は今年の誕生日で80歳となり、お袋は喜寿を迎える。身体にはいろいろあるわけだが、これまで苦労した分、「楽」(愉快)ある人生を末永く続けてくれることを願う。きっと、そうあってくれるに違いない。

 帰り、上野駅のCD屋に寄り、CSNYを買った。「デジャヴ」 名盤なり。1曲目は "Carry on"
 "Carry on, Love is coming, Love is coming to us all."

 5日、毎年行ってる近くの神社へ、妻子と共に。家族から始まる幸せ也。

 4日の夜から5日の夜にかけ、頭痛がひどかった。
 年末年始「カイシャ」ソシキシゴト休み、家族や友人知人旧友らと過ごし、改めて、つくづく感じたなり、健康第一。いくら数年前「カイシャ」ソシキ出戻りの身とはいえ、僕の身体をコワス権利は「カイシャ」ソシキにも無きものなり。今年は健康第一で!

 04年度早々から1人休み年度末まで補充ナシ僕がほとんど肩代わり完全徹夜ぶっ通し勤務を含み連日深夜、
 05年度も第2四半期から1人異動で年度末まで補充ナシこれまた連日深夜、
 06年度は前年度からの所掌拡大兼異動入(そういうわけで所掌拡大につき一字一句みる分また増えたなり)
 そのうえ06年度早々に過去8年間(以上?)当然のように配置されていた専門職派遣職員をナシとされてしまい僕は当然ヘロヘロになるまでその分キツクなり、
 07年度は?な編成のままなのに加重負荷ドカンとくる大モノ担当職務まで加わり、こうなりゃもう過去数年の蓄積疲労で身体ボロボロなり、いいかげんにしてくれい!!

 つくづく思ったのである。年末年始「カイシャ」ソシキシゴト休み、家族や友人知人旧友らと過ごし、改めて、つくづく感じたのである、健康第一。
いくら数年前「カイシャ」ソシキ出戻りの身とはいえ、僕の身体をコワス権利は「カイシャ」ソシキにも無きものなり。僕は僕のため家族のため僕の健康を守る。

 健康第一でいかせてもらわないと僕はコロされかねない。
 健康第一とさせてもらう!!!


08年 1月21日(月)   愛だろう。

 誕生日であります。彼女が○年前のこの日にこの世に生まれたところから、今の僕があります。いや全部そうだって言ったら、それは理屈上有り得ない話だけど、でもある年からの自分のかなりの部分はそういう面を持っています。ああ、なんて持ってまわった言い草だ(笑)。

 この両手でこれからもずっと上手にピアノを弾いてもらうよう、できるだけ苦労をかけないようにしたい。ん?ここんとこしばらくピアノ聴いてないぞ・・・(俺のせいか??)。

 兎にも角にも、誕生日おめでとう、ということで。


 もうずっと前から橋かかってるし、明日にも橋かけてるし、そのうえこの橋はダイヤモンドよりもずっとずっと頑丈にできている橋であります。

 ヘイ、銃声よりもダイナマイトよりも衝撃なのは愛だろう
 ヘイ、水晶よりもダイヤモンドよりも透明なのは愛だろう
 大切なのは愛だろう
 大切なのは愛だろう
 愛だろう
 愛だろう                デイト・オブ・バース「愛だろう」


08年 1月26日(土)   パレスチナを巡る映画

 1983年、パレスチナ、ヨルダン川西岸やガザ地区などイスラエルが不当に占領し続ける地域を旅したことがある。地元の名門大学、ビルゼート大学を訪ねて学生と話したりしたが、彼らは外国人に訴えたいことがいっぱいあって、とても全てを聴き取れるようなものではなかった。
 その時の写真は今もアルバムの中だ、僕と同年代の彼らがヨルダン川西岸でその後も生き続けているのか、それとも、あのとき出会った学生の中には、後に suicide bombing の実行者になってしまった人がいたとしても不思議とは思えない。

 suicide bombing, suicide attack 等が欧米はじめ世界のメディアが使う表現のようだが、日本のメディアでは、それはそのまま訳されず、ほぼ例外なく自爆「テロ」と表現される。もちろん自爆攻撃という行為がよいなどとは全く思わないが…。

 この日記の冒頭に書いたものだ。
 既に60年にわたって土地を奪われ続けているパレスチナ人。1967年の(もちろんイスラエル軍事侵攻による)新たな占領=ヨルダン川西岸地区とガザ地区)=からも、すでに40年が経過している。

 僕がヨルダンからヨルダン川西岸地区に入り、さらに「イスラエル」という占領国家の建国戦争以来の土地に入り、そしてガザ地区を含め、パレスチナを3週間旅したのが、1983年。
 あれから数えても25年経過してしまいました。

1. パラダイス・ナウ
2. ガーダ
3. アルナの子どもたち

 今朝わりと早めのペリカン便。先日アマゾンに注文した1、2、DVD2本が予想以上に早く届いた。

1. パラダイス・ナウ

 フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ合作。監督はパレスチナ人、プロデューサーはイスラエル人とか。イスラエルが不当に占領し続けるヨルダン川西岸での物語。自爆攻撃の実行者に選ばれてしまった2人の幼馴染みのパレスチナ人青年の葛藤を描く。
 去年だったか一昨年だったか、アカデミー賞でも外国語映画部門にノミネートされ惜しくも受賞は逃しましたが、アメリカでこれが受賞するのは極めて難しい。そもそもノミネート自体をシオニスト団体が取り下げ要求してました。
 しかし同年のゴールデングローブ賞では受賞(最優秀外国語作品賞)。ほかにベルリン国際映画祭でも賞を受賞していた。
 オリジナルはアラビア語。日本語字幕つきで鑑賞しましょう。

2. ガーダ

 自身の大病の経験を契機に会社員からジャーナリストに転身した古居みずえさんが、イスラエルが不当に占領し続けるガザ地区のパレスチナ人女性を12年間にわたって取材して製作したドキュメンタリー。石橋湛山記念のジャーナリストに贈られる賞を受賞している。

3. アルナの子どもたち

 これはまだ届いていません。僕自身が会員になっている パレスチナ子どものキャンペーンに注文しました。
 ユダヤ人の母とパレスチナ人の父の間に生まれたイスラエル人俳優(映画監督)が監督した映画。母は、スウェーデン議会から「もうひとつのノーベル平和賞」を贈られたイスラエル人平和運動家であったアルナ・メール。そのアルナ・メールがヨルダン川西岸のパレスチナ人難民キャンプで始めた子どもの演劇活動に彼もかかわっていた。
 イスラエル軍は同地区に度重なる軍事侵攻をしているが、2002年の侵攻後、劇団の子どもたちを再訪したもの。カナダの国際ドキュメンタリー映画祭第一席、チェコの人権ドキュメンタリー国際映画祭最優秀作品賞など受賞。


 イスラエル建国当時、かの地の人口の大半をパレスチナ・アラブ人が占めていたにも関わらず、シオニズムと欧米のご都合主義によってイスラエルが建国され、結局そこでイスラエル領土内に残った(あるいは逃げれなかった)人々と、そこを脱出した人々に分かれ、そしてそれぞれの子孫の時代が続いている。

 前者は普通アラブ系イスラエル人、後者が一般にパレスチナ人と呼ばれるようだが、実際のところは同じ民族で、映画『パラダイス・ナウ』の監督は他称「アラブ系イスラエル人」、しかし本人は「自分はパレスチナ人である」と明確に語る人のようだ。

 『パラダイス・ナウ』の舞台となり撮影現場ともなったヨルダン川西岸のナブルスは、1983年に僕も訪ねているた街だ。その時も、「そこの商店は、その近くからイスラエル軍に対する投石があったという理由でイスラエルに閉鎖されたんだ」、「先週、あの角でパレスチナ人2人がイスラエル兵に殺されたよ」、といった話を直接聞いたものだった。あれから25年、僕は再訪していないが、報道やパレスチナ人の証言から明らかなのは、情勢はさらに悪化しているということだ(あの頃は隔離壁まではなかった)。
 それでもパレスチナ人はあきらめていないし、あきらめたら生きていけないのだと思う。あきらめず生きるか、絶望して最後には「自爆攻撃」をするのか、あるいは絶望感に苛まれながらも生きるのか、時に前を向いて生きるのか。彼らの生は正真正銘きびしい。・・・としか言いようがない。イスラエル、アメリカ、それらを陰に日向に支える日本をふくむ偽物の「国際社会」に囲まれて(地理的に政治的に囲まれて、しかし時に無視されて)。


08年 1月26日(土)   いら、いら、いらぁ



 いら、いら、いらぁ。オパルモン、メチコバール、ルボックス、レンドルミン(のジェネリック)。


08年 2月 2日(土)   終電乗り遅れ数知れず

 ではあるが、昨日というか昨夜というか今日というかにやや久方、まぁ兎に角(金)24時5分過ぎ退勤、最寄駅着の終電には乗り遅れ、2つ手前駅の前にて妻の迎えクルマに乗車、本日午前1時半過ぎ着。それからバンご飯。まぁ本日が土曜というのが救いなり。

 いら、いら、いらぁ(は避けたいもの)。オパルモン、メチコバール、ルボックス、レンドルミン(のジェネリック)。


08年 2月 3日(日)   福の神

 入れ入れ門から、うちのなかへ
 入れ入れ門から、福の神

 今日は雪です。寒いなかをありがとうございます。

 本日豆まき日記念。豆まきは夕刻に実施。


08年 2月 9日(土)   旧暦正月駅弁大会

 本日朝刊折り込み広告、土曜日曜と「駅弁大会」とあり。両日のものと土曜のみ日曜のみのものあり、広告写真と駅名見ながら品定めし、本日昼食駅弁大会に決定。

 息子の選択、抹茶ひつまぶし日本一弁当(名古屋駅)。
 拙者の選択、あったかーい前沢黒毛和牛弁当(盛岡駅)。
 妻の選択、小鯵押寿司(小田原駅)。

 1回回転、交換して、それぞれ全て食す。全て美味なり。ひつまぶしは最初はそのまま、息子はさらに薬味を乗せ、さらにはお茶漬けにして仕上げ。

 本日は旧暦正月の3日目らしい。兎にも角にも駅弁は美味なり。


08年 2月10日(日)   打倒「女工男工白色会社員哀史」!

 日本国の政府が「ワーク・ライフ・バランス憲章」なるものの行動指針にこんなことを掲げてるそうだ。

 日本国政府の昨年末つまり 2007年末のセリフ。産業革命の時代から、そこまで言わずとも、女工哀史の時代から、どれだけの年数が経過してるのかな。

「労働時間が週 60時間以上の労働者の割合を、10年後に半減する」

 10年後って、つまり2017年末? ああ…。

 9時から昼休み挟んで 18時まで働きそれを週5日やると週 40時間。ってことは、その場合に【平均で】毎日 22時【以降】に退勤してる人の割合ってことね。

 日本の首都圏のカイシャインは通勤に1時間半はザラ。これが平均だよ。
 ってことは【平均】で朝7時半以前に出て、毎日 23時半【以降に】帰宅する人ってことね。これは【平均】だから【午前様】はザラだね。
 そういう人達の「割合を、10年後に半減する」。オイオイ!

 アメリカの大判焼きみたいなもんのチェーン店の店長が名ばかりの管理職なのに【管理職だからと】残業手当もないまま酷使されてたのは不当だと、先日、裁判所が認定した。アホの○田は控訴するようだけど。

 それから昨年、世界一、二を争う儲けを上げてる日本の自動車会社の従業員の労災の問題で、なんたらサークル等の小集団活動などは暗黙のノルマであって労災対象となる【労働時間】とみなさないのは不当であるとの判決が出た。
 この判決は「女工男工白色会社員哀史」を今も続けるこの日本国においては画期的であった。

 なぜなら、これまでそのなんたらサークル等の小集団活動について、日本のおエライさん達は、それは日本のカイシャの国際競争力の源泉であるが、しかるにそれは日本が誇るべき日本の労働者のあくまで【自主的】【自発的】活動なのであ〜ると勝ち誇っていたのであって(まぁ今も日本のエライさんのほとんどはそうなのだが)、
 この判決で問題になった件でも、カイシャはそれは労働者の自主的なもの、言わば勝手な活動であって(カイシャは都合よく「自主的」だの「勝手」だのと使い分けるのだ)、あろうことか、雑談してたようなものだとホザイタのであり、しかもそのカイシャの言い分を労基署が追認していたのである。

 この件では労基署〜国が訴えられ、国は最終的に控訴をあきらめた。当然ではある。

 声を上げるのはしんどい。この国ではとりわけ、声を上げてそのぶん報われるとも限らない。上の2例はどうにか一旦は(声を上げたことに対し)報われたケースだ。とは言っても、既に失われた有形無形のものが全て返るわけではない。

 しかし、声を上げなければ、エライさん達は永久に悪魔のような「経営」や「支配」を続けるだろう。

 この国では多くの人が声を上げない。僕ですら近頃は××だよ。

 ・・・さてさて、僕は今日、CDを買った。息子の推薦盤(いやはや息子が音楽を推薦してくれるようになった!)。
 Jack Johnson のCD、"SLEEP THROUGH THE STATIC" を買った。いいです、これ。グッドだよ。


08年 2月16日(土)   終電物語。

 今週は出勤平日4日、うち3日終電、だったかな。もはや分からん。

 1日は違ったような。記憶のある(笑)、木金の2日連続は終電。打倒したい!

 おまけにJB線は妙な接続待ちしてあげて遅れたりもする。

 先週は終電乗れずもあったなぁ。

 3連休を挟んだはずなのに、そんな感じが全くしないのはなぜ?


08年 2月16日(土)   過労につき休日つい昼寝。

 なにもいま始まったことじゃない。深夜残業の午前様帰宅もちょくちょく、何年も前からとにかく働き詰めな日々なんで、休日はついウトウト、気づくと昼寝してしまうことがしばしば。

 今もそうさ。しばらく眠ってしまって今起きた。土曜も日曜もタイテイどこかでウトウトしてしまう。そうして非出勤日が過ぎるとまた出勤日々に移行する。その繰り返し。打倒したい!
 ほんと、繰り返しなんだよな、これが。 身体にいいはずがない。


08年 2月23日(土)   多摩蘭坂な日々

 水曜は木曜の0時20分に退勤、最寄駅2つ前駅行き終電のしかも遅延電車に乗車、終着駅に1時15分頃着、妻の迎え車に乗車、2時頃からバンご飯、床に就いたのは3時過ぎ(就寝は更に後のことなんだよ!)、それから7時過ぎに起き、7時半過ぎに出て、8時45分頃から勤務開始。
 こんなことはこの4年間で、何度となく、数え切れないほど経験してる。いやぁ全く、数えられない。

 それでも、こういう日の前は、記憶が飛んだりする。月火もそれなりに遅かったが、水曜ほどじゃない、しかし帰宅時刻わすれた。木曜もまぁ遅かった。・・・金曜だけ、早めに帰った。って本来は別に特に早いわけじゃないんだが、僕には無茶苦茶に早く感じる、たまに早いと。

 僕はいつか釈放される? 解放される? 自由になる? I Shall Be Released.


08年 2月24日(日)   ヤク多摩蘭

 一昨日ぐらいから、やや喉痛、クシャミたまに咳、鼻水、耳痛。風邪をわるくしてはならん、早く治すのだだしなぁ、おまけに平日は これもん なわけだから、善は急げとクリニックに行く。マスクしながら行く。

 メチャ混んでて時間がかかった。ふぅ・・・。
 処方されたヤクがクラリシッド、カフコデ、アレグラ、ハイペン、みんな朝夕食後。おいらがもともと飲み続けてるのが、朝昼夕食後のオパルモンとメチコバール、朝夕食後のルボックス2錠ずつに、寝る前のレンドルミン。・・・ヤクだらけじゃんか。

 疲労蓄積満身創痍困憊なんですよ、いいかげんにしてもらいたい。 ったく、たのむぜ。おいらは人間です。機械ではありません。そんなことは昔からチャップリンさんが言ってるじゃないか。


08年 2月26日(火)   シゴトが追いかけてくる・・・

 疲弊、疲労、困憊、疲弊疲弊。過労風邪気味体調不良、定時は過ぎてもまぁ早め帰宅、しかし気づけば帰宅後1時間経過。ずっとシゴトをやっていたのだった。これもん があまりに多いんだから、そのうえコレだよ、兎にも角にも、たまらない
 おれは人間。おれは機械ではない。そんなことは昔からチャップリンさんが言っている。


08年 3月 8日(土)   野球部の卒業日。

 今日はよく晴れた土曜。午前中は息子が野球部「卒業試合」。2年生チームと試合、1年生チームとも試合。共に勝利。息子は守備機会で出場。その後、みんなで昼ご飯。親も招ばれていたけれど、僕は病院、親参加は妻にお任せ。

 妻の話だと、挨拶で息子は「自分は3年間楽しく野球をやってこれました。1、2年生のみんなも、楽しいという気持ちを持って、それで、一所懸命がんばってくれば、結果レギュラーになってもなれなくも後悔することはありません」という意味のことを言ったそうだ。息子らしい、いい挨拶だと僕は思う。後輩たち(と先生)から贈られた色紙を息子が持ち帰ってきたけれど、「いつも努力している」「練習熱心」「片付けなどもいつも真面目にしている」「文武両道」、それで「優しい」あこがれの先輩でした、というような言葉が後輩一人一人から贈られていた。よかったと思う。

 僕は今日午前は通院。あとは明日まで休みたい。シゴトらしきものを持ち帰ってきているものの、できるだけ休みたい。今週もタイヘンだった。僕は疲れてる。眠りも浅い。疲れてる。だけどまぁ、っつーわけで。


08年 3月12日(水)   祝歌斉唱 "Forever Young"

 「斉唱」ってユニゾンですねぇ。僕が一緒に歌えば「斉唱」。

 今日は100年ぶりの有休日(オレは何歳だ)。
 今週はまず月曜終電の火曜午前様晩ご飯、火曜は21時過ぎに電車に乗れた。

 昨日が息子の中学卒業式で、最初は昨日を久方ぶりの有休日に当てようと思っていたが、部カンリ職会議もある日だしと思い、卒業式は母親に任せ(妻曰く「国歌斉唱に参画しません、クチパクもしません!」)、この際どのサイ有休は翌日の本日、県立高校合格発表日に。

 朝、発表を見に行った息子が帰って来る。玄関を開ける。声を発する前に表情で分かりました。いやぁよかったよかった。結果には運もつきもの残念な結果になった友人もいるわけだから静かに祝おうという気持ちにはなるが、何はともあれ本人の志望校合格は素直に喜ぼう。
 「おめでとう」

 風の便りに(って田舎の実家から聞いたんだけど;おおそしてさっき安心してくれた兄上が拙者の携帯にメール連絡もくれた)、彼が小さい時からかわいがってくれた従兄も受験した国立大学合格と。喜ばしい知らせ。

 ではでは、未来に向かう若人へ


08年 3月14日(金)   結婚20年記念日の翌日

 昨日は結婚記念日。結婚20年。20年です。20年、成人です。

 昨日、花を買って帰るつもりでいたのに、例によってたっぷり遅くなって、花屋さんは開いてるはずのない時間の退勤、帰宅でした。

 1日遅れたけど、今日、花を買って帰ったよ。20年です、成人です、夫婦としてはまだまだ若いのさ。これからもよろしく!


08年 3月16日(日)   首痛、肩痛、腕張、腰痛、脹脛張。

 首が痛い。
 肩が痛い。
 腕が張る。
 腰が痛い。
 脹脛が張る。

 たまんねぇよ。もっと早く家に帰りたい。遅くまで残業はたまのことにしたいもんだ。人間は何のために働くのかね。なかなか哲学的な命題のようでいて、理屈ならけっこう立てられるんだがね、しかし現実は付いていかないのさ。


08年 3月23日(日)   ヤク増強?

 今週末は耳鼻科にてアレジオン(だったっけか)ってヤクの処方受ける。効くのだが、神経レンド(のジェネリック)との相性で、翌日かなりきつい感じがする。身体が重くなる。なので、今晩は飲まないと思う。神経レンドは欠かせないから。
 あとはヘルニアのオパルモンとメチコバールをまた処方。これはいつまでも続くのであろう(?)。

 首が痛い。肩が痛い。腕が張る。腰が痛い。脹脛が張る。身体が重たい。

 今日夕方近く、少し動かさねばと妻に付きあってもらい散歩に出る。しばし歩いた。帰りに本屋に寄る。「倫理」用語辞典なるものを手に取る。ニーチェ。キルケゴール。高校時代の「倫社」が懐かしい。でもけっきょく買わなかった。

 明日からまた酷務勤労者、出勤なり。
 しかし出勤があれば退勤があるのだ。家に帰り、家にいる時間はある。それはある。


08年 3月30日(日)   自然は春へ

 東京は、職場で昼休みに外に出ると既に満開ではと思える桜が見える。平日相変わらず深夜残業で家に帰り、北関東の同時期、我が街の桜は見えない。ま、奇跡で早めに退勤できようがどのみち自宅に着くのは夜なんだけど、奇跡はそう起こらないんで、つい愚痴もこぼしたくなる。小庭のこぶしは一部咲きかけがあり、蕾もそこそこあるもよう。ライラックも芽吹いていて、いずれ咲いてくれるのか。昨日、妻が小庭から菜の花とストロベリーフィールド、ブラックベリーを持ってきて、このあいだの結婚20周年の花器に入れた。花はいいもんです。

 神経レンドと耳鼻科アレジオンは併用すると翌朝の眠気が遺憾なので、平日は回避していたが、金曜忘れたものの、昨日土曜夜は併用してみた。今日の就寝前はまたレンドのジェネリックのみにする。あとは変わらずメチコ、オパル、ルボ。どこまで効いてくれてるか。しかし飲まないと遺憾なのは確か。

 ストレスと心身酷使労働の疲れでササクレ立つこと、しばしば。妻に些細なことでキツイ言い方もし、反省。今週は息子も風邪をこじらせたような感じで病院にも通院。だんだん良くなります。今日はジャック・ジョンソンの "HOPE" にリンクしました。


08年 4月 6日(日)   春、晴れ、日曜。右も左も。

 今日は自治会の花見。近くの公園へ家族3人で出かけ、弁当を食し、僕はビールを飲み、桜を楽しみ、近隣の人と懇談す。
 天気は快晴。ちょっと暑いくらいだったが、気持ちよい陽気。まさしく花見日和。ビンゴで当たり、息子が商品券、僕はビスケット、妻はチューハイ。帰りに寄り道し、息子と共にCD屋へ。以前から持ってるビートルズ赤盤・青盤が何年も前からデジタル・リマスター化されてて「買っておきたい」と前から思ってたんだが、それが期間限定で安売りされていたので「思わず買い」。名盤だし、デジリマは欲しいもんね。
 帰宅してから、家の小庭のこぶし、菜の花・姫金魚草の花も携帯バチッ。

 話はちゃうけど、ここんとこあったドキュメンタリー映画「靖国」の自主規制上映中止の動きは絶対おかしいね。週刊新潮から始まり、自民党稲田朋美バカ議員達、それからオフもオンもの右利きの皆さん達、そういう皆さんの大声を黙って見ぬフリ聞かぬフリする日本社会の「空気」のせいなんだけど、とにかく全く馬鹿げてる。あまりにバカバカしい。恥ずかしい国だよ全く。僕はぜったい「買い」だね。早くDVDで売ってほしいわ。

 先日アムネスティからカタログが届き、パレスチナ・オリーヴ・オイルなど注文。今日はイラン首脳、インド首脳、ガンビア首脳、国連(コソボ弾圧絡み)にアムネスティの運動と協調するレターを出す。

 首痛、肩痛、腕張り、腰痛、脹脛張り、足裏痛(なんで?)、鼻不調、ぼーっ。外はいい天気。嗚呼てんこ盛り日記。

 火曜から息子は高校へ。 A new day, a new way, new eyes to see something good !


08年 4月12日(土)   パレスチナのオリーブ

 今週は木と金が「午前様」帰宅。その前も遅かったと思うけど、思い出せない(泣)。

 さて、先日、アムネスティ・インターナショナル日本から、日本のパレスチナ・オリーブという団体がパレスチナから輸入して販売している食用オリーブ油と、プレス・オールターナティブの第3世界ショップがスリランカから輸入・販売しているマンゴーチャツネを買いました。

 パレスチナ・オリーブのボトル裏のラベルには原産国は「イスラエル(パレスチナ)」と書かれています。 この団体のサイトによれば、「ガリラヤのシンディアナ」という、パレスチナ北部ガリラヤ地方(1948年からイスラエル領内)にある NPO が、パレスチナ人農家から買い入れて販売しているもの。

 この団体は、高品質の無農薬栽培オリーブオイルの生産、農家のオリーブ栽培の支援、そして現地の生産意欲と収入を高め、女性の収入源としての「仕事」を創出することなどを目的に活動しています。
 ヨルダン川西岸のナブルス(パレスチナ自治区内)で作られている高品質のオリーブ石けんの外国への宣伝、販売を通じたパレスチナ自治区の産業支援もしているようです。・・・そういやガリラヤもナブルスも、僕が25年前に旅したところです。

 団体のメンバー構成は、オリーブなどの生産をする契約農家、ガリラヤ地方のパレスチナ人女性たち(オリーブオイルのボトル詰め等)、オリーブオイル圧搾工場、そして運営スタッフとして、ユダヤ人とパレスチナ人の平和活動家。
 その他に農業専門家、ボランティアスタッフなどが活動に協力しているそうです。

 はて、パレスチナのオリーブ油は何の料理に使えばいいかな?(って言っても僕は作れない;)
 僕はオリーブ油というと、ギリシャ料理を思い出してしまう。パレスチナでは確かファラフェルって名だったか、チャパティ的?なパンの包みで肉や野菜を包んだサンドイッチ類をよく食べた気がする。あれは美味かった!

 スリランカのマンゴーチャツネはカレーとかに使えばいいんだろうな。

 … 今日の我が家の昼はとりあえず日本蕎麦と天婦羅。
 パレスチナとスリランカから日本に届いた品物は、これからです。我が家でもばんばん活躍してくれるでしょう。


08年 4月13日(日)   携帯

 昨日、息子と一緒にいって、息子が使う携帯を買った。

 これまで息子には携帯を持たせなかったし、そもそも息子自身が携帯をほしいなどと言ったことは1度もなかった。まぁ息子のヤフーメールに友人の携帯からメールが入るんで、PCでは常時チェックしてない限り直ぐに返信ができるわけでなし、用件次第では返事が遅いと思われたりはしたようだが。
 それでも中学時代には携帯ほしいとは言わんかったし、実際、本人の内心も同じくだったものと思われる。

 息子は高校生になったが、悪天候でない限りは自転車で通学する。多少の雨ならやはり自転車でOK。しかし風雨とか豪雨、大雨とかではさすがに自転車はやめた方がいい。
 かといって、公共交通はさして便利ではない。コミュニティバスというのがあって、朝はそれでいきゃいいが、便が少ないから、帰りはかなり不便、且つ終バスも早い。・・・となると、大雨の時や朝が雨で自転車で行かなかった日など、できれば帰りは親にクルマで迎えにきてほしい、となる。

 そんな時、今の世の中、ほんとに不便だと分かった。
 時間次第では母親は家にいて、自宅の電話をとれる場合がある。仮にパート仕事帰りでも、あるいは買いもの中とかでも、母親の携帯に電話すればよい。・・・電話すればよい。ところがどっこい、今の時代、こうなると携帯をもってないと本当に不便で、場合によってはかなり困る、ということがつくづく分かった、先日さっそくあった雨の強い日。

 要は、携帯全盛期に突入して以降、公衆電話というものがほとんど姿を消してしまった。電話をかけて親に連絡したくとも、身近に公衆用途の有料電話機というものがないのだ。電話ボックスもなければ、何年か前まではコンビニ前辺りに突き出してあった公衆電話も、ほとんど見かけなくなった。

 先日はたまたま友人が近くにいた時で、友人の携帯を借りて電話した息子なのであった。まぁ携帯持たずに一人でおったら、急ぎの用件を足すのにほんとに困る時代だね、今更ながら。

 ・・・ま、実はそのむかし、昔々は電話なんて世の中になかったんだけどさ。公衆電話もなかったわけさ。その時代なら、自家用車もまだ少数派の時代、たぶん逆にバスの便はもっとあっただろうな。要は公共交通とかはもっとちゃんとしてたかも。
 ・・・ま、もっと前になると、バスもないわけだ。みんな自転車だ、ははたまた遠くとも歩くのだ!

 しかし、そうも言ってられまい。というわけで、嗚呼、携帯を買うにもこれだけ自分を納得させないと気がすまないのであろうか拙者は、と思えなくもないが、兎にも角にも、息子の携帯を買ったのだ。

 今回の場合、彼自身が「携帯を持ってないと困りそうだ」「というわけで携帯を持ちたい」と意見表明したところで親の方は動いたんだけどね。で、新規ゼロ円の中から、チャラチャラしてない、けっこうセンスよいデザインの携帯を買いました。
 当然、何年も前に買った親のより断然いい。


08年 4月14日(月)   ホルター心電図

 昨秋の健診で心電図に所見、先週月曜早退で地元の総合病院であらためて検査。その結果、もう1回こんどは循環器系の専門医に診てもらうことに。
 というわけで今日は先週火曜に有休申請しての休務日。

 昨秋の職場の健診で心電図所見が出て血尿も出ておまけに毎年のごとく貧血で、心電図は多少気になってたので結果をもらってから3、4カ月経過後(休めないんだよなかなか!)、先週の月曜に若干早退して念のために(まぁ色々なんで)総合病院の内科に診てもらいに行った。貧血は大したことない、尿検も再検したらOK。

 ただし、心電図再検査(若干精密なやつかな?)が予想外だった。特に根拠なく大したことないと思ってたら、さらに進化した結果でナンタラ症候群の疑いありと出てしまい、結局、月曜だけそこに来てる(その日は帰った後だったもよう)、循環器の専門医によく診てもらえと言われてしまったのであった。

 仕事があるんで最初は別件休暇日の 28日の月曜に予約入れたんだが、早い方がいい。まぁそりゃ気にはなる。それで翌・火曜の出勤後に、次の月曜であるところの今日を休めるよう仕事の調整付けて、予約変更して今日の月曜に専門医に診てもらうことにしていたものなのさ。

 これって症状があるとよろしくない。症状的には立ちくらみ(なら確かに残業中に感じたことはあった)から失神まで、ピンキリだってこと。

 で、今日はどうなったか。血圧測った後、胸と背中に聴診器。そして若干の問診。その後、24時間心電図、正式名称(?)ホルター心電図というのをやることになった。

 看護師のお姉さんに、胸部に4枚(だったかな脱いでみないと分からんなぁ、笑)の電極を貼り付けてもらい、それを繋いだ記録機も胸の中央に貼り付けられ、記録機は更に首からぶら下げられた。記録機も貼り付けたんだけど、まぁ万が一剥がれて落ちないようにってことだろう。

 で、明日、夕刻前にもう1回、病院に行って、電極や記録機を外してもらう。結果はだいぶ先らしい。
 5月中旬辺り、もう1回その循環器専門医を訪ね、結果を聞き、また心電図と、それから胸部レントゲンをやる。予約しなくてはならないので、予約した。循環器専門医は週1回。その日に仕事はどうか。カイシャより健康が優先だろう本来!

 ちょっと気になってネットで見たら、「記録機の中に記録された24時間の心電図を、病院や解析センターでコンピューター解析」、「ただし解析はコンピューターだけではまだ不充分であり、技師か医師あるいは両者の作業を要するため、結果をみれるのは2、3週間程経過後」というのをみつけた。まぁ専門医は週1だし、GW挟むこともあって、それより少し長いってことじゃないかな、僕のケース。

 今日は風呂に入れない以外は普通に生活してよい。まぁ寝る時はうつ伏せにならないようにした方がいいかな。
 僕は病院から帰ってきて、いま家にいて、しばらしくたら先週末の持ち帰り仕事を少し(?)やるつもりだ。これはなんだか馬鹿げてるね。馬鹿げてる

 どこかで習慣を変えないといかんのは分かってる。今の仕事(させられ)振りが身体にいいわけがない。もう2004年度からずっと、ひどい環境が手を変え品を変え続いていて、5年目。僕はどこかで自分と自分の環境を変えつつ、仕事を続けていかなきゃならない。カイシャに何か期待できるかどうか、それよりも自分で何とかするってことだろう、周囲を説得し動かすということも含めて。

 まぁとにかく、ホルターさん発明の心電図の世話になる。これで必ず正しく「異常」がみつかるわけでもないようだけど、普通の心電図よりはいいみたい(多分!)。ホルターさんはアメリカの物理学者の名前。ホルターさん、まずは御礼を言います。Thanks!

 そしてまた、ポールさんにも Thanks!
 ポールさんのあの歌に促されるような変化を未だ何も呼び込めないでいる拙者ですが、しかし僕は、勿論あきらめるはずはないのであった。だよねぇ


08年 4月20日(日)   友と会う

 僕は1960年、静岡県の田舎町で生まれた。生まれ育った町、故郷、もちろん心の中の故郷もそこだ。幼稚園に通った後、1967年にその町の小学校に入り6年間過ごし、そして 1973年にその町の中学校に入り3年間過ごした。小学校6年間も中学校3年間も、4クラスでクラスの入れ替えやごく一部の転入校はあったけれど、ずっと同じ学年みんな「同級生」だ。

 一昨日、小中学校が同じだった友と東京で会った。仕事を何とか早めに切り上げて会いに行った。正月にずいぶん久しぶりに会い、それから3カ月ぶりの再会。いま彼は、とても大きなものと戦っている。なのに、僕は彼から勇気をもらっているように感じている。
 彼と、そして俺たち仲間と、みんなの幸せを、僕は願う。


08年 4月26日(土)   毎日疲れるからロネッツを聴こう

 今週は3回、終電に乗れず。H駅が最寄り駅なのにF駅どまりの電車にしか乗れない。

 昨日なんか、昨日なんかってまぁ時間は今日に跨ってんだが、1時5分頃にF駅に着くことになってる電車が、もともと上野駅を遅れて出てやってきて僕は職場の最寄駅のA駅で乗った電車だってのに、京浜東北線だ山手線だが遅れたからって、D駅に着いたら止まってしまい、D駅どまり最終の遅れを待つ、で、D駅でさらに15分以上停止して、ようやく妙な接続してからD駅を出て、家の最寄駅H駅の2つ手前のF駅に着いたのは1時40分。

 嗚呼ABCDEFG・・・何が何だか。妻が車でF駅前に迎えに来てくれて、それで家に向かって帰宅は2時過ぎ。
 それから「晩ご飯」を食べる。

 TVをつけると、『朝まで生TV』をやってた。相変わらず田原は人に喋らせない。堀とか松原とかアールの何とかってバカ社長とか、しょうもない奴がたくさん出てバカなこと言ってた。にもかかわらず、僕はTV消さないまま。まぁ積極的にヒアリングしてたわけじゃないけど。

 自民党のセコウとかってアホが「スキルだスキルだ」と騒いでた。僕は森永氏の方が彼らよりずっとマトモだと思うよ。ってか間違いない。堀とか松原とかセコウとかアール社長とか、こいつらよりずっと僕はロネッツ。うん、ロネッツだ。あいつら、絶対知らないな、他人が酷使されることに何も感じることない悪魔にはロネッツは似合わない。おおビーマイベイビー。なんで僕は仕事持ち帰ってるのかね。嗚呼どっかでやるんだこの休み。けっ!
 まぁロネッツ。


08年 4月29日(火)   持ち帰り仕事なんか ぶっ飛ばせ!

 今日は午前、3月の定年退職者の方からいただいていた手紙への返信を書き投函。
 アムネスティの封筒と便箋を使った。ファミマの前のポストに入れてきた。

 午後はうたた寝のあとに「持ち帰り仕事」。
 なんでここまで仕事をやらなきゃいかんのかね。
 俺は好きでココまでやってたりしないぜ、当然!

 いま中休みでこれを聴く。ロックン・ロール!
 ZEP のアレね。

 まぁぶっ飛ばせったって、また今から「お持ち帰り」に戻るんだけどさ、
 しかし気分は「ぶっ飛ばし」だぁ〜!


08年 5月 3日(土)   バスで帰宅する転がる石

 昨夜はひっさしぶりにバスに乗って帰ってきた。気づいたらビックリ、しばらくバス帰宅がなかった。

 JR最寄駅からのバスは何しろ11時少し前に最終になってしまう。
 バスに乗れていいはずだよなぁ、でも退勤自体がそれより遅いのがしばしば。

 昨日はとにかくバス、しかも??9時前に家に着いた。
 いやぁまるで真昼間じゃないか・・・なわけないか、
 やっぱ夜は夜だったのだが、玄関前の紫色のパンジー、
 携帯写真家撮影してみたけど、ちょっとぼやけた。



ディランが「転がる石のように」をザ・バンドの面々をバックにしてエレキ弾いて歌って、
頭の固い古手のファンからブーイング浴びてもやり続けたのは1966年頃だろう。

"Judas !" (と聴衆から罵声が飛び)
"I don't believe you"   (とディランが応え、やや間を置いてから更に)
"You're a liar !"      (とディランが畳み掛ける。)

そして  "Play it fucking loud."
とザ・バンドの面々に声をかけ始まる "Like a Rolling Stone" ♪

1966年のディラン。これ、僕が持ってるDVD "NO DIRECTION HOME" のエンディングだ。
いいのかぁ w
まぁしっかし、このディラン、なんど見ても鬼気迫るものが。

How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone ?


 僕には帰る家があって、玄関前にパンジーも咲いていて、ギターもあってギターも弾いて、
 元気を出さねばと、いやいや十分元気だぜと思い直すのだった、まったくだぜ、ボン!


08年 5月 5日(月)   ソウルな1日。

 息子の希望で加えた午前の予定、まずは TOWER RECORDS 渋谷店へ。息子は1Fの新盤中心フロアと3Fロック。僕らは4Fのソウル・R&B中心で最後に3Fロックへ。
 息子は今日はCDは買わず、タワレコのメモ帳のみ購入。僕はピーター・バラカンの文庫復刻再編集加筆単行本 『魂のゆくえ』 を購入。それから、オーティス・レディングのCD購入。

 それから所沢の西武球場に行った、表攻撃の日本ハム応援のため。
 今日は当日券に長蛇の列、満員。昨日、外野自由席の前売りを買っておいて良かった。
 試合前に弁当やビールとかを買い、腹ごしらえしつつ応援態勢へ。
 試合は前半と後半がまるで別試合、ダブルヘッダーを観たかのような有り様で、
 途中まで6対0で日ハムがリードしていたのに、終わってみたら6対8の逆転負け。 ・・・ ま、よかろう(笑)。

 それから、有楽町に出てご飯を食べ、上野からフレッシュひたちで帰路に着く。
 家族で休日を過ごし、ピーター・バラカンの本とオーティスのCDを買い、そういうわけで良き日なり。


08年 5月10日(土)   5駅どまり終電の連チャン

 最寄り駅が7駅なのに5駅どまり終電にて。5駅より妻迎え車にて帰宅。ビール飲みつつ晩(?)ご飯食べ、あとは焼酎Rock、それから明け方まで起きててしまった。ってか、帰宅してから夜明けまで、ましてや帰宅後のバンご飯の後、夜明けまでさして長い時間ないのよ、いやはや朝刊は直ぐくるわ、カーテンの向こうが白々としてくるわ、夜明け前から鳥が鳴き出すわ。

 嗚呼、木曜も金曜も同じ5駅どまり終電、その後も同じ。嗚呼そうだ、木曜は(もちろん)バンご飯は軽く食べたものの、アルコ飲まなかったかも。でもレンドのジェネリック飲み忘れ、寝床に着いてから 2,30分で階下に降りてレンド飲んでまた2階へ。朝は定時出勤(まぁいつもより 20分程度遅らせたけどさ)。

 GW明けの平日3日間が了というのに2日連続コレで、もう連休明け初日の水曜の帰宅時間が思い出せない、その日は息子が起きてたのは確かなんだけどねぇ。その水曜夜はアマゾンにて Superfly のファーストアルバム予約注文した、来週届く予定、'80年代生まれなのに '60-'70年代っぽい日本人女性ボーカルなのさ。


08年 5月17日(土)   友と会った

 先月、友と会った。4月18日に会った。金曜の夜、仕事を何とか早めに切り上げて、彼を見舞った。彼は元気だった。僕には元気に見えた。僕は、前向きに生きている彼に、自分が若いころに読んだ開高健のジョークの本を2冊、それから彼が好きなソウルを、と思い、Marvin Gaye のCDをプレゼントした。

 一昨日、5月15日、友と会った。彼の顔を見ることはできた。もう僕は彼と会うことはできない。
 彼は 5月13日の朝、逝ってしまった。僕には、どうしてこんなことが起きるのか分からない。

 彼に贈った Marvin Gaye のCDは、"What's Going on" だった(彼はたぶん自分で持っていたと思うけど)。
 タイトル曲はベトナム戦争に向けたメッセージを込めた歌だけれど、 "Mother, mother, There's too many of you crying, Brother, brother, brother, There's far too many of you dying, You know we've got to find a way, To bring some lovin' here today" という、歌詞の冒頭の部分は、あの日でなく、たった今の僕の気持ちにつながる。本当に思う。何が起きてるんだ、どうしてこんなことが起きるんだって。

 僕らは、もちろん、彼を忘れない。


08年 5月19日(月)   心臓 けんさ 続く

 今日は ホルター心電図 の結果をヒアリング。4月14日(月)に行って翌日まで機器を付けてた 24時間心電図検査。その結果。

 本当は先週月曜、5月12日(月)に来るよう言われ、予約してあったんだが、先週月曜はシゴトの都合わるく1週間延期、予約し直して今日となった。循環器専門医が来るのは月曜日。

 先に(たぶん)通常式の、心電図検査。わりとすぐ終わるやつ。それから胸部レントゲン。それで、しばらくしてから診察室に呼ばれた。

 今日の心電図と胸部レントゲンは問題なし。何年か前にレントゲンで所見出たことある「心臓肥大」ってのもなかった。

 さて、先月の 24時間心電図の結果は如何に。やはり時々「不整脈」が出ていると。その時は同じ 24時間に合わせて、歩きとか夕食、朝食、通勤電車、事務仕事、昼食、事務仕事などなど、「行動記録」も付けさせられていたから、その行動内容と照合。
 医師によれば、運動の後に出るようなタイプの不整脈が事務仕事中の時間などに何回か出てると。いま大きな心配をするものではなさそうだが、心臓の機能に何か問題があってこういうのが出るようだと、よろしくない。念の為、心臓の機能をチェックする超音波検査をやっておきましょうと。看護師さんは心エコーって言ってたな。僕はピンク・フロイドのエコーズが好きです。

 そういうわけで、また近いうちの月曜に検査に行かねばならない。次週はシゴトで無理。シゴトの都合を確認し、都合をつけ、また予約して、来月のどこかで、なるべく早めに検査に行っておこうと思う。


08年 5月25日(日)   ハードな幾歳月、ソウルな日々

 先週は終電乗り遅れ、最寄り駅2つ手前駅行きの終電に乗ったのが2回、旧友の不幸と、いや不幸とは呼びたくない、彼は本当に最後まで闘い、素晴らしい人生を生き抜いたのだから・・・しかし辛い別れではある、そういう出来事があり、故郷の多くの旧友達(クラスが一緒になったことがない旧友も含めほとんど「級友」と呼んでもいい仲間)と再会し、そして戻り、また次週の仕事が続き、週末を迎えた。

 そのうちまた心臓検査があり、同じ週の週末には久方に自身で直接診療を受ける神経科(僕が行けない許容期間は妻が夫の様子について問診を受けヤクだけはいただいてるのだ)。メチコもオパルもレンドのジェネリックもルボも飲み続け、それ以前から幾歳月を重ねるハードな日々。

 昨日はエイミー・ワインハウスのCDを買った。彼女は現代のソウル。今は日本人女性シンガー Superfly のCDかけながら打ってるけど(ヤクじゃなくて HTML言語の入力です!)、60s-70s のロックを感じさせる彼女のボーカルにも、僕はソウルを感じたりしている。

 昨日午前の間はよく晴れていて、自分が床屋に行ってる間、嫁さんに我らが小庭の草木、草花、生命の一コマ一コマを写真に撮ってもらった。山茶花、楓、えごの木。えごの花。えごの花から蜜を吸う蜂一匹。柿の木に咲いた花。実が沢山生り始めた枇杷の木。縁台の上で花を咲かせた花菱草。玄関脇から小庭への狭路に咲いたポピーの花。玄関前で青紫色に美しく咲き誇るネモフィラの花々、そして緑に輝く草、茎、木々。

 1、2枚写真をここに掲載しようと思ったら、どれもあまりにきれいで(嫁さん撮影サンクス!!)、選ぶのが難しい。14枚撮った写真のうち厳選の8枚を未来椎のフォトアルバムにアップ。ここには容量的にきびしいから、文字のみで記録。

 我が家に帰れば愛する家族が待ち、草花に囲まれた環境を得て、しかし(主として?)平日の身体を痛めつけかねないシゴトの山々を乗り越え、どうしたって僕も身体にも気をつけなければならず、そうやって生きる日々にあるわけです。


08年 5月31日(土)   ボノのアティチュード

 今日の朝日の朝刊は大きな「アフリカ特集」が組まれていて、ボブ・ゲルドフ(懐かしのブームタウン・ラッツ!)、ボノ、それぞれの論考が社説掲載頁の社説の右側に大きく出ていたりする。中でも一番のビッグな企画は、センターA〜H面でボブ・ゲルドフとボノが「一日編集委員」を務めて編集に加わった特集頁。これは保存版だ。

 うちは要は読売や日経よりは朝日、産経はカス、当然ながら特に信じたりはしないがそういうわけでたまたま購読紙が朝日、でも今日のは一部余分に買った。
 ネットでは 朝日のアフリカ特集(内容、盛り沢山)
 ボノの論考
 ボノの原文
 ボブの論考
 ボブの原文



 以下は、一昨日、5月29日(木)に未来思惟の日記に書いたこと、こっちに載せたくて備忘録的に書き留めたものをここに記載しておく(HTMLタグ原始サイトより未来思惟に書くのは簡単なので、とりあえずあっちに先に書いた)。



ONE   2008年05月29日 22:52

今日は早め帰宅。9時のニュース見れたもんね。
ボノの言の葉に感動した。多少は面倒な HTML サイトは週末、簡単な mixi では備忘録。まぁ週末にでも自分のサイトに残しておくために。

たまたま勤務先が日本が国連や世銀と共催して開いてる第4回アフリカ開発会議のたーくさんある関連プログラムのうちの一つをやってるけど、その本番会議のために来日したU2のボノのメッセージがニュースで紹介されてた。

長年のアフリカ人道支援に対し名誉博士号が授与された慶応でのスピーチ。

「将来、子供たちの世代から、『毎日 3,000人もの子供がマラリアで亡くなった時代なんて本当にあったの?』と訊かれたら、我々はこう答えられるようにしたい。『そうだよ。本当にあったんだ。だけどお父さんやお母さんの時代にそんな貧困を終わらせるための行動を始めたんだよ』」。

東京湾で、船上での、ボノが彼の作品のファンで友人だという、建築家の安藤氏との会話。安藤氏の「いやぁ東京湾の船上でボノさんと話ができるとは思わなかったなぁ」というコメントは?兎も角として、

ボノ曰く、
「音楽家には音楽家に、建築家には建築家にできることがあり、同じように一人一人にできることがある」。

アフリカ開発会議で、日本の司会進行役(?)の森元総理(!!)に紹介されて出てきて、世銀や国連やアフリカ諸国のエライさんや、日本政府の政治家や官僚たちエライさんを前にして行なったスピーチ。

「ここは単なるお喋りの場ではないと思う。本当に建設的な話し合いをお願いしたい」。
(世銀や国連や日本政府だけでなく、アフリカ諸国の大統領みたいなエライさんに対しても向けられていたことが結構重要なことだ)


昨日の朝刊だったかに、やはり慶応での授与式の後のボノのスピーチの一節が紹介されてた。

「私は大学は出ていないが、知的好奇心がある。なぜ10億もの人が1日1ドルで暮らさなければならないのか、それを理解しようとすることがジツガクだ」。
(続けて「皆さんの力でアフリカの極貧状況を変えられる」「世界は日本のもっと大きな関与を求めている。ぜひ政治家に働きかけて」と呼びかけたことからして、彼の言いたい【実学】の精神の意味はおおよそ分かる。)

慶応の創立者の福沢諭吉の思想や彼のフレーズについてはとうぜん事前に誰かからブリーフィングを受けただろうが、もっと有名でこういう場で使いやすい『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』よりも「ジツガク」の方を選んだのが、ある意味、ボノらしい。
(もっとも『天は人の・・・』も引用したかもしれないが、正確には知らない。)


以前、雑誌のインタビュー記事で、確か、ワイフとアフリカ旅行をした時に見た現実にショックを受けたのが切っ掛けだ、と言ってたのを読んだ記憶があるが、今日のニュースでの紹介によれば、ボノがアフリカ支援の活動を始めてから既に 23年。 23年前というと 1985年で、これはライヴ・エイドに参加した年をさすんだろうけど。

ウィキペディアによればボノは 1960年5月10日生まれ、だはは、俺と同じ歳だ。1985年の俺は世界を回って大学に2年余分に籍置いてから卒業した後の就職したての年だけどなぁ。


欧米や日本、先進国中心の世界がアフリカ支援に(あるいはアフリカの資源ビジネスに!)いま現在のように注目し始めたのはせいぜい前世紀末もいいとこで、本格的には前回のグレンイーグルズ・サミットの前後から。

確かにボノは、1990年代後半の時点で、既に、ジュビリー2000 の運動をしてた。 23年前が始まりといえば、もっと前、1985年から彼はやってるってことになるけど。


今日のニュース映像で観聴きしたボノのメッセージにはあらためて感動したけど、それは言葉そのものだけじゃなくて(言葉の組合せだけでもそこらの政治家連中よりもずっと感動的な作品になってるけど)、やはり本当に、ハートに伝えたいメッセージが、ソウルが込められているからだろう。だから、自然に、人を感動させる言葉になっている。


"ONE" という歌が好きだけれど、実はよーく意味を理解しているわけではない。

メアリー・J・ブライジと一緒に歌った "ONE"
(このサイトのこの日記では上の方でリンク貼った)

実はよーく意味を理解しているわけではない。
でも訳したことがある。ま、とほほな訳なんだけど。

ひとつ



(自分で書いたコメント1)

近ごろ、ミャンマーのサイクロン被害がちっとも報道されない。もっともあの国の軍政の報道妨害も大きいだろうけど。

職場で中国四川の地震とミャンマーのサイクロンの被害救援への募金をやってる。赤十字とか、「確かな」ところに贈るということだけど、そこにちいとばかし、○○円募金して、その3倍の3×○○円を、今日、日本の NGO 『難民を助ける会』が使うミャンマーサイクロン緊急支援のための活動に寄付した。嫁さんが今日、郵便振替にて。

2週間ほどの前の新聞記事に、軍政横流しまで横行するミャンマーで、それを避けるためにあえて手間のかかる戸別訪問をして米や食用油などの生活必需品を届ける活動をしている、と書いてあったから。

今のあの国相手では、そういう活動に寄付しないと、本当にちゃんと、困っている人に物資が届くのか保証がない。

アフリカには何回か、スーダンのダルフール紛争の被害者救援のための募金をしている。ユニセフに寄付しているけれど、まぁユニセフならおおよそ大丈夫、きちんと有効に使われていると信じたい。

幸い今のところ日本国において普通ぐらいに給料を得ている賃労働者として、とりあえず俺にはこれくらいか。 あとはアフリカのジャムを買ったり、アフリカじゃないけれど、パレスチナのために寄付したり支援Tシャツ買って着て外出したり…。そんなところかなぁ。だからどうしたって自分でも感じはするけれど、無理矢理身体を動かすのではなく、せめて何かしようと想う気が起きた時には何かする。



(自分で書いたコメント2)

今日は早めに帰宅できた。なんたって9時のニュースを生で観た。晩ご飯の後、自分ちの庭で採れたイチゴを食べた。幸せなことだ。



(自分で書いたコメント3)

気になって更にウィキペディアでチェックしたら、ウィキによれば、 『1985年、エチオピア飢餓救援コンサート、ライブエイドに参加した後、同国の孤児院で6週間、夫婦でボランティアをした。このとき、自分の知名度と影響力をアフリカの貧困撲滅のために使おうと決意』

とある。やっぱ始まりは 1985年。それもただ単にチャリティ・コンサートに出ただけでなく、その後にエチオピアに実際に行って、地元の孤児院で夫婦で6週間に亘って支援活動をした、っていうのが、いわゆる『並の人』ではない。

上の日記に書いた、以前、雑誌のインタビュー記事で読んだ、ボノが「ワイフとアフリカ旅行をした時に見た現実にショックを受けたのが切っ掛け」っていうのはそれだね。そういえば孤児院で実際に支援活動をしたってのもそれで読んだ、記憶が蘇ってきた。なんだったかな、SIGHT か何かに載ってた転載記事だったと思う。

まぁしかし、『並の人』も考え、想い、その気になれば何かする。自分はボノではないし、そこにおいてはそれでよい。しかし感動するものには感動するわけです。



 この後、未来思惟では、コメント4として、自分で歌いたくて、英語の歌詞も載せた。その後、麻衣未来でない人が訪れてコメントを書いてくれて、何回かコメント交換した。

 ボノのアティチュードには、特筆すべきものがある。ナニも ×× のって修飾がなくてもいいんだけど、これもロックなアティチュードだと僕は思ってる。 


08年 6月 7日(土)   息子の高校学園祭、ライヴ!

 昨日と今日は高1の息子の高校学園祭。昨日が校内のみで、今日は一般開放日。妻と二人で見物へ。

 軽音ライヴは会議室の机や椅子をどかしオール・スタンディングにしたライヴ・ハウス仕様。
 1年生の息子は先発組で、まずはオープニング・アクト。ヴォーカル、ベース、ドラムスが女の子、息子を含むギター2人が男、というわけで女の子3人、男2人。曲はアジアン・カンフー・ジェネレーションのループ&ループ。(携帯写真左:息子は右端)

 一つ別のバンドをはさんで、3バンド目であらあためて息子の登場。
 ヴォーカルはさっきと別の女の子、ベースはさっきと同じ女の子、ドラムスは男、息子を含むギター2人はさっきと同じ、というわけで女の子2人、男3人。曲は中島美嘉のグラマラススカイ。(携帯写真右:息子は右端)

 いやぁ、ギター2人以外が高校に入ってからやり出したというにしては、練習の甲斐あり、けっこうちゃんとできてた。よかったよかった。
 友人や他校の子(?)らも来て、ちゃんと客も入って安心。

 それから写真部の写真を観て、美術部の絵を観て、その後、息子が「上手いから演奏DVDビデオ録画しておいて」と言った特定の先輩バンドの演奏を観て(確かに彼ら上手かった)、その後は定時制の生徒らでやってる店でカレーを食べ(コスプレの女の子がウェイトレス!)、さらに外に出て息子のクラスの企画の屋台で、マシュマロ焼きと焼き鳥を食す。
 息子も煙に目を細めながら、焼き鳥焼いてた(木炭使って本格的!)。焼き鳥は大人気で長蛇の行列。

 いやはや、中学の文化祭に行った時はまだ子供達のっていう感じだったが、さすがに高校になるとそれなりにいろいろ成長してるし、遥か昔の自分の「青春」(?)時代の雰囲気まで思い出して楽しめたのであった。


08年 6月 7日(土)   品川正治さんの講演を聴く

 学園祭はまだ続いていたが、僕と妻はその後、市内で行なわれた品川正治さんの講演会に行った。

 品川さんは1924年生まれの84歳、日本火災海上保険(現・日本興亜損保)の社長、会長、経済同友会副代表幹事・専務理事を歴任し、今は(財)国際開発センター会長で経済同友会終身幹事。

 そんな財界の重鎮でありながら、自らの徴兵体験、中国での戦闘体験等を大事にし、戦争をし続ける国であり且つ金融市場資本主義であるアメリカに只管追随する日本の政財界に、その誤りと日本が進むべき方向と憲法9条の改変反対を直言し続ける信念の人。

 ご高齢でありながら、1時間55分(!)にわたる、熱のこもった講演。正真正銘の知性と教養と信念が伝わってくる、素晴らしい内容だった。

 品川さんのことは以前から尊敬していたが、今日は著書を買い、サインをしていただいたのであった。


08年 6月 8日(日)   久方の横浜

 今日は家族3人で久方の横浜へ。

 まずは横浜スタジアムで当日券。レフトスタンド側外野席。開場前の行列中に妻が中華街に行って中華街の店で弁当作ってもらう。試合開始前に妻も到着し、3人で観戦。もちろん先攻の日ハムを応援。今は交流戦シーズンなのだ。
 天気が心配されたが、雨も降らず後半は晴れ間も多くなった。妻が買うてきてくれた中華弁当も美味かったし、ビールも美味かったし、ビール売りのお姉ちゃんも可愛かったし、試合も勝利。

 試合は先制は横浜だったが、稲葉のホームランを口火に日ハム打線が爆発して、9対3で勝利、勝ち投手は5回終了まで投げた藤井。試合後、負けた横浜のファンが帰った後も続いた日ハム応援団に混じった応援大会(?)も面白く、文句無しの結果。
 横浜スタジアムは二十代の頃の昔々コンサートを観に2回行ったことがあるが、野球観戦は初めて。ドームなんかじゃなくて広い空がよく見え、周囲の高過ぎないビルややや遠めにマリンタワーも見え、開放感抜群で大変よい。いい球場、気に入った。

 その後は、山下公園に行こうと思ったが、大桟橋の風景が以前と変わってたので(なんか斬新な建物が出来てた)そっちに行き、さらに赤レンガ倉庫の方へ。

 その辺、以前確かに赤レンガ倉庫があったと思うが、ずいぶんいいところで市民が遊びに来れる「赤レンガパーク」になってた。倉庫の中には沢山のお洒落な店、いくつかのレストラン。そのレストランの一つに入ってピザ、パスタ、ハッシュドオムライス、サラダを食す。美味なり。僕はハイネケンも飲む。いい気分。

 店を出ると港の方、ベイブリッジの方の夜景が美しく、写真撮影。赤レンガ倉庫もきれいだった。僕の撮ったのは携帯写真。右側に写ってるのは港の夜景をデジカメ撮影する妻なり。

 パシフィコ横浜や大観覧車の方の夜景を観つつ、散歩感覚で桜木町駅に向かう。ランドマークタワーを右に観ながら、駅に着く。それから電車乗り継いでの帰路へ。よき休日なり。
 明日は息子はもちろん通常登校、1限目と7限目は学園祭の大掃除・片付けやワックスがけ、残りは通常授業の再開なり。妻は出勤なり。拙者は心臓再々検査の心エコー検査なり。


08年 6月 9日(月)   秋葉原で。

 昨日の楽しい家族の休日の日記に、あやうく書くところだった。しかしさすがに同じ日記の中に書く気はしなかった。

  関内の街を歩いていて、朝日新聞横浜総局の前を通り過ぎる時、建物の前にあるニュース記事が貼られているコーナーが視界に入り、一瞬、「秋葉原で通り魔、7人殺害」という記事が目に留った。しかし、まさかニュース速報、臨時ニュースの類と思えず、過去の各種ニュース記事が貼られているものとしか感じられず、そのまま通り過ぎていた。

 帰りの電車、日ハムがセパ交流戦の首位を争っている楽天の試合の結果を見たくて、携帯のニュースのチェックした。一番上の方に、秋葉原の通り魔の事件が出ていた。

 驚いた。同じの昼間のことだったのだ。僕が横浜スタジアムの外野席に座り、息子が外野席のセンター側の前の方に行って練習中の日ハム・チームを見物し、妻が中華街に3人の弁当を買いに行っていた時のことだ。

 電車の中で息子にニュースを見せると、息子も朝日の横浜総局のところで記事を見た、そして、息子も僕と同じく、昔のニュースが貼られていたものだと思った、ということだった。

 秋葉原なら何回か行ったことがある。秋葉原に行ったことがある、あそこを歩いたことがある人はものすごく多いだろう。昨日のその事件が起きている時間帯に秋葉原を歩いていた人達の数もものすごく多かったはず。

 秋葉原なら、例えば、息子がもっと小さかった時、息子が好きな電車のNゲージ模型を買いに、秋葉原にある専門店に行ったこともある。僕と妻と息子と、3人で行って、秋葉原の街を歩いた。

 わりと最近では常磐線の荒川沖の駅でも似たような事件があって、何人もの人が突然通り魔に襲われ、何人もが命を落とした。

 昨日の秋葉原は、最悪の休日の秋葉原だったことになる。確かに昔からこういう事件はある。昨日今日、去年今年に始まったことではない。しかし、狂ってる、としか言いようがない。

 昨日の事件も、荒川沖の事件も、犯人は 20代半ばだ。昨日の犯人は、職業は定職でなく非正規雇用の不定期の労働者。構造「似非」改革が悪化させた格差社会の中で起きた事件とか、何か理屈を言おうとすればできないことはない。
 しかし、今は、はっきり、狂ってる、としか言いようがない。

 犯人は「世の中が厭になった」と言っているという。「世の中」に対して、得体の知れない敵意と憎悪と絶望感もしくは勝手な絶望感を持っていたことは間違いないだろう。だからと言って、こんな事件が許容される理由は欠片もない。

 しかし、「世の中に」、「敵意と憎悪と絶望感もしくは勝手な絶望感」を抱いている人間は決して少なくないだろう。今の時代、もちろん「秋葉原」周辺、東京周辺に限らず、「世の中」には相当数のそのような人間がいるだろう。
 考えたら恐怖に戦慄するはずだ。こんなことをいつ誘発するか分からない、人間の、「世の中に」対する、「敵意と憎悪と絶望感もしくは勝手な絶望感」が至る所に存在する可能性がある。怖ろしいことだ。


08年 6月 9日(月)   心臓エコー検査

 今日は心エコー検査。心臓の超音波検査。昨秋の検診でナンタラ短縮とカンタラ調律が出て、ナンタラ短縮は何年か前も出たことあるし、しばらく放っておいたが、新年度に入ってからやや気になり出し、やっぱ指示通り再検受けておこう、と。

 4月に掛かり付け総合病院に行き、心電図の再検受けると、ナントカ症候群の疑いあり。念のため循環器専門医に診てもらいなさい、と。

 それで週1の循環器専門医に行き心電図記録チェックしてもらうと、「確かにこれは」ということになり、ホルター心電図、24時間心電図やってみましょう、となり、電極や記録計を付けたまま食事、就寝、出勤、就業などなど。併せて同じ時間帯の行動記録を記録。そんときの日記
 これらを病院に出して、結果は解析センターへ。

 5月に結果を聴きにいき、その日に再びやった通常型の心電図とレントゲンでは特に所見が出なかったが、ホルター心電図の結果は問題あり。
 行動記録と照合すると、デスクワークなどの時間帯に複数回、運動後に出るような不整脈、頻脈の症状。

 それで本日の心エコー検査となりにけり。
 結果は、
「現在、心臓機能は特に問題なさそう。心臓肥大もなさそう。」
「ただし、24時間心電図は今後、年1回やるようにした方がよい。」

「それから、動悸や頻脈、不整脈が自覚症状として感じられたら要受診。」

 職場の検診では何年か前にもナンタラ短縮所見出たことあり、心臓肥大も。
「現状としては、心臓機能はいま特に大きな心配というものはないでしょう。」
「心臓肥大はエコーが一番正確なので、現状OKと思われる。」

「頻脈の傾向はあります。」
「規則正しい生活が一番よい。過労やストレスは心臓によくない。」

 まぁ現時点、医学的に原因が厳密に突きとめられたわけではないけれど、要するに、過重労働はオレの心臓に相当によろしくない、ということ。

 過重労働は相当によろしくない、ということ。いいわけないじゃん。そういうことなんですよ、皆さん! 拙者、要注意なんだよ。頼むよ、おい。