08年 6月14日〜 8月 2日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)


08年 6月14日(土)   Punky Bad Hip



 えっとまぁ、12時間以上前、2008年06月14日の午前2時35分、未来思惟に書いた日記ですね、そこから転載編集ですねぇ。

 帰って来た。食べた。飲んだ。PCつけた。

 終電に乗れたにしては、ストレス肥大。

 エライ人達のビヘイビアは色々。親切か、配慮か、はたまた自己保身か、突如、情報をタイムリーによこす(突如なのがポイントで、一貫してじゃなくて突如なので、情報が来ないよりはいいが、うまくいくとも限らない。まぁそもそも、これは少数)。
 自己保身、いやそれよりもっと貪欲な(?)自己のテリトリーの利便の為だけにまるで頓珍漢な連絡や指示をする。
 そもそも没交渉、連絡もナシ。
 そのほか色々、まぁよいことは残念ながらほとんどない。よいことは限りなくゼロに近い。

 そのうえ、同一人物が突如アレになったり、コレになったりもあって、付き合いにくくて困る。まぁそれでも付き合うのが組織人としての賃労働者、それは承知しております。

 もうさぁ、××課長じゃなくて××室長にでもして、せめて俺に、対等と言わずともそれに近い権限をよこしてくれないのでありましょうか。カネは特に上がらんでも今までの感じでもよいことにしてもいいかなぁとまぁこんなふうに思っているのですが、何しろ優先なのはガキの使いのようなやり方で対応するよりも、今まで以上にカイシャ様に貢献したいんでありますよ、何だったら、さいあく労働時間すら許容します、そうです、これは、さいあく、ってことですが。

 うーん、こんなにストレスと長時間労働の過労では、益々もって心臓によくないし、そりゃもう神経科的にもよろしくない。まぁまぁ、こんな時は俺の歳にしては青いのだろうが "Punky Bad Hip"


08年 6月14日(土)   ヤクいただきます

 ヤクいただきました。直接の日。ここんとこ午前4〜5時頃に目覚め、あと眠れぬこと多し。はっきり目覚めなくとも、朝は特に浅い眠り。目覚めた時には、直前まで見てた夢の内容が、はっきりとした記憶で残ってる。土日はまぁまぁよいように思うが、平日の朝はこんな感じがずっと。

 ふむふむ、デパス。ジェネリックでデゾラム。安定剤ではありますが、ブロチゾランと同じように就寝前、一緒の時に飲んでよいです。目覚めてからでもいいが、一定の時間効くと、起床する時に効き目が続いていても遺憾だろうし、まぁ昼間飲んでもいいヤクですが、このケースでは不眠時に使うってことで。
 ブロチゾランとルボックスはこれまで通り、決まった通りに服用。デゾラムは必要と考えるとき、つまり睡眠不調時期に適宜、ってことでよいでありましょう。

 ちなみに私はこんどから平日になってしまうのです。来月からは××女子医大の先生が土曜再診担当し、平日もいます。やはり土曜でないと定期的にはきびしいんですよね、お仕事上とか。ちゃんと引き継いでまいりますから大丈夫です。

 おお承知の助。というわけで今日はルボックス、ブロチゾラン、デゾラム。デゾは適宜ね。ってなわけでして、まぁ今日は土曜だが、まずは試し呑み(酒じゃないや、試し飲み)してみましょうかね。


08年 6月20日(金)   多摩蘭坂な日々

 未来思惟に打った日記から転載編集なり。

 水曜(ってか木曜)、午前0時20分過ぎに退勤、勤務先玄関と正門を夜勤スタッフに開けてもらい、駅まで走る。 密度もいつもに増して濃く、正直、吐き気がした(きたねぇ)。

 妻に電話、最寄駅2つ手前行き終電につき、夜中の1時過ぎの迎え車を頼む。すまん。

 駅に着き、深夜の Highway 61(←嘘)を飛ばす。帰宅は2時よりは前。それからバン飯。ビール。350ml缶すら飲めず、妻に若干ヘルプ頼む(何でも頼むのか)。

 朝7時に起き、8時45分にはデスクで仕事を始めている。
 木曜は22時半の電車に乗れた。妻に電話。最寄り駅には着くも、バスはない。妻の運転する車で帰宅。
 帰宅は23時半よりは前。早いのか遅いのか? 家に入る前、玄関の前、左に白い花を確認。美しい花。妻に花の名を尋ねる。「オーニソガラム」。


 金曜の帰り、初めてJB線のグリーン車両に乗っちまった、前に公式グリーンになる前のただ車両には妻子と遊びで乗ったことあるけどねぇ。

 疲れて虫の息(ってなんだ?)状態だったから、カネより健康優先。やむを得ない。そんな超疲労健康優先用グリーン代なんてカイシャから出てないけどなぁ酷奴荒2省や座位0省みたいに。

 金曜は22時10分に乗ったもんね。水曜の24時35分の最寄2駅手前終電のしかも遅延車乗り除けば格別遅いってわけじゃない(ってか)、しかし今週密度もかな〜り濃くて疲れて嘔吐感。「嘔吐」ってか拙者サルトル『嘔吐』読んでない、ってか何でここで教養を出すのか、ってだから読んでないって。


08年 6月21日(土)   Lively Up Yourself な屋形船

 今日(ってか昨日)は幼小中同じだった旧友たちと屋形船。

 浅草の雷門にて待ち合わせ。

 毎年1、2回会う友から、数十年(?)ぶりの旧友まで。

 生まれと育ちを共にした仲間との酒は格別。単に生まれと育ちを共にしたということからではなく、生まれと育ちを共にしたことによって濃密な時を共有した仲間だから、なのだと思う。

 まぁそんな理屈はあとから組み立てる話で、理屈抜きで格別、しかし理屈は何か、と言えばそういうことが大きいのとだと思う。

 それから上野に行き、旧友のうちの一人、親友と、それから、先月、本人が「崇拝」してたというスティーヴィー・ワンダーの誕生日と同じ日に逝った旧友の弟と、3人で飲んだ。

 旧友、親友との絆は、言葉で表すものとは違う。


 だから「言葉」はここまで。余談を一つ。屋形船のカラオケで "No Woman No Cry" を歌ったら、コンパニオンのお姉ちゃんがボブ・マーレイのファンで長いこと親しく話した。普通、携帯きくか?(笑)。俺は訊かん。そういうわけで、マーレイさんの数多い名曲の一つを貼ろう、 "Lively Up Yourself"


08年 6月29日(日)   48歳の時の親父、48歳を迎えようとする自分

 6月25日、兄貴より、素晴らしい贈り物が届いた。贈り物の入れ物のカヴァー表の写真。それから裏の写真。 なぜか横に(笑)、我が家の小庭でとれた枇杷の写真を。

 1970年代後半の親父の歌声のCD化。さらに若き頃、のど自慢「荒らし」で鳴らした親父の歌。

 田舎の古い、今は我が家でない当時の自宅で録音した、その時のこともよく憶えている。しかしまぁ、よくこの歌声のマスターテープをずっと保管してたもんだ。確か、ずっと実家に保管してきていたはず。

 この歌声を持つ親父も素晴らしければ、今ももちろん親父とともに人生を歩むお袋の生き様も素晴らしければ、30年前の音源をいまCD化した兄貴も素晴らしい。いやぁ身内を褒めてどうする。ってしかし、みんな偉い!

 親父の音楽センスに共感するのは、親父が(まぁたまには歌うが)基本的には演歌を歌わず、専ら歌謡曲を歌うということ。 いまCDにして甦った、50手前の頃の親父が歌う「昭和歌謡」。CDのカヴァーには、『歌謡大全集』と印字されている。
 親父の「前説」、「大いに語る」、そこかしこに語りを入れながら歌う親父の歌声。昭和の名曲、10曲。1曲はお袋が歌っている。

 30年前にカセットデッキで録音された音源が、この間ずっと大事に田舎の家で保管されてきた、そのマスター・テープのカセット・テープの音が、兄貴の自宅のスタジオでCD化された。2008年6月15日。

 これはもう僕には永久保存盤。魂の歌をソウルと呼ぶなら、ソウルそのものというほかない歌声。俺にとって、レイのこの歌声に優るソウルです。


 さて、ここで書いておきたいこと。もっと自分が若い頃には、カセットでは何度も聴いたことがある音源だが、今回、久しぶりに聴いてみて、聴いているうちに、えっと感じた、言わば「発見」のようなものがある。

 親父は歌と歌の合間に「語り」、あるいは時には歌よりも「語り」、人生を語っているのだが、そして、その録音の時には俺は兄貴やお袋と共にその場に居たし、よく記憶していて、聴けば記憶が甦るくらいに思えるのだが、そしてそれまでその記憶の中身には何も「不思議」を感じることはなかったのだが。


■ 親父は当時、48、9歳

 今回、あらためて思った、その時の親父の年齢。
 兄貴が作ったCDカヴァ―にも、録音は「1977年 1月1日」、「1977年 1月4日」、そして「1978年 8月12日」となっていて、要するに、昭和52年の正月と昭和53年の夏。

 昭和3年 9月生まれの親父は、その時、48歳。そしてもう1回は、50になる直前の49歳。
 その時、昭和35年 9月生まれの俺は高2になる前の高1の正月。もう1回の方は、高3の夏休み中。

 当時の親父の年齢にはたと気づいた途端、えっと思った。当時も、その後に振り返って思い出した時でも、何の不思議も感じたことはなかったが、しかし、あの時の親父はまだ48、9の年齢だったのだ。


■ 俺はもうすぐ、48歳

 俺は1960年 9月生まれ。来年、2009年の正月が、親父の「1977年」正月と同じ年齢に当たることになる(ついでにこれも一致するんだが、親父と俺の年齢差が俺と息子のそれと同じで、1992年 9月生まれの息子は、来年の正月が「高2になる前の高1の正月」)。


 その時、つまり当時の親父と同じ年齢の俺が、あの音源の中にある、つい最近、兄貴がCD化したあの中に録音されている、当時の(同じ年齢の)親父のように、「人生を語る」ことができるか?


 答えは簡単だ。来年の正月の俺に、あんなふうに「人生を語る」ことなどできっこない。


■ 親父が既に到達していた「人生のある地点」

 正直、驚いた。親父が、息子である俺なんかより、そして俺にはほとんど話を聞いて想像するほかないし(後期の様子ならガキの頃の俺の記憶の中にも少しはあるんだけど)、それはもうまさしく比較するような類の違いとは異なるレベルなんだが、要するに桁違いの艱難辛苦を乗り越えて人生を歩んだ人であることは理解していたつもりだけれど、それにしても、あの当時の親父が、今の俺と同じぐらいの年齢だなんて。


 つまり、こういうことなんだろうと思う。親父は、既にあの年齢のあの時代、自分の人生の道程の中で一つの「何か」を獲得していた。収穫していた、というべきかもしれない。少なくとも、ある「何か」の地点に「到達」していたことは間違いない。

 そう思えば、なるほどと、48、9にして「人生を語る」語り口でものを語っている親父のことが、今の俺に理解できるような気がする。といって、48、9を目前にしている今の俺が、そのように「人生を語る」地点にいる、もしくは近づいている、とはとても思えない。それもまた確かなことなんだが。


 実際、自分が子供の頃の世情や、あるいは、例えば結婚したばかりの頃に妻、つまり俺のお袋と、川沿いを二人で歩いたものだった、そういうことなどを語りながら歌を歌う、当時まだ48、9歳だった親父のその様は、どう考えても、今やもう当時の親父と同じ年齢になりつつある現在の俺の在り様から遠いところにある。

 いや、あらためて、発見したんだが、あまりに違う。しかし、それはそれで、俺にとっては、ためになる、小さな、しかし大きな、よく考えてみれば何も不思議はないことだけど、それでいて感慨深い発見なのだった。


08年 7月 5日(土)   満身創痍氏、破れかぶれに笑うの巻

 今週は火曜が終電帰り、日曜辺りからの喉風邪も7度超の微熱併発になってたけど、こんなんじゃシゴト休めず、
 木曜は終電にも乗れず最寄り駅より2駅手前が終着の終電、しかも山手線が遅れ(ってあれ周回だろうが、笑)、その電車も遅れ、家には2時前には着いたけど、それから晩飯食って3時過ぎに寝床について、それから3時間半程度、7時には起きていつも通り出勤、いつも通り8時45分にはデスクについてシゴト開始(嘆)。

 おかげさまで、真ん中の水曜の帰宅時間がぜんぜん思い出せん! まぁ月と水と金は終電ではなかった。ん? 水曜もあやしいかな。だから思い出せんのだって。酷過ぎるんだから俺の勤務実態。

 いいかげんにしてもらい! 倒れたら替えるコマぐらいにしか思ってないんだろうが。
 おい、たのむぜ!

 Listen to Monty Python's "Always Look on the Bright Side of Life" and Keep smile !


08年 7月 6日(日)   パラダイス・ナウ

 "PARADISE NOW" を観た。この時リストアップした映画 のうちの1本。

 妻と一緒に昼前に観た。おかげで昼飯はちょっと遅くなった。息子やすまんな。まぁお前もいつかこれを観るといい。

 「パラダイス」という来世、「ナウ」という現在を繋げる矛盾をそのままタイトルにした映画。自爆攻撃に向う前の48時間の葛藤が描かれ、1人は断念し、1人は決行する(ところまでは描かれていない)。
 パレスチナ情勢を背景に置きながら、観る者を自然に引き込んでいかせるようなスリルあるストーリー展開で、且つ、静かに感動(というか何とも言い難い哀しみというか)が伝わってくる秀作映画だった。僕の映画評?の詳細はこっち

 撮影地であり物語の舞台であるヨルダン川西岸の被占領地ナブルスは、1983年に僕も訪ねている街。
 「そこの商店は近くからイスラエル軍に対する投石があったという理由でイスラエルに閉鎖されたんだ」、「先週、あの角でパレスチナ人2人がイスラエル兵に殺されたよ」、といった話を地元で直接聞いたものだった。
 しかし、あの頃は隔離壁まではなかった。残念ながら当時よりも今の方が悪化している。

 それでもパレスチナ人はあきらめていない。というより、あきらめたら生きていけないのだと思う。あきらめずに生きるか、絶望して最後には「自爆攻撃」をするのか、あるいは絶望感に苛まれながら気力を失いながら生きるのか、時には前を向いて生きるのか。
 イスラエル、アメリカ、それらを陰に日向に支える日本をふくむ偽物の「国際社会」に無視され続け、一部からはたまに偽物の「慈悲」の声をかけられつつ ・・・ 彼らの生ほど厳しいものが世の中にあるだろうかと思う。


08年 7月12日(土)   危険水域から出なければならぬ

 7月11日(00:18)ってわけで 7月10日(木)夜中過ぎ時点の未来思惟日記より。
 ・・・まぁこれは拙者的には遅かないんだが、21時45分定刻 3分遅れ電車に乗車、帰宅は 22時40分過ぎか。ビール飲んで飯食ってPCつけてウダウダっとしてるうちに0時過ぎ、拙者的にはそうわるくはない(哀しい可笑しい)。
 しかし退勤時、就業記録システム入力中にハタと気づいたのであった、ほぼ連日昼休みも半分はデスクにへばり付いてシゴトしてるにも関わらずシステム上は自動的に昼休み1時間分差し引かれ、且つ嗚呼今日はやっぱ長時間労働で非効率だねぇと思えばそれなりにシステムに自分でご丁寧に「休憩時間」を多く入力して差し引いたりするようなキャラの俺なのに、とりわけ先週のとんでもない労働時間もあって、今月、現時点で 10日(木)まで勤務、土日除くと出勤日 8日、しかも上記のような就業記録上の状況にも関わらず、ここまでのペースは月間【残業】時間:100時間超のペース。
 こりゃ厚生労働省的に危険水域だな。

 7月12日(03:18)ってわけで 7月11日(金)朝 8時50分から勤務して昼休みも30分半分のみ、ずっと続いて 7月12日(土)午前0時15分過ぎに退勤してから更に1時間半後の帰宅その後のビールと晩飯後の未来思惟日記より。
 ・・・退勤0時15分過ぎ、門をフロント夜勤スタッフに開けてもらって出たのが0時20分頃、終電なんかなく、最寄駅2駅手前行き終電、しかも例によって遅れてきて更に途中で遅れた電車に乗り、電車乗車前に電話して迎えに来てもらった妻運転のデミオに乗って帰宅、それからビール飲みつつ晩飯、俺は直ぐに床に就いても眠れんから妻に先に(って言っても遅い御免)寝てもらって。
 いよいよヤバイ今月、特にひどい状態かもの今月・・・

 今日午前、妻が熱7度5分、それから7度8分、病院から帰宅後に8度9分。
 昼食べて処方薬飲んだ後に7度8分。いまは水枕で横になってる。

 カイシャ、俺のうちを壊すな。ってわけで厚生労働省基準危険水域から何とか出なければならない。出なければならないのである。
 くそっ。絶対オレはやられないぜ。


08年 7月19日(土)   KSRD省の基準の危険水域、超!

以下、未来思惟に入れてた記録から。

月曜。
今日ってか昨日ってか23時40分過ぎ退勤、23時45分職場を出、駅に走り23時54分発の終電に乗り、K浜T北線の遅れ(嗚呼ジンシン事故だという)のせいでTD駅止まりの電車にTD駅で接続してやって5分程度遅れ、今日ってか今日午前0時40分頃着、風邪上がり「熱下がったから大丈夫だ」という妻(嗚呼ほんとにダメ夫) の迎え出美緒に乗り帰路、帰宅、今日ってか今日午前1時よりは前、
風呂から息子「お帰り!」、ビール晩飯、椎間板オパルモン・メチコバール、神経ルボックス、これからレンドのジェネリック飲んで寝る未だ月曜ってか火曜未明。

火曜。
今日ってか昨日ってか23時15分退勤、23時16分に職場を出、普通に歩くと13、4分の駅ホームまでひた走り、 しかもホームで西瓜定期によるグリーン席自販機にて支払、23時24分発の電車に滑り込み、重役給料とは月&スッポンなのに緑車両、
(昨日もグリーン乗っちまった疲弊のため)
今日ってか今日午前0時過ぎに最寄駅に着き勿論バスなく妻の迎え出美緒に乗り帰路、帰宅、今日ってか今日午前0時15分に家着、
2階から息子「お帰り!」、ビール晩飯、椎間板オパルモン・メチコバール、神経ルボックス、これからレンドのジェネリック飲んで寝る未だ火曜ってか水曜未明。

水曜。
木曜の午前0時20分過ぎ退勤、職場出たのは0時24分、就業記録には終業0時15分と入れちまったし、朝8時50分より前に始業、から、ほとんど休んでないのに計算面倒くさくて休憩25分と入れちまうし。
システム上、自動的に昼休み1時間分差し引かれるのに、実際には昼休み時間帯の半分30分以上はデスク張り付き勤務、よって凡そ1時間ほど少なくシステムに計算されちまうが、
まぁ兎に角、TD駅どまりの最終に乗ったものの、KT線の遅れとやらで、AB子どまり最終を待ち同駅で延々停車、結局15分以上の遅れ、TD駅にて待ちの迎え嫁さんクルマにて帰路へ、帰宅は午前2時より若干前か?
それからビール晩飯。

木曜。
今日ってか昨日ってば、前日ってか昨日未明?よりは1時間以上早く、23時15分の退勤、駅まで小走り、23時24分発の更に2分遅れの電車に乗車、最寄り駅に 0時2分ごろ着、妻の迎えの出美緒に乗り帰路へ、0時15分ごろ帰宅、玄関手前の自宅郵便ポストにてカエル発見!
シャワー、ビール晩ご飯。

金曜。
今日ってか昨日ってか時間は今日だってば午前0時20分過ぎ退勤、TD駅どまり最終の6分遅れの電車に乗車、TD駅にて迎えの妻の出美緒に乗車したのが、午前1時13分、夜中の国6空いてるぜ、帰宅は午前1時36分、玄関前ポストにて、カエル3匹。
その後、バンご飯、ビール。

記録必要、しかし時間節約のため、電車や帰路クルマ内で打てる範囲だけ打ち、携帯からPC宛てメール、それをPC受信、未来思惟コピペして記録。

厚生労働省の基準の危険水域、1ヶ月当たりの残業時間、100時間じゃなくて 80時間、
100と思ってたが記憶違い、今朝ってか昨日の新聞記事で認識。ヤバイ。

もともと俺のカイシャの就業規則上の、俺には完全形骸化
の所定労働時間は、1日7時間15分、管理職は何時間超でもカネ同じ、
で、労基法の法定は1日8時間。

まぁ後者で計算したって、昨日?で、7割超、
今日?で、かる〜く 7割5分超、

最終的に かる〜く 10割超 となるのは当然の帰結。

えーっと、裁判になると軽く勝てちゃう水準。

・・・冗談じゃない。ま、しかし、実態ベースでいえば、
既に何度も何度も超えてきた。

でも、もってんじゃん!!

カイシャ、俺を壊すな。
俺のうちを壊すな。
ってわけで厚生労働省基準危険水域から何とか出なければならない。出なければならないのである。
くそっ。絶対オレはやられないぜ。


08年 7月22日(火)   一番大事なもの。

KSRD省基準との「仁義なき戦い」 を若干、休戦。
帰省。
祖父母の仏壇に、俺、妻、息子、3人で線香をあげる。

9月に80になる親父、8月に喜寿を迎えるお袋と、親父お袋にとり次男夫婦と孫である我々、5人で夕食を共にす。

俺は運転免許もってきてなかった。親父の車を妻が運転、途中、花をふたつ買う。それから、親友の実家を訪ね、共に、旧友の墓に墓参りする。そして、親友の家の墓の墓参りもさせてもらう。

高台の墓地からは、俺たちの中学の緑が見え、眼下に故郷の町の一部が見える。絶妙の景観だと思う。
3ヶ月前に東京で入院中に見舞った時には闘病中にもかかわらず元気そうに笑顔を見せた彼は、今はそこに眠っている。

自分の家の墓の、墓参りにも行った。

甥、つまり息子の従兄弟がやってきて1泊。息子、喜ぶ。

夜、旧友たちの飲み会に参加。親、友、故郷、ありがたきもの。

家にいる間は横になってばかり、ひたすら横になる俺。でも未来思惟には記録を打っておいた。

祖父母の仏壇に、俺、妻、息子、3人で線香をあげる。

親父の車で駅へ。
電車がホームにやって来た。
乗車して、親父お袋に見送られる。親父お袋の、どこか寂しそうな顔。

こっちの家に着く。故郷の家に電話する。電話の子機の向こうから、昭和歌謡の歌声が聞こえてきた。親父は、親父が喜寿の時にお祝いで俺が贈ったCDを聴いているところだった。親父の元気な声。
お袋は、庭の草むしりをしていた。
親父お袋の益々の長寿を願う。当然のことだ、いろいろあるにはある、しかし当然のように俺は親父お袋の長寿とこれからも末永き幸せを願い、祈り、そして願う。

俺はカイシャでの賃労働で俺たちの暮らしの多くを支えている、だけど、一番大事なのは俺の家族であり、それを支えていく大きな要素の一つである俺自身の身体であり健康であり、俺にとって大切な、「法事」なのさ、
俺の大切な旧友の墓の墓参りをし、家の墓の墓参りをし、俺の身体を酷使する業務からほんの少しの間だけでも距離を置き、
家族と、家族を支え家族と共に生きるべき俺の、その健康を、俺は、守らなければならない。

KSRD省基準との「仁義なき戦い」 はまた、明日から。それにも勝つし、その後も勝つし、ずっと俺は俺の大事なものを守り続ける。

カイシャ、俺を壊すな。
俺のうちを壊すな。
ってわけで厚生労働省基準危険水域から何とか出なければならない。出なければならないのである。
くそっ。絶対オレはやられないぜ。


08年 7月27日(日)   厚労省基準の危険水域を超える。バカヤロ!

以下、未来思惟に入れてた記録から、水木金3日間。

23日(水)
未来思惟の日記用に、 いつも、帰路の電車や妻迎え出美緒から携帯メールを打って自宅PCに送信し、
帰宅時刻など帰宅して分かる部分だけ後で加筆等してるわけです。

記録は必須、極力、意地でも記録、携帯メールは時間節約のため。
今日ってか昨日、いつもの如く 8時45分 には出社して直ぐ勤務開始、 23時40分過ぎ退勤、23時45分に職場を退出。

走って駅へ、何時間の残業しようが変わらぬ課長給、もちろん?重役様とは雲泥、俺はマディながら、疲弊のため、また緑車両に乗車、23時54分発の終電。午前0時30分過ぎ、最寄り駅に着。
妻迎えの出美緒に乗り、午前0時45分、帰宅、それからバンご飯。

24日(木)
帰路電車、妻迎え出美緒から携帯メールを打って自宅PC送信、帰宅時刻など帰宅して分かる部分だけ帰宅後に加筆等。
今日ってか昨日、いつもの如く 8時45分 には出社して直ぐ勤務開始、今日午前0時20分過ぎ退勤、0時25分に職場を退出。

走って駅へ、午前0時35分発のTD駅どまり終電。
午前1時5分過ぎ、俺の最寄り駅から2駅手前のTD駅に着。
妻迎えの出美緒に乗り、午前1時10分ごろ発、午前1時40分よりは前かな、帰宅、それからバンご飯。

25日(金)
今日も帰路電車内から携帯メール打って自宅PC送信、帰宅時刻などだけ帰宅後に加筆。
今日ってか昨日、 8時42分 には出社、8時45分には既に勤務開始、 今日ってか昨日、23時45分に退勤、
走って職場を退出。走って駅へ、乗車、23時54分発 の終電。午前0時30分過ぎ、最寄り駅に着。
妻迎えの出美緒に乗り、午前0時43分、帰宅、それからバンご飯。

殆どの日の昼休み時間帯は(今日も)、半分(30分)以上デスクで勤務なのに、就業管理システムでは自動的に、実態よりずいぶん多いカウントの昼休み1時間として引かれ、

おまけに律儀にも?更に加えて多めに休憩時間入力してるにもかかわらず、

だから相当に、少なく計算されてるにもかかわらず、今日ってか昨日の25日(金)で、
既に、今月の超過勤務時間が、ついに 90時間を 超えた。

俺のカイシャの俺には? の就業規則上の所定勤務時間/日は 7時間15分、
法定が 8時間/日
なので、それを精算して法定時間換算の超過勤務時間にしても、 80時間。

今月の出勤日はあと4日間あるのに、

既に、厚労省基準のキケン水準になった。今月、キケン水準の大幅超過が確定。

はて、俺のとても親しい友人が、そのとても親しい友人自身の窮状に際して、こんなことを言っている。
エライさん達よ。必要になれば裁判でも何でも僕たちは(あなた方が容易に想像できるように、訴えるのは僕自身とは限らない)やるからね。あなた方は就業記録管理システムに残っている記録すら改竄しかねない人達だよ。だから僕はこうやって色んなところに記録してるんだよ。記録はここだけじゃない。僕は僕自身が記録なんかの為に、しかしこの記録は僕自身のためだけじゃない家族のためでもあるのさ、要するに記録に時間をかけないように、ちゃんと頭使って帰りの電車内で携帯速打ちメールを自宅PCに送ってコピペして記録してるだけなのさ、ここだけでなく色んなところにな。僕は黙ってやられたりしないよ。
ふーん、そうなんだね、darkness of my friend,

カイシャ、俺を壊すな。
俺のうちを壊すな。
"One Of These Days, I'm Going To Cut You Into Little Piesces."


08年 8月 2日(土)   喜寿なおふくろに。

 8月1日、おふくろの誕生日。今年で喜寿。

 苦労を重ね、病と闘いながらも、おそらくは比較的幸せな老後を過ごしていると僕は願っている、そんなおふくろの喜寿のお祝いに、僕と妻と息子からのお祝いの言葉を寄せて、2冊の本を贈った。

 おふくろのたくさんの趣味のうちの一つ、絵手紙。その絵手紙の世界で有名な人らしい、絵手紙作家が著した『童謡をかく』。

 それからもう1冊、別の作家の『花の詩画集 鈴の鳴る道』。
 作者は、星野富弘さん。

 2冊とも、このあいだ、妻と書店に行ってみつけて気に入って、でもだいぶ書店に置かれていたらしく、少し汚れていたので、2冊ともアマゾンに注文して買って、それに手紙を入れて贈った。

 星野富弘さんの本は、書店でみつけた方は我が家用に買った。だから今、我が家にもある。

 星野富弘さんは、1946年生まれの詩人・画家。
 群馬大学教育学部を卒業後、1970年に中学校に体育教師として着任したが、その2ヵ月後に体操部の指導中に宙返りの模範演技を生徒に見せていた際に不幸にも宙返りを失敗して頸髄損傷の重傷、それから、肩から下の機能が麻痺してしまった。
 9年間の入院生活を経て、口に筆をくわえて絵を描き、後には、詩も書くようになった。

 水彩画やペン画に詩を添えた作品と、妻による口述筆記に助けられた随筆とで構成されたのが『花の詩画集 鈴の鳴る道』。
 我が家用に買ったその本をまだちらりとしか読んでないが、世の中にはすごい人がいるもんだと思う。

 ではでは、おふくろの喜寿から1日たった今日、あらためて、おふくろにはお祝いの言葉を贈りたいと思う。
 母さん、喜寿おめでとう! これからも元気でね!

 おふくろはとても喜んでくれて、昨夜電話をくれて、妻が話した。それで、昨日、今日届くように、おふくろには孫であるところの、僕らの息子が大好きなクリーム大福を贈ってくれたって。
 それが今日、心のこもった手紙とともに、うちに届いた。本当に喜んでくれたことと、花を愛でながら過ごす毎日のことが書かれていた。娘の時代に花の稽古に出してくれた自分の母親への感謝の気持ちも書かれてあった。僕は、あの、寡黙な働き者で、優しかったおばあちゃんを思い出した。
 おふくろから孫への手紙も一緒に入っていた。ありがたい。

 おふくろ、喜寿おめでとう。これからも、本当に、元気でね!