DEAD POETS SOCIETY


(1989年 アメリカ映画)

監督 : Peter Weir
主演 : Robin Williams
主題 : Carpe Diem

劇場公開後、ビデオ・レンタル用がリリースされ、その頃に観たと思う。当時の横浜の自宅アパートにて、妻と。心動かされました。その後、この物語の主題“ Seize the Day ”は、大した英語もできぬ僕の頭の中で、ずっと英語のままインプットされていました。今日をつかめ。その日をつかめ。今をつかめ。いまを生きる。この映画の邦題は『いまを生きる』です。
その後、ひょんなことから(2005年2月13日の出来事)、この映画をまた観たくなりました。

2005年2月19日にDVDでレンタルしてきて、夜、自宅で改めて妻と観た。僕も妻も泣けました。

2005年2月13日、上のリンク先の日記にある通り、僕は「時ある間に花を摘め」と読める17世紀のイギリスの詩人ロバート・ヘリックの詩に辿り着き、そこから紀元前ローマの詩人ホラチウスの詩集『頌歌』へ向かったのです。
ラテン語の Carpe diem ・・・ 「その日を摘め」、「一日の花を摘め」。 carpe は動詞 carpoの命令形で、通常は花とか果実とかを「摘み取る」の意。 Carpe diem ・・・ Seize the day !

そうして僕は、日記に書いた通り、ロビン・ウィリアムス主演の映画『いまを生きる』でこの言葉が叫ばれていたように想い出し、また観たくなったのでした。

時は1959年、舞台となるのはアメリカの全寮制の名門高校。この学校にはたしか四つの柱とか呼ばれる校訓みたいなもがあって、それは Tradition, Honor, Discipline, Excellence, つまりは伝統、名誉、規律、美徳。
この極めて厳格な教育方針を持つ名門校に、この学校の卒業生でもある教師キーティング(ロビン・ウィリアムス)が赴任してきて、その学校においてはとりわけ型破りと言えるような授業を始める。彼は、担当する英語の授業でいきなり生徒達を教室の外に連れ出す。そして、立ったまま、教科書の中の詩を生徒に読ませる。生徒が読む。この映画を改めて観た僕はびっくりした。
その時に生徒が読む詩は、詩人の名こそ出ないが、僕がこの映画を再び観るきっかけとなったロバート・ヘリックの詩そのものだった。

生徒は言う。“ To the virgins, to make much of time ”?
キーティング先生は肯く。生徒達が笑う。
指名された生徒は詩を読み始める。
“ Gather ye rose-buds while ye may ”
“ Old time is still a-flying ” “ And this same flower that smiles to-day, To-morrow will be dying ”

そう、あの詩そのものだった。
キーティング先生は続けて生徒に訴えかける。

“ Carpe diem ”と。そして、“ Seize the day ”と。

僕が記憶していたのは後者の英語だけだったが、やはりホラチウスの名こそ出ないものの、この映画でもラテン語の“ Carpe diem ”は重要なキーワードになっていたのだった。

「型破り」と上に書いたが、ある人達にはそれは「自由奔放」と表現されるようなものだろう。とりわけ、こういう厳格な学校、そして厳格なるエリート教育を望む親達にはそう見える。
しかし、キーティング先生が教えたいのは、自分の頭で考えるということ。自分でものを考えるということ。言ってみれば、眼の前にある「型」だけが方法だと決めつけないこと。だから、それはひたすら「型を守りたい」人達からはイコール「型破り」と映ってしまう。「型を守りたい」人達は、彼らにとって「型破り」に映る人間を排除しようとする。

キーティング先生は、詩の授業で、教科書にある「プリチャード博士」(実在の学者なのか僕は知らない)の『詩の概論』を生徒に紹介する。
『概論』はこうだ。
・・・詩の完成度をグラフの横軸に置き、主題の重要性を縦軸に置く。その縦横をかけた面積がその詩の評価である。・・・この方法により、詩を楽しむことができ、詩を理解することにつながる・・・
一通り教科書に沿って説明した後、キーティング先生は、「こんな概論なんてくそ食らえだ!」と言って、「この概論の扉の頁は破いてしまおう。次も破いてしまおう。・・・この概論はまるごと全部破り捨ててしまおう」。そう生徒に促す。

ある時は、教壇の上に上がり、そこで屹立し、「時にはいつもと違う視点から物事を観ることが大事だ」と訴える。そして、生徒達を促し、同じように教壇の上に上がって、いつもと違う教室の風景を体験させる。

生徒たちは殻から抜け出し、自由の息吹を感じられるようになる。自分の感情を表現することが苦手だった生徒も、キーティング先生の言葉や詩作の授業に触発されて、表現することの楽しさを体験するようになる。また、ある者は恋に情熱を燃やす。冷めた諦観を徐々に手放し、「いまを生きる」ことを学んでいく。表情に、全身に、生気が漲っていく。

しかし、やがて悲劇が訪れる。生徒達は、キーティングがこの学校の学生だった時代に“ DEAD POETS SOCIETY ”という学生同士の試作活動を主宰していたことを学校に残されていた記録で知り、それを復活させる。その中心になった生徒は、父親の厳しい指導を受け(「お前に期待しているんだ」「お前のために犠牲を払っている」というのが父親の口癖だった)、将来は医師になる途しか許されていなかったが、自分でみつけた演劇の活動を続けることを望む。彼はうまく切り抜けようとしたが、結局、父親と衝突する。いや、衝突はできなかった。キーティング先生に相談し、正面から父親を説得することを勧められるが、彼はそれをせず舞台に出た。主役の舞台は大成功だった。だが・・・。
・・・劇場にやってきた父親は、息子を連れ出して家に向かう。彼は、父親から陸軍士官学校行きを命じられ、その後に医師になることを改めて約束させられた。そして役者 「以外に」 何かやりたいことはないのかと父親に問われ、何も応えなかった彼は、最後に自殺を選んでしまった。

キーティングは、一人、教室で嗚咽する。

キーティング先生は最終的に全ての責任を背負わされて学校を追われることになる。
ラスト・シーンは印象的だ。
新任が来るまでの間に代わりを務めるとして教室にやって来た校長は、例の「プリチャード博士」の『詩の概論』の授業を行なう。ところが生徒達の教科書にはその頁がない。
学校を出て行くキーティング先生が教室に荷物を取りに来て、ついに教室を後にしようとするとき、生徒達が一人、また一人と机の上に立ち上がり、「キャプテン」と叫んで見送った。「キャプテン」は、先生が最初の授業の時に、ある詩(誰のどんな詩だったか僕は忘れた)から「キャプテン(船長)」という代名詞を紹介し、自分を呼ぶ時は名前でも「キャプテン」でもよいと言っていた、その「キャプテン」だった。

この映画の主題は、“ Carpe Diem ”だ。
“ Seize the Day ! ”
いまを生きる。
・・・惜しみなく時を使いなさい、時を無駄にするな、いまを生きよ。

時は過ぎ去るもの。されど、若き日々は過ぎ去るから「時のある間に花を摘め」(ヘリックの詩ではバラ)とは言っても、中年になっても、あるいは老いた日々でも、とにかく現在進行形の「時」というものは眼の前から過ぎ去っていく、そういう意味では常にそうなんだ、「時のある間に花を摘め」。今が過ぎても、過ぎた「今」は既に過去、眼の前に今の「今」がある、それをつかむことさ。

物語を彩る、学校周囲の自然の色が美しかった。この映像美がまさしく物語に色を添えていたと思う。

“ Carpe Diem ”  “ Seize the Day ! ”
今日のバラを摘みとれ。
その日を摘め。 その日をつかめ。 いまを生きよ。

(2005年2月20日、記)