01年10月 7日〜10月14日

最近の子供はどうか分らないけど、今の大人の多くはガキの頃に日記を何日か書いた経験があるのでは?
斯く言う私もその一人、当然この日記も不定期です。 (2001年8月19日、記)

01年10月 7日(日)   ピース・ウォークに参加

 Chance! - 平和を創る人々のネットワーク - の主催するピース・ウォークに家族で参加した。今回が 3回目というピース・ウォーク、最初に「渋谷でデモ」と報道された時から注目していたが、先に「行こうか」と言ったのはパートナー(妻のこと、です)の方で、私の方は、今回のアメリカ同時多発テロに関しては、あまりに問題が深刻で、この深刻な出来事の意味から、日本がすべきことの中身、また、一個人として何をすべきで何が出来るのか等々、頭の中の整理がつかず、腰が重い感じがしていた。しかし、とにかく動いてみよう、動きながら考えてみよう、ということで家族3人で参加することにした。

 メッセージ・ボード(写真、クリックで拡大)はパートナーの手作りによるもの。ダンボール製で上下に折り畳んで携帯可能、拡げて背面から木の支え棒を通して使うようになっており、なかなかに見事な出来映え。メッセージは悩んだ末、私の発案で、パートナーと話し合って決めた。最初は「平和に機会を」というメッセージにしようかと思ったが、私達が決して忘れてはならない、今回の問題の根っこにあるもの、「パレスチナ」をメッセージに入れなくては、と考えて決めた。欧米を中心とした世界(このケースでは日本はここに含まれている、そして成り行きによってはパキスタンだけでなくアフガニスタンも含まれていく可能性だってある)「だけ」に「平和」(「和平」)が実現した時、そのことは、世界から見放され続けているパレスチナの民にはどんな意味があるのか、私たちはそこまで見据えなければならないと思う。

 朝のTV番組の映像を見ながら、息子にも、なぜ自分達が今日のピース・ウォークに参加するのかを出来るだけ簡単な言葉で伝え、メッセージを準備してから我が家を出発した。
 集合場所は渋谷の宮下公園。集合時間は夕方 6時。だいぶ前に着き、 GIVE PEACE A CHANCE と書かれた黄色いリボンをもらってカンパし、運動を拡げるための絵ハガキを買った。集まったのは 400名程度らしい。いわゆる従来の「組織」型の「デモ」では既にもっと規模の大きい集まりが実現しているようだが、このピース・ウォークはスタッフも「デモ」とは呼んでないようで、集まり方も、インターネットを中心に情報を得て集まった個人個人の集まりという感じ。自由な和気藹藹とした雰囲気が、これまでに私が参加した、(他のさまざまな運動における)多くの「デモ」との違いを感じさせる(もちろん今まで経験した「デモ」が、だから悪かったとは思わない)。ただ若い人ばかりでもなく、老夫婦や60代、なかには70代と思われる参加者も見受けられた。

 スタッフ数人の挨拶や 1回目から参加しているという薬害エイズの被害者の運動のリーダーでもあった川田龍平さんのスピーチも受け、全員でアメリカ同時多発テロの犠牲者に対する黙祷をしてから出発。原宿を通り、渋谷駅前を通過して公園に戻るまでの約 2時間、ジョン・レノンの GIVE PEACE A CHANCEIMAGINE 、POWER TO THE PEOPLE 、ビートルズ時代の ALL YOU NEED IS LOVE などを流しながら、歌いながら街を歩く。マイクを通し、軍事報復は解決にならず報復の連鎖を生むだけだ、証拠を提示し、粘り強い平和的な交渉で容疑者を裁判にかけ、法の下で問題を解決しよう、暴力の生まれない平和で公正な世界を実現するために行動しよう、日本はその為の努力をしよう、といったメッセージを伝えていく。途中、韓国人留学生による韓国語による呼びかけやイタリア人女性のイタリア語の呼びかけも、日本語訳をつけながら行なわれた。アメリカ人による英語の呼びかけもあった。
 参加者は思い思いに私達家族のようにメッセージ・ボードを持ったり、ペンライトを振ったり、楽器を演奏したりしている。歩道を歩く人々にも参加が呼び掛けられ、私達の手前でも途中からウォークに加わって来る人たちが見かけられた。また、マイクを通したメッセージが特定のFM電波で飛ばされ(昨日は88.8MHz)、通り過ぎるクルマのドライバーにもその周波数が伝えられた。先頭では、時折り、用意されたスクリーンに映像も流された。スタッフによれば、こういう活動は初めてという人が多いようで、あの 9月11日のアメリカで起きた大惨事、その後の軍事報復の動きの中で何かしなければと思い立った人たちが中心のようだった。確かに、既成の「運動」に見られない発想や雰囲気が感じられた。

 ウォークの間、時々息子と手をつないだり、様子を見たりしたが、歌われる歌は彼も知っているものばかりで、ほとんどずっと一緒になって歌っていたようだ。今世界で起きていることの意味はよくわかっているわけではない、しかし何もわかっていないかというとそれは大人の驕りであり無理解であって、実は子供には親の会話やこの間の TV の映像、新聞報道(息子はスポーツ欄が好きだが、けっこう新聞を拡げている)などを通して、感性のレベルではかなりのことが伝わっているのかもしれない。少なくとも、子供にわかるはずがない、などと決めつけるのは間違っていると思う。いずれにせよ、参加したウォークの雰囲気自体は息子には楽しかったようで、疲れた様子は見せなかった。そう言えば、小学生の子供を連れての家族での参加ということで、出発前に「朝日小学生新聞」という新聞の女性記者に自分達の考えや動機などについて取材された。小学生を読者にしている、ということもあってだろうか、いかにも優しそうな、取材されて和むことの出来る、感じのいい記者だった。小学生が読む新聞にこういう活動が紹介されるのはとても有意義だと思う。子供は、子供の言葉で伝えられれば、彼らなりに世界を理解していくと思うのだ。 


01年10月 8日(月)   アメリカの軍事報復が始まった

 ピース・ウォーク参加の翌朝、テレビをつけて、アメリカの軍事報復の開始を知った。日本時間で今朝未明、現地アフガニスタンでは昨夜 9時半頃に爆撃が始まったらしい。ついに始まってしまった。
 アメリカは、これはオサマ・ビン・ラディンと彼をかくまうアフガンのタリバーン政権に対する限定的な攻撃である、というかもしれない。それが100% 可能かどうかは別としても、しかし、この攻撃で本当に問題は解決するのだろうか。アメリカが軍事的に勝利したところで、問題が解決する可能性はあるのだろうか。

 無差別テロは、どんな理由でも正当化出来ない。それははっきりしている。しかし、何か、特定の人間の集団を、そこに属する人々を、半世紀以上にわたって絶望的な心理状態に置き続けるような「不公正」が放置される限り、自爆テロを生む、あるいはそれを特定の人間の集団に属する多くの人々に支持させる、その土壌はなくならない。そのことを冷静に正確に認識できる人なら、テロに対する報復の武力行使、軍事攻撃が、この問題の解決につながらないことが分かるはずだ。しかし、またその一方で、テロリストの勢力による生物化学兵器使用の可能性まで懸念されているなかで、一定の「解決」の前に多くの時間が残されていないことも確かなのだ。問題の構造はそれほど複雑なことではない(このことは解決が容易であることを意味しない)が、しかし既にことは大いに深刻な段階に来ており、成り行きによっては世界が取り返しのつかない無秩序に陥る可能性すらある。

 カタールの TV 放送が流した、アメリカ同時多発テロ後そして今回の報復開始前のいつかの時期に撮られたと思われる、オサマ・ビン・ラディンのビデオ・メッセージを見た。彼は、予想通り、この戦いをイスラム世界全体とアメリカ及びその同盟諸国とのジハードにすりかえ、そして「パレスチナに平和が実現しない限り、アメリカとアメリカ国民に二度と平和は戻って来ない」と訴えていた。彼がもう一点取り上げた「イラク」(のフセイン政権)についてはアラブ世界の広範囲に抵抗感が存在すると思われるが、しかし「パレスチナ」云々は間違いなく多くのアラブあるいはイスラム世界大衆の心をとらえ、そして実際、こと「パレスチナ」に関しては、このテロリストの言葉に一面の現実が包含されているところに、この問題の深刻さがある。

 オサマ・ビン・ラディン自身はただのテロリストなのかもしれない。その武装勢力もテロリスト集団と定義づけしていいのだろう。テロを含む暴力は普通の人々が激しく憎むものだ、無差別テロを正当化する理由はない。しかし、繰り返しになるが、テロを生む、もしくはそのような暴力を大衆が支持してしまう土壌には、数十年かけて、世代を越えてまで、特定の地域の特定の人間の集団を絶望的なまでに閉塞的な心理状態に追い込んだ、世界が見放し続けた「不公正」が存在するのだ。パレスチナのパレスチナ系アラブ人に平和と平等が実現し、もしくはそのプロセスが見えて来ない限り、また、エルサレムが不当にイスラエルに占領されるのではなく、少なくとも国連などの中立的な機関に帰属する、もしくはそれが実現するプロセスが見えて来ない限り、今世界を揺るがしている問題は、解決の方向を見出せないだろう。
 人間は強くもあり弱くもある。武力に訴えることを避ける「強さ」も持つが、しかし、不平等を甘受し続けるほどに我慢「強い」わけではない。とりわけ、人間が社会的に(ここでの「社会」は「国際社会」と言ってもよい)弱い立場に置かれた時、長期にわたって屈従、従属を甘受し続けるのは不可能なのではないか。世界は、彼らの声に耳を傾けなければならない。取り返しのつかない暴力が生まれ続けることを防ぐためではなく、その暴力によって目覚めるということではなく、その前に、世界は彼らの声を聴かなければならない。暴力を予防することは、その結果としてある。時既に遅し、というわけにはいかないはずだ。でなければ、世界は泥沼にはまり込んでしまう・・・。

 アメリカの一退役軍人(元アメリカ海兵隊軍曹)が、あの同時多発テロの 2日後にブッシュ大統領宛てに送った手紙【リンク切れ】 には、この問題の解決の方向性が見事に示されており、また、その内容は、真の平和を求める元アメリカ軍人の声として、感動的ですらある。この手紙は10月9日(ジョン・レノンの誕生日)付のニューヨーク・タイムズに全面広告として公開される予定ということだが、おそらくは今回の軍事報復開始による、広告のスペース縮小のため、掲載延期の可能性も出ているようだ。アメリカを中心とする世界は、こうした彼らの世界(我々の世界)の中にある「理性の声」にも耳を傾けるべきである。


01年10月 9日(火)   アメリカ退役軍人のブッシュ大統領への手紙、NYタイムズに全面広告

 昨日の日記で取り上げた、アメリカの一退役軍人(元アメリカ海兵隊軍曹)が、あの同時多発テロの 2日後にブッシュ大統領宛てに送った手紙【 → リンク切れ、流石に時間切れということか、2016年9月1日確認 】 は、予定通り、本日10月9日(ジョン・レノンの誕生日)付のニューヨーク・タイムズに 全面広告として公開 【 → リンク切れ、流石に時間切れということか、2016年9月1日確認 】 されたようです。
 この全面広告は、日本の GLOBAL PEACE CAMPAIGN【 → 当時貼った URLリンク先 はその後 「東日本大震災支援プロジェクト」 という名の Website に変わったもよう、近年これも更新がどの程度かその確認まではしてないが、、、2016年9月3日にリンク先をチェック 】 を中心とする運動によって実現したもの。


01年10月13日(土)   アメリカの報復戦争もしくは反テロ武力行使の論理と日本

 友人に送ったメールをそのまま下に掲載するが、その前に、前置きとして 3点記しておきたい。

1) テロリスト勢力への宥和政策は、選択肢として有り得ない。国家テロ行為を行なったと言っていいナチス・ドイツに当初イギリスは宥和政策を取ったが、その結果何が起きたかは既に歴史が明らかにしている。
 ただし、この例を持ち出すなら、当時のナチスも、またナチスを支持する勢力も、その行為には考慮に値する背景など何一つなかったと言ってよいと思うが、今現在問題となっているテロの実行行為者及び彼らを送り出したテロリスト勢力は無条件で断罪されるべきとしても、彼らの行為に対して心情的に支持に傾いてしまう特定地域の特定の人間の集団については、その理由について深い洞察が必要である。何故なら、そこにテロリストを生み出す土壌があり、根本的な原因があるからだ。
 我々は、テロリストと、その背後でテロとは直接的には無関係でありながらこれを心情的に支持しがちな人々との間に、慎重に線を引かなければならないのではないか。

 アメリカの著名な言語学者にして哲学者、政治学者でもあるノーム・チョムスキー(世界的に有名な知識人であるが、私自身は彼の著作を読んだことがあるわけではない)は、今回の報復戦争におけるアメリカのスタンスは、ブッシュ大統領の声明にも明らかなように、「実質的に、ワシントンがどんな選択をしようとも、その武力攻撃に参加しない相手すべてに対する宣戦布告」に等しいものだとしている。世界をテロリストとテロリストでないものの二つだけに分け、その二者択一を他の全ての国々とその国民に迫る唯一無比な超大国の元首の姿は、この世界の危険な近未来のありようを暗示させてしまうに十分なものがある。

2) にもかかわらず、現在の日本政府はそんなアメリカに半ば盲目的に追従していく以外に、国としての指針を示せていない(報復戦争に参加する国も含め、日本のような「白紙委任」を決め込んでいる国は他にあるだろうか)。日本(と日本人)は、この半世紀以上にわたって、経済を除く国家戦略・外交戦略さらには軍事に関して、ほぼ全面的にアメリカに委ねてきた。日本には、とりわけ他の全ての先進諸国が持っていると思われる独自のビジョンが無い。したがって、特に有事ともなると、国と国民の進路に関して少しもフリーハンドを持てない。平時に「保護者」アメリカの「恩恵」に預り、いざ有事となれば、いやウチには世界に冠たる「平和憲法」がありまして、と言うのでは、平たく言えば、いかにも虫が良すぎる。むろんアメリカも「子供」(日本)の将来を思って面倒をみてくれているのでは全く無く、日本に国際社会での戦略的フリーハンドを持たせないのが、アメリカにとって得策だと考えているに過ぎないと思うのだが。
 いずれにしても、例えば今の国会の不毛な論戦にも、そんな戦後日本の悲哀が滲み出ているように感じる。一方はどうやったらアメリカに「白紙委任」的な協力が出来るのか、他方はひたすら憲法への「白紙委任」を決めつけ、互いに技術論・各論的な方法論に終始して、肝腎の日本がどうあるべきかといったことについては、ほとんど噛み合わない議論になってしまっている。
 言い訳になってしまうが、下に掲載する私見にも一部かなり苦しまぎれのところがあり、それは既に自国の進路の舵取りについてほとんどフリーハンドを失ってしまった国に属しているものの悲哀でもある。自分で言うのも何だが、やはりこれはかなり苦しい立場だ。

3) またしても、またしても何一つ準備のないまま有事に臨んでしまった日本は、これまで何度も見てきたような、同じ風景の中に埋没している。今後の日本はどうすべきなのか。
 これは一つのアイディアでしかなく、もっと慎重かつ具体的な検討が必要なのだろうが、最早日本はもう一度ゼロから、法治国家の骨格である憲法を捉え直す時期に来ているのではないか。すなわち、加藤典洋の言う、「憲法の選び直し」が必要なのではないかと思う。歴史や地政学的な環境等々、諸々の事情を考慮したうえで国の有り得べき姿を自ら考え、出来るだけ多数の賛同を得た「国民的合意」を得て、憲法を選び直す、もしくは作り直すことに、この日本社会を建て直す可能性が残されてはいないだろうか。そして、もしここで日本人が例えばもう一度「平和憲法」を選び直すのなら、その時はある種の覚悟を持って、どうしたら憲法の掲げるものが実現出来て、どのように国際社会との協調が可能となるのか、その国としての「意思」のようなものを世界に向けて明らかにしなければならないはずだ。現行「平和憲法」でないものに作り変えた場合も然り。現行憲法によればその改正は容易でないが、このまま何の具体的なビジョンもないままズルズルと国際情勢に流されていくのみの日本を変えるには、そんな一大「手術」を施すしかないのではないかという気がする・・・。


 前置きが長くなったが、以下は友人宛てのメールの転載。

 自衛隊を派遣することが、イコール、不作為のそしりを免れることに繋がるとは思わない。
政府は今「テロ対策」と銘打った自衛隊派遣には熱心だが、国内でのテロ対策(サリン事件の経験のある国でありながらBC兵器によるテロの対策も含めて)に万全を期そうとする姿勢は、残念ながら見受けられない。テロ対策に万全は不可能だが、肝腎なのは万全を期そうとする姿勢であり、それが直接的にはテロと闘う一つの姿勢を示すことにもなる。

 近頃いろんな意見が飛び交っているが、最近心に残ったものを一、二あげると、一つは、10月9日付 の朝日に出た、元共同通信記者、現作家の辺見庸の寄稿。長いが引用する。

「目を凝らせば凝らすほど、硝煙弾雨の奥に見えてくるのは、絶望的なまでに非対称的な、人間世界の構図である。それは、イスラム過激派の「狂気」対残りの世界の「正気」といった単純なものではありえない。オサマ・ビンラディン氏の背後にあるのは、数千の武装集団だけではなく、おそらく億を超えるであろう貧者たちの、米国に対するすさまじい怨念である。一方で、ブッシュ大統領が背負っているのは、同時多発テロへの復讐心ばかりでなく、富者たちの途方もない傲慢である。」

「そろそろ米国というものの実像をわれわれは見直さなければならないのかもしれない。建国以来、 200回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下を含む、ほとんどの戦闘行動に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか。」

 もう一つは同じ欄の、長らくアジア太平洋資料センター等で南北問題に取り組んできた北沢洋子。「第三世界では、政府が人々の意見を代表していない例が多い。」としたうえで、9月11日以来の第三世界の声を次のように紹介している。

「米国は、朝鮮戦争以来、ベトナム、イラクなど20カ国以上の国々に無差別爆撃を行なってきた。湾岸戦争当時、米軍がイラクに投下した劣化ウラン弾はどれほどの放射能被害をもたらしているか。続く経済制裁では、多くの子供たちが栄養失調で死んでいる。3年前、ケニア、タンザニア米大使館に対する自爆テロの報復として、米国がスーダンの医薬品工場を誤爆したが、その結果、予防ワクチンが不足し、2万人の子どもたちが死んだことに、米国はどう責任をとるのか。米国こそ最大のテロ国家ではないか。」
そして、これらの声が時間の経過とともに、経済のグローバリゼーションがより深刻化させる第三世界 の貧困、拡大する一方の南北の格差を指摘する声に変化し、
「第三世界の人々の目には、このグローバリゼーションの推進勢力と米国は、重なって見える」
としている。

 俺の私見では、これらの考え方は正しい。問題は、これまで半世紀以上にわたって、外交も軍事も全てアメリカに委ねてしまって、井の中の蛙よろしく(憲法改正派がまさしく批判・非難するように)ひとり「一国平和」を決め込んできてしまった日本には、画期的な、独自な、主体的な国家戦略・外交戦略を展開するような方向に舵取りするための蓄積が全くない、ということだ。それはもう、悲惨なまでに「ほとんど何も無い」。

 A にするか B にするか人が迷うとき、人々は、アプリオリに「 A が正しいか」あるいは「 B が正しいか」の、そのどちらかである、と思ってしまっている、と俺も思う。確かに一面では A も B もどちらも正しいことがあるし、実はどちらも間違っている場合もある。そして、とりわけ世の中がその二つに割れているとき、それ以外のCやDがあるかもしれないことをほとんどの人が忘れてしまう。
今や唯一の超大国となったアメリカの国家元首が、
「アメリカとともにあるのか、それともテロリストの側につくのか」の二者択一のみを、
全世界の国もしくは国民に迫るのは、もうほとんど悪夢の世界といっていい。

 以下に、同時多発テロの 2日後にアメリカ海兵隊元軍曹がブッシュ大統領宛てに書いた手紙【リンク切れ】 の中から、一部引用する。

「多くのアメリカ国民同様、目撃した2日前の死と破壊に私は非常なショックを受けました。私たちは恐ろしい攻撃を受け、たくさんの同胞が苦しみ死にました。貴方もこの虐殺の犠牲者やその家族と共にやり場のない悲しみで苦しんで居られると思います。貴方の怒りや焦躁感、そしてはっきりと仕返しをしたいという気持もよくわかります。このような厭うべき犯罪行為に対して、それは当然で正当化できる反応でしょう。しかし、貴方には慎重にことを進めることを忠告したいのです。ここでの私たちの過ちは渦巻いている暴力を容易に拡大することにもなりかねないからです。」

「あらゆる法的手段をもちいて、この恐ろしい犯罪の犯人を確定し、しかるべき法廷で裁いていただきたい。世界が望んでいる正義を彼らにこそ与えてほしい。」

「しかし、これだけはお願いしたいのですが、それがアメリカ人、イスラエル人、パレスチナ人、アフガン人あるいはどの国民であれ、これ以上無実の人を犠牲にしてはいけません。」

「貴方はこれを悪の行為と表現しました。そのような扇動的な言葉を用いれば単に状況を悪化させ報復を叫ぶ群集心理を刺激するだけです。」

「非常に重要なことは、犯行者たちがあえて暴力に訴えたことだけではなく、このような悲惨さと彼らの自己犠牲を招いた政治的および歴史的な状況を認識することです。元海兵隊員として、自分が真に信じることに自己の命を捧げることの意味はわかっているつもりです。この人たちは卑怯とか邪悪というよりは、むしろ過った恐るべき指導を受け、憎しみを植え付けられ絶望したとも考えられないでしょうか。」

「何ヶ月か前に、銃撃戦に巻き込まれ成す術もなく釘付けになった父親とその子どもの写真が雑誌に載りました。あなた自身父親として、わが子のいのちが消えつつある父親の苦悩を想像できますか。もし、銃撃戦にほかの家族を無情に巻き込むような軍事行動を私たちがとれば、それはわたしたちの中の最も人間的なものを否定することです。」

(念の為注釈を入れると、上の父子は、「エルサレム」 ... でなく「ガザ」

----- 「エルサレム」と当時日記に書いていたが [ * 2017年3月12日加筆 * ]、「ガザ」と書くべきところを何らかの原因で大勘違いして「エルサレム」と書いた可能性有り
----- これが The Mohammad Al-Durrah incident (MURDER case CAUSED by ZIONIST ISRAEL’s OCCUPATION of PALESTINE) を指していたとすると
My Facebook 2017年1月14日の投稿 1
My Facebook 2017年1月14日の投稿 2
My Facebook 2017年1月14日の投稿 3
----- ただ、イスラエルとパレスチナ武装勢力との間の銃撃戦で子どもが命を落とす例は他にも少なくなく、現時点では自分がどの事態を指していたのか特定できない。いずれにしても、残念ながらパレスチナの地においてはそう珍しいことではない ------ * ここまで、2017年3月12日加筆 *

での銃撃戦に巻き込まれ、子どもの方が命を落として、その様子が映像とともに世界に配信されたパレスチナ・アラブ人親子のこと。世界はあの時、一瞬だけ彼らに「同情」したかに見えた。が、すぐにまた見放された。)


「罪を犯した者たちに公正さを与えてください。しかしまた、これらの絶望の声を聞かせてやってください。南アフリカのダーバンで開かれた人種差別に関する国連会議でわたしたちが最近犯した間違いを繰り返さないようにしましょう、そうではなく、たとえ彼らが叫び、私たちが聞きたくないようなことを言っているとしても、一緒にテーブルについて全員の声を聞くようにしましょう。」

「私たちは本当に強大な存在なのでいつも主張し、他の人たちは聞くのが当然のように思っています。私たちが他の人たちの声も聞くことができる勇気ある国民だということを世界に示そうではありませんか。」


 ここから、日本についても直接的に触れながら、話を進めたい。
 後方支援は戦闘行為ではないというのは明らかな詭弁であって、自衛隊派遣に賛成するならば、少なくとも憲法解釈を「集団的自衛権を認めるもの」に変更しなければならない。この点で、自由党の小沢一郎の主張は完全に正しい。ただし、俺の私見を加えれば、この憲法解釈は既に論理的に破綻していて、憲法改正によって可能にした方がずっとスッキリする。しかし一方で、俺の私見をもう一つ加えれば、論理の世界だけで言えば、俺は自衛隊派遣に賛成しない。

 世界の経済大国もしくは先進国の中で、イスラムとの歴史的な衝突に手を染めていないのは日本だけだ。日本にもし独自の外交・国際戦略があるのなら、日本にしか出来ない役割がある。本来は日本こそ、世界を真っ二つに分ける絶望的な戦いに加担するのではなく、第三の道を提示する戦略を持たなければならない。
・・・というのは論理の世界の主張。
残念ながら、日本には独自の外交・国際戦略がない。
平時にアメリカに外交や国際戦略のほとんどの指針を委ね、さんざんその恩恵に預っていながら、有事となれば、「いやぁ、ウチには平和憲法があって、ちょっと勘弁してくださいな。」と言うのは相当に うさんくさい。少なくとも日本は、国家的スケールで言えば袋小路に来ていて、ニッチもサッチもいかない。

 ただし俺が自衛隊派遣に賛成しても意味がない。日本の戦後史と現在はほとんど戦略的なフリーハンドを持てない地点にまで来てしまっているが、そのことを全て既成事実として、大勢に組みしても俺個人には意味がないと思っている。アメリカにも存在するように、例えば自民党の中にも存在するように、「結果として」少数の異論となるならそれを甘受して尚、出来るだけあきらめずその先を考えるという姿勢を保つ他、俺にはない。

 ただ、繰り返しになるが、自衛隊派遣を主張する人は、政府に憲法解釈の変更を求め、その先の憲法 改正を見据えなければならない。国家戦略を提示し、法的根拠を明らかにしたうえで物事を進めなければ、日本の社会はますます堕落する。一国民である俺個人が賛成するものであれ異論を唱えるものであれ、日本としての主体的な意思(平たく言えば一体日本は何を考えているのか)を世界に明らかにしなければ、世界の信頼もいつまでも得られない。
 今回の件で派兵する国であれ、しない国であれ、それぞれの「アメリカへの協力」の度合いや将来の見据え方は全て異なっている。例えばイギリスは、もっとも強力にアメリカとの軍事的な共同行動の姿勢を取っているが、対イラクまで戦線を拡大することについては相当に慎重であるし、パレスチナ問題におけるパレスチナ側へのコミットもかなり踏み込んでいる(もちろんここには以前のメールにもあったようにイギリスの過去の歴史の負い目がある)。他の国々にしてもしかり。個別の国益や国家エゴをも反映しつつ、単純にアメリカに追随するような愚は犯していない。

 俺も、攻撃を控えることが相手に寛容の心を与えるとはまったく考えない。控えてもテロは起きる。
一方で、報復は報復の連鎖を生み、テロの可能性をさらに高める。
どっちにしても、テロはこれからも起きるが、おそらくは後者の場合の方がさらに可能性や規模は大きくなる。直接的な攻撃のみで、テロリスト勢力を根絶やしにすることはどう考えても現実的には不可能で、であれば、実力行使で追い詰められた少数勢力は、さらに過激化していくだろう。

 テロの土壌となる歴史的な問題の解決には最早かなりの時間がかかるという地点に来てしまっている。だが、テロリスト勢力のBC兵器使用の可能性まで懸念されている現在、一定の「解決」に時間の猶予は許されないだろう。ここに一つのジレンマがある。

 現在ある脅威に対しては、出来る限り正確に特定してこれを排除しなければならない。ただし日本はこれまでの経験からすれば、武力行使には役立たない。これまでの日本社会は、日本の国家戦略を策定したうえでの、ある種の「覚悟」を決めた訓練など何もしていない。
 アメリカが期待しているから即それに応えるべきとは思わないが、実際のところ、米英の大勢はこの分野での日本の直接的貢献を本気で期待しているとは思えない。現実的には「アメリカの側につく」というシンボリックな意味しか持たない。
 今さらと思いながらも尚言うのだが、日本がこれに直接的に協力することは、イスラムと衝突した経験が無い日本が、本来は世界に示せた可能性のあるオルタナティヴな方向性を提示する資格を失うことに繋がる。何度も言うが、俺個人は反対するが、やるのなら、論理的、法的根拠を示して正々堂々とやってくれという他ない。


 オサマ・ビン・ラディンがビデオ・メッセージの中で「我々は80年以上にわたって抑圧されてきた。」と言う時、彼は明らかに「バルフォア宣言」に代表される、イギリスの二枚舌外交や、オスマントルコとの戦争に勝利する為にアラブを利用した西欧社会の、アラブに対する「裏切り」「不公正」にまで歴史を溯っている。
 また、このテロリストの真意はともかくとしても、彼が言う「パレスチナに平和が戻り、われわれの領土からアメリカが出て行かない限り、アメリカとアメリカ国民に二度と平和はやってこない。」という言葉は、多くのパレスチナ人、アラブ人、イスラム社会の人々の琴線に触れるだろう。
 世界の大勢からは残忍なテロリストとしか思えない、このテロリストの言葉に、一面の現実が包含されているところに、この問題の深刻さがある。

 長期的には、テロや特定の人々がテロのような手段を支持する土壌となる問題に手をつけ、半世紀以上にわたって特定の地域の特定の人間の集団に存在し続ける圧倒的な「不公正」を正す、せめてその具体的な方向性を示し、何らかの形で近い将来の実現を保証しない限りは、少なくともテロを画期的に減らすことは不可能だろう。

 ここにも実は一つジレンマがある。
このテロの土壌への根源的な対処、解決策は、おそらく、残念ながらかなりの時間を要する。
解決への方向性を、少しずつ段階的に提示し、実行していくという方策が採られる可能性がある。
となると、テロリスト勢力には、やはりテロは現実的な効果がある、テロによってしか世界は自分達の声を聴こうとしない、テロによって世界は自分達に譲歩する、といった印象を強く与え、新たなテロを誘発するきっかけになりかねない。
世界が特定の「不公正」を長きにわたって放置してきてしまったばかりに、最早根源的な対策に踏み切るにも危険なジレンマを抱えてしまっている。
それでもとにかく、長期的にはこの方向に進むしかなく、国際社会の強い意志で、最大限果断に短期的にかつ注意深くことを進めなければならないだろう。
これは相当に困難な道には違いない。

 パレスチナ国家の樹立を国際社会が支持し、口先だけでなく、例えばアメリカや欧米社会、国連などが中心になって根気よくイスラエルを説得し(根気よく説得しなければ、今度はイスラエル過激派のテロを誘発する、もしくはイスラエルの国家テロを増長させることになりかねない)、これを実効性あるものとする(日本も日本としての主体性を示せれば、アラブもしくはイスラム側との仲介役に多少は貢献できるかもしれない、近代の石油受給以外には歴史的な因縁がない唯一の先進国という事実において)。
そして、エルサレムのイスラエルによる占領を排除し、その帰属を国連などの中立的な機関に委ねる。
アメリカはサウジアラビアから軍隊を撤退させる。

 論理の世界では、俺はこれらを荒唐無稽な考えとは思わない。奇想天外ではない。
それどころか、この方向にしか解決の糸口はない。俺は最初からこれしかないと思っている。
問題は、現実の国際政治の中では容易でなく、とりわけ、アメリカの政治や経済、ジャーナリズムに圧倒的な影響力を持っていると思われるアメリカ国内のユダヤ資本が、おそらくは相当に抵抗するのではないかということ(ただしそれも幻想かもしれない)。
しかし、この方向にしか世界の希望はないと思う。


01年10月14日(日)   湾岸戦争との違い

 湾岸戦争の時は、目的はイラク軍をクウェートから排除することだった。それが達成できれば終戦だった(ただし、実際にはアメリカはフセイン政権打倒まで射程に入れて爆撃していたが)。
 今回は違う。テロを無くすことだという。あるいはテロリスト勢力を殲滅するという。しかし、この戦争に勝利することによってテロは無くなるか。あるいは仮に一つのテロリスト勢力を殲滅したところで、テロは無くなるのか。無くならないだろう。だとすると、本当にテロを無くすのがこの戦争の目的だというのなら、この戦争に終わりはあるのか?


01年10月14日(日)   テロを無くすこと

 これまであまり知られていなかったが、アフガニスタンでは、かなり沢山の日本の NGO による支援活動が行われてきていたという。それが、今回の報復戦争により、中断せざるを得ない状況になっているという。このままでは、この冬の間に、数十万もしくは 100万あるいはそれ以上の規模の餓死者、凍死者が出るという説もある。例えばある特定の人間の集団がこういう絶望的な世界に閉じ込められた時、テロが生まれ、また人はテロを支持するようになってしまうのではないか。絶望的な貧困や抑圧の中から、テロが生まれるのではないか。こうして生まれてくるテロは、戦争によって無くなるのか?


01年10月14日(日)   ラリー・キング・ライヴ

 今日の昼過ぎ(日本時間)に放映していた CNN のラリー・キングのトークショーで、ラリー・キングが、アフガンの北部同盟の外相、アフガンの女性解放運動家、パキスタンの政治家、そしておそらくはパレスチナ自治政府のメンバー(のことではないかと思う、 WEST BANK つまりヨルダン川西岸の PALESTINIAN COMMITTEE MEMBER と紹介されていた)の 4者を相手に衛星中継で結び、何故アメリカに憎しみが向けられるのかをテーマに話し合っていた。パレスチナ人女性は、アメリカで起きたテロは何によっても正当化することが出来ず、受け入れられない、としたうえで、時折り笑みを浮かべる穏やかな話し振りながら、パレスチナ人がどれだけ悲惨な状況に置かれ続けているか、アメリカの負の役割をからめて、理路整然と説明していた。こういう主張が今のアメリカで取り上げられるところに、かすかな希望はある・・・。


01年10月14日(日)   アメリカのダブル・スタンダード

 今回の報復戦争と比較しようと湾岸戦争を思い出し、ここでもう一つ指摘しておかなければと思ったことがある。

 イラクがクウェートに侵攻して不当な占領を始めた時、アメリカは世界の保安官よろしく怒りに燃え、イラクを武力でクウェートから排除した。
 ところで、イスラエルはもともと建国が当時の欧米中心の国際連盟の支持による強引なものだったが、その後の戦争により、ヨルダン川西岸やガザ地区、東エルサレム等の不当な占領を続け、国連(国際連合)でもこれらに対する非難決議が何度も採択されたが、アメリカがイスラエルを武力で占領地から排除しようとしたという話は聞いたことが無い。それどころか、アメリカはイスラエルに対して軍事を含む強力な支援を行なっている数少ない国である。
 テロも暴力も、アメリカの「国益」に基づいた戦略に利するものなら、アメリカは時にはこれを「自由のための戦い」と呼ぶ。時には特定の暴力を支援する場合もある。それは中南米の歴史を見れば明らかである。例えばニカラグアのサンディニスタによる解放によって出来た政権を倒すべく、前ソモサ独裁政権の支持者によるテロリズムを背後からアメリカが支援し、戦争を仕掛け、国際司法裁判所から「違法な武力行使」との非難を浴びたことは一つの例に過ぎない(しかしアメリカは最終的に国連の決議にも拒否権を発動し、目的を達成した)。アメリカ政府の定義によれば、時と場合によって、同じ種類のものが「正義」になったり、「悪」や「テロリズム」になったりする。

 いずれにしても、テロは反テロ戦争による勝利によって無くなるものではない。「ならずもの国家」(本当に「ならずもの」の場合と、単にアメリカの「国益」に反する国家というだけの場合がある)は戦争で倒すことが出来ても、テロリズムは、その土壌を解放しない限り後から後から生まれて来てしまうものではないかと思う。テロが許されるものではないことはハッキリしている。しかし、一方で、人間が、数十年もの長きにわたって不当に抑圧され続けながらそれに耐えるほどに「強い」ものでないことも、疑う余地のないことではないか。