BOWLING FOR COLUMBINE


(2002年 アメリカ・カナダ映画)

制作 : Michael Moore
監督 : Michael Moore
主題 : United States of America

2004年 1月31日に WOWOW でマイケル・ムーアの特集をした。GMを追っかけた「ロジャー&ミー」、自著の販促ツアーをドキュメントし最後にはナイキ会長に突撃取材する「ザ・ビッグ・ワン」、TVシリーズの「マイケル・ムーアの恐るべき真実」、それと「ボーリング・フォー・コロンバイン」。(「コロンバイン」以外やマイケルその人については 2004年 1月31日の日記 で少し紹介。)

傑作パロディモノの上記TVシリーズは別として、上記の最初の2本もマイケル流の突撃取材型ドキュメンタリー。ただ、それらの旧作2本とこの「コロンバイン」を比べると、映画としての方法論的深化は明らか。また、より洗練された手法になってきているようにも思うが、それでいてパワーは全く落ちていない。それどころか、作品のクウォリティの向上によっても、彼のジャーナリズムのパワーがアップしていると言えそう。

世界最大の兵器製造会社としてロッキードを取材し、そこのPR担当(だったかな)が「社会や国や人間は時に不快なことをする。しかし不快だったり怒ったからといって戦争をするものではない」と発言したところで、スクリーン(僕はTV画面で観たんだけどね、笑)は一転してモノクロになり、アメリカによる外国への軍事介入の歴史を辿る。イランのモサデク政権転覆とパーレビ擁立、ベトナム、チリのアジェンデ転覆と独裁者ピノチェト支援、イラン・イラク戦争の際の 1982年のイラクはフセイン政権への膨大な資金援助、今度は翌 1983年のイランへの武器秘密供与、パナマ、エルサルバドル、そしてコントラ支援によるニカラグア・サンディニスタ政府への軍事攻撃・・・。数々の例が挙げられるが、そこには更に 1990年のイラクのクウェート侵攻がアメリカ供与の武器を使って行なわれたことや 翌1991年の湾岸戦争でのイラク空爆、ソ連に侵攻された後のアフガニスタンでのビンラディンら外国人を含む抵抗武装グループへの支援、2000〜2001年のアフガニスタンのタリバン政府への援助、そして 2001年の 9.11 に映像がつながっていく。アメリカの対外暗黒史だ( もちろん、今ならこれに 2003年 3月からのイラク侵略攻撃と占領が加わる )。そして、このシーンで流れているのがルイ・アームストロングの What A Wonderful World 、見事なその対比。

なぜ、コロンバイン高校で高校生による銃乱射事件は起きたのか。なぜフリントの小学校で、6歳の少年による6歳の少女銃殺事件は起きたのか。なぜ、アメリカは諸外国に比べて、銃による犯罪の数が際立って多いのか。多様な人種を抱える社会だからなのか。銃を持つ人間があまりに多く、銃を手にすることがあまりに容易だからなのか。では何故、同様に銃保有の世帯が極めて多く、人種も多様であるカナダで、銃による犯罪は全く比較にならぬほどに少ないのか。
マイケルの文字通り「足による取材」は、さまざまな仮説を検証すべくアメリカを、カナダを旅して廻る。そうして、アメリカ社会に根強く残る、人々の相互不信と恐怖心とが浮かび上がってくる。根強く残り、なおかつ政治家や企業等の強者によって反って強化されてもいる、アメリカ社会の誇大妄想化しかねない(既にしている?)恐怖心が浮き彫りになっていく。

途中、アメリカの建国以来の歴史を振り返るアニメが挿入されているが、このアニメのユーモアと、冷徹なリアリズムの眼は特筆されるべきもの。アメリカのシンプルな一面でありながら、人々が眼を向けようとしないアメリカの暗部を皮肉る数分間のアニメによるアメリカ史。ヨーロッパに安息できず新天地を求めてアメリカ大陸に渡ったピューリタン(清教徒)が、新大陸で銃により先住民を殺し、抑圧し、そして奴隷貿易で得たアフリカからの黒人を働かせて国を豊かにする。しかし南北戦争後に奴隷解放が拡まると、復讐されるのではないかと黒人を恐れる。恐怖は自衛意識を強め、ますます銃保有で安心を得ようとする。クー・クラックス・クラン(KKK)のような狂信者の団体が現れる。そして、KKKが非合法化された年にNRA(全米ライフル協会)が設立されるという偶然・・・。それは「自由の国」「機会の国」としての表面(オモテヅラ)を持つアメリカの裏面史と現実を示す、暗く、まさに恐ろしいシンクロニシティだ。
映画の最後でマイケルがNRA会長でもある名優(?)チャールトン・へストンをその豪邸に訪ねた際、ヘストンがアメリカの銃による犯罪の多さについて問われるなかで、「多様な人種の問題もあるかもしれん」と言い、さらにその真意を問われて、「君が訊いたからだ。しかし黒人の公民権運動のときはモメたな・・・」と応えるシーンは、ある意味、象徴的だ。

銃はたしかにアメリカの象徴かもしれない。しかし、それはヘストンのNRA等、銃規制反対派が唱えるような、「銃所持はアメリカの自由( freedom )の象徴」などというものではなく、アメリカの具体的現実的な根拠に基づかない恐怖心や他者、異なるものに対する不信、そういったアメリカの精神の一断面の象徴なのだ。アメリカは、明治維新の日本が侍(サムライ)から刀を奪ったように、恐れる人々から銃を奪わなければならない。恐怖に慄く(おののく)人間が武器を持つのはあまりに危険なのだ。その武器が、遠く離れたところからでも一瞬のうちに人の生命を奪える銃であるのなら、なおのことだ。

恐怖に慄く(おののく)人間が武器を持つのはあまりに危険なのであり、恐怖に慄く(おののく)人間が銃を持つのはあまりに危険なのであり、恐怖に慄く(おののく)人間が銃火器を持つのはあまりに危険なのだ。・・・ 恐怖( terror 、テロ)に慄く(おののく)国、アメリカがWMD(大量破壊兵器)を持つのがあまりに危険なことであるように。

アメリカは富を築く。そして世界の警察たらんと、外国に武力を投入してアメリカ的価値(自由や民主主義、しかしそのアメリカの自由と民主主義は得体の知れない恐怖心に裏打ちされたものかもしれない・・・)を拡めようとする。とりわけ、その「外国」に富の源があるのならば。

アメリカ社会は多様な人種によって構成されている。しかし、そのことが建国以来の支配層WASP(ホワイト、アングロ・サクソン、ピューリタン)や、その後継者としての現在のアメリカのエスタブリッシュメント達の無自覚もしくは自覚的な恐怖心を維持増大させているとすれば・・・。もはや多様な人種社会から後戻りできないアメリカは、国内には、リアルで具体的な現実としての根拠を欠く恐怖心を抱くような、そんな恐怖心に駆られた少なからぬ人々が住み、そんな得体の知れない恐怖心を国内に抱え、一方で国際社会において他者と付き合おうとする。

その恐怖は、アメリカの、厭くこと(飽くこと)を知らない拡大拡張願望の源にもなってはいないか。アメリカは、拡大し、他者を制圧し、全てをアメリカで覆うことで安心が得られるという、そんな強迫観念に突き動かされてはいないか。
それが企業活動のグローバリゼーションを生み、またアメリカの政治体制による世界の一国支配を企図するのではないか。そのことで莫大な利益を確実に得る層は、アメリカに「確実に」存在する。だからこそ、アメリカがアメリカであることをやめることは困難なのだ。

・・・ 「ボーリング・フォー・コロンバイン」は、観るものにこんなことまで考えさせる、秀逸なドキュメンタリーである。

マイケルはコロンバイン高校乱射事件(犯人の少年2人は犯行の朝、市内のボーリング場でボーリングしていた)のサヴァイヴァー2人(1人は麻痺が残って車椅子、もう1人も銃で撃たれた被害者)と共に交渉して、Kマートに、社として弾丸を売らない方針にするとの公な表明をさせることに成功する。犯行に使われた弾丸はKマートで購入したものだったのだ。
その後、マイケルはNRA会長のチャールトン・へストン突撃取材を敢行する。そして、インタビューの場から立ち去るヘストンを追い、彼の豪邸の敷地に、マイケルの故郷フリントで6歳の少年に銃殺された6歳の少女の写真を残して、ヘストン邸を去る。そこで流れるのが、アップテンポにアレンジされた What A Wonderful World ・・・。

「ボーリング・フォー・コロンバイン」は、アメリカ社会の底深く、奥深く、力強く斬り込んだ力作だ。批評精神の発露としてのジャーナリズムそのものと言っていいだろう。
作者、マイケル・ムーアの望む社会が、サッチモ(ルイ・アームストロング)が歌う What A Wonderful World が現実との対比で皮肉な使われ方をするのではなく、真にふさわしい歌として歌われる社会であることは間違いないだろう。マイケルは確実に、そのスピリットあふれるジャーナリスティックな眼差しの先に、そんな夢を描いている。僕はそう想う。

(2004年2月1日、記)